~進化の果て~
〇はじめに
アントニオ・バンデラスとヴァンサン・カッセルの区別がつかんのよね・・・
〇想起する作品
「ベクシル 2077日本閉鎖」(2007)
「コロニー5」(2013)
「マッド・ガンズ」(2014)
「楽園追放」(2014)
「ALMOST HUMAN」
これとクリソツな作品があったと思うのだが何だったか・・・
〇こんな話
生命はどこへ向かおうとしているのか・・・
〇定義
プロトコル1:生物への危害を禁ず
プロトコル2:自他の改造を禁ず
プロトコルは厳格に管理されており変更できない。
ロボットの世界への浸透具合が最初に示されている。日常的なところから人間が手を出せない危険地帯での作業まで。プロトコルからもわかるが要は使い捨て要因である。ロボット自身に製造から修理から全てを行う工程(ライン)を構築させれば一番に効率的であるにも関わらずそうしないのは、「人間>ロボット」という関係性を維持したいからである。どこかしらで人間が関与しているという安心感。人間の手を離れることの不安。要は理解及び把握しておきたいことに由来する。制御(コントロール)するためである。そんな中での効率化が、修理するよりも新しいものを作りだした方が安上がりというものである。
この「人間>ロボット」が個人の1つの価値観として浸透していると見せるのがとある男の「たかが機械」という台詞だ。そしてこの男は自分を「たかが猿」と表現されただけで対話を止め相手の口を封じる手段に出る。この瞬間彼の中で「人間>ロボット」という構図が突き崩されたのだ。彼にとっての脅威と成り得てしまった。理解できないモノは受け入れられないという料簡の狭さでもある。
この場面の前に雨が変化したことに関しての件がある。クリオに尋ねる。なぜ雨が変化したのかがわかるかと。最初はわからないと答えるものの彼女は答えを見つける。その後あなたには理解できないでしょうと返されるがヴォーカンは笑って済ませるのである。ダンスにてクリオの異質感を覚えた後でだ。
この違いなのである。理解できればいい。しかし理解できないとしたらどうか。それを認められるのか否か、受け入れられるのか否か。
ロボットを使って保険金詐欺をはたらこうとする者。そのためにペットを殺してロボットに罪を擦り付けていた。ここで人間とロボットの違いを決定づけている。
その際ロボットの安全性を証明するシーン。自らを傷つけてでも人間を守る様を見せる。液が漏れ出しているのがわかるだろうか、これは人間でいう血液だ。ここでロボットたちが生物と定義されていないことを認識させる。自らを生物と定義していればプロトコル1が働くからである。しかしそれでは人間を守れない。
次に自分自身に火をつけるロボット。自傷行為。理論上プロトコル2に違反するはず。
先ほどの生物(人間)を守る上で結果的に自らを傷つけることと、自ら進んで自傷行為を行うことの違いは何なのか。プロトコルの優劣なりなんなり矛盾が生じてくるわけである。プロトコルという基準があろうとも判断がつかない事象が出てくる。そのためにもあらゆる事象に関して定義を行っていかないといけないわけである。
―――――
そんな中での我々の彼ら(ロボット)への定義を少し。
これがどう見えるだろうか。目と思われるものを認識し、そこから流れるものがあったとしたらどう見えるだろうか。
呼称があったらどうだろうか。
―――――
では一番に生物とは何なのか。ここを定めないとプロトコル1が機能しない。つまり生物を、特には人間というものが如何なるものなのかを追求しなければという必要性に迫られる。
それを1つこの嬢で示した。苦痛と快楽の区別をつけることができると言う。これは何が危害を加える可能性があり、何が安全だと判断できるのかというところに繋がる。
ここでおもしろいのは人間の性的思考の多様性や異常性である。例えばSM。苦痛が快楽に通ずるケースである。苦痛と快楽の境界が曖昧になる。
ここから考えられるのは、その本人が苦痛を感じることで快楽を得ることだけでなく、他者に苦痛を与えることが快楽に通ずる場合もあるということである。人間が生物と定義されていないロボットに危害(苦痛)を与えるのはプロトコルに違反しないが、ロボットが人間に苦痛という名の快楽を与えることはどうだろうかと。果たしてプロトコルに反するのかどうなのか。その判断はロボットに委ねられるわけである。
では人間が人間に苦痛を与えている場合は?
その2者間では違う感覚を得ているわけである。その2者で正反対の苦痛と快楽とを感じていた場合に、どちらが優先されるのか。苦痛を与えている者を止めるのか、快楽を感じているからと促す(見逃す)のか。
つまり危害というところがロボットの意図しないところ、プロトコルという制限故に生じる可能性があるわけだ。
劇中で言うなれば、ロボットに砂漠を引きずられた主人公の街に戻る戻らないの件に見て取れる。
では、危害とは何なのか・・・
・・・もういいか。
〇進化の果て
ゴキブリロボット。これはロボットたちが砂漠において(というより地球上においてとすべきだろう)一番に適応できる生物を模索した結果で。人間と同じく呼吸をするというのもここに繋がる。人が地球上で人のままであり続けようとした結果、人間が地球に適応しようとするのではなく、地球が人間に適した環境であるように作り変えるという手段を講じている。これを我々はさも当然のように考えているが、ここに一石投じているのはおもしろい。
ゴキブリロボットを作ったロボットは人間が産み出した産物であるが、ではなぜ人間はロボットを作る上で人間を模したのだろうかとここで考える。神は自らに似せて人を創ったってところとの兼ね合いもある。なぜ自らに似せる必要があったのか。これは神の意思が起点ではなく、人間が神に近づけるという人間が起点のものだが、ここからの発展は自らこそが至極のものであるという考えが根底にあるからで。人間が地球上において頂点に君臨しているという驕りというか何というか・・・
主人公の妻が妊娠しているのもこれとの関連で。妊娠とは人間が人間を産み出す行為、人型が人型を産み出す行為なわけである。これは種の存続における必然とされるわけだが、人がロボットを作る上でわざわざ人型にする必然性はどこにあったのか。
最後海が映し出される。元を辿れば今地球に生を受けているモノの全てがこの海から生まれたものである。その過程は進化という種の変遷というカタチをとったわけだが、では海から発生した生命が産み出したモノはどうなのか。つまり人間が産み出したとされるロボットはどうなのか。これは果たして地球上における生態系へ関与しているのかどうなのか。
「テラフォーマーズ」にておもしろいことが言われていた。ゴキブリが人間を利用して火星に送らせたのだと。我々はDNAの情報媒体に過ぎないわけだが、では我々の役目がその情報を後世に残すことではなく、ただ組み込まれた情報を基にしているだけのものだったらどうだろうか。ざっくりとは決定論、運命・・・。ロボットの発生も進化という一環で決められたものだとしたら・・・
ロボットが組み込まれたプログラムを無視し、自ら考えるという行動をとったとされ大事だと捉えるわけだが、これもまた自ら考えるというプログラムに過ぎないのだと考えたらどう見えてくるだろうか。
つまりロボットはプログラムという制約から逸脱したわけではなく、またそれとは別に大きな括りでプログラムが存在すると考えると・・・
生命における寿命という制限の問題。自らの世界を越えるスパンで物事を考えられないようにできている。いや制約が組み込まれているのである。ここを打開しようとしてか究極不老不死やクローンの研究が行われ始めた。表現により感じ方が異なってくるので、医療技術の進歩としておこうか。人間はあらゆる病に対して対策を講じ、延命という寿命を延ばす努力を行ってきたと。
これをロボットにおける人間が組み込んだ制約を打ち破るということと照らし合わせるとどういったことが見えてくるだろうか。
道徳観・倫理観といったこれまた制約が観えてくる。これはとある状態へと向かうために人間が自らに課した枷であり、その状態へと辿り着かないが故に、いやある種均衡状態を保っているが故にこれからも先人類の存続が続いていくという自負がある。続けなければならないという責任がある。
しかし、そのとある状態とは人類が目指すべきところなのであろうかと。仮にそれを(生命の)進化の果てと定義した場合に、人類という形態で辿り着くと設定された場所なのだろうかと。生命という括りで辿り着こうとしているところは、人類が目指そうとしている場所と同じなのかどうなのか。
勝手な驕りから人類が目指している場所とは、決して人類自身が辿り着く場所ではなく、人類の意志を受け継ぐ者たちによって切り開かれるものであるかもしれないということである。
我々は生命の歴史において進化の過程(途上)でしかあらず、人類に変わる次のナニカによって為されるべき達成されるべきナニカの土台でしかない。人類の次に栄えるかもしれないナニカもまた生命の進化における過程でしかないかもしれない。
・・・。
〇最後に
我々人類は大きな括りで進化という現象を目撃したことが無い。種の絶滅、淘汰というところではあると言っていいのか。人類はどうせそれを見届けるスパン(寿命)を有しておらず、それ故淘汰される対象が人類であるかもしれないと勝手に想像し恐れおののこうとしている。いや有していないからこそ淡い希望に縋ろうとしているのか。なんだかんだ気になってしまうものは気になってしまうんですよね。どうなるんですかね生命は。
ではでは・・・
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