2017年9月29日金曜日

クランプス 魔物の儀式(2015)

クランプス 魔物の儀式

~文化~


〇はじめに
 日本のなんちゃってハロウィンを想いながら観るといいだろう。ただのはしゃぎたいだけの理由として存在しているイベントに成り下がっている本来何かのためにある行事。日本の輸入イベントならクリスマス含めなんでもいいか。




〇想起する作品
 「ホームアローン」
 「ハリー・ポッター」


〇こんな話
 あなたにとってクリスマスとは?


〇廃れゆく文化
 クリスマスセール?にて大はしゃぎする買い物客のドタバタから作品は始まる。お客は我先にと他人と争いを繰り広げ、店員は辟易。警備員はまたと無い機会とテーザー銃をお見舞いする。

 恒例行事となっているがマンネリ化している様、作り上げるのではなくただ形式にはめようとしている様。その上で嫌な連中とも付き合わなければならない、我慢しなければならない、折角のクリスマスを過ごす家族がメインとなる。

 総じて廃れてきている文化があることを想わせる。はてさてクリスマスとはいったい何なのか。





 クリスマスの精神は、やさしさと犠牲の精神。クランプスは与えるサンタとは違い奪うモノ。これはどう捉えれば良いのだろうか? クランプスはいったい何を奪っていったのか?

 悲劇に見舞われ互いを見直したり一致団結していく家族の背景に、オミ(祖母?)は唯一残された自分は見せしめだったのだと言っていた。クランプスはクリスマスの精神を忘れるなという警告をしているのだと。

 これがラストに掛かってくるわけだが・・・


 過去にオミ(祖母)は独り取り残された。マックスは独り立ち向い、自己犠牲の精神を見せてのあのラスト。

 オミの言う奪うモノというところだけで完結していないわけなんだよね。その先があった。しかしこうなると悪い子という定義がイマイチわからない。オミの場合ずっと罰が続いていたことになる。それで家族を助けるために独り家に残ることでクランプスと対峙することになるわけだが、ここで彼女もやっとその先とやらを体験することになる。

 でも思い出補正による過去回想ではクランプスがオミにウィンクして見せている。つまり彼女を救ったとも見られる。う~む。


 いや単純に2つのやり方があるとすればいいのか。見舞われた事態に対して対処法を変えていると。とある事実を知っている経験している者を、伝承役をクリスマスの精神を忘れさせないための警告として残しておく。クリスマスの精神を思い出すようであればその場でリセットする。お幸せに、まぁいつでもまた行くけどねと念は押す。

 でも最後水晶(スノードーム?)の中の家は全て明かりが消えているんだよね。

 そもそも水晶とは何なのか? 何かを閉じ込める器なのか、とある地点まで繋ぐ通路なのか、何かを映し出すためだけのものなのか。これはあちらでは共通理解があるのけ? サンタクロース側に何かあるんでしったっけ? 


 いやもっと極々単純にクリスマスを好きか否かというところだけなのかな。そして家族を大切にしましょうと。本来立つべきは犠牲ではなくやさしさであるということ。サンタへの手紙(願い)を捨てたということは家族へのやさしさの欠如ととれるわけでね。


 いつからですかサンタを信じなくなったのは・・・

 いつからですか家族間に軋轢が生じたのは・・・






〇最後に
 クリスマスを前に観るか、クリスマス中に観てハッとするか、ご自由に・・・ クリスマスなんか気にしたことねえよ・・・ 文化の違いやな。


 ではでは・・・


2017年9月28日木曜日

グレートウォール(2016)

グレートウォール


~中国という国のバックグラウンド~


〇はじめに
 鎧を脱ぐ女性を期待してしまうのは男の性だよね・・・




 まぁそんなシーン無いんだけど・・・





〇想起する作品
 「スターシップ・トゥルーパーズ」(1997)
 「ラストサムライ」(2003)
 「300」(2006)


〇こんな話
 万里の長城の秘密が今解き明かされる。




〇バックグラウンド
 中国が世界を守ってたんだぜ!!! これが全てですね。




 異国の民が段々と認められていく心を通わせていく様はさすがに心躍る。捕獲作戦に始まる戦術が海に由来するものだったり、戦術を万里の長城という場に応用して観せるのも異文化交流の礎として見もの。



 ただね・・・

 万里の長城の位置づけはおもしろいけどさ、現状の万里の長城の保存状態はどうなのよ? 中国3000年(4000年)の歴史を誇ろうとする割には遺跡の保存状態あまりよくないよね。自国の文化云々よりもパクリ文化なんて茶化されてもいるし。いやむしろ現状の裏付けなの?? あれだけの戦いを経て尚君臨する万里の長城マジリスペクト…的な???

 そういった国の姿勢が後ろ盾としてあるだけで、この作品の説得力が変わってくると思うと残念だね。“シンレン”というものももっともっと際立ったと思うよ。



〇疑念
 磁石が対饕餮(とうてつ)の秘策になるわけだけどさ、羅針盤って中国由来だよね?? 火薬を求めてやってきたある種時代遅れな外国人マッド・デイモンがもたらしたもので活路を見出すってのはどういうこと? 海に生きる者たちには常識だったけれどもという裏話とかあるの? でも占いとかに使われたんじゃ?? 

 というより中国の三大発明の1つを外国人に献上する姿勢が…として観せているのかな???



〇最後に
 マヤ文明を茶化すノリで観ると良いかな、うん。


 ではでは・・・

2017年9月26日火曜日

母 小林多喜二の母の物語(2017)

~手~


〇はじめに
 小林多喜二の母セキの目線で時代の移り変わりが映し出されるが、気になるのはこれを観たことで共謀罪と治安維持法とが通ずるかよね。今当たり前にあることが昔は…として女性の生き方に貨幣価値というもので描いたギャップはうまかったが、家族という繋がりを描く上での時代の変遷はどうもぶつ切り感覚。いきなり増えていく家族がどうも腑に落ちない。それ故にいきなり現れる妻を名乗る女との対比も効いていない気がする。



〇想起する作品
 「おしん」(2013)
 「少年H」(2013)
 「母と暮らせば」(2015)
 「おかあさんの木」(2015)

〇こんな話
 小林多喜二の母の物語




〇手
 母セキが多喜二の、多喜二が母セキの手を握るシーンが幾度かある。とても印象的なシーンだ。母が大事そうに包み込むその多喜二の手は何をしたのか、しようとしたものだったのか。多喜二の帰りを待ちおはぎを仰山拵える画が丁寧に映し出されるが、この母の手は何をしてきたものなのか・・・

 小林多喜二が特高の拷問により死んだことはもちろんであるが、その拷問により手の骨を全て折られるということは何を意味するのか。これをもっと根幹に据え描いていって欲しかった。拷問を受けた多喜二のボロボロの手を映し出してほしい、ボロボロになっていく手を映し出してほしい。その拷問シーンと母セキの丹念におはぎを握るシーンも是非とも手を中心とした対比で描き出してほしい。


 幼少期の多喜二がおはぎを食べるシーン。家に帰って来るや否やおはぎを手に取るが、ここで母が「手を洗ってきなさい」と一言あったらどうだっただろうか。子供が外から帰って来ることは汚れて帰って来るのと同義だ。失礼ながら貧乏という設定なら尚更である。ぼたもちを食べる手、小説を書く手。多喜二の手というものに頭が行かないだろうか。これだけで手というものが印象に残らないだろうか。

 娘チマが指輪を落としてしまったからと探すシーン。母が排水溝に手を突っ込んでいるシーンを描いてほしい。排水溝を弄るシーンをボカさずに詳細に描いてほしい。母は自らの手をいったいどこにどんな場所に晒しているのか。その手で指輪を探し当てたのだと。自らの子どものためになら母は手を汚せるのだと。語弊があるが、悪いことをする罪を犯すといった意味ではなく単に我が子の幸せを想えばどんなことでもしてあげたいといった意味合い。


 セキが牧師様に多喜二への想いを連ねた手紙を読んでもらうが、ここでセキがそれを書いているシーンを入れられなかったか。文字を読めない母親が一生懸命に想いを書き起こしたんだ。これは多喜二が自分の主張を小説に託したものと通ずるものがあるはずだ。



 そんな手を特高は傷つけたのである。ボロボロにしたのである。殺したのである。




〇時代のギャップ

 セキのイメージとしてある駐在さんの優しさ。その優しさとは真逆である特高という対比があるわけだが、友情出演だろうか涙もろく一番優しいというイメージが先行するだろう徳光さんをあてがっている。正直これは逆効果ではなかったか。劇場には笑いが漏れていたが、ここと特高とを結びつけられた人はどれだけいただろうか。

 多喜二が死んだことで母は神に対して背を向けたはずだ。それが何故キリスト教信仰に向かったのか。多喜二の姿をキリストに準え聖母マリアに自分を重ねたことが1つ動機としてあるがどうも腑に落ちない。多喜二の意志は散々描かれるが、多喜二の行動は伴っていないと観てしまうからではないか。それもはじめに書いたがどうも時代の変遷がぶつ切り感覚だということに起因する。




〇偏見
 私はとある上映会にて鑑賞させていただいたが、上映の前に監督とは別にある方の挨拶が入った。これが完全に足を引っ張ていたように思う。映画を観たことで何かを芽生えさせるというよりも、まず偏見ありきの主張を聴かされて作品にアプローチさせられた気がした。


 舞台挨拶から受け取ることができた監督の想いの強さの反面、作品からはそれが感じられにくい。どうも言わんとしたいことが先行してしまっており、作品に想いを込めるというのが空回っていた印象を受ける。何か1つで良い、上にも書いたが例えば「手」というものを芯にブレないものが欲しかった。





〇余談
 松本若菜って「駆込み女と駆出し男」のお種役の人だよねやっぱり。綺麗だね。相田翔子と佐々木希の雰囲気がある。

 趣里って人は足立梨花と上戸彩の雰囲気だね。






〇最後に
 私の席の隣の方は序盤からうつ向いており終盤に差し掛かるとスマホをチラつかせ、後ろの席の方は終始ビニール袋でゴソゴソと音を立てていた。そしてエンドロールにてぺちゃくちゃと話をしながら席を立っていく多くの方たち。まだスクリーンを観ている者がいるのに堂々とその視線を遮っていく。

 そんな彼らはこの作品から何を感じ取ったのだろうか・・・


 ではでは・・・


マギー(2015)

マギー


~認識~


〇はじめに
 マギーって「ゾンビランド」(2009)の女の子(妹?)か。丸みを帯びてきたな・・・ 元々丸顔だったっけ??




〇想起する作品
 「スリーデイズ・ボディ 彼女がゾンビになるまでの3日間」(2013)
 「インフェニ」(2014)
 「ライフ・アフター・ベス」(2014)
 「アフターデイズ・ボディ 彼女がゾンビと化した世界」(2015)







〇こんな話
 愛する娘がゾンビ化。





〇認識
 人は他人(ひと)に対してそれぞれの認識を持っている。ざっくりとはかっこいい・かわいいといった容姿(性別)や、優しい・厳しいといった中身(性格)を考慮判断したことによる距離感の構築が主だが、それは親子に始まる赤の他人へと通ずる関係性と言って良いだろう。

 ではその自分との距離感及び関係性はいったいどこまで許容されるのだろうか。これを1つゾンビを題材に親子愛(家族愛)をベースに観せる。




 娘なのか?ゾンビなのか?

 ゾンビ化への猶予が与えられていることでこの境界をひたすらに曖昧にする。

 感染し凶暴化(ゾンビ化)したらそれは一体ナニモノになるのか?

 ゾンビへと変貌しようと娘と言えるのか

 いや娘のカタチをしただけのゾンビなのか


 なんとしてでも見つけ出す、なんとしてでも助け出す、今まで不可能を可能にしてきた男アーノルド・シュワルツェネッガーだからこそ、父親として娘に何もしてやれない無力感が沁みる。


 ゾンビを定義することで…というのがこのジャンルの主体だが、人間からゾンビへの一方的なアプローチだけでなくラストそれをほんの少し逆転させて観せたのもよかった。やるせなさが先行する中でほんの少し救いが見える。






〇最後に
 「グランド・ジョー」(2013)のニコラス・ケイジといい、シュワちゃんにもこの路線で行ってほしいな。無理にアクションで体に鞭打つのではなく。今までのシュワちゃんありきで十分に彼の演技は活きると思うけどな。




 ではでは・・・




2017年9月25日月曜日

スパイダーマン ホームカミング(2017)

吹替翻訳:野口尊子



もう少しハイスクールライフ感が欲しかったなぁ~(切実)



〇はじめに
 マーベル・シネマティック・ユニバースシリーズとしてどうとか、3度目?の「スパイダーマン」実写化どうこうの位置づけはようわからんけれども・・・

 「アイアンマン」の3までの系譜、特にトニー・スタークの葛藤を辿り、「シビル・ウォー」における正義の葛藤と「ハンコック」辺りのヒーロー像というものへ一石投じる姿勢を踏まえてみると中々おもしろいのではなかろうか・・・

 何にせよ「アイアンマン」からこのシリーズは始まったのだとするリスペクト(と言って良いのかな?)は感じられ、最近おざなりだったポッツを登場させたことは誠に真に評価したい。ハッピーもそうなんだけど落ち着くんだよね。



〇想起する作品
 「ハンコック」(2008)
 「アイアンマン3」(2013)
 「+1 プラスワン」(2013)
 「ベイマックス」(2014)




〇こんな話
 あなたの親愛なる隣人、スパイダーマン!




Zendayaが滅茶苦茶キュート
 ピーター・パーカーという思春期モリモリな主人公という特性。自分で捉えている自分という存在と、周りが捉えている自分という存在のギャップに悩む年頃。自分が思うほど大人ではないし、周りが思うほど子どもでもない。

 ヒーローになるためのピーター・パーカー自身の葛藤に対し、おばさんを始め親友にトニー・スタークと彼を見つめる数多の視線が存在している。自身と周囲の認識とのズレによる葛藤と衝突との連続がその人というものを形成するわけだが、ピーター・パーカーという存在の隙間(理想と現実のギャップ)をミシェルという存在がその都度埋めてくれていることに目が行く

 この挿み込み方が本当に絶妙だったおかげで終始リザよりもヒロイン向きなのになと内心不満たらたらだったが、ん?ミシェル??・・・なるほどそう来るかとほくそ笑んだよ。



 ヒーローとして粗削りな感じがまたよかった。エレベーターにおける救出活動がその想いとは裏腹に事態の悪化を早めることとなったように、スパイダーマンが活動しなかった方が被害が少なかったんじゃないかと思わせる。ATM強盗との争いで行きつけのお店を大破させてしまったことなんてのは当にそれだ。スパイダーマンが関与したことで余計な被害が出てはいないかと。しかしの悪を見逃したら後々より大きな被害に見舞われるかもしれないという可能性を想わせるラストには唸った。ここにアベンジャーズも苦しんでいる正義の葛藤が見え隠れする。




〇余談
 大企業とベンチャー企業との対立ってのは、「シビル・ウォー」から来てる正義の後ろ盾どうこうってところとの兼ね合いもあるのかな?





〇最後に
 Zendaya要チェックね。何か改めて調べてみるとそうでもないんだけど、この作品の中では滅茶苦茶光るものがあるよ。


 ではでは・・・



2017年9月11日月曜日

劇場版ポケットモンスター キミにきめた!(2017)



~懐かしいわぁしみじみ~


〇はじめに
 なんでジム戦エリカなんだろうと思ったけど、タケシカスミの次だっけ? いやそんなことないよな・・・ 個人的にはナツメが好きなんだけど・・・





〇こんな話
 あの子のスカートの中、下から見るか?下から見るか?


 






〇懐古
 ポケモンに親しんできた身としては、サトシとピカチュウの馴れ初めから回想前提懐古前提の駆け足な展開、言わばダイジェストでお送りされる様は思い出の照らし合わせとしてとても感慨深いものがある。

 しかしそれ故に欲も出てくる。他にもサトシはたくさんのポケモンと触れ合ってきたんだ。私が特に覚えているのはピジョットの件。当時超戦力だったはずのピジョットと別れるのかとヤキモキしたものだ。ベトベトンのオーキドLOVEとか、今までにゲットしてきたポケモンへの配慮もすばらしかったよね。ゲームでキングラーを育てるきっかけとなったのもアニメにてはかいこうせんを覚えると知ったからだった。対タケシに至るまでにバタフリーに進化させておく必要があるんだ。リザードンにしようともカスミを前にした絶望。自転車が引き換え券ではなく買えるものだと思い込みひたすらにお金を集めたが全く届く気配がなかったのも良い思い出だ。ゲームの話に逸れてしまったが、もっともっといろんな出会いがあり別れがあった。印象度なんて人それぞれで想うところはいろいろあるだろうが。全てを回収するのは映画という尺では難しいだろうが与えられるともっともっとと欲が出てきてしまう。ただそういったことも想起できるようにと配慮は為されていたのだからこれはこれで良いのだろう。


 そしてもう一点この作品単体として評価すると少し気になるところがある。ヒトカゲの件が中心に据えられているが、どうも進化の速度が速く感じる。サトシの成長と並行して描かれることで解消しようとしているのかもしれないが、それでも尚違和感は拭えない。制限時間を設けられてアルバムをめくっている感じとでも言おうか。どこか肝心な部分が抜け落ちても成長を余儀なくされている感が付きまとう。

 これも結局はポケモンに対する各々の記憶との兼ね合いがあるんだけど・・・私の場合として例えを挙げるのであれば・・・

 リザードには何か決めポーズは無かったか?

 地球投げは当時どのように描写されていたのか?

 リザードンになってからのサトシとの交流がまた熱いんだよ!!

 出来事としてなぞるのはもちろんなのだが、中心に据えるのであればもう少しそれぞれに定着しているだろう記憶への細かな配慮があってよかった。当時のポケモン世代が親になり、その子どもたちと観に行くというのがターゲットでしょ。そんな親子で今一度ポケモンに触れ合おうとする、新たにポケモンに向き合おうとする。そういった感情をこの作品で、そしてこれまでの作品を見返したときにリンクするようにしてほしかった。

 前々からポケモンという作品は、トレーナーはただ指示を出しているだけで特に何もせず、頑張っているのはポケモンだけじゃないかという皮肉な話がある。そこを責められこの作品は反論できるのかと。薄汚れてしまった大人たちの心を晴らす勢いがこの作品にはどこまであったのかと。この問題の解消にあとほんのもう少しだけ気を遣ってほしくあった。






〇最後に
 まぁなんにせよ楽しかったよ。エンドロールでタケシが映った瞬間少し潤んだくらいだ。でも次こういうのやるならカスミを全面的に出してくれ。


 ではでは・・・



2017年9月8日金曜日

インデペンデンス・デイ2017(2016)

インデペンデンス・デイ2017


~毎年侵略されるようになったな~


〇はじめに
 毎度関心というか助かるんだけど、何がすごいって吹替えが入ってることだよね。この手のシリーズの力の入れ加減どうなってるのよと・・・



〇こんな話
 早く撃ちたい撃ちたい撃ちたい撃ちたい!!
 




Drone Wars
 「インデペンデンス・デイ」とは全く関係ないんだけど・・・



 エイリアンという人類全体の脅威となるものの出現であの作品は人類が一体となった、しかもアメリカが主体でというのがおもしろいところなのだが、

 まぁこの作品はというととある街という規模で、しかも街の人間同士でエイリアンを見事に除け者として争いが絶えない。



 原題「Drone Wars」であり、襲ってくるのはドローンばかりで敵の正体は明確になっていない中でのひたすらなる人間同士のいがみ合いを見つめてみると・・・

 戦争においていくらドローンが主体となろうとも、その奥にいるのは人間であると。争うのは、死ぬのは、殺すのは人間なのであると。といったメッセージが見えなくもない・・・かな??



〇余談
 最初の自動ドアものすごく違和感あったんだけど・・・



 あと都市壊滅やねんとか言っておいて・・・



 車行きかってますけど(笑)



〇最後に
 次はどんな作品がインデペンデンス・デイにされるのかな?


 ではでは・・・


2017年9月7日木曜日

オーディション(2006)

オーディション


~こだわりをもってやってます~


〇はじめに
 何これ、羨ましい・・・





〇想起する作品
 「マップ・トゥ・ザ・スターズ」(2014)

〇こんな話
 あなたにとって映画とは??






〇作品づくりへのこだわり
 作品とは、製作者自身も含め誰かが観るためにもしくは誰かに観せるために作るものである。そして賛否両論評価されてなんぼのものであったりもする。そして業界としてはどんなカタチであれ売れたら正義である。

 しかし忘れてはならないのは、鑑賞者からの作品へのアプローチとして、まず評価云々以前に観るか観ないかという選択肢が与えられていることである。広報や宣伝活動において観ることを促進するのは結構だが、最終的に観るか観ないかという決断は各々に委ねられている。



 この作品における犯人はその選択肢を与えない。観ないという選択肢を与えない。これが1番の狂気であるわけなんだけど・・・

 これってアンチハリウッド的な思想なんだよね。業界の事情裏事情はさっぱりわからないんだけどさ。商業至上主義で売れるモノを作る。これってのは消費者のニーズばかりを気にするってことともある種同義で。製作者の意向云々よりも消費者のご機嫌を伺う姿勢というか。

 で、この作品の犯人(監督)はどうだったか?

 ひたすらに自分の都合で作品を撮る、演者の都合などお構いなく良い様にこき使い、究極は生と死をも意のままである。自分が作りたいものを作る、観たいものを観せたいものを作る。誰よりも何よりも自己満足のためである。作品とはこうあるべきなんだよ!!と。


 いや違うのかな。ハリウッドってこういうことしてるんだぜってな揶揄なのかな?

 加害者側(監督以外)も被害者たち同様元々は夢見てロサンゼルス?に足を踏み入れた者たちだと描かれている。それがどうやらハリウッド色に染まっちまったようだと・・・

 う~ん、どうなんだろ??















 これを同一人物だと認識した見解なんだけど・・・

 ん? 別人か・・・??

 となると、え~っとえ~っと・・・




 これは入れてるよね絶対(話題逸らし)。





〇最後に
 どうだろうか?



 ではでは・・・

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...