2014年3月11日火曜日

サロゲート (2009)

サロゲート[DVD]

~自分という代用品~

〇世界観
生身の人間は引きこもり、日常生活を人間の意思で動かせるロボット(サロゲート)に任せるようになった世界。 この世界はアバター(ロボット)に自分の欲求を投影するという究極系か。「GAMER」という生身の人間をアバターとする映画もあった。生身の人間と、ロボットとの違いはあれど、この映画の事の起こりまでは操作する者が安全であるという点では同じか。遠隔操作している人体にも有害な武器の存在により、操作する者が危険に晒されることでサロゲートが(主人公の中で)問題視される。 人間は自己欲求(自由意志)により混沌とした世界を生みだすが、それを治めようと倫理観や秩序といったものを形態化した。しかしそれらにより抑圧された欲求からくる代償行為。この世界はその典型か。「アジャストメント」という映画でも人間の自由意志について描かれていた。あの映画の場合は形態化したものを運命という決まった道としていたが。 サロゲートに対する反対派は確実に存在し、それが活発化。事件として取り上げられ、捜査・衝突することにより、人間の本質に迫っていく。劇中は人間以外の動物がまるで描かれない・・・多分。人間とロボットという点に集中しやすいようにか。

〇コミュ障
サロゲートが蔓延した世界では相手の様子を一見では判断できない。いつもとの違い、違和感。人間は声や顔の表情(微表情)や雰囲気などで人の様子を判断するのに対して、この世界では、表情の一様なロボットでしかない(若干の変化はあるようだが)。他人がどのように考えているのか、それが読み取れなくなれば不審・不安に襲われ信用というものがなくなる。よってこの映画のように引きこもりが多発する。外に出るのに精神安定薬が必要なほど。そこからは人間の関係はマンネリした世界で、人と人との関わりはより希薄になる。そして話したくなくなればすぐログアウト。今のネット社会とあんまり変わらないではないか。むしろ今より顕著になるかもしれない。

〇サロゲートの蔓延した世界
・犯罪は減少するのか?
映画内では殺人が何年ぶりという話が為される。対象者が現場に赴かないという点で安全な場所と言えるかもしれないが、その分操作している者は無防備な状態に陥る。その点はどうするのだろうか。まあ、隠れているチックだから大丈夫としよう。警察も存在するし、サロゲートに対してサロゲートという方法を取るから犯罪に対しては対等として、被害は本体ではなくサロゲート。これは器物破損の罪になるらしい。よって殺人という犯罪が減れば全体としての犯罪が減少しているととれるか・・・。しかしサロゲートの容姿だけでは身元を確認できない。追跡装置も不十分らしいし。これは当に匿名性の極みではないか。ということは・・・次に続く。

・より欲求に忠実になるのではないのか?
サロゲートという自分の代用品(自分ではない)のおかげで、年齢・性別を問わず欲求を充足できる。さらには前述の匿名性の確保から、ハメをはずすことの罪悪感すら薄くなる。欲求とそれを実行に移す幅が広がり、より犯罪に奔る者が増えるのではないか。

・自分が自分であるという自我はひとつしか存在できないか?
サロゲートを動かす際、本人は固定を余儀なくされる。それはサロゲートに自分を投影してしまい共存ができないからか。装置がより縮小化できれば人間とサロゲートや、サロゲートの複数操作が可能になるのか。「GAMER」という映画でも対象とする人間を思い通りにできるというだけで、自分を複数投影するということはなかった。「ゲノム・ハザード」という映画でも一人の人間に二人分の記憶が埋め込まれることで、障害が起きていた。そして記憶の移植で不老不死が可能になると説いていた。記憶の宿る身体が異なってもそれは自分なのか。どこからどこまでが自分なのか。多重人格という事例もあるし・・・。考え出したらキリがない。そんな技術が可能になってから考えた方がいいのか、可能になってからでは遅いのか。テーマとしてはなかなかに議論のしがいがある内容だった。


映画のラストは「フラッシュフォワード」。

2014年3月3日月曜日

アイズ (2008)

アイズ [DVD]


角膜手術を受けて目が見えるようになった主人公に、現実ではない何かが見え始め謎解きしていく映画。

以下ネタばれ含む

〇二つの予想(オチ)
目が見えない者が、目が見えるようになることで起きる混乱。この辺から今までより受け取る情報量が多くなるのと、目が視えないということで視覚以外の受容器官が発達していたがために、霊的な何かが見え始めたのかとひとつ予想できる(劇中では細胞記憶と解かれていた)。
もう一つは基本この手の断片的な映像が流れるというものは、もう未来予知しかない。謎解きに必要なピースを散りばめる手法で、最後に一つにつなげてくる。
この二つが考えられる。

〇ラスト
不可思議な現象を解明するためドナーのことばかり考え、ドナーに何があったかを散々調べた挙句の帰り道。おおっと出てきましたよ、不自然な渋滞シーン。はい未来予知決まりました。そして「プロフェシー」という映画とかぶります。これオハイオ州の話だったけ、と思ってしまいましたよ。そしてこれを予知夢とみて、死ぬはずの者の運命を変えているのだとしたら・・・、奴らが必ず死の誘いにやってくるはずなのです。そう言わずと知れたあの死神ですよ。「ファイナルデスティネーション」シリーズですね。お~こわこわ。でもこれはそんな映画ではないので大丈夫です。ハッピーエンドです。

〇記憶
よく体が覚えているという表現を使うけれど、記憶というのはどこに蓄積されるんですかね。臓器移植された人の趣味嗜好が変化したり、あるはずのない記憶がよみがえるなど症例はよくある? と聞いています。そんなことから決して脳だけに記憶が蓄積されているわけではないと疑問に思ってみたりするのです。そしてここから究極どこからどこまでがその人自身なのだろう、と考えてみたりできるわけです。ただの肉片、指紋などから人物の特定はできますが、果たしてそれはその人と言えるのでしょうか? 人間なんてものは細胞の集合体に過ぎません。もっといえば原子です。どこから、いくつ集まったら自分であるという自我が芽生えるのか? こんなことを考え始めると自分が自分であるという自信がなくなるので、この辺でやめることにします。

プレステージ (2006)

プレステージ[DVD]
~単純VS複雑~

 二人のマジシャンによる、瞬間移動マジックのタネ(〇〇VS複製人間) 対決が主軸にあるお話。


 灯台下暮らし、オッカムの剃刀 この辺がキーワードになってくるのでしょうか。

マジックにおける三段階システム
1.フレッジ    確認
2.ターン     展開
3.プレステージ 偉業
らしいです。映画のタイトルは三段階目。



〇騙される心理
 ヒュー・ジャックマン側は、テスラの実験装置の描写(実験段階の実験装置の原理)から複製人間作製というタネは簡単にわかるし、二人同時に出てこない(出さない)ことから、もう一人がどうなっているかも想像がつく。水槽を運びこませたりするところからも。問題はこのタネが高度な技術(科学)によるものだということ。そして大きな代償を支払っているということ。これが頭に入るとその後映画の中でひたすらこのタネがチラつく。ここが騙されるポイント。

 対してクリスチャン・ベイル側のタネは劇中に直接出てくるし、間接的にも散りばめられてはいるが、複製人間というタネに集中しすぎてしまうために、もう片方の瞬間移動のタネがこれに対抗しうるような、突飛なものと勝手に勘ぐってしまう。仮に本当の答えにたどり着こうともそれを排除されるか、されかねない状況に陥る。ゆえに最後騙される。というか納得させられてしまう。考えが一周回ってしまう感じかな。

マジシャンネタだけに疑わなければならない状況に陥れられるために、見抜けない。さすがとしかいいようがない。くそ、騙された。

2014年3月2日日曜日

エスター (2009)

エスター[DVD]


~アポトキシン4869~

 ある一家が一人の少女(この表現は正確ではない)にかき回されるお話。

 少女の割に頭は回るし、何でもする覚悟がありすぎるとは思ったが、こんなこととは・・・

〇騙される心理
 人は基本的に第一印象で、ある程度その人を判断してしまう。まず見た目(容姿)、そして会話で受けた感じ・・・と続く(まあ、ここで注意したいのは見た目の情報による固定観念ってのは大きいということ)。このエスターって子の場合は視聴者から見れば、少し頭が良くて、芸術的センスのある「少女」(ポイントはここ)ってことになる。そして、後々わかってくるのだが、非常に腹黒い。しかし、こんな子どもは実際にいるから、視聴者にとってはこの事実に疑ってかかるスキがなくなる。そんな状態で映画を観続け最後のオチをもってこられると、その可能性を見事に排除されていたことに気づく。

 全体的にイライラする映画だが、最後のオチは見事。まあ、勝手に自分が騙されただけなんだけど・・・。

ミッドナイト・イン・パリ (2011)

ミッドナイト・イン・パリ

~過去に黄金時代をみる~

主人公がパリのある場所である時間に、自らが黄金時代とする時代にタイムスリップして、どうこうする話。
さすが芸術の都パリ、といった雰囲気を見事に醸し出していて、それゆえに黄金時代に憧れてやまない主人公に共感できるものがある。

〇黄金時代
生きている時代、つまり現在に不満を抱く人というのはよくいるが、なぜ過去に希望を見出すのかというのを考えてみたい。選択肢は過去・現在・未来の3つあるのだが、そのうちのどれに希望を見出すか? ということが問題。 自分にとって生きる時代というのは、仮にタイムスリップが可能となったとしても結局は現在ってことになってしまう。今を生きるしかない。過去に生きる、未来に生きるというのは思想的には可能としても、実際問題不可能なのである。

ではなぜ過去に希望を見出すのか? 
単純に考えるならば、結果が見えているからではないだろうか。過去は原因(過程)と結果が一目でみてとれる。因果関係がはっきりとする(実際は複雑だが・・・)。結果が見えているだけに、その時代に自分というものを投影しやすい。しかし、生きるということは常に現在進行形で、未来を予想はできても確定はできない。つまり、生きるということは、常に過程(原因となる部分)の中に身を置くということなのだ。故に現在では結果が見えないとまではいかないが、見えにくい。だからこそ選択に迷いが生まれたり、理想と現実のギャップに悩んだりし、現在に不満を覚える。故に、過去に希望を見出してしまう。
つまり現在と過去の比較は、それぞれ原因と結果を用いて行われている。そもそも比べるべき事象ではないのだが・・・、比べちゃうもんは比べちゃうよなぁ、というのが私なりの答え。


未来の者が過去に黄金時代をみたとしても過去のもの(その時代の人)がその時代を黄金時代とみているとは限らない。劇中主人公が黄金時代とする過去で、その時代の人がさらに過去に黄金時代をみているという表現がある。こんなところからも答えを考えだせると思う。

劇中でも最後は現在を選択してまた歩み始めるのだけれど、過去という決まりきったもの・不変のものよりは現在・未来と変動できるというか、未知のものに希望を見出してみませんかってことなのかな・・・。かっこよく言えば「道は切り開くもの」とか「歴史は自分でつくり出すもの」みたいな表現になるってことで・・・。

まとめますと、素敵な映画です。

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...