2015年1月28日水曜日

名探偵コナン 瞳の中の暗殺者(2000)

名探偵コナン 瞳の中の暗殺者[DVD]


~歳の差~

〇はじめに 
 劇場版第4作目 
 おそらく劇場版の中で一番複数の事件が絡み合う作品

〇こんな話 
集団A:「ぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃ」
  C :「何話してるの?」
集団A:「何でも無いよ」
  C :「・・・・」

集団B:「ぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃ」
  C :「何か楽しそうだね? 僕も入れてよ」
集団B:「お前には関係無いことだからダメ」
  C :「・・・・」

集団D:「ぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃ
  C :「ねぇ、何話してるか教えてよ」
集団D:「お前には絶対教えない」
  C :「・・・・」

・・・というシチュエーションをサスペンスフルに描いたのがこの作品。

 キャッチコピーは「輪、それはあなたを介さない

〇目撃証言 
 目撃証言の曖昧さ、個人差を少年探偵団を交え描く。全員が全員犯人(の特徴)について違う証言をする。お前ら何を見ていたんだと言わんばかりに。ふと思い出してみると自分もどんな色の傘で、レインコートなのか微かに覚えてはいるものの、確証は持てなかった。子どもたち自身がいろんな色の傘を持っており、横断歩道で複数の男や女とすれ違っている。その辺の認識がぐちゃぐちゃだったに違いない。ん、そもそも子どもたちは犯人を見ていたか??
 咄嗟のことが起きた時の人間の記憶ほど当てにならないものは無いらしい。どっかの大学の教授が講義中に実験を行ったらしく、仕込みでいきなり教室に飛び込んできた二人が喧嘩だか何だかを始めた様子を、それが収まった後に今何があったのかを生徒たちに事細かく書かせたらしい。そうすると争った二人は何事もなかったかのように教室を出て行ったのに、ナイフで刺されただとか、殺されたみたいなことを書いた人がいたとかいないとか。そんな実験があったとか無かったとか。状況を判断・整理する前にその光景を目撃することとなり、事後になって記憶の整理且つ改竄が為されると、おそらくそんな感じ。

〇ひとつの真実 
~恋愛に歳の差は関係ある~ 

 前作「世紀末の魔術師」でバレそうになったコナン君の正体。見た目を好む毛利蘭という都合のいい女によりそれは無事回避された。そして今作ではコナン君をさらに決定的に突き放す一言が吐かれる。「私とコナン君じゃ歳が違い過ぎるもん」 ガクリである。
彼女は歳の差を最大の障害と位置付けており且つ世間からの目を気にしている。そばにいる一途に蘭を思う小学一年生のコナンよりも、今は亡き(違った、そばにはいない)高校二年生の新一を愛するのである。まぁ、同一人物だからこそ救われる問題なんだが・・・。この辺の今彼(そばにいる男)・元彼(そばにいない男)問題に関してはいずれ上げるであろう「砂漠でサーモン・フィッシング」で語ります。

 真実は明らかになったが、ここでひとつ真面目?な話を少し。 
~心とはどこにあるのだろうか?~ 
という問題を取り上げたい。 殺された警察官たちがダイイングメッセージとして、心療内科の文字の一つである心を示すために胸を掴んで見せる。そこから彼らのメッセージは心を指したととるのである。故に心臓に心は存在する。この映画の言うように、心は心の臓、胸にあるのだろうか。しかしどこでものを考え、感じるのか。すべての司令塔は脳だとされていたのではないのか。しかし、何か辛い時に胸が苦しくなりもする。
・・・う、頭が痛い。もうやめる。

〇疑念 
 佐藤刑事は化粧室で襲われるわけである。犯人は男と。え?もう撃つ前に犯罪臭が・・・。基本この手の大型ビルには監視・防犯カメラというものがありまして、トイレの入り口付近を映してるはずではないのだろうか。・・・停電してたからまあ良しとするか。停電してからトイレに向かったとか言ってるからな。

〇余談 
 最初のコナン君のクイズで警察手帳に目を向けさせるもんな~、さりげない誘導多いよな~。 
 傘置き場の傘も事前事後の描写しっかりあるしなぁ。

 あと最後のエンディングに入る時の構図が無茶苦茶好きだな~。
ここから・・・、

こう!

いや~、かっこええわ。

〇最後に
 この作品は27歳の女性を綺麗に描く傾向にある(白目)。 今作の仁野環さん。そして前作の「世紀末の魔術師」の夏美さん、青蘭さん。以下参考までに・・・ということで今回は仁野環さんシリーズでお別れ~









 コナン君と出会って一日でデレすぎだろがい!! ツンはどこ行ったのさっ。まぁ、そこがチャームポイントではあるんですけどね。
ではまた次の作品で・・・。

2015年1月26日月曜日

TOKYO TRIBE/トーキョー・トライブ(2014)

TOKYO TRIBE[DVD]


~ラップ映画~ 

〇はじめに 
 これは、VSミュージカル映画と成り得るのか、はたまたただの監督のマスターベーション映画か。 

〇こんな話 
 ラップ、ラップ、ラップ、ひたすらラップ。 

〇文化 
 そもそも日本という国にどれだけラップという文化が浸透しているのかがわからない。自分はこれまで生きてきた中で直接ラップに触れたことが無い。身近にラップを感じたことが無いと言うべきか。そんな者がこの映画を観たところで最初からポカ~ンである。ストーリーテラーなる謎の人物がおり、登場人物を含めラップで世界観を説明していくことになるのではあるが、まるで頭に入ってこない。いや聴きとれないのか。故に字幕を追うことになるがそれも億劫だ。別にこの作品を否定するわけではないが、私のように合わない人はひたすらに合わないだろう。 
・・・こういった世界に精通している方の意見が是非とも聴いてみたい。

〇余談 
 清野菜名って子、吉瀬美智子に似てて可愛いな~。 

 鈴木亮平って人の黒のヒモパンは白のブリーフが良かったと思うけどな~。そして清野菜名を黒のヒモパン(Tバック)にすると。そしたらもっとアクションに見入ったと思うけどな~。ただの下心だけど・・・。

〇最後に 
 いったいナニに拘っていたのやら・・・。 
 あれ、でも何か最後らへんからラップが心地よく聴こえてきたな(笑)
・・・ではでは。

2015年1月25日日曜日

るろうに剣心 伝説の最期編(2014)

るろうに剣心 伝説の最期編[DVD]



~変化~ 

〇はじめに 
 これは・・・私の知っている「るろうに剣心」ではない。 

〇こんな話 
 志々雄真実 VS その他大勢

〇変化 
 やっとわかった。この作品になぜまるで入り込めないのかを。 
 剣心と抜刀斎の違いが見分けられないと一作目で書いたが、それと相まって主人公側の成長の過程や何が変化したかがまるでわからないんだ、この作品は。師匠との修行を描くことで剣心が強くなった、心境の変化があった、であろうことは理解できるかもしれない。しかしだ、それを直接的に描くことをしないんだ。それを表現する上での絶好の演出が必殺技だ。それを会得することが直接実力UPにつながるというご都合主義。それをまるで演出しない。誰がどの程度強くなったのかという指標や比較対象を描かないから、議論にまで発展しない。最終的に志々雄真実が最強だったということは原作通りであろうが、それ以下の序列がまるで考える余地が無い。そのおかげか何かもう途中から戦いのシーンが全て同じに観えるんですよ(節穴な眼なのかな・・・)。キャラの背景も薄っぺらいし。 

 「奥義」という言葉を修行で強調している割に、それまでに飛天御剣流の技があまり出てきてない。奥義に辿りつくまでの過程には、その流派の基礎からはじまるであろうある程度の型を出しておかなければ意味が無いのではないか。1~10の型があるとしたら、それが全てマスターできた時初めて奥義を放つことができるとか、伝承できるとかにしておけば、成長過程や主人公が今どの段階にいるという強さの表現ができたではないか。戦闘力みたいに数値化しろとまでは言わないよ。せめてな~。 

 そもそも飛天御剣「流」と言っておきながら、その流派特有の動きが無いのもある(あったのかもしれないが私にはわからなかった)。あったとしても単純に逆刃刀の打撃と、普通の刀による斬撃で血が飛ぶか飛ばないかの違いくらいではなかったか。逆刃刀、一刀流、二刀流、とそれぞれの流派の違いをもっと明確にしてほしかった。 

〇余談 
 御庭番式小太刀二刀流すら出ないのか~。呉鉤十字くらいできただろうに・・・。まぁ確かにクルクルしてたけども。その動きは剣心も一緒だからな~。 

 これか、噂の瀬田宗次郎いきなり発狂というのは。行動原理謎すぎるだろ(笑) 

 この作品で一番おもしろかったのは、安慈が坊さんだけに最後佐之助の倒し方が、チーンってところかな。   

〇最後に 
 実写化は難しいな~。絶対原作と比較されてしまうものな~。それぞれに捉えるところ、受け取るものが違う。それを1つの作品として創り上げるのは何とも勇気がいることだろう。それをこの作品はやっとこさこぎつけた。それだけでも評価するべきなのだろう・・・。しかしだ、絶賛されている方には申し訳ないが、もう最後だからあと少しだけ言わせてくれ。これは違うよ。原作云々もそうだが、これは少年漫画のあるべき姿ではない。何が読者たちに火をつけるのか。それをまるでわかってない。いったいこの映画で何がしたかったのだろうか。ただ人気を取りたかっただけなのか。ほんっとうに残念で仕方が無い。

るろうに剣心 京都大火編(2014)

るろうに剣心 京都大火編[DVD]


~チャンバラ~ 

〇はじめに 
 二本立てにしたいから、とりあえず今回の作品はチャンバラでも観といて。ってな印象を受ける。

〇こんな話 
 志々雄真実討伐までの準備期間。

〇チャンバラ
 前作もそうだが今作はより多対一の戦いが記憶に残る。それがまたかっこいいから言いにくいのだが、少年漫画の演出として多対一というのはなかなか描かれない。なぜなら「主人公(側の人物)VS敵」という構図が、それぞれの取り巻き連中の正義と悪という思いや志の結晶、集合体になっており、その一対一の戦いの結果がその後の世界にそのまま影響を与えるという簡易化された図式にしたいがためだ。
‐‐‐少し話は反れるが、「ドラゴンボール」なんかはその表現をうまくやりましたよね。悟空が絶対勝つであろうことを匂わせながらも、元気玉という技を使わせることで、悟空一人の戦いではなく皆の思いが乗っかっているのだと訴えかける。「オラに元気を分けてくれ~」と言って、皆の思いを受け取れ~ってな感じで主人公の取り巻きと、物語に何ら関与しない戦闘力皆無のその他大勢が手を上にかざすんですよ。あれは燃えたな~。‐‐‐
 故に原作も重視されているのは一対一の戦いだ。この原作以外にもなぜか多人数参加型の戦いでタイマンはってる作品が記憶に少なくないであろう。そして複数の人物が入り混じる中、うまく一対一の状況に持っていき、その対決を如何にかっこよく見せるか、というのが少年漫画の基本である(知ったか)。さらにそれをより引き立ててくれるのがその人物特有の、いや、その人物の象徴と言っても良いであろう必殺技というものだ。必殺技と必殺技のぶつかり合い。両者がぶつかり合うまでに、いったいどちらが強いのかという指標にもなり、ひたすらに議論が為される。そして満を持した対立する者同士の衝突。そんな展開に胸躍らせたであろう原作読者(私のような原作厨)が、この作品に惹きつけられるのかというのは甚だ疑問である。るろ剣で言えば、その辺に落ちてる棒きれなんかを持って、
「牙突!!」
とか真似て遊んでたわけですよ。「斎藤は左利きだよ」、「それ弐式な」とか指摘されながら。そんな人物の比較や象徴だけでなく、現実においてもついつい真似をしてしまうような、「必殺技(仕草でも良いよ)」の演出がほとんど観られなかったのが本当に残念だ。せめて一振りで多人数をなぎ倒す演出でも入れれば良かったのにと。最初からそれ使えよ、と突っ込まれるのを承知で。ウルトラマンのスペシウム光線のノリで。斎藤一の牙突で人間串団子作っちゃうとかさ。必殺技に頼り切る、乱用するというのも問題だが、そういった点でこの作品には時代劇などのチャンバラものと何ら変わりはないといった印象を受けてしまう。仕草とかだったら、弥彦が常に竹刀を背中に背負ってるのを描いたって良かったじゃないか。背負ってる竹刀を抜いて、構えるシーンなんかなかなかにかっこいいではないか。
・・・という具合に、私個人としては個々のキャラクターにおける記憶というか印象(いや思い入れか)がこの作品を通してあまり湧かなかったのである。

 おそらく演出としての次回作への布石なのだろう。最大の見せ場であろうVS志々雄真実戦があるしな、うん。

〇余談 
 操ちゃんは志田未来が良かったのだが・・・。小芝風花ちゃんでも良かったな。いや土屋太鳳ちゃんもかわいかったけども。 

 神木くんもな~、宣伝の時はハマリ役だと思ってたんだけど、歳を取りすぎちゃったかなぁ、容姿以外が。もっと幼くてよかったなぁ。あとぴょんぴょんとした動きにもっと軽快さがほしかった。

〇最後に
 こういった作品の実写化というのは、人外の演出をどうするのかというところでやはり難しいのであろう。描いたところで、それがお粗末であれば見映えが悪く、貴重な盛り上がり部分をチープに感じさせてしまう。役者の問題か、演出(映像技術等)の技術的問題か、現段階では表現しきれないのかもしれない。しかしだ、そう割り切ったところで、少年漫画を愛した・愛する者が何に惹きつけられているのか、実写化をする上でもっと熟考してもらいたかったという思いは決して拭えない。
・・・あぁ、ターゲットが違ったのか・・・。

 3作目に期待。

百瀬、こっちを向いて。(2013)

百瀬、こっちを向いて。[DVD]


~田辺、幸せになってくれ。~ 

〇はじめに 
 田辺君に私はなりたい。そして田辺君の幸せを切に願う。 

〇こんな話 
 主人公が二股野郎のために偽りの恋を始めるお話。 

〇一言だけ 
 幸せってのは他人の不幸の上にしか成り立たないのかな。
・・・いいや違うね、幸せってのはさ、他人の幸せがあってこそなんじゃないかな。 

・・・と、くさいことを言ってみる。はぁ・・・。 

もう一言だけ最後に 
 こういう終わり方好きね~。 「秒速5センチメートル」 「バタフライ・エフェクト」 「ストーカー 逃げ切れぬ愛」 ・・・etc  切ないわ~。

2015年1月22日木曜日

るろうに剣心(2012)

るろうに剣心[DVD]


~かっこいい~ 

〇はじめに 
 「るろうに剣心」原作は全巻読破しております。 

〇こんな話 
 漫画「るろうに剣心」実写版と。 
アヘン云々のところまで。

〇かっこよさ 
 別に全てを忠実に再現してくれとは言わん。作品におけるチャンバラや殺陣は日本産が一番だと思っている。これも日本で実写化してこその作品であることには違いない。しかしだな、剣心のかっこよさというのは、普段のあのおとぼけた姿から、真剣勝負において(剣心のままにしろ抜刀斎にしろ)マジになるギャップにより生みだされるものではなかったのか。佐藤健がかっこいいのは認める。剣心としての彼もひたすらにかっこいいよ。でもそれだけなんだよ。それがただただ残念だ。もっとギャップを、落差を出してくれよ。

 斎藤一との出会いも気になる。最初から慣れ合いすぎだろ。戊辰戦争においての接触を最初に描いているから良しとされるのか。そもそもシリーズ化する気が無かったのか、シリーズ化するために人気をとろうと人気キャラを出せば良いと思ったのか。もっと言ってしまえばキャスティングからね・・・これはいろいろ言われてるから良いか・・・。志々雄真実討伐に向かう時にるろうにとしての彼と初めて会うのではなかったか。そこが一番好きなシーンだったのだが。類似シーンがあるにはある。しかしこの場面でこそが、幕末世代と明治以降という薫と剣心の溝を表現するためにも重要なシーンではなかったか。斎藤と剣心の死闘に対して、佐之助が俺たちにあの戦いは止められないとドヤ顔解説をし、そこに警視総監だかが、ドアを開け放ち
「やめんかぁ~!!」
と制止する。そこにのそりと大久保卿。ここめちゃくちゃかっこよかったんだけどな~。抜刀斎としての恐ろしさもうまく表現できるところなのにな~、もったいない。

 抜刀斎に戻るのと、剣心として戦っているシーンの見分けもあまりつかない。雰囲気で伝えるべきであろう要素であることは十分に承知している。しかしそれをもっとわかりやすく、髪が金色(別に何色でも良い)になるとか、十字傷が赤くなるとか、傷から血が出てくるとか、独自の演出はできなかったものか。演技で補えるほどの役者ならいいのだが、それが何分わかりにくいからな~。剣心、抜刀斎という隔てが無く、ずーっと佐藤健なんですよ。難しいのかな~この辺の演出は。劇場で観ればいくらか変わるのだろうか・・・。
 それとも佐藤健を亀梨和也と見間違えるほどの眼しか持たない私にこの人の演技の見極めは難しかったのだろうか。

〇余談 
 薩摩最強剣示現流を出してほしかったなぁ。 

〇最後に 
 2作目に期待。


名探偵コナン 世紀末の魔術師(1999)

名探偵コナン 世紀末の魔術師[DVD]


~見た目(ほぼ)10割~


〇はじめに
 劇場版第3作目

〇想起する作品
 「ザ・エッグ ~ロマノフの秘宝を狙え~」(2009)

〇こんな話 
 鶏が先か卵が先か、永遠の謎である。そんな問いに、バルシェは肉を買うことで、怪盗キッドは卵を盗み出すことで、一つの真実に迫ろうとする。いや、俺が先だ。俺だ俺だ俺だ!! その名は名探偵コナン。

 キャッチコピーは「夏美さんが先か、青蘭さんが先か」

〇キッド 
 変電所を爆発させることで停電を起こし、非常電源に切り替わるであろう施設以外に明りがつくことで、そこがエッグの隠し場所とみて盗みに参上する。なんと頭の良い怪盗だと、そしてそれに気付くコナン君の機転の演出。 
 しかしですね、よく考えて下さい。電気の無駄遣いは確かに多いかもしれませんよ。しかし必要とされている電気があるのを忘れてはいませんか。病院であればちょうど手術中でいきなりの停電。不意な事から誤って患者さんを傷つけてしまったかもしれない。そして患者さん、医師や看護師が忙しく確認や点検に走り回るはめに。一刻一秒を争う大事な商談、交通マヒや交通事故、足元が見えないことからくる転倒事故、などなど様々な事故が描かれていないだけで起きている可能性があるわけです。そんなことを考えるとですね、キッドが撃たれることは、何かしらの裁きによるものだともとれなくはないです。 

〇誕生日 
 夏美さんと青蘭さんの誕生日の会話の時に、コナン君は誕生日を5月4日と自覚している。あっれれ~、おっかしいぞ~。劇場版第一作目「時計仕掛けの摩天楼」を思い起こすと何か引っかかる点はないだろうか。毛利蘭日はく、工藤新一は毎年自分の誕生日を忘れるがために、私が一年に一回思い出させてあげるのだと。ホームズに関する日にちはいくらでも覚えているのに、自分のこととなるとまるで無頓着。それこそが工藤新一と毛利蘭の切っても切れない縁みたいなものの演出としてあったのではなかったのか。いや、あの時3分間味わったからこそ忘れられない日として刻み込まれたのか。それとも、「おやおやコナン君、美人さんには都合がいいですねぇ」という感じなのか。それとも蘭とイチャイチャするがための忘れていたというフリだったのか。ただ後付けしただけなのだろうか。 
 まあ今回は新一のことしか頭に無い蘭が、コナン君と新一とを結び付ける起点として、切っても切れない要素ではあるのだが・・・。 

〇備えあれば憂いなし 
 最後の場面で、コナン君はスコーピオンの有する拳銃の弾数を数えていた。そうであれば万全を期して弾丸を一発残させること無く、全部撃ち切らせてしまった方が確実だったのではと。最後の一発をめぐる攻防戦の心理を少し。

・コナン君サイドで見た場合 
 右目を絶対に狙ってくるという確信と、眼鏡を強化ガラスにしていたことによる、一発は凌ぎきれるという自信。そして一発凌ぎきれば反撃へ転じられるというまたまた自信及び覚悟。故に挑発、そしてスコーピオンはまんまと手中に。 
・青蘭さんサイドで見た場合 
 弾が一発残っているという自信よりも、撃ちきったら予備のマガジンに変えればいいと楽観視をしていたのは、この後の場面を見れば明白。なぜそうなるのかといえば、今まで殺害してきた者たち全てを一発で沈めているという事実に基づく、自らの腕に対する自信。いやおごりか。そのおごりから一発で仕留め損なったときの判断・対処が少し遅れると。殺せるという前提でその後の行動を考えていただろうために。

 シューティングゲームをやる上で、敵と敵の感覚に少しの間があると弾数を確認するとともに、MAXになるように装填(リロード)してしまいたいと思うのが常ではなかろうか。何事も準備しておくのに越したことは無い。しかし実際は弾数は限られるし、敵と対峙する上で油断や隙を見せるのはご法度。それが知らず知らずの内に始まってしまっていた最終局面なら尚更。立て直す時間など無い。まずはその場を凌ぎきってから、次のことを考えるという思考に陥るのではなかろうか。そしてそれがどつぼにはまりゲームオーバー。青蘭さんが証明してくれた。

 結局コナン君はキッドの助けが無くては青蘭さんには勝てなかった。そこがまた殺す気で来ている容赦の無い犯人と、いくら犯罪者であろうと殺さずを貫くコナン君の、決して埋められない差を演出しているのだろうか。 

〇ひとつの真実 
 今回の映画で明らかになる真実はというと、こちら、 

~ 人は中身ではなく見た目(外見・容姿)が重要である ~

というもの。

 今回の映画は蘭が究極にコナンの正体に迫る話である。誕生日の偶然の一致から、ふとコナン君の行動が事件の解決の起点になることに気付き、何か秘めたるものがあるのではと勝手に観察を始める。そして行きついた答えがコナン=新一という答えだったわけであるが・・・。
 ここまで来ると愛は全てを凌駕する、超える。障害や壁なんて愛の前では存在しないに等しいなどと綺麗なお話になるのだが、蘭が辿りついた答えは、ある人物(新一に変装したキッド)の登場により無かったものとなる。笑っちまうぜ。最後の蘭のコナン君=新一という答えは、コナン君の行動を逐一観察し、自分自身を守ろうとする姿勢から新一と被ると考察し、そんな真っ直ぐな気持ちを理解し辿りついた答えであったはずである。それを悟ったからこそ、その気持ちに応えようと、コナンも正体を明かそうとまでした。なのに、なのに・・・この始末。つまり蘭を思うコナンの気持ちよりも、ぽっと出の新一という容姿をした人物を優先したのである。皆さんはこれをどう思われるだろうか?
 黒の組織関連があるために正体を明かすことができないというのはわかる。そしてそれに伴う大人の事情もわかる。キッドの貸し借り無しにするという動機も。しかしこれでは二人の愛では黒の組織には勝てない、と言っているようなものなのである。
‐‐‐愛で組織に立ち向かうなんてのは一言も言ってないか。でも後々お姉ちゃんを殺された、恋人を殺されたと引きずる者たちが出てくるではないですか‐‐‐
 蘭にさっさと正体を明かして、二人で立ち向かえば良いではないかと。結局知らず知らずの内に巻き込んでる場合が多数見受けられるわけですし。それなら二人の愛を確認し合うことで、打倒黒の組織を掲げてひたすらにバトルを繰り広げた方がより二人の関係性の深まりは示せるわけで。で、お前は何が言いたいんだよと。
 →私が納得できないところは、この結末における安堵、つまりコナン君(としての新一)と蘭との二人の関係性が最終的に変化しないことへの安心感や希望は、(事情を知る我々を含めた)コナン君サイドからの蘭への一方的な心配があってこそもたらされるものだ、というところである。事情を知ってしまっているがために、劇中蘭側の視点に立つことが我々にはできない。故に気にならないところなのかもしれない。しかし作品から離れてふと思うのである。
‐‐‐黒の組織、大人の事情を蘭は知らない。余計な心配をかけますまいというコナン君の男気は評価する。が、それは一切蘭には伝わっていない。そんな蘭は小学一年生の新一と、高校二年生の怪盗キッドの二択において怪盗キッドを選択するのである。‐‐‐
「愛」って一体全体何なんですか!? 
「心」や「思い」ってものは募るだけで、伝わらないんですか!?
・・・、け、結局「見た目」かよ・・・と。
・・・いや、新一と蘭のそれはまだ真にそう呼ばれるものに達していないということなのだろうか。そう思えば少しは気が楽になるか。

 この話はすごく綺麗にまとめているとは思うのだが、ラスプーチンが関わっていた時点で、実際ゲスいお話なんだろうなと・・・。そんなことを考えると、蘭は新一のナニを・・・あ、しまった、ど、どんなところを好きなのか気になって仕方がないのです。新一の体、姿、器なのだろうか、蘭を思う気持ちや心なのだろうか、両方だろうか。長年幼馴染という腐れ縁で連れ添った一見清い関係の二人でさえ、恋をしたきっかけは工藤新一及び毛利蘭という見た目だったのでしょうか。時間の経過により明らかになったそれぞれに一筋な気持ち。最終的に表向き清い関係に見せているという茶番劇。くっだらねぇな、くっだらねぇよ・・・。
 スピンオフでこの構図を元太と歩美ちゃんでやってくれよ、頼むよ(切実)。そしたらこの関係をもっとまともな目で見られるよ。約束しますよ。

〇余談 
・ミスリード 
 最初の犯人に対するコナンの発言。キッドが撃たれたときに「さっきの男」というのである。「お・と・こ」である。 
・連想 
 鷲と卵。博士のクイズにそんな単語が出てくる。イースターエッグと紋章である双頭の鷲はつながっているんだよと。ロマノフ家が関わってくるという暗示だったのか。 
・夏美さん
 良い人というイメージしか湧かない。というかただの良い人。行動を例に挙げるとですね、コナン君の質問に対して、コナン君の目線の高さに合わせて毎回丁寧に返答をするんですよ。親切すぎやしませんか。バルシェとかうろ覚えで、バルシェがお肉を買ったかしらって・・・(ぶりっ子したってこっちは騙されないからな!!)。「怒」という感情をまるで出さないし。故に純粋、素直、いや天然、というか下手したら馬鹿な感じのキャラとして際立つ。このままで全然ありなのだが、微かでいいのでこの人の暗黒面を見たかった(フィアンセいそう・・・ま、まさか執事と!?)。心が綺麗過ぎるんですよ。まあ青蘭さんがいるからバランスはとれているのか・・・。見た目は子供、頭脳は大人にはじまるその他大勢のギャップ萌えを好むこの作品の中では、ものすごく異質に感じてしまうんですよね。勝手ですけど。まぁ詰まる所、好きなキャラです。

〇最後に
 夏美さんシリーズでお別れ~。









 また、名探偵コナンシリーズで・・・。

2015年1月20日火曜日

名探偵コナン 14番目の標的(1998)

名探偵コナン 14番目の標的[DVD]


~愛という名のエッセンス~

〇はじめに 
 劇場版第2作目 

〇想起する作品 
 「未来少年コナン」(1978) Aの予感 
 「スピード」(1994) 人質銃撃


〇こんな話 
 さあ、カウント始めるぞ!! 
コナン君と蘭のAの予感まで、
「目暮、英理、弘樹、勝義、沢木、小山内・・・、くどおおおおお、0」  
・・・ここにきて尚、新一と蘭の関係にはまだ2つ(以上)も段階を残している。この意味がわかるかな?

 キャッチコピーは「私の戦闘力は、14番目です」

〇名前と数字 
 名前を聞いただけだったら漢字は連想しないか? 

 この事件のポイントは犯人の標的となる人物に数字が入っていること。名前を聞いたときにどんな漢字を書くのか聞かないものか。「おさないなな」さんなんて白鳥刑事が名前を読み上げるてし、もうすでに7って宣言してるようなもんなんだが・・・、数字に敏感になっているはずの状況で、コナン君の説明でやっと察するという。いったい、何の事件の捜査をしていたんだ、彼らは? 

〇プライド 
 ソムリエとしてのとてもとても高いプライド。それは確かな実力の基確立された、山よりも高く海よりも深い。人間には例えようの無い大きな大きなものを抱えている。そう、それはまるで宇宙を統べるがごとく。しかしそんな人物でも叶わない願いがあった。故にある場所に7人の人物を召集することになる。全ては願いを叶えるため。1~7の数字が刻まれた名前を持つ者たち。 イー、アール、サン、スー・・・。出でよ~!!

・補足
 旭さん(9)は事前に殺されているし、願い事を唱える自分(8)は含めないとすると、集まった・集めた人物は1~7までの数字になるんですよね。なんかあったなそんなボールと。・・・つっかもうぜ!!

〇真実と事実 
 射撃に自信があるからと人質を撃つ。人質を犯人の手から助けるために人質を行動不能にし、犯人の足手まといにする。足手まといとなった人質など犯人にとっては意味が無い。犯人は無防備になる。逮捕だ~。
・・・という小五郎の
英理を撃ったという事実 と 英理を守るために撃ったという真実 

しかし蘭には小五郎が英理を撃った、つまり父親が母親を傷つけたことが真実になっていたわけだ。ここから何がわかるのか。この作品で常に叫ばれる文句、
「真実はいつも1つ」
というこの言葉は正確ではない、ということが言える。真実と事実、混同されているのではなかろうか。それをこの映画は説いていたのか・・・

〇ひとつの真実 
 この映画では毛利夫婦の別居理由と小五郎が刑事を辞めた理由が語られる。そこから明らかになったひとつの真実とは・・・

~愛(という調味料)は万能ではない~

 よく料理のおいしい理由として愛情がこもっているからどうのこうのというのがある。最近のCMでもあったな。料理において愛など二の次、三の次だ。求められるのは料理を作る人の腕だ、力量だ。そして何よりも素材の味だ。 それらの前提があって初めて、食べ手を思う気持ち云々が出てきて然るべきだ。
 なぜかって? 料理ってのは食べてもらうために作るのではないのか。愛する者に味見もしないで、いや、味見ができないほどの不味い飯を差し出すんですかあなたは?
 この作品で問題なのは、英理の小五郎に対する気持ちが料理のどの段階に置かれていたか・現れていたかということだ。彼女は小五郎に自分を助けてくれたお礼にと、料理を食べてもらうことではなく、食べてもらおうと作るというところに重きを置いた。小五郎は料理に対して、おいしいものを食べることを望んでいるに違いない。ここに両者のギャップが存在した。故に性格の不一致と。溝は深い。

 人質になった愛する者を助けるために、傷つけざるをえないといったところもあるかな。むしろそちらに重点を置いて話を展開すれば良かったか・・・

〇疑念 
 今さら気になったコナン愛用のメカシリーズの一つ、キック力増強シューズ。足のつぼを刺激し筋力を極限まで高めるんだとか。原作の方にあった話で、ある大人に対して小学校1年生の力でサッカーボールを蹴り、楽勝で止められる場面があった。人間は基本発揮できる力を抑えている。最大で20%?30%?ほどらしい。小学生がトレーニングもなしにそこまでの力は出せないとしても、半分くらいの力は出ると仮定しよう。最大限に発揮という表現がよくはわからないが、火事場の馬鹿力として100%出せるようになったとして、たかだか5倍~10倍の力である。そんなんで犯人を一発でノックアウトできるほどの力になるのだろうか。ロベルト・カルロスというサッカー選手のFKは、キーパーの指だか腕だかを骨折させたり、ぶつかった選手を気絶させたりしたことがあるらしいが、小学1年生の最大の力でそのようなことが可能なのだろうか。筋肉よりも骨の方がもつのだろうか。絶妙なコントロールで相手をノックアウトさせるツボにぶつけているのだろうか。謎は深まるばかりである。私は探偵ではないのでこの謎の究明はあきらめることにし、この謎は迷宮入りさせることにする。


「探偵が諦めたら、事件は迷宮入りなんだ!」


〇余談 
 「夢に出てきたお母さん少し若かったよ」との台詞、過去の記憶が少し改変されたものという演出だもんなぁ。

 元太の設定を活かして目暮警部の名前を「じゅうさん」と読ますのも伏線だからな~、すごいな~。

 ダウンウォッシュなんて単語知らんがな、コナン君ちゃんと説明してけろ。

 最後蘭を救出するために海水の中で目を開けられ、的確な行動がとれるコナン君すごいなぁ。

 蘭はトランプで1を意味するA(工藤新一)に助けられる。新一はある段階におけるA(蘭の未来少年コナン風酸素供給法)に助けられる。相思相愛ってか。
Aの次にはI(愛)がある。人工知能の完成です。

 阿笠博士って11以外に10も入ってるよな~。ん?10+11=21・・・・ブラックジャック!!

〇最後に
 「女性=料理ができる」みたいな常識というか偏見みたいなのが浸透している節がありますね。まぁ勝手な男の願望なのかもしれませんが、そのギャップをこの設定はうまくついてきたと。そして今や女性で料理ができるはステータスとして活きてくると。社会は変わりつつあります。いや変わってしまったのか。いやいや全く変わってないかもです。

2015年1月14日水曜日

万能鑑定士Q モナ・リザの瞳(2014)

万能鑑定士Q[DVD]


~ただただ文句が言いたくて~ 

〇はじめに 
 すっげ~、つまん・・・失礼。 
・・・こちとら、仲間由紀恵で鍛えられとるんじゃい!! そんなこけおどし全てお見通しだで。 

〇想起する作品 
・「劇場版TRICK」 (2002)
 騙されるネタバレの構図がトランプの確率云々だかのトリックと同じなんですよね。 
・「鑑定士と顔のない依頼人」 (2013)
 鑑定眼といいましょうか・・・

〇こんな話 
 綾瀬はるかとモナ・リザが見つめ合うことで起きる化学反応。あなたはこの現象を解明できるか!? 

〇騙されない心理
 最初にたった一色の画像加工をも見抜く莉子の鑑定眼を演出している。さらに音を音でかき消すマスキングを見抜くことで、あらゆる分野の知識も持っていることで彼女の有能さを示したつもりだろう。しかしこれが活きてこない。なぜだかキャラが落ち着かない。故に鑑定士を選定する集会において、ダークホース的立ち位置を確立できていない。ある発掘されていない、世間から認められていない才能を持った人物が、外の世界に出ていくことでその世界に影響を及ぼすという構図がこのシチュエーションでのおもしろさのはずだ。
・・・そうか、比較対象がいなさすぎたのか。ある枠では彼女の能力を測りきれなくなってきたからこその、外の世界に出ての比較。その前提が無いんだ。単純に彼女の能力を観せられただけでは、強敵を倒していくであろう期待感が湧きにくい。それでキャラが定まらないんだ。故にすごい冷めた目で見てしまう。全くと言っていいほど話に入り込めない。そんな人はひたすらに気になるところが気になって仕方なくなることだろう。

・・・結果としては確立する必要はなかったわけだが。この集会あんまストーリーにおいて意味ないし。罠にはめるためにだけ意味があったわけだし(意味大ありか)。でもね、世界的権威に認められたとして、彼女を特別待遇により鍛えるという状況に持ち込もうとしたんでしょ。それを鑑賞者の彼ら(犯人側)に対する信用とし、疑うべき事象として排除することで騙される心理につなげようとしたわけでしょ。この作品において心理をはたらかせる一番に重要な要素であったはずだ。それが全く伝わってこないんだよ。なぜ彼女が選ばれたのかという演出がまるで共感できないというか、理解できない(腑に落ちないという表現が正しいかな)。そこに疑問を持たせちゃ駄目でしょうよ・・・、いや疑問を持たせてもいいんですよ。というより持たせるべきなんですけれども、これは最初から胡散臭いんですよ。それを以下に少し・・・

・言語 
 まず言語に関してか。フランス語のみによる指導。美術品の真偽を見抜く直感力を鍛えるトレーニングにおいて、足手まといになるからと主人公に言語習得を強要する。さも自分も一緒に指導を受けているかのような演出としてあるものだ。そして協力して本物を探し出しハグハグと。

 そもそも通訳が入れないってあるのか。トレーニング法が秘伝であるとか言っていたんだったか忘れたが、そっちが勝手に人選んで鍛えるとか言ってんだから、もっと待遇が良くてもいいだろうよと。そっちで通訳用意しろよ。


・ビジュアル 
 指導する者が若い男であることが最初から引っかかる。本気で騙すために、画の熟練者として印象付けるのなら、白髪混じりに始まり老齢な役者を選んでいたはずだ(まぁ主人公だけ騙すことができればいいからそれは解消されるのか)。それをしないということは、女とできてるよねと(最初ではわかりませんけどね)。

 あと絵の違いが全く分からん。偽物どうのと言われましてもね~。もっと講義してほしかったな~。劇中あったのかな。自分が観てなかっただけなのかな・・・。


・トレーニング方法 
 莉子もモナリザの本物の絵に対して雰囲気で違いを判断した風なことを言ってはいる。トレーニングはそれを鍛えるものとするようなミスリードであろう。 

 「TRICK」好きな人は、二人で協力して本物を探し当てた時点で大体察しがついてしまうのではなかろうか。劇場版トリックでもこの構図がありましたよねと。マジシャンである山田が騙され、天才物理学者である上田が理論的にそのトリックの種明かしをするというのが。あるキャラのあるジャンルが苦手であるという一面を披露するだけの演出をこの作品はただただ引き延ばす。この演出が活きるのは、ある程度のキャラの下地があってこそだ。この作品だけではきついだろう。さらにはただ文書を読むだけでしかも一日で言語習得という所業をもやってのけてしまう。ついていけないですよ。主人公に共感や興味を持ててこそ、意外や意外という設定が活きてくるもので、彼女にそのような感情が持てなければこの作品はおそらくアウトでしょう。途中で止めてもいいのではないでしょうか。

 最初でトリックに気付いてしまうと、それ以降のミスリードとしてあるであろう演出がまるで意味を為さなくなる。 
・鑑定力を鍛えるトレーニング、 
・綾瀬はるかの不調 
・モナリザの瞳 
・・・が結びついていくわけだが、この演出はトリックを見抜いていない前提で為されているに過ぎない。真相に辿りついてしまった人たちへの配慮がまるで感じられないのだ。残念。 
 擁護するのであれば、莉子の騙される過程が美沙のそれと同じという演出が為されており、最後の二人の関係云々に通じている・・・はず。

 一番最初のトレーニングにもっと細工を施しておけば良かったはずだ。最終的に美沙が二分の一を選択し偽物を引き当てるわけであるが、ここは莉子に選択させておくべきだった。この二人の共同・協力作業と切磋琢磨させる様子として観せておきたいのはわかる。しかしだ、これでは莉子の鑑定眼が関係ないことが明白になってしまう。50%の確率だろ。賭けてみろや。
 当てた場合、最初に自分の鑑定眼(ここでは直感力)を正しいと思い込ませ、そこからじわじわ刷り込みを行っていった方が効率は良かったのではないだろうか。マグレだなととぼけたって良い、これからのトレーニングで成功率を100%にしていこうとか何とか言ってさ。直感で見抜けとかテキトウなこと言って信じちゃうんだからさ。どうせバレねえよ。
 もしハズレだったなら美沙が私は逆だと思うとか言って、彼女の優位性や上下関係を示せたではないか。自信が無かったのなら、すり替えができるようにしとけば良かったじゃないか。それでも不安なら手先が器用な手品師でも雇えよ。もっと自信が無いのなら、全てはずれにしておいて、掃けた奴をすり替えて後で持ってこいよ。そうすればお前ら最初から間違ってたよば~かってなるわけじゃない。後々の解説が面倒になるだろうけど、それぐらいはやっておいてほしかったな~。そうすれば犯人達の用意周到具合だって印象付けられるだろうし。他にも一枚排除する度に絵をシャッフルするとかさ~。観客の目を欺くにはいろいろと細工できたでしょうよ・・・。

〇文句 
・万能感
 多国の言語も万能設定にすればいいのに。辞書を用いて、たどたどしく言葉をしゃべるところにギャップ萌えの要素を取り入れたかったのだろう。わかってないなぁ。知識や行動的なところを全て万能にして、得意分野の中にだけ唯一苦手なことがあるって設定にするんだよそこは。例えば・・・裸婦画の鑑定だけできないとか(つまらんかな)。こんなんだったらただ鑑定士としての映画でプレミア感出したかっただけだと思われるぞ。 
 そして万能と言われる者の努力というギャップ。こういうの好きね~、ジャポンは(ジャポンだけじゃないか)。そしてその設定がまるで意味を為さない。彼女が用いる方法に共感を得られないからだ。感情と結びつけるのは良いよ。でも言語習得における努力が書物読むだけて。努力家設定なんだろ、すぐ海外に発つとかにすれば良いんだよ。発音聴きとれんだろうし、発声できないだろと。あ、海外に来てたのか・・・て、軽井沢じゃね~か。それじゃあ、最初の出会いのところで言語習得を彼女が行動に移すくらい強要しとけば良かったんだよ。何週間か期間設けてたよな確か。海外飛べるじゃん。というより本場にいるんだから、期限ギリギリまでここに残って言語の勉強するとかできたではないか。
 こんな無茶なことやるならさ~、本の紙食べちゃうとかぐらいはしてほしかったな~。朝食とかの画を入れてさ、昨日本食べすぎちゃったから食事がのどを通らないとか台詞だけでもいいから入れればいいんだよ。

・演出要素
 なんでセクシー要素を入れないんだろ。美術品というか、こういったアートが絡む作品には必須アイテムだろ。さらに綾瀬はるかという恰好の対抗馬がいるのに、なぜそれを利用しないのか。対立する人物はもっと女としての色気を持つ女優を使うべきだった。それか綾瀬はるか側に色気を持たせようとボディラインが出るような衣装にするべきだった。なんでライン出させないんだろう?? そういう役が無いですよね、綾瀬はるか。

 最後もだよ。自分で言っちゃうんだよ。美術品の鑑定眼には優れるが、人の心は見抜けないみたいなことを。「鑑定士と顔のない依頼人」を是非観てほしい。この台詞を映画全体で鑑賞者に感じさせてくれるから。台詞では決して言うことなく。 

 まぁ最後の鑑定士と言う立場を位置づけたのは良かったかなと。莉子に質問するわけです。「このモナリザは本物なのか?」と。鑑定士に本物と認められて我々は本物と判断できるわけで。つまり認めなければ本物かどうかはわからない。どうせわからねえんだから偽物でも眺めさせとけよ、となっているかもしれないわけです。「グランドピアノ」という映画で、どうせ演奏失敗したって観客はわからねえよと言ってる奴がいたなあ。芸術という分野は何とも特殊で、表現する側は完全に個人の感性に委ねられるではないですか。しかしそれを素人が感じ取るには何かしらの指標が必要となると。その傾向を創り出してくれるのが鑑定士と。そして一番ざっくりとした指標が本物か偽物かと。 

〇余談 
 「H29」って何。この作品が鑑賞者に対しての皮肉(H29)になってるってこと?? 

 モナリザが磔に、火あぶりにあっています!!
これ笑うしかないだろ・・・そしてここがこの作品随一の見どころだ。単に救出までの間をもたせるためにこんな非合理的な演出を施してしまったのだろうが、何とも稚拙だ。燃え広がらないように大きなバケツに入れて燃やすとかさ~、できただろう。そんなのも用意してないのかよ。あと偽物と本物のフリとしてね、絵が燃えていく(燃えうつるところから)のを見せる必要は無いんだよ。絵が燃えてしまうのを見せる必要があるんだよ。そして見分ける要素だったものをわざわざ残しておくかね。 
 このモナリザ火あぶりの刑において、建築に詳しい人日はく、「高層ビルにはスプリンクラーが無いのはあり得ない。・・・あるとしたらだけど電源を落としているのかもしれない・・・」とのこと。 

 で、Qはくだらないの、Q?? 

 どうせなら主演を仲間由紀恵と阿部寛にすれば良かったんだよ。コメディ色強くして、三谷幸喜脚本・監督とかにして。そうすればネタ映画としてもっとおもしろくできただろうに。 

 一緒に鑑賞した綾瀬はるかを好きな友人は、下の中くらいの作品だと言っていた。 

〇最後に 
 ただただ文句を羅列してしまったが、じゃあお前がストーリー創ってみろやと。いいえ、私はそのようなことはできません。ただできあがった者を批判するしか能がない人間です。いや、批判すらできてないか・・・・。

2015年1月9日金曜日

スパイ・レジェンド(2014)

字幕翻訳:林完治

~対立~ 

〇はじめに 
 試写会にて鑑賞。 
 スパイものをあまり鑑賞しない人間による評価である。 

〇こんな話 
 スパイを引退した男が、弟子やCIAやロシアやらを相手取り、まだまだ若い者には・・・と奮起するお話(適当)

 新旧対決がメイン・見どころなのだろう。冷戦期の対立を現在の時代に置き換えて描いていくことを根幹に、師弟(新旧)対決を中心に演出として盛り込んでいる。原作も師弟対決かどうかはわからないが。

〇対立 
 原作が冷戦時代を背景にしている作品であり、本作品も米ロの対立がメインの軸としてある。これを軸に、ロシア大統領(候補?)とCIAという国よりも若干狭まった組織間の対立があり、さらに小さく師弟関係を中心とした個人間による対立が存在する。スパイものの、こういった対立を経た小さい正義が巨大な悪に挑んでいく構図は非常におもしろくあるのだが、何分この作品はわかりにくい。というのも対立関係が大きなものから小さなものへと下って行った場合に、2者の対立関係から3者の対立関係になってしまうからだろう。そして劇中ではその3者の対立関係から、上の方を展望することになり・・・、むむむ??となる。
・国 
「アメリカ VS ロシア」
・組織
「CIA(米) VS ロシア大統領候補?(ロ)」
・個人
「師匠(米?) VS 弟子と愉快なCIA捜査官たち(米) VS ロシアの殺し屋(ロ)」
・・・こんな感じであるが、まぁそれが見どころか。
ここにミラという謎の人物、チェチェンのテロの黒幕、中東問題?・・・などなど盛り込んでくるからもう整理できない。こんな私のような人は多くいるのではなかろうか。そしてただのアクション映画と成り下がる。いえ~い、ドンパチはじめろはじめろ~、と。

・師弟関係 
 ピアース・ブロスナンのスパイとして独自の流儀を持ち、且つ洗練された迷いの無い立ち回りはさすが。それに対抗する、上のどんな命令にも従うのみで、自らの意思を任務に介さない弟子。この両者の行動や心境がどのように変化していくのか、どう捉えるのかが面白味か。

 主人公ははじめ、弟子の命令無視と故意(命令)により、子供と恋人(女性)を死なせている。これにより一方的な被害者となる主人公。我々にとっては「主人公=正義」で物語が始まる。弟子が1つの対立する悪として描かれるが、主人公は彼を親友だか友人だかと述べているシーンが観られ、弟子も師匠に対してのコンプレックスしか感じられない。最初の任務において主人公が路チューをする弟子をたしなめるシーンが存在し、その後弟子はプライベートにおいて他人と深く干渉しないという師の教えに忠実な演出も為されている。さらに相対する場面で、両者互いに真に殺そうとはしておらず、関係は常に曖昧だ。

 一般的なスパイものとしては、主人公となるスパイが絶対的な正義として描かれ、それを中心に信頼や裏切りを演出するのが見どころか。しかしこの作品は先ほども書いたが、善悪の構図が曖昧である。序盤は悪が弟子よりに傾いているのだが、それが一旦師匠側に傾く場面が存在する。師匠が弟子の恋人を傷つけるのだ。おそらくこの辺から、劇中における世界観の善悪と言う構図が、傍から観てはっきりしないモヤモヤしたものであると伝えようとしているのではなかろうか。しかしこれが物語を理解させる上で難点であることも確かであろう。単純化される対立関係では無い分、誰に自分を投影していいのかがあやふやだ。我々が頼るべき正義と言う主柱が見えない。故に物語に入り込みづらいのではなかろうか。

 スパイ合戦においては、相手の弱みを握るという目的のための手段となる情報戦が鍵となる。いかに相手を出し抜こうとそれぞれが躍起になる。師匠から弟子への教えもあったのだが、師匠自身も実は秘密があったと。似た者同士ということだったのだろうか。

 最後気になったのは、師匠が弟子に対して指をパチパチする過去回想が入ったことだ。おそらく今まで常に指示を仰ぐか、言いなりであった弟子が、自分の意思による判断で行動を起こすという弟子の成長的な演出であったのだろうが、下手をすると催眠(後催眠暗示)的な意図で汲み取ってしまう(・・・それはないかな?)。

・ツボ
 主人公がCIAとの対立を確かにした後、敵となるCIA指令室だか本部だかに電話で問い合わせることで情報をまんまと聴きだしてしまうシーンがある。携帯の識別番号だか、音声認識だか、本人の認証コードだかで仲間かどうかを判別するシステムを逆手にとるのだが、応答をした女性は主人公に何の違和感もなく仲間と認識し、ぺらぺらと情報を伝えてしまうのである。そこに主人公の顔がニヤリと映り、鑑賞者もニヤけるであろうシーンだ。私はここで多少なりとも鑑賞者全体で笑いが漏れるものと思っていた。誰かが吹かしてしまうのを期待していた。それにつられようと思ったからだ。しかしまったくの無反応であった。そこが気になる。スパイものというのはこの辺で笑うのではないのか?? 何か他の鑑賞者との溝を感じてしまった・・・あっれれ~??
 このシーンは師弟関係における力量の差というのが測れるところだろう。唯一師匠のトリックに気付き、抵抗を試みる弟子。師匠と対立するCIA捜査官内において、彼が一歩リードしていると。しかし師匠にはあと一歩及ばない。これからこの師弟関係がどのような方向に向かうのであろうかという対立関係をさらに深めるのに重要なシーンでもあった。 


〇余談 
 ロシアの殺し屋さん脚ほっそ。もっと美脚披露させるシーン作ればいいのに、もったいない。柔軟シーンちょっとしかないもんなぁ~。
ドローンもほんのちょっとしか出てこないし・・・。チラシになんかウリみたいなノリで書いてあったぞ~い。

〇最後に
 主人公視点で常に観られれば、謎が謎を呼びスリリングな展開が楽しめるのだろう。しかし、ロシア側や弟子となるCIA側の情報も割と筒抜けになるため、それがミラの正体や、CIAにおける黒幕、師弟関係の行く末も予想がついてしまう。そこをむしろ楽しむべきなのか、割り切るべきなのか・・・。後々答え合わせをされても、その奥にあるであろう真の対立関係をあまり理解できなくなる。

 今日、歴代作品でスパイ活劇が楽しまれる要因としての多くは、鑑賞者が知識として過去にあった何かしらの事実の原因やら結果を知っている・持っているからというのがある。ここ数十年?のスパイものではアメリカとソ連の対立(冷戦)という事実がよく盛り込まれていただろう。疑問なのは、そのような作品を現在進行形で観ていた方々は、盛り込まれている構図(対立)を理解できていたのだろうか、ということだ。歴史としてこんな対立があった、こんな結果になった、今もこんな関係が続いている・・・というように、過去の事実として受け入れている経験や知識があるからこそ見えてくる世界観がある。そこにおもしろさを感じるのである。
 この作品は米ロの現在の対立を描いているようだが、それが作品の中だけでなく、現実問題として現在進行形の社会情勢であるが故だろう、ピンと来ない。これは真相を探る主人公視点を、我々の現在と位置づけて見渡してみると感じることができる。先ほどから何度も書いているが対立関係が曖昧なのだ。なかなかに実体が見えてこない。この項の最初ではその様子をスリリングな展開と書いたが、それが狙いだったのだろうか。結果として見えていない、どちらにでも転ぶであろう現在進行形の社会情勢が捉えられない。個人、組織、国という間でそれぞれ見え方や決断が異なってくるだろう。そんな複雑な情勢を感じてほしかったのだろうか。情報網を張り巡らし、テレビやネットの報道に目を通していれば、この対立ははっきりと見えていたのだろうか。そしてそれはどこまでが事実として明かされているのだろうか。これから明らかになっていくのだろうか。そんな不透明さをもたらす我々の生きているリアルタイムという状況が、このような作品を楽しむ上で枷となっている。もう少し社会の動向がはっきりしてきたとき、この辺の事実が過去として捉えられるようになったとき、この作品がどのように見えてくるのか、というのをいずれ確かめてみたい。

・・・勉強不足だな~。もう少し網を拡げなきゃだなぁ~、はぁ↓↓・・・・


悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...