2015年5月31日日曜日

夫婦フーフー日記(2015)

~よい。~ 



〇こんな話 
 とある夫婦のこれまでとこれから。


〇一歩引く 
 終始流れに乗り切らないというか、どこか途切れ途切れというか。ラストも主題歌を直で挿れても良かったんじゃないかと。そしたらもっと感傷に浸れただろうに。要は全体的に微妙なのである。入り込めないのである。その辺がひたすらに気になったわけだが、これはわざとであったのだろうと思うことにした。
 
 そもそも作家志望の人間のブログが書籍化や映画化に漕ぎつけているという事実に何か胡散臭さを感じてしまう。
 しかしそこは元ネタを活かし、全体的に何か軽い文章で、真面目な話でありながらどこかふざけているように見せる。そして文章の最後に括弧をつけて補足説明するかのように、2人が過去回想に関してウソかホントかと突っ込みを入れていくカタチで、ブログの文章と過去回想における違いを示すことで解消しているのだと思われる。そして書かれていることよりも書かれていないことの方がどうのと、出版社に持って行った際にある1人に「何か(ウリは)無いの?」と突っ込まれたりしているのも関連させたいのだと思われる。
 この二人が過去の自分たちを眺め、ウソホントの議論だけでなく、その当時どのように見えたのか、見られていたのかといった感想が入る場面もある。つまりこの作品は彼らが過去の自分たちを一歩引いて観ていたように、彼らと同じ視点ではなくさらに一歩引いて眺めてみなさいということだったのではなかろうか。
 そこがどこか素直に感情移入させず、感動しきれないものの、元ネタのブログというものがどのようなもので、どのような場所にあるのかというところを考えさせたかったのではなかろうかと。これが多くの真実味のある情報が行き交うネットに関する見方ってことなのではなかろうかと。ネット社会におけるひとつの情報の最先端ではあるが、その事実や真実はどのようなもので、どのように発信され、そんなものに我々はどのように接し、どのように受け止めるのかと。そんなメッセージと受け取れなくもない。
 
 妻の病や死という事実を受け止められず、嘘をつくことで保っていたと言った話が入ったりもする。そこに死んだ者をすぐにネタに、出しにすることを不謹慎であるといった雰囲気や、夫である親であることへの責任云々と絡めたりしている。
 この作品は情報の前後はあれど、何かしら疑問や課題となったことがどこかしらで補おうとされている。防衛線を常に築いている。誤解の無きようにと、括弧で説明が付け足しされていくようにだ。それが何とも見難いのである。


〇最後に
 「とりあえずみんなと会えてよかった」というメモで、「よかった」を☓して「よい」としてるところは何とも突き刺さった。


2015年5月29日金曜日

インシテミル 7日間のデス・ゲーム(2010)

インシテミル[DVD]


~アウト~ 

〇はじめに 
 サスペンスとして成立させる気・・・ZERO~ 

〇こんな話 
 穴があったら・・・

 要は興味が勝つか、恐怖が勝つかってな話になるのかな。いやならんのだけど・・・

〇PORE(HOLE)
 ある人物が異質すぎるだろと。目立つ行為しすぎ。犯人が最初からわかりきっている状況で如何にその思考を左右させ、払拭してくれるのかと楽しみに鑑賞していたらあらビックリ。

 この手の作品が流行りはじめ、私の偏見であるが犯人の目ぼしの付け方がある。
・ 一番最初の被害者
・ 一番最初に疑われる者
・ 執拗に主人公にアプローチしてくる者(逆も)
・ 主人公に一番最初に出会っている者
まぁあとは唯一の生存者とか他にもあるけれども、この作品で当てはまるのはこれくらいか。

 これを意識したのかしなかったのかはわからないが、この作品はすごい。全く疑わせない。犯人は私だよと、語りかけてくる。
・・・キャストとして綾瀬はるかは失敗だろう。あっ、言っちゃった。ま~いいか。記念作品だかなんだかで、仕方がないっちゃ仕方がないのだろうが、んなこと気にしなかったんだろうな。要は内輪映画か。

 推理ゲームのルールにより、どんどん排除されていく私の偏見犯人候補者たち。どこに疑心暗鬼の要素があったのかと、こちらが疑心暗鬼になる。あ~、それが狙いだったのか。今、我々は一体何を鑑賞しているんだと。映画館で観ていたのならば、そこが暗鬼館です、ってか。それより暗記パンください。
 最初の被害者は一翼担っていたわけだが、死亡が確認されてはいさようなら。
 次にその犯人として疑われた者は、探偵と犯人にボーナスが付与されたことから除外される。いや、犯人なんだけど・・・
 探偵カップルは死亡フラグ全開だし、基本的に過去に傷を負っている「女」を主張してくる輩も100%死ぬ。陰キャラもテキトウにフェードアウトが常套句。
 そうすると自然と主人公の周りに形成されてくる関係性があるわけで、それを最後にドカンと崩壊させるところがおもしろいわけであるが・・・・なかなか築かれない。ってか最後まで築かれない。
 犯人とかもうどうでもよく、この作品が何でこんなにひどく作られたのかと、そちらの犯人が気になって仕方が無い。

 そもそもゲームの説明によりすぐに思い付く、侵されるであろう安全性の演出を犯人でやってしまっているのが何よりもイタい。痛い痛い痛い痛い痛い。
 10時以降外出禁止。部屋に鍵が無い。ガードが警備。武器の差し替え。
これは全員がルールを守り且つ、警備に穴が無い場合にのみ成立し得るもので、明らかにそれを満たしてない以上、鑑賞者に簡単にその穴を気付かせてしまうことに、逆に気付かなかったのかと問いたい。

 そして最後も見事だ。多彩な武器(一番強くても銃程度であるが・・・いやいや殺傷能力は十分に示しているわけで・・・)を用意されていた部屋から脱出してきた者に対して、関係者が1人で対処しているという、何とも危機管理の行き届いていないシステム。こんな企業が、ここまでの心理実験をできるのか。ただの営利目的の所業だからいくらでも杜撰で良いのか。そうだよな、実験の成立や安全性は完備される必要が無いわけだし。そこで事件が起こっても儲けもんなのか。社員すらモルモットであると、
・・・ん?これはあれか。真実よりも利益を優先する報道関係者たちや、最近流行りのブラック企業と呼ばれるものをディスっているのか


〇余談 
 全体的に少々(どころではない)乱暴な流れな気はするが、人間の心理(いや真理か)というものは、極限状態になれば正常にはたらかないもの(と聞くので)なので・・・ 

・ロボットの移動できる場所を把握しないのはなぜ?? 
 →してましたね、一応。巡回経路や順序、時間。 そしてなぜか片方にしかついていない目。全方位型にしなかったのはなぜなのかと。目に注目させたかったのでしょう。そして見つかれば隔離と言われているだけで、見つからなければ良いと。穴があるようにはわざとしていた。

・死体安置や犯人隔離において、武器を全て隔離しないのはなぜ?? 
 →事件が起きる前提になるからかな(いや、起きる前提にしたかったわけだが)。まぁいくらでも隠せるしな。 

・部屋のカタチ、全容図が目のカタチしてるってことで、視聴者(数)云々と掛けてたんでしょ?? 
 →いいえ、あれは目のカタチではありません。犯人(首謀者)が女であることを示していたカタチなのです。
 先ほどのロボットのシステムに穴があると。このゲームには穴があると。つまりこのゲームの首謀者にもa・・・・・言いたかっただけです。

〇最後に
 この手の作品を、フラグとかを気にして鑑賞してしまう人には是非、「ザ・フィースト」を観てほしいな。でもこの作品は観なくていいかな。



〇おまけ 
 けだるそうな石原さとみたまんねぇ~

























 ではでは・・・。

プリデスティネーション(2013)

字幕翻訳:長澤達也

~フタナリパラドックス~ 

〇はじめに 
 それぞれの人物のつながりを描いていくのが非常にうまいと感じる。しかしそのつながりを演出する流れが何とも退屈だったりするのである。 
 そしてこれはループに陥っている様を楽しむ作品であり、どこから始まって、どこが終わりなのかという議論を持ち出すと、あっちゃこっちゃすることだろう。

〇想起する作品 
 「トライアングル」(2009) 

〇こんな話 
 「人は1人で生きていけるのか」
というテーマの究極系。

〇宿命 
― 運命は変えられる ―
― 運命には逆らえない ―

 タイムマシンの完成や、時間というものが何なのかということがはっきりしてからでないとこの答えは出ないのかもしれない。しかしこの哲学をする上で、1つだけ明確なことがある。運命を変えられるのか、変えられないのかという議論が成立しうるのは、この作品にも言葉として登場するが、終点(終着点)が定められていてこそなのだ。つまり確定された未来の存在。自分はこの時間にこんな状況でこんな存在であると確定している事項だ。現在に生きる我々にはこの確定事項が事細かに見えない。将来のビジョンを持っているということとはまた少し違うので注意されたい。

 この「運命は変えられるのか?」という哲学は、現在からの視点で未来が変えられるのか、という議論になる。しかしこれは未来が確定しないために議論の余地がない。故にこれを、現在という確定事項がある中で、過去に戻り、過去を変えることができるのか、という議論に据え変えることで落ち着けるのである。

〇時間 
 日本(だけではない)は年功序列型社会だ。年上は重んじろと。年寄りは大事にしろと。いつからか先輩やら後輩やらと年代を意識し始める。ざっくり言えば、上の者には逆らうなといったことだ。この思考はいったいどこから来るのであろうか。
・・・とここで考える。時間とは過去から未来へと流れるものであるとし、運命は変えられないものとして定義したらと。時間とは縦社会なのではないかと。未来の下に現在、過去というものが入る。というより時間と言うものをそのようにしか認識、理解できていないのだと言った方が良いのかもしれない。時間というものに関する認識及び理解の仕方が人間関係に影響していると。 

〇疑念 
―双頭の蛇― 

 観終わった後、どうもしっくり来ないのである。全てが繋がったということは納得しているのだが・・・ 
 バーでジョンとジョンが会うわけなのだが、この二人がどうしても繋がりにくいのである。別の者として観てしまうのである。おそらくジェーンとジョン、ジョンとボマーという二つの繋がりが衝撃的すぎるからだろうと勝手に解釈している。バーでの会話において二人の共通項を見出していくのはさすがであった。しかし彼らの接点はこれだけで、決定的なものに欠けるのである。いや、これから同じ道を辿っていくだろうジョンの暗示としてはこれがむしろベストなのか。 

 二人のジョンが主軸であり、ジョンが(バーテン)ジョンへ向け、(バーテン)ジョンがボマーへ向け、未来が開けた(確定した)ことがこの映画の決着である。 

「赤子 ― ジェーン ― ジョン ― (バーテン)ジョン ― ボマー」 

 この繋がりをもっと同格に扱ってほしかった。全部が繋がるインパクトはすごい。しかしそこに優劣がどうしもついてしまう。それは致し方の無いことなのかもしれない。観る者の主観が入るからだ。もう少しどうにかならなかったものか。 

「女 ― 女(ふたなり) ― 男(転換初期)男(火傷及び整形) ― 男(障害者)」 

 女と男、そして正義と悪という二人を結びつける衝撃。そこの間が容姿の変化なのである。その変化における繋がりとして、顔という言葉がキーワードとして持ち出されていた。それを含め、それぞれの人物をつなげる、会話に散りばめられているジョークがポイントになってくる。 
・お袋が見ても俺だとわからない 
・ボマーだと思われるぞ 
・son of the bitch (完全に男という対象で見られている) 
さらに、
 火傷を負ってからの目覚めと出産後の目覚めであったり、
 両者互いにタバコを吸い始めたり、
 互いの口調や声のトーンを意識させたり、
 赤子を奪った犯人について「あなたと私のような細身」と体格についてまで共通項を見出している。

 いやむしろ容姿の変化こそが、顔(表情)の変化こそが一番に我々が意識してしまうところであり、タイムトラベルを絡め移動する者の視点で思考させることで、性別及び善悪を際立たせ、調整が図られているのか。
 おそらくは作品の理解においてそれがネックになっている。我々の視点はジョンとバーテンジョンである。この生き残った二人にばかり目を向けてしまうと、この作品は終点に辿りつくことなく終わる。終点が見えた(見通せた)ところで終わってしまうのである。しかし実際は終点に辿りついている。運命が確定したところが終点なのである。ボマーの死が終点なのである。全て同一人物であるからだ。正確には生と死が繋がった瞬間か。彼が、彼女がどのように生まれ、どんな人生を歩み、どのような死を迎えるのかという。
 原作はバーテン男が終点であった。映画ではボマーという未来が付け足されている。これがつながりをおもしろくもし、おもしろくなくもしているように感じられる。 

 途中から過去の自分へのメッセージを吹き込むことから、メッセージを聴いているようになったのは何とも秀逸だった。 

〇余談 
-- 自分の尾を追う蛇 --
 輪廻の蛇というのが、自分を自分で追いかけるというより、自分の中に自分を入れるということを意味しているととってもいいのだろうか。要は自慰を超える自慰だ。 
「NOT セックス YES 自慰」 

〇最後に
うむ、ソフトが出たら再度鑑賞しよう。

2015年5月27日水曜日

駆込み女と駆出し男(2015)

~雨垂れ石を穿つ~  

〇はじめに 
 ダメだこりゃ。じょごに心惹かれ正常に心理がはたらかない。あ~、そうとも泣いたさ、笑ったさ。俺だったら絶対に駆込ませないね。その前に俺のところに駆込んで来ないね。 


〇こんな話 
 駆込み女と駆出し男の物語。  


〇じょご 
 このキャラクターどっかで観たことあるんだけど思い出せない。

 訛りがあり、寡黙というか舌足らずというか。男勝りで家事全般こなせ?頼りがいあるが、勉学に疎くどこかあどけない。そのあどけなさからくる、ものに興味を持った際のあの人の顔を覗き込む様ときたらも~たまらん。

 それだけじゃないんですは。羨望、不安や心配、きょどったり、きょとんとしたり、貌が様々に変化する。睨みを利かす感じもねぇ~、あたしゃもう虜だよ。そこに勤勉さ、ひたむきさ。優しさや強さも兼ね備えている。駆出したくなるね。
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 なんだろ、猫が近いのかな? 獲物を捉えるときの俊敏性が、甘えてくるときにはまるで感じられないあの様。そして何よりこちらを伺ってくるあの目、貌。なんであんなに愛くるしさを振りまけるんだよ。
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 そのあどけなさも寺に籠り、変化するのだが何だ、また違う魅力を放ってくるではないか。武道、作法(所作)を覚え、言葉づかいも何と流暢なことか。付き従う者だった女が、男を導いている。冷たい口調やドスの利いた声もど真ん中よ。でも無邪気な笑顔を観せてきたりするわけで・・・・・辛い。

 夫が武田真治なのだが、おいこの野郎てめえ、と最初に観せておいてからの、最後かしこまった姿が彼だからこそ何とも潔くかっこよく感じ、信次郎が心配になる感じを見事に演出している。たまんねぇな~おい。 

 大泉洋もさすがだったね。でもある場面だけは許さない。いや羨む。


〇雨垂れ石を穿つ
 はじめに、雨滴が垂れ落ちる2つの穴からだんだんと画が引いていき、より多くの穴を映し出すようになる。その後別の場面にて逆の順で映し出す場面が挿みこまれている。 この穴は男と女のことだったのか。結婚している男女が離婚を決意することで、見えてくるもの。自分の信念を貫いてきた人生を交えることが結婚でありそれが離婚するとなると・・・てな感じなのか。 

 実は2つの穴になる場面はじょごとお吟の場面であった。この2人のことだったんですね。そもそも穴という時点で女性を連想すべきなのだろうか。あと他にどんな意味が・・・ 

 
 この画は男尊女卑な世界における女性の微力さと掛けているのだろう。しかし雨垂れが石を穿つかのように、ひたむきな彼女たちの思いだったり努力だったりには力があると。寺に駆込む覚悟と言った方が良いのか。

 そしてその覚悟が大きな力であると証明する1つの手段として時の流れがあり、東慶寺での2年間の禁欲生活が当たる。その生活によって変わらぬものと変わるものを夫と妻との両方で演出していたりする。癒えていく傷、復讐心、夫への愛・・・夫婦はそれぞれどのような結末を迎えたのか。さらに人の心は時の流れではないのだよと大審問会。う~む、心を打たれる。


〇駆込み女と駆出し男
―じょごと信次郎の出会いについて―
なぜ信次郎はじょごとお吟を追いかけたのか??

 常にメモを取れるように備えており、根底には戯作者としてのネタ集めがあるのだが、駆込む女たちを信次郎があそこまでに追ったのはなぜなのか。


 ひとつに、自分の姿を見て逃げられたからではなかろうか。信次郎が最初追われる者として描かれているところと関係しているのでは。逃げる信次郎を見て大勢が追いかけていくわけで。逃げる者がいるならば追いかけたくなるのが心理。

 もう少し言えば逃げた理由を聴くため。自らは追手ではないわけで逃げられる理由が無い。そして目的地は同じ東慶寺だったわけで。なぜ私を見て逃げるのかと。

 さらに深読みするならば、追手ではないと誤解を解くため。追いかけたというよりは、誤解を解くために引き留めようとした程度だったのだろう。

・・・と勝手に考えてみたが、まぁ聞き取りの際にメモを頻りに取る彼が映し出されるので、ネタ集めが一番の理由であろう。「東慶寺=駆込み寺」であると知っているし、二人を駆込み人という認識もしていた。興味で近づいたら勘違いされたと。自分を見て逃げられたというよりは、先に信次郎が追いかけはじめたような気もするし。

・・・と言いつつさらにさらに深読みするならば、じょごを駆込ませてしまった夫と、駆込ませまいとした信次郎。その二人が最後じょごを惹きとめようとするわけで・・・

 信次郎とじょごとで左右の顔の傷、そして医者と患者というつながりを作りたかったという下心もあったでしょう(多分)。それにどちらもこの場面では駆込み人なんですよね。それが駆出し男へと・・・

 駆出し男へとなるために、舌足らずなじょごが饒舌な信次郎を言い負かすといった逆転劇があるわけで・・・



 逆からも考えてみるか。

 じょごの目線であるが、お吟との出会いにおいて、お吟の姿を見て、襲われた話を聴かされ、メリケンサックを渡されで、自分たちを追ってくる者がいたらどう思うのか。追手だと思うこと必至だろう。まぁ誤解であるわけだが、そこをフォローする演出としておそらく信次郎の源兵衛という名前に対する偏見や思い込みが用いられている。名前から勝手に男と推測していたことだ。限定された事項で創り上げられるイメージ。おせんと鯵売りのところもそうだ。

 この作品はちょこちょこした事象があらゆるところでつながりを見せていくわけで、それゆえの誤解というかニアミスというか、ドラマ部分が活きてくる、いや失礼、活かしているのだろう。


・・・とまぁいろいろ書いてしまったが、最初のじょごとお吟二人の駆込みのシーンは、最後の田の中勘助が寺へゆうを奪い返しに行った際に、じょごが東慶寺に助けに駆け込んでいくシーンと掛かっている。最初は制止しようとし殴られ、最後は背中を見送るカタチとなっている。

 信次郎は強いジャーナリズムを持ちあわせており、興味のあることはすぐにメモを取ったり、聞き込みをしようとしている。じょごの治療や、じょごと重蔵に関する取材に現地まで赴いたり、ゆうとの出会いの際はメモだけでなく話しかけもしていた。じょごが馬琴先生と会ったと話はじめた時はがっつきすぎ、源兵衛に制止されたりもしている。じょごの顔の傷の定期診断、経過観察(ここでの戸田恵梨香の貌が堪んねえんですばい)、お吟の診断の際の代診に関するため口。ざっくり言ってしまえば彼は自分の目で見たものしか、確かめたものしか信じない。それが最後につながるわけだ。はじめはじょごを取材対象として認識し、駆込み中に引き止めようとするまでの興味を持ち、最後はじょごと相思相愛を確認し信じたからこそ送り出すカタチとなっている。ここに至るまでの二人の関係性の変化が何ともおもしろく、最後は舌足らずな彼女が、医師としても戯作者としても十二分に実力を証明した饒舌な彼を言い負かすまでになっている。と勝手に結論付けている。



・ちょい補足説明的な 
 追いかけた理由があるにせよ無いにせよ、この場面に関して疑問を感じることで、どんな効果があったのだろうかとまたもや勝手に考えてみる。
 

 私は最後の場面と掛かっていると繋げたわけだが、なぜ信次郎の行動に違いが現れたのかというところに着目し、二人の関係性の変化に目を向けることになる。そしてその変化は何故にもたらされたのかと考えると、人との出会いであり、関わりであり、時の流れなのである。そんなことに想いをめぐらしていくと、それぞれの人物の関連性が見えてきたりする。

 信次郎は自分の見たものを信じると勝手に決め付けたわけだが、それを考慮すると目の病を患っている馬琴先生とつながったりする。彼を批判する精神を持ち合わせており且つ人にそれを言われると腹が立つという擁護の気持ちもあったりするわけで。そして何より二人はじょごから好かれることになるのである。

 そして先ほども書いたが、駆込ませまいとした信次郎と駆込ませてしまった重蔵。さらに重蔵を見ても、離縁を受け入れ夫として改心した様が、受け入れず暴走した田の中勘助と対照的なのである。田の中勘助の事件はお種の過去と関連付けており、じょごにつながる。じょごはお吟さんを看病するわけで、夫を思う気持ちの対比だったり、馬琴先生(八犬伝)というつながりがあり・・・

 信次郎の祖先が東慶寺に駆込んだ者だった云々というのも劇中の人物のつながりを意識させるためだろう。
 

 2人の関係性を中心に据え、それぞれの人物の関連性や変化を眺めることになり、物語に込められている様々な思いに勝手に浸ることができる。理由や動機を求めることが、この作品にハマってしまうこととなる。そんな見方をしてもおもしろいのではなかろうか。


〇余談
 はちみつ浣腸のシーンで、明らかに画に合わない笑みを浮かべている戸田恵梨香が目についた。某動画投稿サイトにおいて、戸田さんがツボに入ってしまったシーンがあったとコメントされていて、はちみつという単語が漏れていたのでそれだったのだろう。ガチ笑いっぽかったんですよね。



〇最後に 
 日本はこういった作品にもっと力を入れた方が良いと思う。上から下まで。日本と言う国がどんな国なのかということを、海外ではなく日本の人々に知らせていくべきだと思う。
 べったべった、だんだん。

2015年5月24日日曜日

リピーテッド(2014)

字幕翻訳:加藤リツ子


~スリーピーダッタ~ 

〇はじめに 
 午後のロードショーにどうぞ。

〇想起する作品 
 「メメント」(2000) 
 「ロスト・アイズ」(2010)

〇騙される心理
 最初に、ほんとにはじめに、はじまりのはじまりに、1つの真相への既定路線が出来上がる。それが結局この作品の全てであったわけだが、この既定路線を払拭させようとする努力は感じられた。

 断片的な記憶を足がかりに謎解きが開始されるわけだが、記憶の喪失と補填(改竄)を絡ませており、容疑者2名をうまく行ったり来たりさせようとする。犯人のビジュアル(髪型)を映し出し、確定したと思われるも、記憶の置き換えで解消しようとしたり、頬に傷がある人物が犯人だと思わせる演出。そして名前だ。断片的な記憶により曖昧な容姿と、1つ確定している名前を結びつけることが鍵だったわけだ。だが容疑者が増えていかない。そして犯人が男であると確定させてしまっているのも難点だろう。いや、精液が採取されていないというところがそれの解消につながっていたのか・・・

 そもそもだ。最初にベンに「あなたは?」と言っている時点であやしいわけで。それを踏まえ10何年間?そんな生活が続いていて、一番に彼女の記憶を良いように操れたのは誰だったのかと考えてしまえば、もう一人しかいないわけで・・・

記憶に関して、
 ・20代前半
 ・結婚した年
 ・息子の生年月日
 ・記憶喪失のきっかけとなる事故の日
といった事項に関して前後関係をもっと絡めていけば、より思考をぐちゃぐちゃにできたのではないだろうか。ここが曖昧だったように思う(いや、曖昧で良いんだけど・・・)。そしてネタばらしにおいて、なぜベンの顔を彼女は判別できなかったのかという疑問が湧く。ベンとの結婚後に記憶を失う事故を起こして、ベンとの出会いの前に記憶が遡ることになっているわけだが。ベンも事故で顔が変わったとか、火傷だかで包帯ぐるぐるネタとかにした方がおもしろいのではなかろうか。
・・・正直中盤までスリーピーだったので、私がただ見落としているだけであり、ちゃんと順序立てられていたらすみません。

〇瞳 
 せっかくニコールキッドマンの綺麗な青い瞳を映し出すのに、それが何ら関係してこないのがもったいない。原題の「BEFORE I GO TO SLEEP」というのも特に活きてこない。最後の息子の件を、我々に託してくれても良かったのではないか。息子を思い出したとして眠りにつき、次の朝息子を目にする彼女の画で終わらせる。それで彼女の表情に、瞳に真実が託されることにならないか。
 
 いやいやこの瞳を映し出したのは「百聞は一見にしかず」というところなのかもしれない。名前と容姿の一致いうところに掛かっていたのか。ある者の名前を聴いて誰を思い浮かべるのか。
 ある事柄を聴いてイメージするものが、両者異なる前提であるにも関わらず、確認する必要の無い事象であると判断し、話し合いをはじめる、進める。痛みや悲しみの共感における屁理屈と一緒だ。お前にわかるわけあるかと。言葉で説明の難しい現象を、共感(つまり言語などの何かしらの代替物を使って表現した共通理解)というもので補う人間のコミュニケーション。省くわけだ、段階を。効率よくコミュニケーションを行うために。相手に何かしらを説明するためには、共通の認識を形成する必要があるわけで。その土台というか段階を経るのを、言葉やものに頼っているわけで。「痛い」という表現でどのような痛みを想起するのかと。叩かれた、刺された・・・といろいろある中でどれなのかと。さらには「胸が締めつけられるような」「痛み」といった表現の場合、より???となるわけで。
 要は、実際は事細かに設定できる事象を、ある程度幅を持つ表現に言い換えることで、対象との共通項を探り、それを足がかりにコミュニケーションを図る。という訳のわからない表現に落ち着くわけだが。
・・・「百聞は一見にしかず」

〇最後に
 この手のネタはもう出尽くしている感じが否めない。それをどう新しく観せるのかというところが課題となってくるのだろう。この作品はまぁ、そうでもなかった。はじめにでも書いたが、午後のロードショーでウけるのではないだろうか。

神さまの言うとおり(2014)

神さまの言うとおり[DVD]


~しりとり~ 

〇はじめに 
 かませ犬感がまるで足らない。いや、かませ犬にすらなっていない感がひたすらに足らない。それぞれの学校における勝者が一同に会した際、つわものっぷりを漂わせながら、何ら能力の提示をすることなく、特に掘り下げることなく死んでいく。ゲームすらさせてもらえず死ぬ輩もいた。これから仲間になるのか、キーパーソンになるのかと考える暇すら与えない。その鬼畜っぷりが原作はたまらなかったのだが・・・ 
 なんだろう、わざわざフラグをしっかり立てなくてよかったのだが。 

〇こんな話
 学校で皆で遊びます。

〇お願い
 山崎紘菜さん、もう少し露出をお願いします。服が切れる位置をですね、もう少し上めでお願いします。主人公が鈴を隠す時に上の服か、スカートを使っても良かったと思います。主人公が強引に服を脱げとか言って、きょどるシーンを入れても良かったと思います。茶髪のくせに白い下着を履いているギャップや、敢えてそのイメージ通りに黒だの紫だので、色気を出しても良かったと思います。服が無いなら、男が貸せば良いでしょうがぁ。ねずみ着せたって良いでしょうがぁ(着てたっけ??)。もったいないな~。浴衣がよく似合うから、浴衣を着せてくれても良かったな~。最後の花火のシーンなんてそれでムード満天になるやないか~い。アイスをせっかく気にさせてるんだから、何勝手に盛り上がっちゃってんのpgrとかネタにしても良いじゃないですか。まぁ浴衣着る件が必要になってくるんですがね。皆さんでお着替えしましょうとか、テキトウに入れりゃ良いじゃないですか。お着替えシーンも入れられて一石二鳥じゃないですか。何かのゲームでその職業だか役職のキャラクターになりきるとかさ~、知らんけど。

 続編を匂わす件はエロいですね。続編があるのならば、是非とも復活して頑張っていただきたいです。応援しています。

 神木君は◎

〇最後に
 しりとりと掛けて、映画全体で尻撮りをしていけば、断然良くなったと思う。



〇おまけ






・・・ではでは。

2015年5月22日金曜日

エイプリルフールズ(2015)



~もりもり~ 

〇はじめに 
 わかりました。認知するし、籍も入れます。それに大きくなくても大丈夫です。 
・・・な~んて。さぁ~て、芋けんぴでも食べるかな~(遠い目)。 その前に買ってこなきゃか~(涙)。

〇こんな話 
 戸田恵梨香がベッドでニュースを観ながら芋けんぴを食べて、男に電話して相手にされないからと彼のいるレストランに乗り込んで暴走します。あと見栄をを張ります。お腹も張ってます。 
・・・お前はどこ(だけ)を観てたの??

〇群像劇 
 まぁ~よくもここまでそれぞれの物語を絡めて事を勝手に大きくしたもんだよ。そしてその大きくなったものをまたもやそれぞれの物語を絡めながら収束させていく。見事なり。 
 情報の散りばめ方がうまいですね。「あぁ~、はいはいはい」と。小出し小出しの情報が人情に絡んでるんですよね。それゆえ無意識にでも覚えておくべき情報として刻み込まれるんでしょうかね。そしてその情報や行動が優しさや思いへとつながっていく、結びついていくと。話としてとても見やすかった。

〇もぐ(り)もぐ(り)
 戸田さんは食べるシーンをよく組み込んでくるな。「駆込み女と駆出し男」でもありましたね。他の作品ではどうなのかよくわかりませんが。この作品はふんだんに盛り込んでくるわけで。画にしやすいんですかね。なんかボリボリというかポリポリというか・・・モグモグする感じだったり、飲み込む感じ、口をすぼめる感じだったりがそそるんですよね。観ていて気持ちが良くなる。
・・・そういえば、じゃがりこのCMやってたんだっけか。
 タオルの件も好きですよ。自虐、コンプレックスだったりするんですかね・・・??
 
〇最後に
 なんなんだよ、この戸田恵梨香の魅力は!?
 この人の魅力にひたすらに心情を左右されて、私は作品自体を楽しめていたのだろうか。いやそれも作品の一部ではあろう。ここでかわいいだの綺麗だの女優を取り上げたりする私が言っても何の説得力も無いだろうが、なんか違う気がするんですよね。なんかモヤモヤ、ぐちゃぐちゃするんですよ。捉え方が作品の域を出てしまっている気がする。んなもん知るかよと。人の勝手だろと。そうだな、でもそんな気持ちの解消のためにも少し距離を置こう。も、もう当分観ないぞ、戸田恵梨香が出演している作品は。・・・「予告犯」まで。
・・・その前に「駆込み女と駆出し男」を上げねば。


2015年5月21日木曜日

明烏(2015)



~立つ鳥跡を濁さず~ 

〇はじめに 
 鑑賞者が感じ取ってしまっている、いや敢えて感じ取らされているだろう先の読めている、見えている話のラインに準えて、ここまで笑いをとれるのはさすが。まぁ勝手にツボっていただけなのかもしれないが。 

〇こんな話
 ある男の借金返済を懸けた一大スペクタクル。

〇本気と書いてマジ
 返済期限とサプライズパーティの時間の合致や、どこかよそよそしい店長、アオイ、ノリオ。そんなところからオチは見えてきてしまう。5万円の件も最後ありますし。でもそこはまるで重要じゃない。ただそのつかまされている情報を基に、どこまで本気でどこまでふざけているのか線引きを曖昧にされ、ひたすらに流れを楽しめれば良い。
・・・その中で最後、思惑に無かった意図していない人物がいるとわかるわけだが、こいつ終始ふざけてたってことかよと。

 そんな中で引っかかったのが、最初の借金返済を妄想し浮かれるナオキをひたすらに映し出すところだ。そのときは正直くどく白けていた。わざとらしさというか恥ずかしさみたいなものを感じたからだ。その後劇中ひたすらにネタが展開され、パターン化された件が何度も繰り返されたりする。そのあたりから、なかなかお金を確認しない馬鹿さ加減だったのか、ただの落差の演出なのだろうくらいに思っていた。しかしまぁある人物がナオキに対して指摘するわけです。そこに掛っていたのねと。説得力を持たせるためだったのかなと。

 そしてどの登場人物のキャラも終始ぶれないのである。容姿、役職の変化を見せた者も最後の最後までツッコミ担当だった。茶番だったわけだが、その茶番と知らされてもぶれないキャラを見せられるとまたおもしろいという不思議。リアルなのかやらせなのかという境界を曖昧にする役割でもあるわけで、教訓じみたことにもつながっているのか。
 店長のかっこいいこと言ってるんだけど、ひたすらに立ったり座ったりで落ち着かない感じがまたなんとも。父親の謎の北の国からへのこだわりとかね。ほんとどこまで本気なの?ふざけてるの??

〇余談
城田優はこれが素ですか??

〇最後に
いや~、笑った。エンディングも何ともすっきりさっぱりしていたのがまた良かった。終わったの??と。考えがまとまりきらないというか、考える必要が無いと言うか。この方がすぐ話題に出しやすいだろうしな。おもしろかった。

2015年5月20日水曜日

風邪(2013)

風邪 ふうじゃ[DVD]


~母子~

〇はじめに 
 ちょ、この作品音質が悪いのか、声質が悪いのか言葉が聞き取りづらいのだが、小西さんの。それが悪いのではなく逆に彼女の魅力を高めており、それはそれで堪らないのだが、聴きとろうと音量を上げると時折ビックリすることになるので、注意するように。 あと時折深田恭子の声に似てる。 

〇こんな話 
 風邪(ふうじゃ)ワクチンをめぐる物語。 

〇母と子 
 桜子は離婚した夫と親権争いをしている。息子は心臓疾患を患っており、他の病気との合併症を心配。特に風邪との。慣れないながら有機栽培で野菜を育てており、自らの手で息子を治そうとしている。それほどまでに息子のことを想っている。 
 紀久生を看護することになったのは偶然ではなく仕組まれてのことで、お金のため、仕事(正社員)に復帰するため、インサイダー取引?に一役買わされていた。彼女の行動は全て、息子を想ってのことであるが、統合失調症の気がある。 
 母親である。 

 紀久生は風邪ワクチンという万能薬を開発した科学者で、あらゆる(数人)人物から狙われることになる。ウィルスを仕込まれ病に犯され、自らに風邪ワクチンを使用する、いや使用されることとなる。 
 臨床試験に母親自らが名乗り出、風邪ワクチンを接種し、その副作用によりおかしくなっていた過去を持つ。そしておかしくなった母親は交通事故に遭い死亡している。父親を同じような経緯で亡くしているらしく、母子家庭である彼は死した母親を大変慕っていた(被験者名乗り出からもわかるように逆も然り)。 母親の愛に飢えているのか、桜子のことを女というより、母親として見ているような節がある。最初の死体のBGMが流れると母親回想モードに入る。 
 息子である。 

 最後のダンスは踊らされていたということなのだろうか。自らの意思で幸せのために踊っていると思っていた。最初の同級生のデュエットの誘いを断る彼女の意思を観せるのも意図してか。風邪ワクチンをめぐる陰謀に踊らされた者たち。日村母子、そして鮎川母子。それぞれの母子をダブらせている。紀久生が桜子の息子の部屋で遊んでいたりするのも、息子であることや、母親の存在の大きさを示すためだ。そして風邪ワクチンを打たれた者は自らの意思ではなく打たれている。両方息子だ。母親の方はというと息子のために自らの意思でワクチンの被験者に名乗り出、インサイダー取引に加担している。 
 紀久生とその母親が踊っていたはずが、相手が桜子に変わっている。マネキンを紀久生だと思い込みダンスを踊る母親が描かれていた。では桜子を母親だと見ているのは誰だったのかと。紀久生である。風邪ワクチンをめぐる陰謀に翻弄されていた二人という暗示と、母親の顔を確かに認識できなくなった紀久生という二つの意味があったのではなかろうか。桜子は息子のために手を汚しもした。しかしそんな息子が自分を母親だと認識しないのである。いくら想いを募らせようがだ。彼女に生きる意味は残されているのかと。残酷である。 

 万能薬ができた日にゃぁ、多くの製薬会社がアボン。究極医者なんていらなくなると。そしてその万能薬の権利を持つ者が世界を牛耳ることになると。ほとんどのものが無価値になりますわな。柄下明演じる一ノ瀬という医者の狂乱っぷりは見事だろう。精魂を注ぎ込んで長年取り組んできた研究全てを否定される産物を目の当たりにしたら。さらには将来を嘱望されたというプライドの高さもある人物。ボロボロですわ。 
 世に出してはいけないという理由が紀久生と暗躍する彼らとで違うところもおもしろいところなのか。自らの過去を踏まえ、副作用のある薬は世に出せない。副作用があろうと世に出ればいずれは立場が危うくなる。金のため、思想のため、息子(幸せ)のためとそれぞれの思惑があり、風邪ワクチンに迫る者たち。彼らの末路は如何に。 

〇最後に 
 正直よくわからん、というのが率直な感想。しかし雰囲気はとても私好みである。

2015年5月17日日曜日

悼む人(2015)



~性と生と死~

〇こんな話 
 全国各地を歩き回り、その地で死んだ他人を勝手に想像し悼む者のお話。 
・・・ととってしまえばそれまでで。まぁどう理解しようと、どう感じようと勝手なわけだが。 

〇性 
 石田ゆり子さん、いや奈儀倖世さん。私は、あなたに恋をしました。疲れた女性の貌の中に時折見せる戸田恵梨香のようなあどけなさ、かわいらしさ。そして吉瀬美智子や米倉涼子を彷彿させるかっこよさ。そんな表情の変化は何だ。引き込まれる。歩き方や佇まい、仕草が、そして彼女の声、発音や発声が、私に纏わりつく。劇中、彼女を独占したかった、彼女の中に自分という存在を残したかった男たちの気持ちがひしひしと伝わってくるようだった。主人公の想いを、死者から生者へと少なからず変化させたこともだ。それほどの魅力をひたすらに放っていた。これを狙っての彼女の演技だとしたら脱帽だ。すばらしい。 
 石田ゆり子で調べたら、「もののけ姫」のサンの声をやっている人ではないか。そういえばジブリで一番によく観てしまう作品が「もののけ姫」だ。知らず知らずの内に私は虜だったわけか・・・。やられた。
・・・何て言うんですかね、自らの過去を語りだすところがまた良いんですわ。語り口調が何とも特徴的で。声がですね、引っかかるというか。音の後に声が来るというか、声を置いてるというか・・・、もう訳分からんな。伝わるといいな~、観てほしいな~、この感じを味わってほしいな~。

〇生 
 2人の愛し合うということを、セックスと結びつけたことはどうだったのだろう。家柄、権力、地位のために赤子を堕ろせという者たち。未成年でありながら援助交際に奔る若者の存在。愛しているはずの者を傷つけてしまう、愛という表現を暴力でしかできないDV。男と女の間には愛があるのに、いや愛が故になぜかうまくいかない関係を、死者を悼むものと、死者に付き纏わられるものとの対比で迫ったのか。

 生者を余所に、死者ばかりに囚われている男と、殺した男に付き纏わられる女。彼らはなんやかんやあって愛し合い、物理的・肉体的な道は違えど、精神的には同じ道を辿っていくだろう終わり方をする。彼女も悼む人となったのだ。愛とは執着であるとある男が言った。彼女に変化させられた主人公は、彼女(生者)との別れを惜しむようにも感じられた。

 愛とは男女間だけで育まれるものではない。家族、師弟、先輩後輩、友人・・・の間でも育まれる。死者を悼む人となり家族と離れる主人公と、父親と軋轢があり死者を商売道具として扱う記者との対比もある。

 まぁ結局のところ、生とはエゴである。自己満足、自己解釈、自己完結なものである。これらをどうやって得るのか、満たすのか。他者の存在が不可欠となる。そんなところでしょうかねぇ~ 


*補足
原作だと使者を悼む際の
「誰を愛し、誰に愛され、どんなことで人に感謝されたのか」
という要素に至る、限定された経緯が詳しく書かれており、そして悼んだ者たちも数多く存在する。より彼の悼むという行為の異質感も感じる。なぜ死んだのかという理由や経緯が深く掘り下げられず、彼は三点を勝手に見出し悼むのである。その中でそれぞれに異なる「愛」とは何なのかという答えや考えをめぐらすことがおもしろさか(異なるのは愛ではなく、愛の表現の仕方か?)。映画だとどうしても性と生の結びつきの方を強く感じる。先ほど挙げた「愛」の表現が際立ちを感じるのである。

〇余談
 「紙の月」を観た時、私は宮沢りえにピンと来なかった。宮沢りえに入り込めないと、あの堕ちていく女を観ても何ら面白みは無かったのだろうと解釈した。そして「悼む人」を観終わった今思う。石田ゆり子がもし、「紙の月」の主演をしていたらと・・・。

〇最後に
 過去に深い傷を負い、それを生きることの強さに変える。いや、ただ弱さを隠しているに過ぎないのかもしれない。いやいや、弱さを受け入れてこその強さなのか。
 私は、誰を愛し、誰に愛され、どんなことで人に感謝されたのだろうか。そんなことを考えながら生きていると、ほぼ確実に損得勘定につながってしまうという。そして他人に対して疑心暗鬼になったりと。どの辺で区切りをつけるのかってところなんですよね。悼む人がどう観えるのかというところにつながるか。新興宗教に見えたり、でも自分を悼んでくれる者を望んでいるようになったり。価値観というかその人自身、時とともに変化していくもので・・・
・・・まぁだから区切り、というか割り切りが大事で。まぁどう思おうが感じようが人それぞれだから良いのかと言ってしまえばそれまでで。
・・・もう訳わからん、終わろう。

2015年5月16日土曜日

アンリミテッド(2014)

アンリミテッド[DVD]


~足~

〇はじめに 
 見どころは人間ってこんなに軽く動けるのかよ、というところか(動画投稿サイトでこの手の動画をよく閲覧している方には物足りないそうで)。

 この辺をもっと活かせれば良かったのに・・・。何と言うか全体的に起伏が無い。飛んだり跳ねたり人間は動いているのに、なかなか話が動いていかない。ついてこない。練習と実戦で何かしら動きに変化をつけても良かったのではないか。いや変化はあったのか。生身の身体のみに頼るのと武装するのとかが。  

〇想起する作品 
「プレミアムラッシュ」(2012) 

〇こんな話 
 自転車男とパルクール女がごっつんこ。そこからはじまる〇〇ストーリー。 

〇生身 
 人間生身でいくらでもできる。 

 フリーランニングをひたすらに観せつけてくるわけだが、それを経てラヴシーンを観せられても何もピンと来ない。物足りない。こういった行為が関係性の変化や軋轢を生むのは理解できる。しかしあんなに画面いっぱいに飛んで跳ねてを繰り返す者たちが、抱き合ってキスしていたら事後。うーむ。もっとぐにゃぐにゃやってもいいんでね~のけ。ただどんな肉体かを観せたかっただけなのか。結果にコミットしますと。 

 まぁ兄妹がおり、妹を好きになったけど彼氏がいましたとする構図はよくあり、何とも興味をそそるものなのだが、何とも物足りない。妹は十分にかわいいし、過去や背景が彼女をより引き立たせてはいるのだが、またもやう~む。 

 彼女を追いかけていた男が、最後の逃走場面で先導する画になってるのが、最大の見せ場となっているのか??

 あと兄貴がかっこいいんだか、かっこ悪いんだか訳わからん。


〇最後に 
 自転車を降り、自分の足で走り(歩き)、最後彼女と二人で車に乗る。彼の頼みとなる足が変化している。 

 という主人公の歩んだ道、流れにはいったい何の意味があったのか。そんなことを考えつつ、「足」のつく慣用句を想い浮かべながら鑑賞するのがこの作品の楽しみ方か。足を洗うって表現は使われてたしな。英語でなんて言ってるか知らんが。もっと「足」という表現を散りばめられなかったのかな。足手まといってなのもあったか。

〇おまけ(マリー・アヴゲロプロス)
 個人的にアップよりも身体全体が映ってるときの方がかわいいかなと。身体をひねる仕草がちょこちょこありまして、その感じが何かそそります。








近キョリ恋愛(2014)

近キョリ恋愛[DVD]

そうだ、教師になろう 


〇はじめに 
 男性教諭による不祥事が絶えない(表に出てくることが多くなった)今日、この作品にどう向き合えば良いのか。 要は、バれなきゃいい、愛があれば良いって話よ。そしてイケメンor美女に限ると。 
・・・そんなの気にしててどうすんだよ。もっと生徒に親身になれよ。周りがどう言おうが関係ねえんだよ。はい、逮捕~、懲戒免職~が待っています。その後の人生に何が残るのか。
 この作品の場合、生徒からの誘惑ではなく教師からのアプローチだろ。自分に気のある女生徒は軽くあしらっといて。そもそも同棲している教師がいるという設定自体からあやしく感じてしまうという。

〇こんな話

 男性教師と女生徒(女子高生)がイチャラブします。

〇感情
 彼女が感情を表現する仕草がいくつかあるわけだが、これをもっとどうにでもできただろと。
 終始同じ仕草を用い、はっきりと映し出す意味がわからない。彼女の感情の変化をせっかくに示せる場所であるにも関わらず、そこに変化を出してこない。なぜか感情を言葉でストレートに伝える方向へと変化していく。新しい仕草や、いつもの仕草に戸惑ったり、自分で制止する様だって、何でもやりようあると思うのだけれども・・・
 ひとつひとつの仕草が何を意味しているのかと説明をされてからは、ただのわかりやすい単純娘に成り下がる。今までその行動に気付いてやれなかった中で、それに気付いてやれる男の存在が際立つのはわかる。しかしそれに気付かれてなぜこの女は恥じらいを見せたり、ばれないようにと隠そうとする思考に陥らないのか。自分の感情がだだ漏れになってるんだぞ?。気付いてくれた、気付いてほしいという喜びなのかもしれない。しかし今までに感じたことの無い代物だったんだろ。戸惑いや迷いをだな~。いやそこに純情・純粋だったり、恋愛に関して不器用なかわいらしさというところにつなげたいのか。いや、それこそが恋なんだ、愛なんんだ、ってことなのか。
 でもなんだ、最初から先生に陥落してるんだよ彼女。最初から着地点が決まってしまっている。いやまぁそれが楽しむところなんだろうけど・・・


〇堕ち
 NTRものを好む人間がこの映画を観ればひたすらに物足らない。テストにおける補習の有無を決める点数のノルマ。これを囲いが言うような、わざとやっているということにつなげればいい。
「補習が終わっちゃうの?」
というような、快楽に堕ちる人間性のように描き出せばいい。他者の介入により引き離されるよりも、自ら先生を望むようになる彼女の感情を全然うまく表現できるだろう。堕ちるというところをもっと強調してほしい。

 卑猥な単語をひたすらに口ずさんでしまうとか入れたっていいじゃないか。せめて恋愛に関する単語。そして英語で綴られる文章を読むとか。愛読書を何だ、ダメだ小説わからん。無知さを恥じる。机の下の時だって、英語で書けばいいじゃないか。その男に染まっていく様を観せるべきところだろ。男が自分からキスというところの意味はまぁ良かったんでねえの。

 恋に関する本を読んで、男と女がどんな道を進むかということを調べないはずがない。遺伝子工学の本を読んでそれに触れていないはずがない。メンデル云々で性的要素は十分に達せられてるとするのか。二重螺旋構造が同じ画に映るところもあるし?? 胸や心における変化というより、身体の変化をだな~。
「頭で感じるんじゃない、身体で感じるんだ!!」

 嘘を嫌っているというストレートな櫻井先生と、引き離すために廻りくどい策にでる保護者代わりの・・・誰だっけ?。その対比も何だかな~。そこから携帯電話でロミジュリの構図でしょ。

 常に保健室に人がいないのはあれか。養護教諭が不足してるっていうメッセージなのか??

 水川あさみさん、せめてあなたがもっと観せてほしい。大人のアレやコレや。


〇最後に
 不満をブツブツ書いてしまった。これが男目線の限界なのだろうか。
 世界はこの二人で成り立っていたら、という前提があったらもっとおもしろく観れるのだろうな。外野のノイズがひたすらに気になる。ひねくれた人間に育ってしまったらそりゃもう、こんな話は無いと真っ向から否定してしまう。
 感情の変化が都合良すぎるんだよ。二人の衝突を、クールイングリッシュポエマーマンと、難解恋愛方程式解読数学馬鹿女という構図にして、意思伝達の手段に縛りを設ければもっとはっちゃけられるじゃん。そんな二人がお互いの色に染まっていく。その溶け合いがおもしろいのではないのか。うわああああああああああ、わからなあああああああああああい。
・・・やはりダメなのか。私にこのジャンルは。
・・・何でお前この作品観たの?と。 水川あさみが観たかったんだよ!!
・・・疲れた、ではでは。


悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...