2014年6月27日金曜日

名探偵コナン 時計じかけの摩天楼(1997)

名探偵コナン 時計じかけの摩天楼[DVD]


~天才 > 努力家~

〇はじめに
 劇場版第1作目 

〇想起する作品
 「ダイ・ハード3」(1995)

〇こんな話 
 コナンがキューピー3分クッキングを見ながら、カップラーメンにお湯を注ぎ、カラータイマーの音が途切れるのを待つお話。

 キャッチコピーは「3分間、じっくり味わってやる!!」

〇こだわり 
 森谷貞治(帝二)は完璧主義者であり、自らの創造物において完全なシンメトリーにこだわっている。名前を貞治→帝二の左右対称なものに変えたことでそれを強調している。そのこだわりの強さの演出をもう少しこだわって欲しかった。貞治の「貞」という字を見ていただきたい。貝という上のところの少し気になる横棒。これがシンメトリーを害している。治という字。これはどう考えても左右対称ではない。何が言いたいのかというと、彼の病的とまでいう芸術へのこだわりを、より強く表現したいのならば、貞という字だけをシンメトリーを害する字とした方がよかったのではないだろうか。治(じ)は左右対称の字であるべきだった。例えば貞二→帝二に変えたとすればどうだろう。たったその一画だけでも気になっちゃう感じ。気持ち悪いくらいのこだわり。当に病的ではなかろうか。 
 名前というのは誰かしらが付けてくれるもので、自分ではどうしようもないものだから名前の設定に関してとやかく言うのは不毛か。いや、せっかく付けてもらった名前を変えるということですでに病的と言えるのか。 

〇赤と青 
 爆弾処理をする最後のシーン。映画という位置づけでコナンと蘭が死なないことは明白。そこにどう緊張感をもたらすのか。赤か青かの二者択一である。そして3分という時間。 

 工藤新一に青色というイメージを作って欲しかった。制服、タキシードなどなど衣服に青いイメージはあるものの、決定的にそれを印象付けるものはない。赤を切らせようとする犯人の意図と、その伏線は申し分ない。だからこそ対立する青色のイメージをもっと強調してほしかった。蘭と新一とを結ぶ運命の赤い糸に対しての、新一の死を連想するような青いイメージ。何かないものか・・・。だめだ、私には思いつかない。しかしこれができたら赤を切るか、青を切るかというところに、さらに3分という制限時間で緊張感が増さないだろうか。まあ結局メインとなるところが、新一と蘭のニヤニヤ事情だから、赤か青かのところに焦点を当てられればこれでいいのか。


〇ひとつの真実
 この二人ののろけ要素はどうでもいい。前の項目と関連して、最後のシーンから読み取れることを勝手に読み取っていく。この最後のシーンで明らかになる真実。
それは、
~ 天才は努力家を凌駕する ~
という事実だ。劇中でちょくちょく天才という語が強調されていることがいい証拠だ。 

 まず最初に描かれる建築家として名を馳せる森谷帝二という天才。そしてそれと相対するのが推理の天才である探偵江戸川コナン(工藤新一)。物語の都合上、最終的に [工藤新一 > 森谷帝二] となることは必然。建築家としては天才であっても、犯罪を組み立てていく過程、これを努力とする。そんな結晶である犯罪に対して(推理の)天才である工藤新一にはどう転んだところで勝てない。これはどうでもいいので次~。 

 問題は、角ドリルこと毛利蘭という存在。彼女は工藤新一の番いである。これが劇中必死に温めてきた工藤新一の推理を、クライマックスであっさりと上回るのだ。爆弾処理のために赤を切るか青を切るかという事象に関して、工藤新一は過去のあらゆる情報を収集し、選別することである真相に辿りつく。これを努力とする。番いの蘭はどのように行動したのかというと、ただの勘である。・・・されど勘と。切りたくなかったんだもん、との一言。は? まあ彼女は空手の達人であるため、危険を察知する能力に関しては人並みはずれたものがあることは確かである。相手の攻撃がどこから飛んでくるのか、そんな日常に身を置いているのだから、何かしらの生の欲求からくるであろう危険を回避する特殊能力が身についていてもおかしくはない。推理をする上で現場に赴くものの、そこまでに生死のやり取りは無い探偵と、死合にすら発展しかねない蘭の置かれている環境。つまりこの最後のシーンで生き残るために求められたのは、蘭という直感を持つ才能、つまり天才だったのだ。いかに推理の天才工藤新一であろうと、生か死かの状況で生き残る天才である蘭には勝てようはずもない。新一も蘭に対して、こいつには勝てねぇみたいにジェラシーを覚えているシーンがメインストリームの方では描かれているのではなかろうか。

 まとめますと、その各々の現場、分野における適材適所といった天才・才能が求められていると。さらには適材適所における適者生存で厳選されていく。大概の人が自分の所属分野で確実に勝てない存在がいるわけです。そんな中、あなたはどうするんですかと。負けるとわかっている戦いをするのか、負けられない戦いがあると意気込むのか、勝ちゃあいいと嗜好を凝らすのか・・・。

 いや、新一との愛の力が彼女を生かしたのか・・・。新一の助けがあって蘭は最後の究極の選択を迫れる。二人の絆が、愛が、爆弾を解除に導いたというような見方が多数であろう。それじゃつまらなくないかと。こんな少し皮肉な、ひねくれた見方をしてみたらどう見えるのだろうか、というただの提案である。 

〇疑念 
 一つ挙げてみる。 

 猫が入っていたかごの中の爆弾に、拾い手のおばあさんは気付かないものか? 

 まあかごの奥を覗かなければ気付かないだろう。たかだか数十センチの奥行きのロッカーに、貴重品等を忘れる人たちがいるという事実を目撃したことのある私はそう確信する。自分の物ですら確認を怠ってしまうのだ。他人の物だったらなおさら確認などしない。そこはまあいいとしよう。カウントの音は? ピッピッと音を鳴らしてカウントは為される。広場では周囲がうるさくて気にならないかもしれない。しかしおばあさんはタクシーに乗るのである。その中で音に気付かないものだろうか。おばあさんの耳が遠かったのかもしれない。だとしたら運転手さんが気付かないものだろうか・・・。 

 他にもご都合主義という矛盾点・疑問点は数多く挙げられるだろう。別にそれを悪いという気はない。サスペンス・ミステリーものにはついて回るもの、致し方ない。実際に事が起こったらそうなるかもしれないし、ならないかもしれない。何が言いたいのかというと、事が実際に起こった時にどのようなことが想定しうるのかということ。矛盾点・疑問点に関して、そんなこと無い無いと笑い飛ばすのは簡単である。しかしその矛盾点・疑問点が実際に生じる場合もありうる。そんなときに想定外としないように、そんな事象に関して軽視や無視、決めつけをするのではなく、取り上げて検証してみる必要がある。まずは気付くだけでもいい。そこに何かしらの考える余地を見出すことが、次につながるのである。そして議論に発展すればより映画に入り込めるではないか。
 推理の天才であるコナン君は、なぜ日常生活における想定外とも言える複雑な事件を解決できるのか。そして周りの者がなぜ真相に辿りつけるのか。彼の言動を参考に考えてみよう。「あっれれ~、おっかしいぞ~」とは彼のよくある発言。何かしらにおかしいと気付く、とともにそれを周りに気付かせる。まずはそんな気付き。まあこの場合はコナン君は一つの真相に辿りついていて、導かれる形となる。実際には常にコナン君のような道しるべがいるとは限らない。そんな時にどうするのかと。軽視や無視、決めつけという行為が様々な可能性を否定するという事を知り、起こり得る事態を想定できるようにすると、そんな前提というか考えを持っていろと。道しるべはいるとは限らないけれど、誰かしらはいるでしょと。そんな人たちと議論(報告・連絡・相談)してみてはと。 まあ思考実験も大事ですからね~、何でもかんでも人任せは駄目だと思いますし。決めつけはどうのといったけれど、他人と対峙する場合はスタンスというか自分の意思の方向性は定めておくべきだとは思っているわけで・・・。うまくまとまりそうにないから、これはまた別のところで議論できればいいな~、独りで・・・。

〇余談 
・スケボーの太陽電池 と 電車の爆弾 
・たばこに火をつける道具 と 起爆装置 
・蘭の執着する色 と コードの色 
などなど、事件に関して推理する上でのヒントがひたすらに散りばめられている。スケボー壊してソーラー電池式で日の高さ云々再確認とか。そんなとこさすがだなぁ~。 

 〇最後に
 劇場版名探偵コナンもちょくちょく上げていきます。おそらく共通するであろう項目は、いつもコナンがオープニングで口にする、「真実はいつも一つ」という言葉に則った、その映画で明らかにされるひとつの真実。皮肉めいている、ディスりすぎだと思われる方もいると思いますが、こう考えてみてはという一つの提案なのでお楽しみいただけると幸いです。何かしら疑問点・矛盾点も突っ込んでいければと思います。そしていずれ黒の組織の真相についてもここで勝手に暴きます。乞うご期待・・・。

2014年6月22日日曜日

グラバーズ(2011)

グラバーズ[DVD]

~エイリアンものへの皮肉~

〇こんな話
 ある島で繰り広げられるエイリアンとの奮闘喜劇

〇皮肉 
 いきなりネタバレになるのだが、この映画のエイリアンはアルコールに弱い。これが話の根幹であり、おもしろさのミソ・・・、いや、そこまでおもしろくはないかな。 職務怠慢や万年アルコール漬けな島民たちにより得られるエイリアンたちへの打開策。真面目な奴らだけだったら生き残れなかったわけで。救助隊だかが島にたどり着くまでに一日かかり、エイリアン襲来をその間凌がなければならない。そこで打開策となるのがパブでアルコールを飲みまくること。つまり酒盛り。島民にエイリアンの事実を知られないように隠密機動するものの・・・。酔ったら無駄にポジティブ・楽観的になったり、トイレ近くなったりいろいろ障害があるから、まあうまくいかない。シラフと酔ってる者の真面目とノリの言動の噛み合わせがうまくいきそうだったり、いかなそうだったりで、その辺もまたおもしろい・・・と思う。 

 普通のエイリアンものはこの映画のような正常な判断ができなくなるような行動はご法度、であるにも関わらず、この映画はそれを是とする。新しい。そして設定としてはある程度のアルコール度数が必要であり、エイリアンとの対峙などもってのほか。普通の判断・行動もできるかも危ういくらい。こういう設定という条件付けをするところが何か真面目で、無かったら無かったで指摘してしまうのだろうが(いや、気付かないかな)、そこがジャンルとして捻りきれていない感じも受ける。どうせなら、エイリアンの酒の好き嫌いがあっても良かった気がする。そこから描ける異種間ギャップがあったかもしれない。「贅沢だな」とか、「こんな不味いのが?」とか・・・。

〇余談 
 要望としては未成年を出してほしかった。子供が出てこないんだよな、この映画。島という限定的な条件で島離れとかが進んでいるのかもしれない、と思ってはみたところ、エイリアンに対してアルコール推奨映画だから出せなかったのだろう。この子供の問題を解決してくれたらもっとおもしろい作品になっていたと思う。

〇最後に
 「ザ・フィースト」というエイリアンもののテンプレというか、お決まりパターンを見事に切り捨てる作品があった。この映画もそれと同じようにエイリアンものの映画を皮肉った形となる。エイリアンとアルコールという結び付きそうもない、しかしマッチさせれば何か新しいものが創りだせそうな題材を扱ったところが見どころだった。かといってそこまでコメディに奔らない。もっとはっちゃけてくれて良かったように思う。吹っ切れなかったものか・・・。この手の映画を作ったことに意味があると吹っ切れるとするか。

2014年6月21日土曜日

光る眼(1995)

光る眼[DVD]



目は心を映す窓 

〇はじめに
 この映画は、子供は大人に人生を左右、操作、制限されているということへの皮肉なのだろうか。 

〇想起する作品
 「アンドロメダ病原体」
 「フラッシュフォワード」
 「ダークシティ」 

〇こんな話
 ある日村の人々が皆失神する。この同時多発失神により胎児に影響が出ると村の人たちは不安視するが、政府は出産をした家庭には資金援助をすると申し出る。そして同時多発出産。それにより生まれた子供たちが大人を操り始め、邪魔となる者たちを排除していく。感情が無いからこそできる残酷な所業の数々。それを共感することを覚えさせ、人間性を築いていこうとする。 はてさて・・・。

〇デビット(主人公的位置の子供で男) 
 子供たちは集団行動で男女ペアなのに、一人だけ一番後ろでぼっち。一人死産したな、そういえば。それが女だったのか。やはり一人だけ別行動を開始する。予想通り。男女ペアで完全、いや完結するシステムなのか。よかった、ちゃんと台詞でも回収された。 

〇生存・存続 
 大人は言う。共生、共存のために感情が鍵となると。 

 子供たちは言う。所詮この世は弱肉強食、支配する者とされる者の二者しかいない。その二者による共存・共生は支配により可能だと。 

 大人の言う感情が無いことによる生命の破滅の原因が明確化されていないが、考えるに感情が無いということは生死に対しての恐怖及びその他の感情が無いということになり、将来的に待ってるのは破滅だけだ、ということになるのだろうか。つまり、なぜ我々は生きているのだろうか、という問いに意味や価値を見いだせない。生存理由を見いだせないということは死んでいるも同じ。適応こそが生き残る道。生き残る方法を模索することが感情に起因するということか。だからこそ生存を可能とする。共存・共生を可能とする。
これは支配階級による独裁体制は長続きしない、ということからくるものなのだろうか。

〇目は心を映す窓 
 この目を見て人を操ると言うのは、人間ならではで、人間同士が相対する場合、人は人の目を見て話すことを重要視する。実際は目と目を合わすことに恥ずかしさや緊張があるため、常に見ているわけではないが、あなたに話を伝えている、あなたの話を聞いている、という意味でちょくちょく見なければならない(強制ではないが)。目(顔や体も)の向きは話を伝える、聞く対象への一つの根拠となる。 故に大人たちは子供たちの目を見てしまう。目が合うことが子供たちには操る上での必須条件であるので、思うつぼ。

〇余談 
 博士の吹替えの声がXファイルのスカリーのものなのだが・・・。途中明らかになるエイリアンの存在。ここで納得する。な~るほど、暗示してたわけねと勝手に解釈する。 

 能力の範囲をもっと明らかにしてほしかったというのもある。終盤は目を見なくても操っていたし、距離感遠かったし・・・。そもそも目が合うことが能力に左右するということでなかったかもしれない?

〇最後に
 心を読む方法があるのだから、遮る方法もある。ある男はそれにより子供たちを出し抜く。人間は普通であれば自分の心を隠すのに、ここまでの努力は必要としない。目的は様々だが嘘をつくことが可能だ。まだ進化の過程であるかもしれないが、人間は言語というものが発達した。これにより100%の相互理解は不可能となった。しかしそんなコミュニケーションから生まれる溝を埋めていくことが、人と人とのつながりを生む。大人たちの言う共生・共存につながる。そして争いを生むこともまた事実。なんというか、我々には選択する余地が与えられているのだ。承認・拒絶、平和・戦争・・・云々かんぬん。争いが無いに越したことはない。いつでもどこでも平和を求める。しかし様々な事象があってこそ、それぞれに関連してある事象に対し意味が生まれる、意味を見出すことができる。幸か不幸かはわからないが。

 心が読めないからこそおもしろい、人間という者は。
 

2014年6月18日水曜日

ゴーン・ベイビー・ゴーン (2007)

ゴーン・ベイビー・ゴーン[DVD]


~真実と幸せ~

〇はじめに
ベン・アフレック、あなたは監督をやりなさい。いきなり上から物を申すようですみません。しかし、それほどまでにこの映画はよくできており、鑑賞者に考えるテーマと余地を与えます。あなたならどうしますか? ひたすらに考えてくださいと。

〇こんな話
探偵業を生業とする二人が行方不明のアマンダという少女を探す。母親はヤク中であり、子育てを疎かにしており、娘への愛など感じられないという印象を受ける。いなくなったことで初めて分かった娘の大切さ、そう話が進んでいけばいいのだが・・・。誘拐事件の真相に辿りついた時、あなたが選択するものとは。

〇真実か幸せか 
この主人公の役柄もあってか誘拐事件に関して真実を追求、解明する方を選択する。日本のドラマ「相棒」シリーズの主人公:杉下右京もそうなのだが、刑事という役柄、仮に客観的に観て事件の関係者が、現在よりも不幸な境遇になるとわかっていても真実を優先する。被害者による裁きよりも法による裁きを是とする。同情という観点から例外をつくらない。これは義務なのか責任なのか、プライドなのか。決して曲げないものがある。一回信念を曲げてしまったら戻れないのだろう、例外がひたすらに生まれてしまうために。それこそご都合主義といわんばかりに。これを慈悲がないと観るのか。正しい選択とは何なのか。それは当事者にしかわからない。いや誰にもわからないのかもしれない。 
客観的に観て誘拐された少女の将来的な幸せを思うならば、この探偵のような行動は起こさないだろうと思うかもしれない。しかし、親は子供といるべきだという考えや、幼いながらも彼女に選択権があるという考えも存在する。それを考慮すると劇中の事件は、彼女ではなく周りが勝手に判断した結果起きたものである、ととることもできる。彼女が幼い少女という設定もあるのだが、生きていく上で何が幸せかを決める基準なんてものは、客観的と偽った個人の主観的なものでしかない。そして本人の気持ちを最大限に考慮したいという探偵の判断も、探偵個人の意見で、ただの探偵の主観だ。何が言いたいのかというと、結局のところ生きていくということは選択であり、誰に左右されようとも最終的には個人にゆだねられる(べきである)。そんな生を子供だからといって誰が左右していいものかと。今のご時世、義務や権利といったルールが存在する。人間が他者に対して最低限行わなければならない、そして自分を抑制しなければならない責任とでも言おうか。そのルールを最低限守ってこそ得られる選択権。その権利を得たとき、あなたが取る選択とは何だろうか。

〇責任 
探偵は自分の罪を背負って生きていく、という風なことが語られていた。これが、選択・判断した者の手の届く内はいい。しかし、そうも言ってられない。四六時中対象を監視しているわけにはいかないし・・・。最後の演出は責任からなのだろうか。これからを思うと・・・というような終わり方でして。でもこれが幸せでもあるんだ、ととれなくもない。もうなんでしょう、観ていてやるせない。 
結局この事件は関係者の自分勝手の応酬でしかなく、然るべき対処と、然るべき道を選んだときに初めて言い訳できる的な話ともとれる。探偵の選択は自分の罪悪感を軽くするための最終防衛ラインだったわけで。そういう見方をしてしまうと、探偵の選択は少女のためというより自己擁護に見えてしまい、無慈悲と感じられてしまうだろう。

〇最後に 
人間には確実にしがらみが伴う。これは切っては切れないもので、これがやっかい。何かしらを選択する際、個人の判断がプラスにもマイナスにも、どこまで周囲に影響するのか考慮しなければならない、というのが常ではなかろうか。さらには集団における規則という制約もある。それらが積み重なることで、どんどん選択できる範囲が狭くなる。しかしその選択とは結局は個人の判断に委ねられる。しがらみや制約を気にしないなら気にしないでもいいし、どちらかを立てようとして、どちらかが立たなくなるという状況も生じえる。
この映画の少女の幸せを思うがために、法を犯し誘拐するという選択。誘拐した彼らに罪の意識が無いわけではない。全ては少女を思うがためのものだが、その選択はどうしても法に触れる。少女が判断できない事象に関して、周りが判断せざるをえなかっただけだ。将来的な事を考えてではあるが、行動せねば今ある命に関わっていたかもしれない。そして探偵の真実の追求により問題として露呈し、提起するに至る。これまで探偵と誘拐関係者の選択についての議論をしてきたが、ここで言いたいのは、探偵の選択がこの事件に関しての問題を浮き彫りにしたという事実。結果的にではあるが、露呈しなかった方が問題であった。少女の幸せを思うのは必然であろう。しかし、いかに母親が育児放棄していようと、法に触れることは見逃せない。少女の幸せをとるか、法律という規則をとるか、という問題なわけだが、実際は単純にこの言葉だけで示した二者を秤にかけるわけではない。さきほど言ったしがらみが関係してくる。まあそれはそれはぐちゃぐちゃなわけで。だからこそヒトによって選択する行動が異なり、賛否両論存在する。生きる上で、いずれは訪れるであろう答えを出さねばならない苦渋の選択。どんな気持ちで迎えるのだろうか。

2014年6月17日火曜日

処刑惑星(2009)

処刑惑星[DVD]



~適者生存~

〇はじめに 
 チャールズ・ダーウィン曰く 
「力の強い種や賢い種でなく、変化に順応できる種が生き残る」
・・・だそうです。 

〇こんな話 
 ある惑星に船が墜落。捕虜が逃亡。確保するぞ、オオオオオオ!!!
・・・ってな話

  〇騙される心理
 ホモ・サピエンス視点で映画を観てしまっていた私は途中衝撃を受けた。ヘルメットをはずしたらあらビックリ。お前誰(何人)だよ?・・・と。なぜ私はホモ・サピエンス視点で映画を観てしまっていたのか、考えていきたい。

 まずヘルメットを被っているという点。そこから疑うべきだった。はじめの状況把握の際、ヘルメットはその惑星の環境に慣れるまでは外さないことをオススメする、みたいなことを言っており、外さない事に関しては理にかなっている。

 次に言語を操るという点。船がある惑星に墜落し、捕虜が逃げたという状況・事情は彼らの会話から仕入れることになる。それはつまり、彼らが言語を操るという情報も同時に仕入れられるということになる。

 そして一番大きいであろう理由が、人型で二足歩行。
人型で二足歩行の生物が会話をするという状況や画を見慣れ過ぎている。そんな中上記の点が絡んでくると、ヒトという種ではない、という疑うべき事象を見事に排除される。 


〇シミュラクラ現象 (前項と関連して)
 人間は三つの点があることで、それを人の顔として認識しようとする。心霊写真等でよく議論されるやつ。この映画で私が言いたいことはそれに近くて、前項に書いたポイントを踏まえると、人は同じヒトという種と認識してしまうのではないだろうか、ということ。よく幽霊を見たどうのこうのといった話題では、足の有無について話題にならないだろうか。足はあった、歩いていたなど。影があったかどうかとかもあるか。人型、二足歩行(足の有無)といった点が、幽霊であったか、人であったかの判断の基準になっていないだろうか。それらが満たされた上で、認識できる何かしらの言語を話していたら、あなたはどう判断するだろうか。 

 ヒトはある程度の情報を勝手に補填・補充してしまう。勝手に結び付けてしまう。それは習慣や経験に由来する。いや先天的なものが大きいか。生活する上でいちいち気にしていたらキリがない事象に、そうであるという決めつけが行われる。当たり前という言葉が妥当か。ヒトはヒトと認識できる顔を有し、(人型で)二足歩行し、言語を操る、という事実が当たり前になっている。情報の補填・補充はこれの逆をうまくついてくるのである。この映画の場合はヘルメットでヒトと認識できる顔が見えない。ヘルメットを被っている時点で、顔の存在は確かであるのでより結び付きやすくなってはいるが。そこで仮にヒトであるか、という疑問が湧きあがったとしても、人型で二足歩行をし、言語を操っているという十分すぎる情報に、多少の補填・補充が行われる。つまりその生物はヒトである、という見解に達してしまう。

当たり前
  :「ヒト = 顔、人型、二足歩行、言語を操る」
情報の補填・補充
  :「人型、二足歩行、言語を操る生物 → ヒト」

 いろいろ書いたが、地球という規模で、ヒトが頂点捕食者であるという自尊やうぬぼれといったことも要因の一つとして考えられるかもしれない。これはおそらくほとんどのヒトに浸透している大前提で、それに付け加え様々な要素が絡みあい、ある見解に勝手に達してしまう。騙される要素に対して、前提から疑ってかかる必要があるのか否か、疑うべき点はどこにあるのか。探らなければならない。

〇適者生存 
 人間が言語を話したのか?知能高いな、と驚く場面が存在する。「猿の惑星」か・・・と。彼ら(侵略者)の場合、宇宙を統治するために様々な種を滅ぼしてるわけで、滅ぼすにあたって事前調査は行われていないのだろうか、と疑問が湧く。どんな(能力を有する)種なのかという。主義としては、迎合すれば奴隷として生かされ、逆らえば待ってるのは滅亡と。「アバター」という映画を観なさい。侵略のためにちゃんと原住民の中に入って調査しているでしょう。そんなの関係なくなりますけど。調査など必要無いくらいに圧倒的力を有しているのでしょうか。調査?いらねえだろ、アボンみたいな。万全な対策を講ずることを怠るようになった文明なわけで、そんな種は滅びへと向かうだけでしょう。いや、むしろアバウトに生きてる方がいいのか。どうなのでしょう・・・。救助艇の到着予定時刻に関してのやり取りがある、どうせ遅れると。こんなところからも、何かしら杜撰な種なんだなと感じることができると思う。・・・ってヒトと同じやないかい。

〇最後に 
 この映画はそれぞれの種の一個体をつまんできて、それぞれの価値観を述べさせ、宇宙と言う広い世界でどんな情勢になっているのかを把握させる。鑑賞者はそれぞれの理解に達する事だろう。映画の楽しみ方としてそれはそれで良いのだが、注意しなければならないのは、この世界観は彼ら個人の価値観で構成されたものであって、種の総意ではないということ。別の1個体をつまんでくれば、全く別の情勢に見えるかもしれないわけで・・・。そんな個体間での演出に頼らざるをえないのは、予算の都合が大きいと思われるが、下手に世界観を広げられるよりは全然おもしろい。

 私の書き方で不満を感じているととられるかもしれないが、決してそうではない。この世界には映画の最初にも述べられるが、適者生存の法則が存在する。そこに合理性や効率化が確実に存在するとは限らない。疑う余地があるからこそ、進化という道が開けるわけで・・・。そんな見地に立たせてくれる、そんな映画と理解してほしい。

2014年6月15日日曜日

イエスマン "YES"は人生のパスワード(2008)

イエスマン[DVD]


~宗教? カルト?~

 〇はじめに
 上司がノーマンという名前は笑うところなのか? 

〇こんな話
 ひたすらにNOという返事か、いつも押し切られて巻き込まれてきた男。要は付き合いの悪い男。そして運のない男。ある日過去の友人からイエスマンという宗教だかのセミナーに誘われる。常にYESと答えよと。そこから人生が大きく変わり始める。はてさて・・・。

・ざっくりと
 実はカルト、その危険性とは?

 〇性格
 引きこもりがちで仕事以外にやることといえば、映画鑑賞。しかもレンタルショップで借りて家で。しかし、友人には恵まれており、面倒見のいい人ばかり。ひたすらに連絡を取ってくれる。

 彼は離婚をしてからおかしくなったらしい・・・。愛していた女性の喪失がもたらす虚無感。おそらく次に起こるであろうそれを恐れて、他人とはあまり深くかかわらないようにしていたのだろう。

〇宗教 
 このイエスマンという宗教とされるものは、下手すりゃというかすでになんだが、カルトにならざるをえない。全てにYESと答えることは人生における姿勢を示しているものではあるが、それを誤った解釈をするものもいるだろう。極論ではあるが、死んでくれ、殺してくれという問いをかけられたらYESと答えるのか。そして皆で死のうという教祖の問いには。そんな話では決してないのだが・・・。 

 主人公がテロリストと間違われる。全ての問いにYESと答えていただけで、いろんなスペックを持つに至り、彼のそんな素性を知り彼女に誤解されるところから関係がこじれ始める。全部が本心ではないととられてしまうのだ。しかし最後教祖の解説により、YESMANという解釈を誤っていたとわかる。心からYESと言えるようになるためのものだった。責任とかそんなところだろう。安請け合いするなと。自分の力や存在を自覚しろと。人との関係の中に自分の価値を見いだせと。全てにYESと答えるのは導入なのだ。今までであれば断っていた本来関わるはずの無かった世界。そんな世界に身を投じてみて開ける新たなる境地、見地。そこから導き出される価値観。それを経て心からYESと言えるようになる。それこそがYESMANのねらいだった。そんなねらいとは裏腹に、彼の場合はYESMANの真意に迫るのではなく、ただ能力だけが向上されていった形になる。 

〇効果 
 全ての問い、決断を迫られた時に対して、YESと答えることで人生が大きく変わる。そして幸せな人生を歩めると。これの効果があるとして、それはおそらく思いこみにある。俗に言うプラシーボ効果。人間の想像しうる事象現象は実現しうるというようなことも誰かが言っていた・・・。

 劇中ではYESという言葉が幸せへの起点になるという風に語られている。YESという言葉は、最初から無理だと決めつけるのではなく、自分ならばできるといったような前向きな姿勢に向けるがための助けの言葉であると受け取り、究極YESと言えば幸せに繋がるという解釈に陥る。

 負のスパイラルと逆の正のスパイラルに陥らせることが究極的に狙うところ・・・ではない。それだけではカルトになってしまう。まあ、スパイラルに関して少し掘り下げると、人間の描くイメージには正と負の二つがある。「GAMER」という映画のところにも書いたのだが、人間は負のイメージの方に囚われやすい。そしてそれは一度イメージしてしまうと払拭しにくい。何かしらの起点と失敗とを結びつけ負のイメージとする。その思い込みによる結び付きで失敗を繰り返すこととなるか、失敗するという負のイメージにより次の行動を起こせなくなる、というのが負のスパイラル。俗に言うジンクスというヤツ。 一時期流行ったマーフィーの法則というのもそれの類。

 負のスパイラルの逆をやれば良いじゃんということで、正のスパイラルについて考えてみよう。YESと答えることで、その間に何か不幸なことが起ころうともそこで完結させず、何か良いことがあればYESと答えたことと結びつける。YESと答えることで良いことを呼び寄せることができると感じ、次もYESと答える。これが正のスパイラル。因果の結びつきの楽観視とでも言おうか。YESと良かったことを無理矢理結び付けてしまうのだ。YESを起点にして、単純比較してみる。


・正のスパイラル 
[YES→悪いこと→何やかんや→悪いこと→良いこと・・・] → [YES―良いこと]  

・負のスパイラル 
[YES→良いこと→何やかんや→良いこと→悪いこと・・・] → [YES―悪いこと]  


 こんな風にアンダーラインで示した印象の深い・強いもの同士を、人間は勝手に抽出し結び付けてしまう。それを負の方向ではなく、正の方向に利用すると・・・。

 負のイメージによる失敗を恐れるようになってしまった環境をどう変えるのか。それがYESという言葉を唱えるだけで良いというのだからノらない手はない。しかしこのYESという言葉はただ言うだけならばいいのだが、実際問題、様々な反響・干渉を生む。そしてそれは段々と大きくなる。そこが面倒くさい。この映画ではそれをテロリストに間違われるほどのスペックを持ってしまうに至る、という風に表現していた。


〇最後に 
 YESの真意。全ての問いにYESというのは慣らしというかはじまりに過ぎない。真意はYESという返答によって生じる、今後の影響や経緯により積まれる経験から何かを悟り、心からYESと言えるようになること。

 最後の終わらせ方も一筋縄ではいかない。YESMANという誤った解釈を前面に披露してこの映画は終わる。主人公の最後の行動は、誰かしらを救うための一見善意からくるものに見える。しかし、YESMANという団体をいつでも都合の良いように利用できるというニュアンスの台詞を吐いて終わる。ここがYESMANという考え方を肯定しようとする上でネックになる。教祖の真意とはよそにそれを悪用しようとするものがいるということと、ほとんどの信者が誤って解釈し信仰しているということを暗示しているのだ。そこが宗教、カルトといったものの危険性の訴えにもなっているのだろう。コメディとして映画の最後は見事に笑わせてくれるのだが、鑑賞した方は笑ったまま終わってほしくはない。 

2014年6月13日金曜日

ゲノムハザード(2013)

ゲノムハザード[DVD]



~Who am I~ 

〇こんな話 
 主人公が「俺は何者なんだ?」ってなる話。ズバリ、あなたは科学者です。 

〇想起する作品 
 「ボーン・アイデンティティ」(2002)
 「クリムゾン・リバー2」(2004) 
 「ツーリスト」(2010)
・自覚のない能力が出現しはじめるのは「ボーン・アイデンティティ」のよう。 
・主人公を捉えに来る集団のタフさは、アンフェタミンを投与した「クリムゾン・リバー2」の宗教団体のよう。 
・記憶障害で自分が誰なのかわからない感じは「ツーリスト」のよう。 

〇キム・ヒョジン 
 ヒロインがいい。特に良かったのが、主人公が私は運転ができないと宣言してからの、マニュアル車運転常習者というのが露呈するシーン、からのそれを追って車の外から主人公を蔑むシーン。いや見下ろすシーン。とりあえずゾクッとしました。堪りません。私的見解ですが、そのシーンがこの映画のピークでした。 

〇騙される心理 
 二人分の記憶が一人の人間に入っているというところがポイント。 

 記憶の混同により、本人の言動自体が信用できないのだが、そんなことは鑑賞者にしてみたらわかるはずもない事実なので、主人公が見舞われている事態を、主人公が自分なりに理解していることをそのまま受け入れるしかない。境遇や背景を理解する上で、一番の頼みの綱となるのが、主人公を含め関係者たちにより小出しにされていく情報。行動だったり、心の声だったりあるが、やはり一番は台詞だろう。謎解きをする上で、積み上げていくべき情報を端から疑ってかかれというのは難しい。最初から仕込まれているのだが、言動と事実(事象・現象)が一致しない。二人の人格それぞれで関わっていた人物は違い、呼称を間違えている箇所があるなど。うまい観点を入れたなと。 

 具体的なシーンを挙げると、妻とされる人物が死んでいる時にある呼称で呼ぶのだが、その人物は死んでいるわけで死人に口なし。この場合その人物の声が聞こえないという理解をしてほしい。電話が鳴り、今ここで死んでいるはずの妻の声が聞こえてくると。死体の人物はどんな声なのか、電話の相手はどんな顔なのか、この時点では確認の仕様がないからなぁ~、こちらとしては。主人公による情報を当てにするしかない。まったく疑わなかった自分にあきれる。騙された・・・。

〇疑問 
 設定は科学者なのに、電子レンジ爆弾や、催涙ガスなど窮地に追い込まれた際に手際が良すぎないかと疑問に思う。確かに知識があれば、材料があるだけでそれらを作ることは可能であろう。しかし咄嗟に動けるかといえば、そううまくもいかない気がする。やはり経験や慣れが身体を動かすのであって、この人物は今までにも命の危険があるような世界に身を置いていたのかといえばそうでもない。「ボーン・アイデンティティ」のような元エージェントであれば納得はいくものの、これだと???の方が大きくなってしまう。いや待て、韓国だから従軍経験があるのか。それを考慮すればまだ納得はいくか・・・。 

 あと最終局面で車が行き交う中、主人公が疾走するシーンがある。そこで事故りそうになることで急停車する車の中の人の動きが皆無なのだが・・・、怖い。文句を言うとか、車から顔出すとかしてほしかった。

〇最後に 
 もっと大きな陰謀が絡んでほしくあった。ウィルスの研究が行き詰り始め、動物実験では満足のいかないという境遇で、人体実験への移行する覚悟が必要であったというのはわかる。そんな時に人を轢いてしまい、なんやかんやあり、これって人体実験のチャンスでは?という欲望にかられてしまう。そこからこの映画に繋がると。個人の勝手な判断・行動がここまで多くの人物を巻き込んでしまうという見方をすれば、大きな陰謀云々はそこまで気にはならないか。むしろ大きいも小さいも関係ないというか、そんな概念を持ってきてとやかく言うことが不毛か。全部自分の思い通り、予想通りの内容でもおもしろいとは限らないからな。この映画もこれからの映画の糧として、映画の比較の判断材料になるか。 

 すごい上からものを言ってしまった感が・・・。ここで少し自分を擁護したいと思う。私は0or1から何かを創り上げることが不得意である。だからこそ、創られたものに関してとやかく言うことで、その世界に対して期待や希望を示しているつもりだ。まあ詰まる所、才能への嫉妬なのである。

17歳(2013)

17歳[DVD]

~なぜ援助交際に奔るのか~ 

〇はじめに 
 日本でテーマとするならば、~なぜ援助交際をするのか?~ といったことになるのでしょうか。しかし、日本を舞台に制作された場合、評価されるかどうかは疑問である。 
以下敢えて援助交際として話を進める。 

 フランスという舞台と、フランス語という何か芸術性を感じてしまう雰囲気だからこそ観入ってしまった、といわれれば否定できない気がする。 

〇17歳 
 性に対して興味を持ち自慰行為にふける主人公。性交渉に対して何か淡い期待を持っており、性交渉をすれば何か違った世界が広がるのではないか、という希望的観測。 しかし、実際に行ってみたが想像していたものとは違った。得るものよりも失ったものの方が大きかったのかもしれない。初体験中に自分が自分を見つめるシーンがあり、それが過去の自分との決別を意味しているように思えた。もう戻れないよと。そこから彼女は援助交際に奔りはじめる。お金目的ではないという。何が望みなのか? 

 何度も援助交際を続ける中で、ある時相手男性を死なせてしまう。それが枷となり一時は援交をやめるに至るのだが・・・。 ラスト死なせてしまった男性の妻に合う。一緒に事後の部屋に行きそこで赦しを得る・・・多分。そして最後の「フッ」っという笑顔。おそらく彼女はまた同じことを繰り返していくのだろう。結局なぜ援助交際に奔るのかという理由は彼女にしかわからない。いや彼女にも正確にはわかってはいないのかもしれない。憶測になってしまうのだが、彼女にとって性交渉自体にはなんの意味もなく、何か満たされない気持ちをただ一時でも埋めてほしい、その方法として相手が私を必要としてくれるのがたまたま性交渉であった、というだけなのかもしれない。且つ性交渉により対価(お金)を得られる援助交際は、自分の価値を確かめるのにはうってつけであったと。自分の自分に対する価値判断と相手の自分に対する価値判断の比較。それが性交渉とお金であったのか・・・。 

〇最後に 
 クロエ・グレース・モレッツ主演の「HICK」という映画と同じものを感じる。年齢や性的描写は違えど、自分の思いと周りの思いとのギャップや、自分の理想と現実のギャップ、に思い悩む女心。複雑だな~。 これは答えを求める映画ではなく、その答えに苦しむ様と、我々に考える余地を与えてくれることを楽しむ映画。

スノーピアサー(2013)

スノーピアサー[DVD]

~列車とシステム~

〇はじめに
 キーワードとしてあるのが「進化論」「閉鎖生態系」。映画前後にでもこのワードを確認していただけると、この世界観をより楽しめるのではなかろうか。

 〇こんな話
 温暖化を打開すべく策を打ったのが仇となり、逆に寒冷化してしまった世界で繰り広げられる列車サバイバル。生き残った人間たちは列車の中で生活しており、その列車は車両ごとに施設が分けられ、先頭から最後尾までの乗組員の階級も決まっている。列車に乗り入れたときから乗組員の役割は決まっていたらしい。そんな現状を不満に思う者たち(列車の最後尾でひもじい思いをしている者たち)が、「革命じゃ~!」ってなるお話。

 役割が決まっているなどの設定から「es」という映画を想起。

〇循環 
 列車の中で水槽が出てきたあたりから気になりだしたのが、生態系の維持はどうなっているのかという疑問。しかし、そこに突っ込ませる間もなく説明が開始され、最後の最後でも進化論を説いてくるという・・・。この水槽の車両から、列車のシステムへはうまくつなげたと思う。 

 水は外部から摂取、あとの食料は列車内部で製造されている。プロテインバーは豊富な蛋白源である虫の大群から製造されており、それを知らずに口にしていたり・・・。 

 「名探偵コナン ベイカー街の亡霊」でも皮肉っていたが、汚れた政治家の子どもは汚れた政治家に、金儲けが目的の医者の息子は金儲けが目的の医者になると。まあ要は蛙の子は蛙ということなのだが。それと同様のことが、この列車の教育機関車両でも起こっている。そこでは見事に馬鹿が馬鹿を育成し、この列車のシステムを是とする環境を作り出している。下のものを蔑み、上のものを敬う。いつの世もどんな場所でも規模が変わるだけで、人間の性は変わらないのか・・・。ほとほとあきれる。そんな様子を見せられてしまうと革命を起こす側よりの目線で観ざるをえなくなる。こういった目線で観せることが、システムや設定をうまく印象付けてくれる。

〇定期イベント (複数年に一回の)
 暗闇での革命軍と傭兵部隊?との戦いの際「火を持って来い!!」との掛け声から始まるイベント。聖火リレーか!? ここは特におもろかった。年を定めてる割に定期イベント要素が薄いなと思っていたけれども・・・。閉鎖生態系の維持に必要不可欠であった度々起こる革命・反乱は定期的イベントであると、ここで暗示していたのだろうか。各国の人間がいることも示していたし。さらには事の起こりは2031年で、この戦いの最中に新年を迎えるから2032年になる。オリンピックの年だ。・・・違うか??

〇閉鎖生態系 
 持ち場・役割の個体数の厳格な維持が閉鎖生態系を循環させるのに必要不可欠。自然淘汰による環境調整が間に合わないから人為的・作為的に行うしかない。それを仰せつかっているのが、運転手と車掌の二人。運転手だけでは列車は走れないのだ。今となってはいない列車もあるが。 


〇疑問 
・列車を走らせる意味があるとして、なぜあんなに高速で走らせる必要があるのか? 
 前方の障害物を破壊するためか。劇中破壊していきますし。 私の提案としては線路を列車で埋め尽くして、中を人が移動するようにすればいい。どっかで雪崩起きたら終わるが。 

・防衛策が杜撰すぎやしないだろうか? 
 革命・反乱に対して脆弱すぎる警備システムと人員。監視カメラぐらいつけておくだろ普通。まあ、これは伏線でもあり、見事に解決してくれる。 

・線路のメンテは?
 これはまあいいや・・・。


〇最後に 
 運転手がいれば車掌さんもいる。この二者は列車の安全な運行には欠かせない存在だ。それを頭に入れておくべきだった。循環の項でも書いたが、革命を起こす側の目線で話を進められ見事に彼らを応援してしまっていたところ、頂点捕食者の掌の上だったというネタばれは見事に脱力だった。 

 最後の列車のシステムの説明で、列車である必要性は説かれている。運転手と車掌の二人一組。車両が分かれていること、さらには限られた空間での生存方法・調整などの理由による。が、それは列車ありきで、本来重要であるシステムありきではなくなっている。システムを列車とうまく結論付けるのではなく、話を盛り上げようと列車を取り扱った。その代償として世界観に多くの矛盾を生んでしまい、そちらが気になってしまう。SF的世界観を楽しみにしている方の評価は低いだろう。しかし、劇中における流れからの列車とシステムの結び付け方に関しては評価できると思う。

2014年6月12日木曜日

BOUND9(2011)

BOUND9[DVD]

~商業価値~ 

〇はじめに
アイデアはなかなかにおもしろかった。「ソウ」を手掛けた人たちがやってればと思うと・・・。宝の持ち腐れだぜ。 

〇こんな話
痛みを感じることで体内に生じる物質を取り出そうとする実験に、ある装置を取り付けらた男女が巻き込まれていく様子を描く。 

〇アイデア
アイデアとオチはなかなかによく練られていると感じた。しかし、それだけに内容に不満が残る展開となってしまっていた。以下参考までに。 

実験となっているのだが、オチとしては商売が成立している(っぽい)のでこれを実験というのは・・・どうなのだろう? 仮に実験だとしたら相当初期の実験でないとおかしい。主催者側の手に入れたい物質が正確に何なのかはわからないが、もっと効率の良い採取法があるはずだからだ。複数の男女をわざわざ誘拐して、自発的にやらせているのが謎。最終的に被験者が死ぬのだったら、ベッドにでも縛りつけて強制的にやらせればもっと効率は上がるはず。なんなら治験と称してバイトでも雇えばいいんだ。いくらでも集まるだろうに。そういう映画いっぱいあるし・・・。映画的にゲーム要素を盛り込みたいというのはわかるが、それならばその実験内容の鑑賞者が必要不可欠。商業価値を麻薬売買以外に、資産家たちにショーとしても観せるなど他のものにも見出すべき。

あとその物質を集める基準となる単位がパーセントってどうなんですかね? 生物学的なことはよくわからないので詳しくは言及できないが、誰かがわざわざ単位を変換してくれているということでしょ。そんな無駄なところに労力掛けてる割には、他のところがお粗末な奴らなんだよな。まあでも最後が100%という絵図の方がその目的に向かって頑張るとか、より被験者の意欲は湧くのかな。なんか変に親切だな、被験者にも映画の鑑賞者にも。 痛みとその物質の量とを具体的に結び付けさせないというのもねらいなのだろうか。被験者が容量を得てしまうと、この実験の目的とする部分(痛々しさ)を満たせなくなるからな。100%にならないと意味を為さない(効果が期待できない)とか、その物質を取り出せないとかいう理由もあるのかもしれない。

この組織は変な所に頭が回りすぎていて、違和感が半端ない。絶対にこの組織は財政的に破綻する。明らかに商売の手法を間違えている。商業価値を創り出すのはピカイチなのに、それに価値を見出せないとは・・・、もったいない。

〇商業価値 
最近の出来事であるが、客に対して女子高生がプロレス技をかけるというお店が摘発された。年齢とかの問題らしい・・・。詳しく何が法律に触れたのかというのは言われてなかったような気もするが。
まあ、何が言いたいのかというと、どこに商業価値を見出すのかということ。正直この摘発事件をニュースで聴いたとき、バカだなと思う反面、尊敬の念を抱いてしまったことは事実だ。普通そんなことを思いつくだろうか。JKとプロレスを結びつけることがあなたに可能だろうか。思いついたとしても実践しようとは思わないというのが普通だろうが・・・。
こういう商売を目にすると、おそらくほとんどの人が常識や性癖を疑うのだろう。そういった偏見が世界に蔓延しているからだ。そして非難することが自分とその世界を隔てることを簡単にするからだ。そんなことはさておき、何を隠そうこのお店のアイデアが素晴らしいのである。そこに需要があることを見抜き、商業として提供したことがすごいのである。まだまだ摘発されていないだけで、様々な種類のそういったお店があるのだろう。しかし、それは社会的に非難されるような内容でしかない、もっと別のところにその力を使ってはと思うかもしれないが、多くの需要を抱え、それを満たしていることもまた事実なのである。くだらない世の中だ。しかし、それがおもしろくもあるのである。

〇最後に 
どこに、何に、どのような、どれほどの価値を見出すのかは個人の自由である。しかしそれら全てが世間的に認められるわけではない。 なぜそうなるのかは時代や風土といったものによる影響が大きいだろう。芸術家たちの世界ならわかりやすいか。存命のころは評価されなくとも、死して評価される者がいる。世間一般で言ったら、過去には当たり前に世間に出まわっていたものが、将来的にはプレミア価値がつく・・・など。評価や需要というのは時代により異なるわけで、それをいかに見抜き供給するかが商売には問われる。さらに言うなれば、今という時間だけからではなく、過去という傾向から将来的なものを予見しなければならない。先見の明と言われる力か。そんな力が欲しいもんだ。

2014年6月10日火曜日

ブラインド・フィアー(2013)

ブラインド・フィアー[DVD]


~あっさりめ~

〇はじめに 
「パニック・ルーム」という映画の既視感を覚える。観ている最中にひたすらにこの既視感がちらつく。 宣伝にもこの映画の名前は出てきてるので、意識はしていたようだ。

〇こんな話 
戦場カメラマンとして活動していた女性が自爆攻撃に巻き込まれて失明し・・・、その後は彼氏(ライアン)とペントハウスで幸せな金持ち生活を送っていた。・・・このいきさつがまったくわからない。金の出所は?という疑問に駆られ、まあそこがこの映画のネックになるのだが・・・。 
ある日ライアンが強盗?仲間に殺されるところから物語は一変する。強盗が一旦は絵画の裏の金を発見し持ち去るもこれは本命ではなかった。2000万ドル相当のダイヤが目的であった。そんなの知らないと主人公は弁解するも通じず追い詰められていく・・・。

〇薄味 
私利私欲のための共闘・共謀は結びつきが弱く崩れやすい。それによる疑心暗鬼からの犯人たちと主人公の裏の読みあいは最後まで緊張感があっていいのだが、そこに付け込んでまで展開を打開しようという主人公の動機が見えにくい。犯人に対してダイヤの隠し場所としての心当たりをひたすらに羅列するだけでいいではないかと。そうしない理由として、仮に一つの答えを導き出すことができようともそれでは内容的に薄すぎる。・・・と感じてしまうから最後まで疑って観ていたのだが、その答えにたどり着く。わけわかめ。 おそらく犯人もその答えを知っていいたのだろう。すべてを見越してのすべての暴力的な行動だったわけか・・・。 
・・・と、ここで冷静にこの映画を分析してみる。まず、問題は主人公の目が視えないという事実と、以前の仕事が真実を写しだすべくカメラマンということ。私的意見ではあるが、カメラマンというのは真実の印象付けにより、観る者に対して何かしらを訴えかけるという職業。これらを踏まえると、あるメッセージが浮かび上がってくる。 あなたたちが今視た映画の内容だけでは真実にはたどり着けないと。 誰がこの映画の中だけに真実が有ると言ったと。 視えるものだけを重要視しすぎだと。 つまるところこの映画は描写不足・演出不足・登場人物の関係性薄など、わざとやっているのだと解釈する。これは皮肉エンドか・・・? 

〇背景 
登場人物および物語の背景が薄すぎてついていけない。というよりせっかく深める部分を作っているのになぜ放棄するのか。
妹:妊婦
妹夫:警察
犯人の職業
年越しイベント予定
・・・などなど。放棄というより、実際事件が起こってみれば当事者以外の関係性はこんなものか・・・。 しかし年越しで花火があるというところから、最後の銃撃戦に持っていくところはうまかった。失明からの聴覚特化は「デアデビル」に通ずるものがある。 
あと猫も・・・。最後は皮肉が効いててよかった。 

〇解釈 
彼女もライアンと共謀していたという話で、結果的にダイヤが残ったからよしとするのか、お金のことなどどうでもよく、愛する者の死を嘆いているのかその辺がよくわからない。絵画の中に札束を隠しておくなど、強盗に対しての防衛策が張られており、襲われるというある程度の予想はされている。主人公たちも覚悟の上だったことは確実。 最終局面で主人公はダイヤをビルの上からひとつずつ投げ捨てていく。これは執着がないということなのか、愛する者を亡くした悲しみからの犯人たちに対しての当てつけなのか、八つ当たりなのか、倍返しなのか(ここ笑うところです)。いろんなところで読めないものが多い。 

〇最後に 
全体的に既視感と薄味感が否めず、全体的な感想として正直そこまでおもしろいとは感じられなかった。

2014年6月8日日曜日

ナンバー23(2007)

ナンバー23[DVD]

~極度のブラコン~ 

 兄さん!!、なんでいつも僕(私)に纏わりつくの!? なんちって・・・、日本でしかウけないネタだ。 いやそもそもおもしろくないか・・・。

〇こんな話
 いろんなところに出てくる23という数字にとり憑かれ、翻弄される男の物語。歴史的事件、事故、著名人、神話などなどに幅広く登場する23。ある日気付く訳です。あれ、俺の周りに23多すぎじゃね?と。そこから勝手に謎解きを開始する。はてさて・・・。

〇数字 
 全てを23にこじつけすぎなんだよとイライラする。しかし、最後でわかるこじつけではなく真実だったのだと。記憶喪失の前に23を発見しては、自分の周りに創り出していたのですから。そりゃ辻褄が合いますは・・・。しかし、気になりだしたら止まらないという人間の心理をうまくついている気はする。最近妙に同じ時間に目が覚める、とか同じ時刻を目にするとか。最終的にわかることなのだが、主人公は現実と妄想の混同、妄想を現実にしてみたくなる欲求を抑えきれないわけで。どんな欲の塊だよ。そりゃ気になりだしたら止まりませんは。劇中の行動はまあ納得できる・・・。 

〇気がかり 
 23が最終到達点なのがわからん。23をどうすることもできるわけで・・・。 まあこの映画でいいたいのは23という数字の不思議ではなく、そんな不思議な数字に振り回される被害妄想野郎の強迫性障害について・・・としておこう。なんでもよかったんですよ。子供のときにありませんでしたか? 寝る前、いざ寝ようと思ったらトイレに行きたい気がする。大して出もしないのに行っとこうかな、という気持ちにとりつかれ寝られない。よし行っとこ、みたいな。一旦あることが気になりだすとそれが頭から離れなくなる。あとは家の鍵閉めたっけ?と不安になり仕方がなく時間に余裕があるようなら確認に戻る。他の事に気を取られない限り、家の鍵を閉めたかどうかが気になる。そしてそんな不安も忘れて家に帰ったらやっぱり閉まっている。確認行動といわれる一種の強迫性障害。 彼の場合は自分で仕掛けたトリックだったわけだが、23という数字が彼にとってその気になるところだった。

〇余談 
 オープニングのマヤ文明の終末論の日付と、劇中で言われる日付が違うのだが・・・12月23日が12月12日になってるが・・・ 

〇最後に 
 この映画は23というサスペンス要素だけでなく、性的な描写も多く含まれる。エロ(ス)とサスペンスはここまでに合うものかと思ってはみるものの、やはり23という数字が後を引きずる。組み立て方というか、要素の兼ね合い、混ぜ合いは絶妙な感じなだけにもったいない気がする。惜しい作品だ・・・。

エンダーのゲーム(2013)

エンダーのゲーム[DVD]

~訓練と実戦~ 

〇はじめに
 ロバート・A・ハインラインの「宇宙の戦士」がSF侵略ものの原点なんだと感じさせてくれる作品。映画だと「スターシップ・トゥルーパーズ」 

〇こんな話
 エンダーという少年が地球外生命体を制圧するシミュレーションゲームをひたすらに行う話。 

〇漂う少年漫画臭 兼 週刊少年ジャンプ臭
 ある能力特化型や異端児たちが徒党を組むことで、エリート集団を圧倒するというジャイアントキリング要素。ワクワクさせられる要素が当にそれと同じ。堪りません。例を出すならば、樋口大輔の作品「ホイッスル」で描かれる、東京選抜でのAチームとBチームの紅白戦の様。エンダーたちがBチームの方です。

 あとは主人公の特別感。才能が他者に認められていく過程。最初彼の才能を見抜いているのはある特定の人物だけなのだが、実績を積んでいくことで彼の才能が露見していき、だんだんと周囲の信頼を勝ち得ていく。本人視点ではその認められているという要素はなかなか見えてはこないのだが、映画だからどこか安心感を得られる。 

〇実戦への移行
 訓練においてゲームだからこそ選択する戦術の数々。死なない(失敗してもやり直せる・リセットできる)という前提の下、絶対、確かな、約束されたものがあるからこそ下せる決断。裏付けられた経験を持ってなお実戦では悩みは尽きないが、訓練だと確実に大胆さが増す。その判断を実戦で下せるのかというのが一番の問題で・・・。 


 成長ネタで一番難しい段階は訓練から実戦への移行。今までのシミュレーションとは異なり、死が間近になることで全てにおいて現実味を帯びる。子どもながらというのもあり、その状況における何かしらの決断を下すことができない。背負える責任の重さではないというような理由もあるだろう。そんなことから実戦で判断に迷いや悩みが生じる。それは戦況に影響しかねない大きなものとなる。訓練から実戦に慣れるためのそんな段階をどうやって移行していくのか、と思いきやまさかのショートカット。これはさすがに読めたのだが、話の持って行き方としてはさすがといえる。訓練と実戦の違いを経ての少年の成長・・・ではなく、訓練と実戦から受ける印象の違い。リセット(やり直し)・後戻りできないことからくる責任・重さの違いを主人公に決定的に印象付ける。それによる感情の爆発。

 子供には整理・収集がつかない問題。大人ですら難しいのではないか。いや大人なら割り切れるか。割り切れるからこそ敵勢力の殲滅に関してエンダーをおもちゃにできたのか。 経験的裏付けからくる凝り固まった戦術ではなく、エンダーのような第三世代という素質と、純粋・無垢であるが故の突飛且つ大胆な戦術を戦況に取り入れたかった。 

 訓練だからやった、これが実戦であったら別の方法をとったと。殲滅ではなく歩み寄りという方法をとったと。エンダーのこの発言が訓練と実戦の違いを裏付けている。そして自ら犯した罪を償おうとする。その償いは人類に敵対している行動でもあるという皮肉。人類の救世主を作り出したはずであったのに・・・。 
エンダーの整理しきれない感情は、9・11テロの被害者家族を扱った作品「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」を思い出した。



〇エンダーの株 
 強いて何かしらの不満を挙げるとしたら、戦況シミュレーション時に指示・交信というルートをとる以上、最大の障害になる時間差を取り扱ってほしかった。エンダーが全てを自分でやろうと、指示しようとすることによる指示の乱れ・遅れみたいなのは描いてくれてはいた。だからこそさらなる高みを目指してほしかった。最後の作戦的にはギリギリの戦いであったために「時間差を考慮しているのかな?」 そんな演出があればもっとエンダーの株は上がったはずである。 


〇最後に 
 この映画ではエンダーを人類の救世主と位置付けている。しかし、エンダーを救世主と祭り上げるまでの大人たちの活動は、よくよく考えると少年兵の問題と関連付けられるのではなかろうか。大人に都合の良い少年の兵士をつくり上げる。大人たちに対して反感・反骨心を生むような価値観が形成される前に、兵士として使いやすいように洗脳を行う。洗脳により戦争という環境を兵士たちの常識として植え付けてしまう。人類という種を守るためという大義ではあるが、それだけで正当化できる内容でもない。それならば現在問題となっている少年兵の問題も、彼らが悪とする敵国・敵人から、自分たちという存在を守るということで、この映画における正当化の根拠として根本的に同じであり、鑑賞者としてはこれを是として捉えていると印象付けられてしまう可能性もなくはない。だからこそエンダーの最後の人類に敵対する活動を描かざるをえなかった。これも子どもながらの訓練と実戦の違いを印象付ける要素としてあるのだが、それよりもエンダーという性善説を強調しているように感じられてしまう。人類と地球外生命体の戦いはこれからも続いていくのだろう。表向きは人類のために戦っているが、自分の犯した罪の償いとして敵対する活動も補助している。いずれは導き出さなければならない答え(人類の敵なのか、味方なのか)を、子ども(性善説)という設定を生かして、はぐらかしている印象も受ける。共存の道をとるのも一つの答えとして考えられるが、それを良しとしない人類が多かったがために、エンダーは彼らを滅ぼさざるをえなかった。戦場という敵か味方かという二元論的な考え方が支配する世界で、エンダーという性善説を描くことで、人類が生き残るためなら敵を排除するという、(大人が是としている)必要悪が許されるのでは、という風潮に何かしらの疑問を投げかけたかったのだろうか。

2014年6月7日土曜日

キック・アス ジャスティス・フォーエバー(2013)

キック・アス2[DVD]


~混沌~


〇はじめに 
一作目は悪を前にして傍観している者にはなりたくないと、悪の台頭による正義の立ち上がりを描いたのだが、今作はヒーローブームが巻き起こる中、その正義の台頭による悪の立ち上がりを描いた作品となっている。 

〇正義と悪という構図
正義と悪という構図ではあるのだが、正義と言っても結局のところ頼みになるのは力。正義という名を借りた、悪を倒すための実力行使・武力行使。詰まるところの暴力でしかない。両者互いに悪を倒す、正義を倒すという名のもとに暴力を執行する。映画内で正義と悪の活動が対比して描かれ、その根本的に同じ部分を示してくれる。悪と正義には通ずるものがあるのだと。

ヒーローものは、絶対的な悪と絶対的な正義という二極化する存在、正反対の存在によって成り立っている。世界が混沌と化している状態の根本原因を一つの悪に限定し、ひとつの悪を倒せば一時の平和が訪れるという構図にする。平和→混沌→平和、と悪を倒すごとに得られる一時の平和、その一時の平和を得るために悪との戦いはひたすらに続く。つまり正義と悪という二極化した存在と、それにより二極化した世界を描くのを好む。しかしこの映画は、世界の混沌の原因を悪に限定するのではなく、正義と悪の対立にあると説いている。つまるところ世界は、平和と混沌という二つの状態の変遷ではなく、常時混沌状態なのだと。

そんな混沌とした世界の悪と正義はいたちごっこでしかない。より強力な存在へとお互いを高め合ってしまうという皮肉。それにより世界はさらなる混沌へと向かう。正悪の根本的な解決が不可能な複雑で不条理な世界で、あなたはどう生きていきますかとこの映画は疑問を投げかける。 
悪に奔りますか? 正義に奔りますか? 傍観しますか? 
悪を避けますか? 見過ごしますか? 立ち向かいますか? 
我々に必要なのはヒーローという正義の象徴ではなく、皆の心の中にある正義なのだ。と私は受け取った。 

〇結局
この話も映画という空想の世界でしかない。最後の最後で続編への暗示なのかもしれないが、悪の末路が描かれる。片やクロエちゃんといい雰囲気なのに・・・。そこが少し残念な気がした。

〇腕ひしぎ十字
ヒットガールの得意技なのか、これが訓練と実戦の両方で使われる。これの対比として訓練相手はキックアス、実戦相手はマザーロシア。キックアスは簡単にタップするのだが、マザーロシアはこれを噛みつきでほどく。 ここから読み取れるものとして、訓練と実戦の違いがある。実戦は訓練とは違う様々なファクターが存在する。訓練は実戦のためとはいえ、あるルールの下行われるからだ。大きなものとして殺さないという前提。この映画の場合は正義というルールが適用される。ヒットガールはキックアスを殺そうとはしていないし、逆も然り。つまりルールを無視した対応の策が練られていない。これにより訓練では成功していても実戦では成功するとは限らないことにつながる。ここに正義の甘さがある。しかし、訓練を怠ることはできない。そんな訓練での充足感と、実戦で初めて気付く不足感・無力感をも交えてこの映画は展開する、・・・そうでもないかも。

〇クロエ(男視点での見解)
少女時代が抜け落ちていることからくる、理解できない感情の発現。それにより様々な感情が複雑に絡み合い揺れ動いてしまう心情。そんな感じを表現するのが非常にうまい。 この映画内でいえば、時折垣間見せる女の貌。キックアスをそんな目で見つめるんじゃな~い。この映画でヒット・ガールが少女ではなく女になってしまった・・・複雑だ。 この狭間な感じの演技を評価している分、これからの彼女に対して心配がある。少女の演技に始まり、少女から大人な女への変遷過程の演技を経てきた。大人な女性の演技をこれからは期待される分、どんな演技をしてくれるのか楽しみであり、不安でもある。ん~もどかしい。

魔女の宅急便(2014)

魔女の宅急便[DVD]

~魔女と宅急便~ 

〇はじめに
 宅急便はどこに・・・?宅急便である必要があったのか・・・?
 ・・・というのが、率直な感想。 


〇宅急便
 「場所に届けるんじゃない、人に届けるんだ」と謳っているCMがあった。この映画にもそのような台詞があり、「箒が運ぶんじゃない、私が運ぶんだ」と。 

 宅急便というのは送り主と受け取り主の橋渡し、としての役割を果たすはずである。そこから見えてくる、届け人ならではの視点とその届けものに伴うしがらみ。人と人とを結ぶ、関係性を築いていくからこそ描けるこの映画のラスト。

・・・の予定だったのではないのか。確かに最後はキキの株が怒涛の上昇をみせ、感動を呼ぶことは間違いないだろう。鑑賞者としては現実に認められたがっているのだから、キキに自分を投影して最後の場面だけでも感動は得られる。しかし、よくよくストーリーを追っていくと、劇中の登場人物たちの関係性の薄さに疑問を覚えてしまう。

 正直言いますと最後は泣きましたよ・・・認めます、感動した。 


〇魔女と宅急便
 映画内の現在では、魔女は人間と共存を試み関係を築くことで、能力が限定的になり万能感は無くなった。薬草学と箒による飛行能力程度。キキは飛行能力のみ。

 魔女という特異性による人間との差異。そんな関係性が嫌で、認めてほしくて、宅急便という仕事を通し、人間に幸せを届けたい。魔女という負のイメージを払拭したい。というように魔女と人間の共存を目指していたはず。あれ、逆だったかな・・・?

 宅急便という特性、つまり人との関わり、それも届け主と受け取り主の両者に彼女は出会うわけで。その両者の関係性と荷物にまつわるしがらみ、それに関わることで変化するキキの心情と価値観。というのを楽しみにしていた。そんな掘り下げる要素がたくさんあるのに、途中で投げ出すんだよな、恋愛に。まあトンボとの関係で、魔女という特性が故に見えていたもの、見えていなかったものに気付き、キキにとっての転換点になるのだが、宅急便関係なくなっちゃたよ・・・と感じざるを得なくなる。

 キキの魔女という特異性、つまり飛行能力、を取り上げての人間における常識と魔女の常識が絡み合うことで、人間との歩み寄りを見せるというのはわかる。特異な飛行能力にすがり、それを失って迷いが生じる。迷いが生じて能力が消失するのか(この能力の消失はヒーローものには付き物なヤツ)。その迷いが覚悟につながり、結果的にキキが成長して・・・ドヤ。めでたしめでたし・・・と。 この物語の場合、宅急便と飛行能力は切っても切れない縁にあるから、ストーリーの持っていき方は正しくはあるのか。それにしてもキキを取り巻く者たちの心情変化が安易すぎる。こんな簡単に人の心を掌握できるのか。当に魔女・・・となってしまいますよ? それではキキの目的とは大いに異なるというか、正反対なわけで・・・。
う~ん、難しいな。というのもおそらく、キキ(魔女)を好き・嫌いになる出来事や演出が極端すぎるというのがあるのかもしれない。実際人間はデマや噂に流されやすく、風評被害を伴うことが多い。コツコツと積み上げてきた信頼も、たった一度の失敗や何やで一気に崩れるのもわかる。しかし、そこから立て直すのには時間がかかるのではないのか。そして立て直すプロセスが一番大事なのではないのか。たった一度の難易度Sランクのミッションをクリアしただけでね、簡単に元には、いや元以上にはならないでしょと。極端な演出はわかりやすくこの手の話にはもってこいなのはわかるのだが、この作品以前に作られたヤツがあるからな~。もっと迷いとかが描かれていた気がするのだが・・・。 

 私もこの物語のような大逆転劇は好きですけどね。感動している反面、冷めた目でこれはないだろ、と見てしまう自分もいるというだけです。 


〇最後に
 キキ、かわいかった。

・個人的ベストシーン(台詞あやふやです)
 箒で飛べなくなってからのトンボとの会話シーンで、「私には全部魔法に見える」とトンボに叫ぶ?ところ。魔女でありながら、このファンタジックな発言。く~、堪りません。ギャップ萌えの類か何かかな?
 あと箒から降りた後に箒をクルンと回すところも。

 そしてコリコ、LiLiCoは笑った。

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...