~魔女と宅急便~
〇はじめに
宅急便はどこに・・・?宅急便である必要があったのか・・・?
・・・というのが、率直な感想。
〇宅急便
「場所に届けるんじゃない、人に届けるんだ」と謳っているCMがあった。この映画にもそのような台詞があり、「箒が運ぶんじゃない、私が運ぶんだ」と。
宅急便というのは送り主と受け取り主の橋渡し、としての役割を果たすはずである。そこから見えてくる、届け人ならではの視点とその届けものに伴うしがらみ。人と人とを結ぶ、関係性を築いていくからこそ描けるこの映画のラスト。
・・・の予定だったのではないのか。確かに最後はキキの株が怒涛の上昇をみせ、感動を呼ぶことは間違いないだろう。鑑賞者としては現実に認められたがっているのだから、キキに自分を投影して最後の場面だけでも感動は得られる。しかし、よくよくストーリーを追っていくと、劇中の登場人物たちの関係性の薄さに疑問を覚えてしまう。
正直言いますと最後は泣きましたよ・・・認めます、感動した。
〇魔女と宅急便
映画内の現在では、魔女は人間と共存を試み関係を築くことで、能力が限定的になり万能感は無くなった。薬草学と箒による飛行能力程度。キキは飛行能力のみ。
魔女という特異性による人間との差異。そんな関係性が嫌で、認めてほしくて、宅急便という仕事を通し、人間に幸せを届けたい。魔女という負のイメージを払拭したい。というように魔女と人間の共存を目指していたはず。あれ、逆だったかな・・・?
宅急便という特性、つまり人との関わり、それも届け主と受け取り主の両者に彼女は出会うわけで。その両者の関係性と荷物にまつわるしがらみ、それに関わることで変化するキキの心情と価値観。というのを楽しみにしていた。そんな掘り下げる要素がたくさんあるのに、途中で投げ出すんだよな、恋愛に。まあトンボとの関係で、魔女という特性が故に見えていたもの、見えていなかったものに気付き、キキにとっての転換点になるのだが、宅急便関係なくなっちゃたよ・・・と感じざるを得なくなる。
キキの魔女という特異性、つまり飛行能力、を取り上げての人間における常識と魔女の常識が絡み合うことで、人間との歩み寄りを見せるというのはわかる。特異な飛行能力にすがり、それを失って迷いが生じる。迷いが生じて能力が消失するのか(この能力の消失はヒーローものには付き物なヤツ)。その迷いが覚悟につながり、結果的にキキが成長して・・・ドヤ。めでたしめでたし・・・と。 この物語の場合、宅急便と飛行能力は切っても切れない縁にあるから、ストーリーの持っていき方は正しくはあるのか。それにしてもキキを取り巻く者たちの心情変化が安易すぎる。こんな簡単に人の心を掌握できるのか。当に魔女・・・となってしまいますよ? それではキキの目的とは大いに異なるというか、正反対なわけで・・・。
う~ん、難しいな。というのもおそらく、キキ(魔女)を好き・嫌いになる出来事や演出が極端すぎるというのがあるのかもしれない。実際人間はデマや噂に流されやすく、風評被害を伴うことが多い。コツコツと積み上げてきた信頼も、たった一度の失敗や何やで一気に崩れるのもわかる。しかし、そこから立て直すのには時間がかかるのではないのか。そして立て直すプロセスが一番大事なのではないのか。たった一度の難易度Sランクのミッションをクリアしただけでね、簡単に元には、いや元以上にはならないでしょと。極端な演出はわかりやすくこの手の話にはもってこいなのはわかるのだが、この作品以前に作られたヤツがあるからな~。もっと迷いとかが描かれていた気がするのだが・・・。
私もこの物語のような大逆転劇は好きですけどね。感動している反面、冷めた目でこれはないだろ、と見てしまう自分もいるというだけです。
〇最後に
キキ、かわいかった。
・個人的ベストシーン(台詞あやふやです)
箒で飛べなくなってからのトンボとの会話シーンで、「私には全部魔法に見える」とトンボに叫ぶ?ところ。魔女でありながら、このファンタジックな発言。く~、堪りません。ギャップ萌えの類か何かかな?
あと箒から降りた後に箒をクルンと回すところも。
そしてコリコ、LiLiCoは笑った。
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