~適者生存~
〇はじめに
チャールズ・ダーウィン曰く
「力の強い種や賢い種でなく、変化に順応できる種が生き残る」
・・・だそうです。
〇こんな話
ある惑星に船が墜落。捕虜が逃亡。確保するぞ、オオオオオオ!!!
・・・ってな話
〇騙される心理
ホモ・サピエンス視点で映画を観てしまっていた私は途中衝撃を受けた。ヘルメットをはずしたらあらビックリ。お前誰(何人)だよ?・・・と。なぜ私はホモ・サピエンス視点で映画を観てしまっていたのか、考えていきたい。
まずヘルメットを被っているという点。そこから疑うべきだった。はじめの状況把握の際、ヘルメットはその惑星の環境に慣れるまでは外さないことをオススメする、みたいなことを言っており、外さない事に関しては理にかなっている。
次に言語を操るという点。船がある惑星に墜落し、捕虜が逃げたという状況・事情は彼らの会話から仕入れることになる。それはつまり、彼らが言語を操るという情報も同時に仕入れられるということになる。
そして一番大きいであろう理由が、人型で二足歩行。
人型で二足歩行の生物が会話をするという状況や画を見慣れ過ぎている。そんな中上記の点が絡んでくると、ヒトという種ではない、という疑うべき事象を見事に排除される。
〇シミュラクラ現象 (前項と関連して)
人間は三つの点があることで、それを人の顔として認識しようとする。心霊写真等でよく議論されるやつ。この映画で私が言いたいことはそれに近くて、前項に書いたポイントを踏まえると、人は同じヒトという種と認識してしまうのではないだろうか、ということ。よく幽霊を見たどうのこうのといった話題では、足の有無について話題にならないだろうか。足はあった、歩いていたなど。影があったかどうかとかもあるか。人型、二足歩行(足の有無)といった点が、幽霊であったか、人であったかの判断の基準になっていないだろうか。それらが満たされた上で、認識できる何かしらの言語を話していたら、あなたはどう判断するだろうか。
ヒトはある程度の情報を勝手に補填・補充してしまう。勝手に結び付けてしまう。それは習慣や経験に由来する。いや先天的なものが大きいか。生活する上でいちいち気にしていたらキリがない事象に、そうであるという決めつけが行われる。当たり前という言葉が妥当か。ヒトはヒトと認識できる顔を有し、(人型で)二足歩行し、言語を操る、という事実が当たり前になっている。情報の補填・補充はこれの逆をうまくついてくるのである。この映画の場合はヘルメットでヒトと認識できる顔が見えない。ヘルメットを被っている時点で、顔の存在は確かであるのでより結び付きやすくなってはいるが。そこで仮にヒトであるか、という疑問が湧きあがったとしても、人型で二足歩行をし、言語を操っているという十分すぎる情報に、多少の補填・補充が行われる。つまりその生物はヒトである、という見解に達してしまう。
当たり前
:「ヒト = 顔、人型、二足歩行、言語を操る」
情報の補填・補充
:「人型、二足歩行、言語を操る生物 → ヒト」
いろいろ書いたが、地球という規模で、ヒトが頂点捕食者であるという自尊やうぬぼれといったことも要因の一つとして考えられるかもしれない。これはおそらくほとんどのヒトに浸透している大前提で、それに付け加え様々な要素が絡みあい、ある見解に勝手に達してしまう。騙される要素に対して、前提から疑ってかかる必要があるのか否か、疑うべき点はどこにあるのか。探らなければならない。
〇適者生存
人間が言語を話したのか?知能高いな、と驚く場面が存在する。「猿の惑星」か・・・と。彼ら(侵略者)の場合、宇宙を統治するために様々な種を滅ぼしてるわけで、滅ぼすにあたって事前調査は行われていないのだろうか、と疑問が湧く。どんな(能力を有する)種なのかという。主義としては、迎合すれば奴隷として生かされ、逆らえば待ってるのは滅亡と。「アバター」という映画を観なさい。侵略のためにちゃんと原住民の中に入って調査しているでしょう。そんなの関係なくなりますけど。調査など必要無いくらいに圧倒的力を有しているのでしょうか。調査?いらねえだろ、アボンみたいな。万全な対策を講ずることを怠るようになった文明なわけで、そんな種は滅びへと向かうだけでしょう。いや、むしろアバウトに生きてる方がいいのか。どうなのでしょう・・・。救助艇の到着予定時刻に関してのやり取りがある、どうせ遅れると。こんなところからも、何かしら杜撰な種なんだなと感じることができると思う。・・・ってヒトと同じやないかい。
〇最後に
この映画はそれぞれの種の一個体をつまんできて、それぞれの価値観を述べさせ、宇宙と言う広い世界でどんな情勢になっているのかを把握させる。鑑賞者はそれぞれの理解に達する事だろう。映画の楽しみ方としてそれはそれで良いのだが、注意しなければならないのは、この世界観は彼ら個人の価値観で構成されたものであって、種の総意ではないということ。別の1個体をつまんでくれば、全く別の情勢に見えるかもしれないわけで・・・。そんな個体間での演出に頼らざるをえないのは、予算の都合が大きいと思われるが、下手に世界観を広げられるよりは全然おもしろい。
私の書き方で不満を感じているととられるかもしれないが、決してそうではない。この世界には映画の最初にも述べられるが、適者生存の法則が存在する。そこに合理性や効率化が確実に存在するとは限らない。疑う余地があるからこそ、進化という道が開けるわけで・・・。そんな見地に立たせてくれる、そんな映画と理解してほしい。
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