2015年2月26日木曜日

花とアリス殺人事件(2015)



~事件~ 

〇はじめに 
 勘違いやすれ違いから生まれる拡大解釈や誇大妄想(被害妄想?)。それらにより膨れ上がった波紋に干渉してくる他人(ひと)の優しさが何とも心地良い。それも主人公アリスから始まる喜劇のおかげか。二人のやり取りが何とも言えないおもしろさを醸し出し、中学生特有のあの(人それぞれではあろう)雰囲気に浸らせてくれる。 

〇想起する作品 
 「Another」 
 「花咲くいろは」 
 「黄昏乙女×アムネジア」 
 「ソロモンの偽証」

〇こんな話 
 「花とアリス」の前日譚だそうな・・・後日譚見なきゃ。

〇事件 
 人はなぜ事件を起こすのだろうか。いや事件にしたがるのだろうか。それは人の行動に理由や動機を見出したがるからである。人の行動には必ず理由や動機が伴う。という前提の下人間は生活している。そして人間が関わることで、追求しようとする姿勢はより大きなものとなる。簡単に言えば人の生き死に関することか。 

 普段命を摘んでいることを意識して食事などしているだろうか。食卓に並ぶ肉や魚、米や野菜。それらはいったい何だ。ただの食糧だ。腹を満たすための糧でしかないだろう。そんな者たちが身近に、そして報道で人の死を目の当たりにしたらどのようにものを考えるのだろうか。死因や責任問題、予防策、なぜ殺されなければならなかったのかという犯行の動機云々ひたすらに説かれる、知りたがるではないか。


・・・とまぁ別にそんなことどうでもいいのだが、何が言いたいのかというと、この中学生という特殊な時代に、我々は打算的にものを考え行動していたのだろうかと。将来的にこのような答えが見つかるはずだから、答えがそこにあるからと、計画的だったかと。アリスのお転婆な姿がそんな中学生という時代ならではの雰囲気を見事に漂わせてくれる。

 まず行動なのである。行動してはじめて問題にぶち当たる。そして主とする問題がありながら、計画を立てていながら、いざ行動してみると本来の意図を見失う。周りが、置かれている状況が見えなくなる。「あれ、何してたんだっけ?」と。要は「馬鹿だな~」と笑わせてくれるわけです

 例えばであるが、母親が頼りなく見え(感覚がズレてる)、家庭的である演出は為されるも、引っ越してきた家が以前ユダが住んでいたもので、自分の部屋がユダが使っていたものと知るや否や気が動転してしまい、そんな母親でも泣き縋る。その後すぐに我を取り戻し去っていくアリス、ってな場面がある。母親との関係性を見せる・深めるとともに、考えより先に行動してしまうといった演出でもあったのだろう。


 そして肝心の殺人事件はというと・・・

 ある者が事件を起こしたのには理由があった。そしてそれの原因となる行動をとった者にも理由があった。しかしその者の理由は明かされることなく終わる。そして答えを自己完結、自己解釈するある者がいるのである。

 転校初日、有栖川徹子が黒板に名前を書くとき、最初の文字を「黒」と書こうとする。そんなところからもふと疑問を感じさせるような、当人の事情や理由を気にさせるような演出をするのだが、その後、黒ちゃんと呼ぶ過去の友人の登場で、その友人に離婚や何や聞くななどと詮索を嫌がる主人公がいるのである。(いや、知りたがる友達がいる方をピックアップすべきか)

 そして石ノ森殺人事件に伴うユダの亡霊云々といった余波。それには事件と関係ないところに理由があったわけで。クラス全員を巻き込んでいる現象ではあるが、その真相を知る者はとある二人だけと。後に三人になる。

 出来上がってしまった事実に理由を求めるも、その根本原因はというと誰にもわからない。どこからともなく伝わってくる噂のようなもの。学校の七不思議などがいい例か。根拠は? それを証明するデータは? 無いでしょと。しかし信じたがるのである。信じたくなるのである。正確には疑うべき事象であるが故に、反対の信じるという行為が際立つのか・・・。そしてそれと反対に(自分に関係する人の行動には)、信じる前にその行動に理由を見出したくなるのもまた事実なのである。受け止めて、納得してから信じたいのである。というより、いつになってもあるだろうが、理解できる感情と理解できない感情というものがありまして。ここでは理由や動機と書いていたか。その個人の理解の範疇を超えるものと越えないもので、理解と信仰という境界線が存在するわけで。そしてその範囲が人それぞれで異なってくると・・・。

 この作品における、事件の真相・核心の部分がその両者を考えさせてくれる。なぜそのような事件が起こったのかという一番の部分。さらになぜ事件を起こさせてしまうような行動に出たのかと。ここで戻る。中学生の頃の行動に明確な意味を見出すことができるのかと。ヒントと言えば、ユダのテストの点数が壊滅的に悪かったことくらいだろう。しかしそこから我々に何を推理しろというのか。幼馴染、想い人であったというのも花の情報に過ぎない。さらに花の気にすべきところはユダの気持ちではなく、生死であった(いや、逆だったのかもしれない)。おそらくこれらに明確な意図は無かったのだろう。あの独特な、特有の世界観に浸らせようとせんがためのトリックというか何と言うか・・・。

 花を基に考えれば、ユダの生死が気になりその答えを求めていた。で、生死に関する結論が出たところで、ユダが一言ズドンと。パニ~ック、パニ~ックとなるわけで、心の整理がつかない状況に陥り、都合の良い解釈と。勝手な恋愛要素ですわ。そもそも生徒一人が死んでたらもっと大事になっていたはずでしょと。そして死んだ息子の幼馴染である花に、笑顔でしかも自ら手を振る父親って相当にレアだと思うぞと。でも花は気になってしまっていたわけです。ひたすらに気にして引きこもってしまったわけで。そんな事でひたすらに悩んでしまう時期なのだと。さらにそのドアを開け放ったのがアリスなわけで。「アリスと花」はまだ観ていないが、この二人の関係性を決定づける、形作るにはこの作品は見事と言わんばかりのものとなっていると、そう感じるわけで。

結論:アリスと花、二人のやり取りがミソなのである。いや、アリスからはじまる関係性
    とした方が良いのかもしれない・・・

〇余談
 「BAKADA」って何??
あ、これ漫画家云々関係してるのか。

 バレエや走りのフォーム、ちょっとした仕草や動きをよく観せたかったんだろうな~。無駄に動く感と言うか、気にする感というか。入りやすかったな~。

〇最後に
 今では厨二病と呼ばれる現象。訳のわからない言葉でも、響きのかっこよさでそれっぽく使ってしまう。そして知ったかぶり。理解の前に、理解をしようと行動する前に、即座に信仰を選択する、誰かが言う愚かな者たちの存在。これが答えだと提示されればすぐに飛びつく。公式や方程式という答えまでの思考を排除する、ショートカットさせるものの存在。それがそうあるべき証明などいらんと。そんなんばっかの時代だったなと要は雰囲気で生きてるんですよ。明確な動機や理由など持たず。周りに流されるとか、逃避するとか言っても良いと思う。逆もあるか、人と違う存在であることを実感したいと。そんな経験をした人たち。そして今何かしらに思考をめぐらせている人たち。おもしろいと思います。ではでは・・・。


2015年2月22日日曜日

戦火の勇気(1996)

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~罪とゆるし~ 

〇こんな話 
 ある戦闘中に味方の戦車を誤射してしまった主人公。罪悪感を抱えながら、とある名誉勲章候補を調査することになる。調査を進める中、生存者たちの証言を聞いていると、違和感に気付く。・・・そこから調査をさらに深め、隠された真実を明らかにするとともに、自らの贖罪にも至るお話。

〇責任 
 戦争という世界。敵と味方という二元論で判断する一見単純と思われる世界。しかし敵か味方かを区別するには何かしらによる認識が必要なのである。いったい敵と味方という判断はどこでつけるのか。一瞬の迷いが死につながる余談を許さない状況。誰かしらが、何かしらの決断をしなければならなかった。
 敵と味方が混在している状況で、敵は降伏をしていたのだが、それを確認しているのは主人公近辺の者たちだけであった。地雷原に突入するからと進路を代え、予定とは異なる行動をとっている者たちがいた。それを敵と誤認し、撃ってしまうのである。そして主人公は誤射してしまった真実を犠牲者の両親に伝えられずにいた。
・・・というような背景が主人公にはあった。そういった過去を抱えているからこそ、隠ぺいされた事実を明らかにすることに重きを置いた。軍の調査としては仕方の無かったことと責任は免れてはいるが、個人としてはスッキリしない。誤射・事故とはいえ決断を下したのは自分であり、罪の意識は消えない。そんな罪悪感を彼はどのように乗り越えたのか。

〇罪とゆるし 
 録音テープにより誤射後に起きた真実が明らかになる。味方機にライトを付けさせ、敵と味方を区別し戦況を乗り切る。親友を誤って殺してしまったという心境の中、的確に物事を判断し、多くの仲間の命を救った。戦争という状況では何が正しい、何が間違っているというのはないのでないか。確かに非人道的な行動は許すべき事象ではない。しかし、仲間を助けるためという考えの下行われたものであれば、それは罪としてとがめるべきではないのかもしれない。もっとこうすることができた、というのは事後であればの戯言で偽善だ。当時はたったひとつの選択しかできなっかたわけで。 
 最後、
「罪は背負わなければならないが、心の重荷はいつか下ろさねば」
と被害者の父親が吐く言葉で主人公は救われる。ここからある考えに至る。赦すという行為は、犯した「罪」を赦すのではなく、その罪を犯した「人」を赦すことではないだろうかと。故に罪は消えない。罪を犯した者は一生罪を背負っていかねばならない。罪を自覚し、背負ったその後の人生こそが、被害者への、そして自身への償いとなる、のだろう。  

〇最後に 
 名誉勲章というきれいごと。戦争美化ともとれるような情報操作と印象付け。この作品ではそれを真実を公表するという行為で解消しようとしている。戦場では実際に何が起きているのか。讃えられるような行いが果たして存在するのかと。そんなことに思いをめぐらせてみる・・・。


ローマ法王の休日(2011)

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~所詮ひとりの人間であるということ~ 

〇はじめに
 総じて言えば「人の上に人はつくれず」ということなのでしょうね。 なんという皮肉。見事なり・・・、はぁ~。ってな感じになります。 

〇立場と責任 
 人の上に立つということはそれなりの責任とプレッシャーが伴うことで、立場が上なほどそれは大きくなる(人によるかもだが)。それがローマ法王なんてものだったらなおさらプレッシャーは半端なものじゃないだろう。自分の行動が影響を与える範囲がでかすぎる。それに伴い行動が極端に制限されてしまう。しかし、先代たちがそんな立場を全うしてきたのもまた事実。それを見習い、次の者たちにつなげようとするのが責任というもの。この流れは・・・、ありなのか?

 俺は絶対やりたくないという意志をはっきりと示し、ドンと構える方がかっこいい。しかしこれはコンクラーヴェ。選ばれし者はというと・・・逃走する。最後はガツンとやってくれますがね・・・。

 コンクラーヴェがローマ法王たる人物を選び出すものではなく、ローマ法王という責任をなすりつけあう場になっているのが何とも笑えてくる。この結果はその典型と観ていいのかもしれないが、どうだろう。そういう人たちもいるというのを理解しろということなのか。 ローマ法王だからといって、何ら我々一般人と変わりは無いということか。責任を被る立場なんて誰でもゴメンですからね。好き勝手身軽に生きてきたいと言うのが本音でしょう。しかしそれを許されず仕方なく立場を全うすると。そんな皆さん、投げ出すこともできるんですよ!! その結果どうなるかは・・・・

〇最後に
 コメディ映画として観ていたら何と、最後何のオチも無い。いや、最大のオチがあったのか。この映画を笑い飛ばせるぐらいの気の持ちようで生きていきたい。

2015年2月21日土曜日

レ・ミゼラブル (2012)

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~入りはすばらしい~

〇こんな話 
 レ・ミゼラブル 

〇ミュージカル 
 ミュージカル調であることで、いつも流してしまうようなセリフや演技が響くし、感情表現が豊かになる。劇中の時代が時代だけに初見では入りにくい人もいるだろうが、ミュージカル調がそれも軽減してくれる。なんだこの映画は、・・・すばらしい!! 
・・・っとまあ最初の20分位?は思っていたわけです。ヒュー・ジャックマンの演技もうまかったし。 しかし・・・・、賛否両論あるだろうが、アン・ハサウェイの登場により何かが変わった。男としての視点だからかもしれないが、アン・ハサウェイがひたすらに浮く。演技も歌も文句なくうまい。だけど何かが違う。劇中の役的に、何かしらの差異をもたらす必要があるのはわかるのだが、かけ離れすぎているというか・・・際立ってしまっている。まあ、途中退場するのでそこから先はあまり気にならなかったが、その後流して観てしまっている自分がいたわけで・・・ 

〇最後に(まとめ) 
 ミュージカル調ということで非常に入りやすいし共感しやすい。しかし、ミュージカル調であるがゆえの軽さみたいなものが出てしまう。逆境から這いあがったり、市民が団結するなどといった時はミュージカル調が冴え、高揚感のようなものが押し寄せるのに対し、死者が出ている場面でも歌っているなど、頭が混乱してしまう。人の死を前にそんなに陽気に歌っている場合かと。今こそ立ちあがるべきだという意思表示なのはわかる。しかしその頭の中で起きる混乱により、その者の死が軽くなるというか・・・感情として受け取れない、伝わってこないものがある。悪い意味で人の死が平等になっているとでも言おうか・・・。誰が死んでも歌ってますからね・・・。その場面が必ずしもミュージカル調として冴える方につながればいいのだが、それだけではないので気になって仕方が無い。 
 矛盾するのだが、要はミュージカル調ということで感情表現が豊かになる反面、感情的に対極にあるもの同士を表現しきれていない・・・(気がする)。これが全てを歌で表現することの限界か。単に私が感情を読み取りきれていないだけの話なのか。
 この映画はミュージカル調であるがゆえの、良いところ悪いところをふんだんに含んでいる映画と言える。言いすぎか。なんにせよ役者さんたちの歌や演技がうまいことうまいこと。この映画はそれに尽きる。

ブロークン・アイデンティティ(2012)

ブロークン・アイデンティティ[DVD]


~対価~ 

〇こんな話 
 ある時主人公が飛行機の墜落事故からなんやかんやあって救出した記憶喪失の男。彼は記録上存在するはずのない人間だった。彼はいったい何者なのか。はてさて・・・。 

〇命 
 三人の女性を殺していた記憶喪失の男。三度の死刑を求刑された男。人の命は1つしかないのに三度の死刑をどうやって執行すればいいんだ。殺しては生き返らせてを繰り返せばいいんだという結論に達する医学界の権威。三人の女性は彼の娘だった。

~罪とは何を裁き、何を償うのか~ 
 この映画で起こる三度の死刑について少し考えてみる。 
 娘を殺した犯人に対して、三人もの命を奪ったのだからその命と同等の対価を課すために、三度の死刑を行うべきだということなのだろう。人の命に釣り合うものは無い。あるとしたら同じ人の命か。それぞれの命の価値は、対象によって変わってくるだろうことは流そう。問題は、一回目の死刑以降、殺される人間が記憶喪失だったということだ。二度目の生を受けて記憶が蘇りうんたらかんたらまでがこの作品のメインなわけであるが、記憶喪失の男、詰まる所罪の意識の無い人間を死刑としたところで、それは罪を償ったと言えるのだろうか。法的な位置づけは置いといて、罪を償うために課されるのが刑のはずである、刑であるべきである。それとも刑とは世間的な責任を誰かしらから解消するためのただの形式的なものに過ぎないのか。それとも被害者側のただの復讐と成り下がるのか。
 彼は二度目の生を受けてからは、死刑に足る罪を犯していない。一度目の生における殺人犯と言うレッテルで殺人を犯したと決めつけられ、殺されることになる。人を殺すという行為がそれほどまでに重い罪であることを言いたいのはわかる。犯人の、同じ一人の人間の命をもってしても償いきれるものではないかもしれない。しかし彼を殺したところで死んだ者たちは戻ってこない。故に被害者の愛する者を亡くしたという傷は癒えることは無いであろう。それにも関わらず怒りの矛先は記憶を失った男に向いてしまうのである、向けざるを得ないのである。本来であれば、どんな罪を犯したのかというのを、刑を通して自覚させる。そしてその先に償いが待っているはずである。何度も言うが彼に罪の意識は無い。罪を犯したという記憶さえ無い。それでいて彼に刑を課すことにいったい何の意味があるというのか。
 被害者の彼への姿勢や発言が答えになっているのだろう。彼への処遇は刑というよりは、被害者の復讐や自己満足のように描かれている。そんな背景や状況を考慮し彼に刑を課す、罰を与えるということは、単に被害者側のエゴを満たすことに他ならない。そこに償いというものなど皆無である。
 最後の「全て思い出した」という台詞が問題の投げかけになってくる。罪を償うにあたって、罪の自覚があるのか無いのかと。そして自覚の無い者が形式的な償いを行うことと、自覚の無い者に罰を与えることは、どちらか一方の満足でしかないのだと。

〇最後に
 被害者視点で見れば、極悪な犯罪者なんてどうなったていい。むしろより残酷な形で痛い目に遭ってくれないか、あわよくば死ねばいいのにとまで思うことだろう。この作品は逆に加害者側からの展望となる。本来であれば、こんな男は死んで当然だと感じるべきところだろう。1周目の生であればそのように見方が変わっていたのかもしれない。しかし2周目は記憶喪失ということで被害者側に近い形となる。それにより明らかになる殺人犯の被害者側の執拗なまでの復讐心。それを目の当たりにすることでふと疑問に思う。加害者の罪と償い、被害者の傷や復讐心とはどのように釣り合いを保つのかと。そして償いとは一体何なのか、どうあるべきなのだろうか・・・と。

2015年2月20日金曜日

ウォー・オブ・ザ・ワールド(2014)

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~まだ、終わりじゃない~

〇はじめに 
 原題が「AGE OF TOMORROW」 
・・・ふむふむ。 

〇想起する作品 
・「エイリアン2」(1986) 
 クイーン。 
・「インデペンデンス・デイ」(1996) 
 一緒に戦ってくれる仲間募集。演説。エイリアンとテレパシーで意思疎通。 
・「アルマゲドン」(1998) 
・「ディープインパクト」(1998)
 隕石降ってくる。爆破へGO。
・「宇宙戦争」(2005) 
 娘愛。 
・・・・などなど

〇こんな話 
 「巨大な何かが地球に向かってきている。ちょっと爆破しに行ってきて。」
と宇宙に飛び出していった荒れくれ軍人さんたち。その時地上では斧を片手にある男が娘を救おう奮起する。突如はじまった宇宙(母星)と地球で繰り広げられるホーム&アウェイでの同時異種間戦争。その決着は如何に!?

〇戦い 
 宇宙と地球の連中をどうリンクさせるのかと。おそらくは親にとって子供が全てどうのこうのという部分なのだろう。地球で戦っていた、娘への溢れんばかりの愛情を抱き、娘の死が近づこうとも諦めず戦いを続けようとする父親。片や子どもがいなくなり、生きていく意味が無いと大尉に介錯をしてもらう誰かの母親。こんな対比からいったい何が見えてくるのだろうか。現実と理想云々言いたいのだろうか・・・。 

 俺が死んでも仲間たちがお前らを殺しに来る、というエイリアンたちへの大尉の言葉が、最後別の殺しに来た者に見事そっくりそのまま返ってくる。異種間の戦いはそれぞれの種の存続のためにどちらかが駆逐されるまでひたすらに続く。同種を殺されたことによる恨み辛み、その感情で互いに他種を駆逐しようとする。それが地球人側の親子愛云々(あと仲間)の関係で描かれ、おそらくあちらさんもそうなのであろうという演出があったような無かったような、無かったかな・・・。女王を生かすとか何とか言ってたな、そういえば。まぁ種の存続云々言うてますが、戦争は繰り返されると、いや終わらないと、そんな感じです。

〇余談 
 こういう映画で何がおもしろいって、やはりいきなり出てくる特別な連中たちだろう。なぜか任務に大抜擢され、俺たちかっこいいでしょとアピールをしてくる輩。普段であればそんな特別な存在に憧れるであろう者たちを、見事に置き去りにする突飛な登場。いきなり誰だよ??と。そして案の定大したことない腑抜けた活躍。キャラが立たずにさようならと。すばらしい、私が求めていたものばかりだった。 

 エイリアンたちの探索手段が目視確認のみというのもなかなかにおもしろい(音にも反応していたか)。我々人類と何ら変わり無い方法を選択している。時空間を移動する技術を有しているのにだ。五感を使う分人類の方が優れているのではないかとも思わせるエイリアンの愚行。滅ぶのも時間の問題だろう。

〇最後に
 まだ、終わりじゃない。いや、始まってすらいなかった。

2015年2月18日水曜日

ミュータント・タートルズ(2014)



~シンプル~

〇はじめに 
 吹き替えに版にて鑑賞。
 ベッキ―と泉ピン子さんは声優に向いていないことがわかった。お二方好きな私ではあるが、吹替えが気になって気になって最初から映画に入り込めなかった。なぜ完成された十二分においしい作品に、独自の奇抜なアレンジを加えるのだろうか。私が字幕版を観れば済む話なのだが・・・。 

〇こんな話 
 亀とネズミと人間が、悪を成敗するお話。 

〇シンプル 
 子ども心をくすぐるであろう単純なる「力VS力(剛VS剛)」の演出が映える壮大なアクションシーンは必見だろう。できれば柔よく剛を制す演出を入れてほしかったが、んなこた関係ないと。そんな挿んだら迫力無くなっちまうだろうがよと。 
 ティーンエイジャーを強調するのも正義とは何なのかと言うところなのだろうか。悪を許さない、許せない純粋無垢な存在とでも。それ故の幼さが残るキャラも何か好感が持てる。悪に屈する、ある程度受け入れる、無視するといった世間で大人と言われる者が選択する行動。悪を倒すためには悪で対抗するといった必要悪の存在。正義と悪の関係ってのはそんなに複雑に考えるものだったかと。悪がいたら即成敗。地上に出ることを禁止されていながら、悪を見逃せずに飛び出していく。彼らのスタンスを最初にはっきりと描き出す。もっと単純に行こうぜと。何をそんなに複雑に考えているんだ。まずやってみろよと。それからのことなんて結果が出た後考えれば良いんじゃないかと。そう言われている気がした。 

〇余談 
 空手や忍術ってのが向こうでの日本文化の主流なのでしょうね。 

 師に当たる者をタートルズ側で先生、フット軍団側でマスターと呼び分けていたのは何だったのか。「スプリンター先生VSシュレッダー」において「ヨーダVSドゥーク伯爵」を想い起こしたことに関係があるのか。あとクワイ・ガンも垣間見たのだが・・・。先生はジェダイの恰好しているように見えたし。 

 バケツ落としと言う名のジェットストリームアタックはかっこよかった。ガンダム実写化してくれるのか!? 

 それぞれの漢字が把握できんかったな~。特に意味は無かったのか・・・。かっこいい漢字をタトゥーにするとか、響きの良い単語のTシャツ着るとかのノリなんすかね。 

〇最後に 
 いや~、おもしろかった。しかしそれだけに吹替えが本当に苦痛でもあった。ただただ残念である。

リーピング(2007)

リーピング[DVD]

~定説~

〇想起する作品 
・「レッド・ライト」 (2012)
主人公の見解と超常現象に立ち向かう姿勢。 
・「シェルター」 (2009)
こちらも上記の作品と同じような理由。 

〇こんな話 
 有害廃棄物の不法投棄などが原因による、奇跡とは名ばかりの症例。全ての奇跡には科学的証拠・根拠が存在する。という見地、見解を持っている主人公が、ある町で出エジプト記の十の災いを基に起こる超常現象に挑むお話。 

〇騙される心理
~天使か悪魔か、悪魔か天使か?~ 


 悪魔とされている人物が実は天使という設定で、それは悪魔とされる町の住民たちを排除しに遣わされたとのこと。住民(悪魔たち)は、それを阻止しようと少女を殺そうと試みるが不可能だと悟る。さぁ~どうしよう。主人公に殺らせようぜ・・・となったわけです。劇中確かに天使と悪魔に関して、どっちがどっちという明確な位置づけはなかった。しかしそのように考えを持って行こうとしているのは感じた。それを勝手に読み解いていく。

 まずなぜ天使と悪魔の情報操作が必要だったかを整理する。悪魔たちの目的は彼女に少女を殺させることだった。彼女を村に呼び寄せる方法として、村の不可解な現象の調査を依頼するのだが、それだけでは足りず少女の話を口にする。仕掛け人は主人公に少女を守るためという理由で同情を引き、村におびき寄せたということになる。おっとここで矛盾が生じる。少女を殺すという目的と、少女に同情を引くというところだ。彼女には娘と夫をある事情で亡くしているという背景もあり、そんな彼女の少女に対する同情を、殺意という感情に変換させるのは至難の業である。つまり、少女を殺せるのは彼女しかいないというところに跳び付くあまり、村におびき寄せるということに執着し、連れて来たはいいがそこからが杜撰だった悪魔たち、と言ってしまえばそこまでなのだが、彼らもそこまで馬鹿ではなく、どうにかこうにか天使と悪魔を混同(逆転)させなければとヤキモキする。彼らはどうやって彼女の思考を操作しようとしていったのか。いや彼女が勝手に思い込んでいったのか・・・。

 まぁ簡単に言ってしまうと、ひたすらに少女を助けようとするスタンスは変わらないものの、だんだんとごちゃごちゃしてきた最中、愛する者?が死んで、少女にそれを押しつけて殺そうとするに至る、ってな感じ。

・演出 (これは我々への印象操作)
 最初に調査している際に主人公が悪魔(サタン)と罵られる場面が存在する。このあたりから天使やら悪魔やらが関わってくるだろうと印象づけられる。天使と悪魔という見方と、主人公視点で話が進むことを組み合わせると、主人公が理解し判断・行動することは、全て善の方向へ導いてくれているという錯覚に陥る。故に主人公が善、調査対象が悪魔という風に。疑ってかかるスキはいくらでもあるが・・・。 
 次~、町の名前がHAVEN。え、HEAVEN? 向こうの人にしてみたら、まったく違う単語だから何も引っかからんか。私の語学力の無さが伺える・・・。

・誤認 
 定説の誤認、誤解釈が最後の悲劇を引き起こすであろうENDの原因となった。劇中で起きる出エジプト記に基づく災いをどこに位置づけるのかというところが問題となる。悪魔たちが主人公を、天使(悪魔とされていた)を滅ぼさんとする方向に持っていきたいがため、と、主人公とその周りの者による誤った解釈の提供により、定説の誤認は起こった。正確には定説に対して照らし合わせるべき事象を取り違えていた。しかしそれは最後まで全く(とは言わない)わからない。少女が天使なのか悪魔なのかという混同にばかり頭が行ってしまったからだ。そして一筋縄ではいかないハッピーエンド(エンドレス要素)。悪魔は滅び、少女は救われた。しかし真の悪魔という一抹の不安はぬぐい切れずに終わる。最後やっと納得する。さすがだ、彼ら(悪魔)をはじめに馬鹿にしてしまいすみませんでしたと謝ざるをえない。以下詳しく。

 定説とされていたこと 
1,初子は刻印を残され子孫を残すために生かされる。第二子以降は全員サ
 タンへの生贄として捧げられる。 
2,犠牲が払われ完全な子を授かる。無事に思春期を越した第二子がサタン
 に生まれ変わる。 
3,サタン全盛の時、神は天使を遣わし彼らを滅ぼす。 
事実に対して盲目でこれを読み解くと・・・
 まず1,2より
村は第一子だけで構成されており、第二子以降はサタンの生贄として捧げられている。その中でローレンという少女は第二子で、且つ思春期を超えるにおいて条件を満たしている。村人たちが善であると勝手に仮定し、出エジプト記における災いは、サタンになるべく少女を守るためのものととれる。故に少女=サタンである。彼女がここを決定的に信じ込むのは、愛する者の死によってである。
 次に3より、
出エジプト記の災いの最中、調査と言う形で主人公がやってくる。ある者の助言で天使とは時に聖職者を意味するという知識が付加される。彼女は現在では信仰の欠落はあるものの、以前はそうではなかった。牧師であった。故に条件を満たしており、彼女=天使となる。

 彼女が少女を殺すことで、天使がサタンや悪魔たちを滅ぼしたことになりハッピーエンドと。

*補足
 父親がこの情報を提供しており、過ちが起きてしまったのはこの人物の所為ではないかと。しかし彼はこの順番による解釈を提供した後に何者かに焼き殺されてしまうので、おそらく悪魔たちの掌だったのでしょう。後々解釈を正されても困りますから。すなわち最後の最後まで悪魔たちの想定内と。

 しかし実際は順番が異なり、
1,初子は刻印を残され子孫を残すために生かされる。第二子以降は全員サ
 タンへの生贄として捧げられる。 
2,サタン全盛の時、神は天使を遣わし彼らを滅ぼす。 
3,犠牲が払われ完全な子を授かる。無事に思春期を越した第二子がサタ
 ンに生まれ変わる。 
・・・となる
明かされていく事実を基にこの順番で読み解くと・・・
1の事項が描かれていなかったのだが、終盤になり村でこの生贄が行われていたことが発覚する。そして少女の記憶により、悪魔たちが少女を殺そうとしていたことが発覚。ここで少女=天使であると確定する。そして村人たちが悪魔であったと。
ここまでは良かったんですよね。もう一段階ありまして、悪魔もしっかりとやることをやっちゃってまして、お腹の中には・・・。主人公に娘(第一子)がいたというところも問題になってくるわけです。彼女が天使であるというミスリード、単にトラウマや信仰から遠ざかった理由だけの演出ではなかったと。

 そもそも定説となっているものは、ある程度順序立てて解説が為されているのではないのか。まだまだ解明や解釈に難がある神話が多いのだろうか。むしろ大きなイベントをループさせるために、誰かしらが作為的に間違ったカタチで記しているものがあるのかもしれない。それに解釈は人それぞれで、それが伝言ゲームなカタチで伝えられているものもあるからな。そりゃぐちゃぐちゃになってるものもあるわなとも。

〇余談 
・字幕・吹替えに一言 
 今はpHをペーハーとは言わんぞ・・・。まあペーハー値という言葉にしていたので、値(あたい)的な意味を強めたかったのでしょう。ピーエイチ値(ち)とは発音しにくいでしょうし、聞き取りにくくもあると思うので。別にどっちでも良いんですけどね・・・

・さりげない台詞
 ある妊婦が、主人公の「お腹の中の子供の性別はどちらか」という問いに、「どっちでもいい」と答えるのである。これが最後関係してくるとは思わなんだ。

 あと男がね、妻の墓前で男の子を望んだどうのこうのとね。

 彼女の発言の中にも、ちょくちょく考え方に関するヒントが散りばめられている。
「赤い水(ある現象)の説明ははいくらでもできる」
「木を見て森を見ず」
・・・などなど

〇最後に
 トラウマなどにより彼女の少女を守るという気持ちが、迷いや混乱のある中、愛する者の死により殺意に変わる。終始悪魔は天使を殺そうとしており、天使は災いにより悪魔を排除しようとしている。三者を比較してみた場合に唯一意思の変化が見られるのは人間だけなのだ。う~む、おもしろい・・・。

2015年2月15日日曜日

名探偵コナン 天国へのカウントダウン(2001)

名探偵コナン 天国へのカウントダウン[DVD]


~重力には逆らえない~

〇はじめに 
 劇場版第5作目 
 この作品は毛利蘭がものすごくたくましく、頼もしく見えるのである。 

〇想起する作品 
「タワーリング・インフェルノ」(1974)

〇こんな話
 俺は食に目が無い男、小嶋元太。今回はコナンを差し置いて参上さ。最近、うな重一筋だった俺に変化があったんだ。光彦が俺に内緒で高校生の蘭姉ちゃんに恋愛相談。歩美と灰原が好きなんだってさ。それに前から好きだった歩美はというとコナン一筋ときたもんだ。そしたら気になりだしちゃったんだよな、灰原のことが。茶碗に最後までこびりついている米粒みたいに。もちろん俺にとってのうな重は歩美だけどな。うな重喰いてぇぞ~。

 キャッチコピーは「お前のことが好きなんだよ、この地球上の食よりも」

〇重力
・エレベーター 
 展望エレベーターの定員大人9名 最大重量585kg(一人65kg換算) 
女性が8人と子ども4人が乗った状態で、コナン君が乗ろうとすると重量オーバーになる。 女性全員65kgとして残る子供たち分が65kgと。小学一年生の平均体重は20kg前後。歩美ちゃんと灰原哀はもう少し軽いだろう。さらには他の女性たち皆が皆65kgとは考えにくい。少なからずマイナスが発生するはずだ。しかしそのマイナス分をも帳消しにする存在がいる。誰だ誰だ? お前だよ元太!!ww 

データがありました。 
歩美ちゃん 15kg 
灰原哀     15kg ??   
光彦      20kg
元太      40kg   計90kg也(25kgオーバー)

女性陣の平均体重を暴けるな・・・
25kgオーバーを解消するために、まず女性陣それぞれから引く。
25kg÷8人=(一人あたり)3kgちょい(のマイナス)
平均体重としていた65kgから3kg引くと、62kg。これが上限である。
 補足:上限=コナン君が乗る前にリミットいっぱいだった。
次にコナン君が乗ったところでブザーが鳴る。コナン君の体重は18kgなので、ブザーの鳴る手前17kgと設定し、女性陣の体重から引こう。
17kg÷8人=(一人当たり)2kgちょい(のマイナス)
先ほどの上限の62kgから2kg引くと60kg。これが下限である。
 補足:下限=コナン君はあともう少しで乗れた。
故に女性陣の平均体重は 60kg~62kg  の間ということになる。あくまで平均ですよ。お忘れなきように。

平均体重からアプローチしたが、合計体重から入るとこんな感じか・・・
上限 (585-90)÷8=62
下限 (585-107)÷8=60

ブザー鳴ると恥ずかしいですよね・・・。太ってるだけで原因を絞られますから。
元太!! お前のことだぞww

〇ひとつの真実
 今回明らかになる真実はこれだ、

~元太は灰原が好き~ 

「米粒一つ」というのがキーワード。 
元太が灰原哀を形容する言葉。これをおそらくほとんどの人がたかが米粒一つと馬鹿にしているような発言に捉えてしまっているのではなかろうか。灰原もその一人。しかしそれは誤解だ。映画の最初でも光彦に対して言っていたが、されど米粒一つなのだ。親の教育の賜物であろうが、元太は食に対して、というよりお米に対して残さず食べねばならないという義務感がある。その義務感と捉えてしまうと灰原哀を助けたことはただの責任のように思えてしまうのだが、そんなことよりも元太は食を愛している。何かにつけてまずうな重を連想する。うな重を中心に物事を考えているほどだ。そう考えると、元太の灰原哀に対する発言は、それほどまでにお前を大切に思っていると告白しているととれるのである。
プロポーズは
「俺の、最後の一口になってくれ。ごちそうさまは言わないけどな。」
・・・てな感じでしょうか(笑)、・・・笑いが止まらん・・・

〇疑念 
・確認作業 
 園子のウェーブかけた姿で宮野志保を連想するコナン。コナンが間近で連想するほどだから、スコープ越しのジンなんかは区別つかんだろうな。少し言わせてもらうのなら、奴らって人を殺す際に事前調査(身辺調査)とか無いんか。確かにツインタワービルに赴くという情報は得ていた。しかしその後の判断が目視確認だけってのは、間違えられた被害者としてみたら堪ったもんじゃないよなと。 

〇余談 
 森谷帝二の話持ち出して爆発を示唆させるもんのなぁ。 

 光彦の風間さんへの質問の時に緊張して話題をはぐらかすんだけど、その時も富士山見えるどうのこうのと示唆するからなぁ。

 阿笠博士と灰原哀って同じ部屋で寝てるんですね~、へぇ~。

 ジンって左利きなんだなぁ。
1話を見直したのだが、バットは右手に持っており、コナンに薬を飲ますのも右手で行っている。バットはあれだが、動かない人間に対してこのような細かい作業を行うのはやはり利き手であろう。作業の前に利き手でこうだからというように、利き手ありきでそこまでの行動をしないだろうか。おやおや、わざと利き手ではない左手を使用しているのか。動いているエレベーターの中にいる標的を前にして。なんという余裕。公式では左利きなのかな・・・。
 いや待て、コナンのメガネに問題があるのかもしれない。鏡像というやつだ。んなわざわざ・・・。

〇最後に
 複雑な恋愛模様を呈してきた今作。黒の組織なんてどうだっていい。はやくこっちに白黒つけてくれ。ではでは・・・。

フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ(2015)

字幕翻訳:栗原とみ子 

~フォーティエイト・ハンズ・オブ・プレイ~ 


〇はじめに 
 冗談は止してくれよ。世界人口で男女比って男の方が多いんだろ。こんな男に1億人の女性が殺到するだと。どうなってるんだよ、まったく・・・。世界は大丈夫か?? 

〇想起する作品 
満足できなかった方へ・・・
・「変身」新堂エル 
・「ナナとカオル」甘詰留太 
あと月野定規先生の作品とか読んどけば良いのではないでしょうか。 

〇こんな話 
 男と女をつなぐものは何なのか? 鍵穴にぶっこむ鍵なのか、ソーセージやウインナーなのか、大人のきのこの山なのか、はたまた快楽の先にある卵子と精子なのか、・・・子供か。「クレイマー・クレイマー」??

〇表現 
 「愛が全てだ」と誰かが叫びましたが、愛の形にはいろいろあるとも聴きます。そしてその両者を繋ぐ愛というものの表現にもまたいろいろあります。彼らは1つの方法としてセックスを選択しました。さらにそのセックスにも様々なカタチがあります。愛の確認、子作り、肉欲、何を求めてその行為に及ぶのかと。さらにプレイ内容もまた様々で、男性上位なのか、女性上位なのかと。究極SMプレイですわ。さらにさらにどんな体位が好きなのかと。どんなことをしたいのかされたいのかと。どんな流れなのかと。 
・・・もう知らんんがな!! 
と、まぁどこまでもどこまでも追求できるわけです。それをとことん追求しようとしたのが男の方で、愛は理屈じゃないのよと男の心を開こうと試みたものの投げ出したのが女の方で、みたいな感じですかね。その両者の関係性を男性上位に確定づけるのが契約書であったわけで、男への屈服を意味するそれに女は頑なにサインをしないわけです。その女の焦らしが男の変化をもたらしたとかなんとか、実は過去に闇がとかなんとか、その辺がテーマなのでしょうよ。
・・・知らんがな!!

 物語を簡潔にまとめますと、

 :「俺様のセックスは自由である。契約結んだ相手となら誰とだってする。たまに例外も作っちゃうしね(テヘペロ)。だけど、お前は俺以外としちゃダメ~。あと相手を痛めつけることでしか、感じない特異体質なんだよね。お前は俺を愛しているようだから全部容認してね。一応契約を結ぶ上で、希望は聞くよ。・・・うじうじ言ってねえで、はやくヤラセロヨ!!」

女 :「やっと王子様(イケメン、金持ちに限る)が私を迎えに来てくれたわ。これが恋なのね。夢に描いていた真実の愛を掴めそうだわ。SMはちょっと引いちゃうけど、彼が言うなら。でもなんか違う気がするのよね。体は反応しちゃうけど。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(いろいろありまして)何でわかってくれないの!! さよなら」

・・・です。多分。

〇余談
 Hの後にはIがある。Iの後にはJK・・・いいえこれは女子大生です。いや、何でもありません。
 あとタイトルはふざけました・・・

 フィルムに落書きしたの誰だよ全く。ナニがどうなってるのかわからんではないか。闇に堕ちてくみたいな演出を兼ねてたのでしょうか?? なわけあるかい!! 勝手に修正しやがって・・・なのかな??

〇最後に 
 まず世の女性は原作のどこに惚れたのかということを知らずして言うべきなのではないのかもしれないが、これのいったいどこがおもしろいのか??と叫びたい。文字媒体では何か心ひかれる言葉遣いや表現があったのでしょうか。何か官能美を感じるような世界観だったのでしょうか。それとも単に一部の層に需要があるような自慰行為にふけるためのものだったのでしょうか。う~む、さっぱりだぜ。
 あれですか、男に当てはめると綾波レイに惚れてしまうみたいな感じですか??

2015年2月14日土曜日

YES/NO イエス・ノー(2012)

YES/NO[DVD]


~とある宗教の洗脳テクニック概略(実験と名指された)~ 

〇こんな話 
 TRUE LOVEというキーワードのもと行われる実験で、閉鎖的空間に閉じ込められた男女(夫婦)がそのキーワードである真実の愛に近づいていくさまを描いた映画。 
*TRUE LOVE は 愛こそ真実と訳されている。 

〇真実の愛へ 
 表向きは仲のいい夫婦でも、裏はいろいろドロドロしていまして、そんな中その夫婦はそれでも相手を信じられるのか・愛せるのかとひたすら問われる実験に巻き込まれるわけです。 この実験は二人の全容を知る何者かがいて、二人に対して断片的な確実に疑心暗鬼に陥る映像を見せては、これでもかこれでもかという具合に質問していきます。で、最終的に二人は互いに全てを理解し、受け入れ真実の愛にたどり着いたと・・・。はぁ?
 ぶっちゃけ、訳分かりません。こんなのただの洗脳です。この先二人に待ってるのは信頼でも信用でも真実の愛でもありません。ただの信仰心です。こうやって人は何かに縋りたくなるのです。 状況的には執拗な取り調べと同じです(映画の知識ですが・・・)。閉鎖的空間、絶対に受け入れられない供述、威圧的な刑事。無傷で脱出は不可能とわかれば、唯一の希望に縋って最小限のリスクでの選択をするでしょう。いくらでも抜け穴はあるわけです。この二人はなぜか真実の愛を掴み取ることだけが脱出の鍵であると思っていたようですが・・・。そんなところに何が真実の愛ですか。

 人間は言語が発達したために100%の相互理解は不可能となりました。なぜなら他人の感情の度合いがわからないからです。それを表現するのが言葉ですが、自分の思考と言葉での表現とでは誤差が生じます。感情と言葉が100%一致することはないからです。さらにその表現の受け手によっても誤差が生じます。同じ表現でたくさんの意味や度合いを表現するからです。それらを補おうと表情や身振り手振り等使いますが、やはり限界があります。でもそれがいいのだと私は思うのです。完全相互理解とはおそらくシンクロ状態に陥ることです。仮に今日みられているものがあるとして、それは今まで過ごしてきた経験によりある程度先読みする程度のものだと思っています。しかし、シンクロ状態が完全なものになったとしたら・・・どこまでが相手でどこまでが自分なのか? 究極それは個性がなくなります。
‐‐‐ここから話が飛躍‐‐‐ 
 進化の果てにひとつの完全なる意思のもと人類(と呼べるものかはわからない)が存在することになる、可能性すらあるのです。そうなれば区別の基準が統計学的なものではなく、その崇拝されるべくひとつの意思となります。お互いに関心・無関心とか言ってる場合ではなくなります。

 仮に100%の相互理解が可能としてお互いにその人の全てを知ったらその先に何がありますか。次に知りたい(欲しい)ものが必ず出てくるでしょうが。人間は欲の塊です。完全理解したものなどにもう興味は示しません。底が知れるということは飽きがきたと同じことなのです。常に新たな発見を求める。それが知です。ということは完全相互理解したカップルに待つのは破局のみです。 お互い秘密があるから不足しているものがあるから、それを知ろうと補おうとコミュニケーションをとるのです。その溝を埋めあう(理解し合おうとする)行為こそが愛(につながる)だと私は思うのです。そしてそれは確実にゴールがない。あきらめるのか、あきらめず追求し続けるのかの違いがそこにあるだけです。

〇最後に
 結婚とは元来、分離されていた二者の再統一であり、その二者一体の関係に置いてエゴを犠牲にするための試練である、とある本で読んだ。この作品はそれを表現したかったのかもしれない。

くちびるに歌を(2015)



~心・技・体~ 

〇はじめに 
 試写会にて鑑賞。

 この作品は作品自体の物語だけでなく、鑑賞者各々の過去にあった何かしらの思い出補正があってはじめて完成する。最後会場内にて拍手が沸き起こったことでそれを確信した。鑑賞者のほとんどが1つの映画として鑑賞していたのではなく、この作品の中に自分を見出し、自分の過去を想い起こし、準えていたのだ(人間ドラマというのはそういうもんだ、んだんだ)。思春期やら反抗期やらに詰まった青春を謳歌できる時代特有の記憶の名残りを。これは邦画の長所であり短所である。日本独自のお国柄、文化、人柄を交えることで、精神的な部分の表現を特化させ、我々が身近に感じる、感じてきた場の雰囲気を作ってしまう。それにより多くの共感や感動を呼び起こす。しかしそれに頼るがあまり、限界点や問題点も明らかになることとなる。おそらく劇中釈然としないそんな思いを持つ方々が少なからずいたことだと思う。そんな方々はこの作品を安っし~ドラマだ、茶番だ、などとしか評価できないことだろう。

〇想起する作品
 「TARI TARI」(2012)

〇こんな話
 歌ったり、泣いたり、笑ったり、するお話。


〇心・技・体
 汽笛の伏線は読めんかった。最後の最後で不意を突かれた。やられた感があった。 絶対に関係を持っていないであろう両者をつなげるのは見事だった。なぜお兄ちゃんが上機嫌の時に汽笛の真似をするのか。桑原君が行方不明のお兄ちゃんを探しに教会へ来たのはなぜか。探しに行った教会にナズナがいたのはなぜなのか。そんなこんなが繋がって、最後の最後の大合唱は聴き入ってしまったくらいだ。しかしだ、ここをうまいと思う反面、前向きだか前へ進むだかを意味し、彼らを勇気づけていた汽笛というキーワードが際立ってしまう分、他のところで腑に落ちない点が出てくる。

 15歳という年頃、特有の精神的な闇。これの解消や解決に向けて動き出そうと決意する部分がスタート地点である。そのきっかけ(精神的作用)として大きなものが汽笛であったことをまず理解いただく。
 次に彼らの合唱部と言う活動内容や姿勢である。全国大会へ行くことを目標に掲げる部員たちに対し、臨時教員ことガッキーが「あなたたちのレベルでは無理だ」と烙印を押す。さらに、合唱部は文化部という偏見の根強さに対し、それを腹筋や、空気椅子?、さらには走り込みなどで運動部に負けず劣らずの体育会系であることも演出している。
 これらにより何が意識されてしまうのか。スポ根ドラマが頭をよぎるのである。そこで私の中に勝手に沸き起こる「心・技・体」という言葉。この3つが揃ってこそのスポーツ競技。はてさてこの作品において「心・技・体」はどのようなバランスを保っていたのだろうか・・・
・・・「心>>>技・体」
なのである。
 何が言いたいのかというと、この作品は心の部分が際立ち過ぎてしまっているということだ。確かに精神的成長や変化を描くことが人間ドラマだ。ドラマとはそういうものであることは重々承知している。しかしスポ根がよぎってしまう私にはしっくり来ないのである。技・体の部分の成長があまり観られないからである。合唱部ということもあり、実力というものが目に見えにくく、対比する勢力が描かれない、描きにくいというのは致し方ない。コンクールまでをパート別の練習に費やし、本番になって皆揃った合唱が行われることで、1つになっていく過程と観ればそれでいいのかもしれない。最後の最後で1つになる。そしてさらにその先の段階があったと。
 しかし「心・技・体」というキーワードを勝手に設定し、このドラマを鑑賞すると、心が際立つことで一つ大きな問題が出てくるのである。各々どこで植え付けられたかは知らないが、精神論や根性論を強く持ち出してくる教育界の闇、その世界特有の差別や偏見が顔を出してきてしまうのだ。努力は必ず報われる、努力した者こそが勝利者だという洗脳じみた指導。そして結果云々に、結果が出なくともそれまでの過程こそに意味があったのだ、などという慰み合い。これを精神論・根性論で結びつけてしまう強引さ。その思考が良いか悪いかはわからないが、この論理を胡散臭いと思う方は多くいることだろう。そしてそれがチラつくと・・・。
 そしてもう1つわかったことがある。はじめに書いた、この作品が思い出補正によって完成・完結していることだ。おそらくこれが、心の部分が際立ってしまう原因である。邦画故の雰囲気なのであろう。我々(というより私自身か)が勝手に共感し、何かをこの作品に求めてしまう。そんな心情が感動を呼びつつ、ひねくれた見え方をもしてしまう。

 まぁ全国への切符は逃すし、ガッキーが烙印を押す様子も彼女の心を溶かす上で必要なキャラ設定であるわけで、(勝手に持ち出している)スポ根要素は十分に解消されはするのであるが・・・

 遊び半分であった男子たちが率先して練習するようになったり、アドバイスを求めるようになったりと、心の変化とともに行動の変化は確かに見られた。これを、これこそをもっと見たかったのである。何かを決心することは誰にでもできる。その何かのために行動に移すことが難しいのである。そしてそれを継続することがさらに難しくあるのである。しかし劇中における時間の配分が、迷いから決心に移る期間より、決心から結果の期間の方が短く感じられてしまうのだ。体感の時間として、負の面は正の面より長く感じるものではある。しかし努力の部分が省かれ、精神的な面の際立ちを感じてしまうと、根性でどうにかなるという胡散臭い思考に対し、さらに無責任さが付け加わり、尚のこと胡散臭く受け止めてしまう自分がいるのである。面倒くさい性格だ・・・。

・・・精神に関する病が深刻化してきている現代においては、この感覚くらいがちょうどいいのかもしれない。勇気づけられもするでしょうし。

 この作品をひたすらにひねくれた見方でまとめると、古き良くも悪くもある学校教育における偏見や差別を、大人になったであろう者たちに受け入れられやすく、良い部分だけを想い起こさせるお話、ということになる。 どんな境遇にあろうと、様々な出会いや自らの決心により、前向きに立ち向かい、立ち直ることができた者にのみ許された境地。そんな場所があるよと努力を強いる、教育界にありがちな精神操作。それは我々に何をもたらしたのか。この作品に単純に感動するだけでなく、今一度考えてみてほしい。そんな考えが起きないほどに、教育における洗脳は功を奏しているか。正直に言う。最後の会場全体での拍手にはおどろいた。嘘だろ・・・と。ここまで闇は深いのか・・・私の

〇余談 
 演者の表情やビジュアルに相当気を使ったのではなかろうか。デコ見せ、ツインテール、ショートカット、ぱっつん前髪などなど。それ故に不純な動機でこの映画を楽しむ方法もある。
 私は長谷川コトミ役の山口まゆさんに惚れた。笑顔がとても素敵です。目立たずひっそりと学校生活を送ってきて友達のいなかったであろう桑原君に対して笑顔で声を掛ける女の子です。さらには声綺麗だもんねと・・・惚れてまうやろ~。まずなんで俺(大丈夫、お前じゃないよ)の名前知ってんねんと。あんまり接点無かったのに、声のことまで。私が15歳だったら勘違いを起こしているところです。あぶない、あぶない。
・・・あなたは誰がタイプですか??

〇最後に 
 この作品は焦点を当てられた人物全てに共感・感動できるようには作られていない気がする。女教師、女子生徒、男子生徒と三者が主になるわけであるが、私は特に男子生徒に関する部分にのみひたすらに涙した。見る者の年齢や性別、性格や経験値といったものが関係しているのだろう。どれかに共感・感動できればこの作品は高評価になることはおそらく間違いない。最後それぞれに気を使いながら歌に乗せて思い出を想起させてくれるからだ。しかしそれで煙に巻かれてはならない、邦画ならではのドラマの限界点や問題点も私の中で勝手に明らかになった。これに懲りずまた邦画を鑑賞してみることとする。

2015年2月11日水曜日

ジョーカー・ゲーム(2015)



~D?器官~ 

〇はじめに 
 この監督・・・いや脚本家か、はおそらく根底から何かを勘違いしている。「MONSTERZ」もひどかったぜ、おいおい・・・と。 

 劇場を出て「よくわからなかった」と話している人がいた。この映画はわかるもわからないも、映画の中で全てドヤ顔で解説してしまっている。余韻や考える要素を全て排除してしまっているのだ。だからこそわからないと観客に言わせてしまうのではないか。そして作品の内容がわからないのではなない。おそらくこの映画の何がわからないのかをわかっていない。 

〇こんな話
 情に厚い男が、助けたり、助けられたりするお話。


〇要素(文句)
・能力の提示 
 情に厚い演出は良い。主人公としての制限性をうまく際立たせている(とは言うものの基本的にどんな主人公も言わずもがな情に厚いよねと・・・それを言ったら・・・)。同じ部隊所属(日本人か)であれば他人ですら助けようとするといった演出だ。そしてそれがD機関という演出を活かせもしたのでありだろう。
 しかしだ、ここからがいただけない。D機関に入ったは良いが、他のキャラが立っていないにも関わらず、亀梨和也を引き立たせようとする。これには無理がある。無理と言うのは、亀梨和也ありきになっていると言った方が良いのだろうか。最初の彼の能力の提示が瞬間的な状況認識であったことも弱くはあるのだが、これから対立するであろう他国の敵を前に、彼の能力がどこまでのレベルにあるのかという設定を、まず国内で比較し演出すべきなのだが、訓練において一切してくれないのでキャラをそれぞれ把握できないのである。そんな能力全員持ってるぜと他のキャラのレベルの基準や指標を見せて、訓練で駆け上がっていくぐらいできたはずだ。1つとして、演出の順番を変えるべきではなかったのか。最初にポーカーをするべきだったのではと。自分(軍人)以外全員一般人という台詞があるにはあった。しかしそれをポーカーでの談合でわざわざもう一回演出する必要性があったのかと。ポーカーで一人軍人であることと談合とで一気に意識付けさせればもっとしっくりきたのではないか。一回一気にどん底まで落としておけば、もう駆け上がるだけで、亀梨君を見事なまでのダークホースに仕立て上げられたではないかと。そして技術訓練でオールマイティな亀梨と、彼のそれぞれの能力を上回る特化型の仲間たちを比較させておけば、シリーズ化させていく上で必要となってくる仲間たちの演出も活きてきたのではないだろうか。ひたすらにもったいない。

 潜入する上での毎回変わるであろう与えられる身分(キャラクター設定)。シリーズ化するならばこれが活かされてくるのだろう。故にここをもっとサラっと観せられなかったものか。主人公が「もう覚えました」みたいに台詞で言ってしまうんですよ。ここを口調や口ぶりを変えるとかね。キャラにすでに成り切るとか、決め台詞を作って後々活用していくとかもできたわけじゃないですか。
 チェスに口を出すシーンもですよ。「失礼」と言って自らが指すのではなく、打とうとしている人物に対して、動かす場所を提示するような横槍を入れることもできたわけですよ。まぁでも紳士で通すなら、こちらは無しかな・・・。
 この辺の演出がもっと楽しめるものであれば、続編はどんな設定になるのだろうと、勝手に展望できたではないですか。

 主人公の服の色を白ベースで、深田恭子をメイド服で白と黒であつらえる。この対比も安直だよな~。

・二重スパイ 
 スパイ合戦における情報戦は一番に重要な要素である。如何に相手を騙し、鑑賞者の目を欺くのかというのが見どころではないのか。製作者と我々鑑賞者との情報戦と言うべきか。そして感心、納得させてしまう主人公の能力。それがあってはじめてスパイ映画と成り得る。そんなシーンがこの作品には皆無なのである。最後の最後で明かされる二重スパイの一人。これも甘いったら甘い。なぜタネを事前に全て見せていながら、最後の最後のネタバレでドヤ顔できるのか。頭大丈夫か? 
 二重スパイという要素を最初からちらつかせすぎなんだよ。鑑賞者の頭から一番に排除すべき要素ではないか。D機関から陸軍へ裏切りを見せる人物の存在。その場面でなぜ盗聴器を見せてしまう。そしてこの人物の設定である。母親どうのこうのと。この設定を主人公が英国諜報部へ二重スパイになると持ちかけるシーンで使ってしまうのがまた残念なのである。咄嗟に思いつくようなありふれた設定だということを、知らせてしまっているようなものではないか。そして敵国の二重スパイに助けられるシーンもそうだ。暗号によるやり取りや、Dの文字の意味。これを直後にドヤ顔解説。オチに向けてどんなトリックが待ち受けているのかと期待する反面、まさかまさかとこっちがひやひやしましたよ。そして案の定・・・と。

・隠し場所
 金庫が隠し場所ではなかった、からのチェス盤、そして駒へと考えが移行するまではなかなかに緊張感があった。しかし最後の最後でブラックノートを隠したチェスの駒が騎士だったというのは、その強奪戦においてその駒が部屋を駆け回るからという理由だけだったのですか・・・??
何かもっと欲しかったな~。

・セクシー要素 (完全なる下心)
 深田恭子の衣装において胸を強調しているにも関わらず、なぜ戦闘シーンや拷問シーンでそれを強調しないのか。亀梨君が彼女を拘束するシーンでは服を剥ぐぐらいしても良かったのではないか。剥いだ服で腕を拘束してしまうとか。そして鞭打ちのシーンだ。誰もが「ルパン三世 トワイライトジェミニの秘密」を期待したことだろう(私だけか)。後ろからじゃなくて前から打つんだよ! ルパンいくらか意識してただろうがよ!!  痛みでダメなら恥辱だろうがよ!!! 太ったおっさんに襲われるの嫌がってる演出は何だったのか・・・。
例えばですよ、
服を剥いで亀梨君に 「わ~お、これぞD器官」 と言わせるとか、
鞭打って服を剥いでくる敵が 「こ、これがD器官なのか・・・想像以上だぜぇ じゅるる」 とか、
最後亀梨君が深田恭子をD機関に勧誘なりしてさ、
「私はDじゃ収まらないわ♡」
とかとかを挿入しても良かったんでねえのけぇ。
・・・そもそもの問題はだ。やはりDなのかどうかだ。


〇最後に 
 全体的に不必要な手が多い気がするんですよね。最善の一手を打っていない。チェスで有能というアピールをしたにも関わらず、戦術・戦略的な面で今一つな演出の数々。計画的であったであろう作戦を補うのを彼の運ではなく、敵対する者の何かしらの行動にしなかったのはなぜなのか。お前がそう行動するのも想定の範囲内さと。そうすれば完全に相手を上回ったことが印象付けられたではないか。
・・・否定的な意見ばかりを並べてしまったので、最後にひとつ良かったところを挙げるのであれば、「死ぬな、殺すな」という主人公側に制限性をもたらしたところだろうか。これと併せてわざわざ情に厚いと念を押す意味がわからなかったが。どちらかはいらなかったかなと。
 亀梨君はかっこよかったし、深田恭子はかわいかった(できればもっと露出を・・・)。そこには満足している。

2015年2月8日日曜日

デッドハング(2014)

デッド・ハング[DVD]


~意義~ 

〇はじめに 
 閉ざされた空間の中に、女性と悪者二人組(ないし以上)という構図はありがちというか王道ですかね。二人組というのも、一人は強硬派で、一人は穏健派という対照的な人物構成。仲間割れ必至と。 

〇こんな話 
 お金のために仕事をしているんじゃない。

〇仕事 
 彼女は彼氏に「人生のために今の仕事が必要だ」と言っており、奨学金返済やローンの問題はあれど、自分の仕事に何か意義を感じているようだった。彼氏も彼女は「仕事を一番に愛している」とまで言っている。そんな中明らかになる、勤めている会社の不正。正義、大義のためか真実を明らかにするべく、内部告発をしようとするものの、命を狙われることになってしまう。そして悪に正々堂々と立ち向かい勝利する。 
 彼女と対比すべく警備員の男がいる。家族がおり、手当てがつくと休日も仕事をすることになる。彼は家族を養うために、お金のために働いている。そして何も知ることなく序盤に殺されることになる。 
 さらにもう一人。エレベーター会社の男。自らの仕事を堅実で安定な仕事と称しており、将来の見通しがすでに立っている。家族がおり、今の生活にも満足している。他に何を望むこともない。皆、物・金・権力を望みすぎていると言う。目が利き、正義側につくものの、肝心なところ(最終的局面)は関与しないが生き残る。 

 それぞれの人物の雇用形態はわからないが、日本に当てはめてみるならば、ある企業の正規雇用非正規雇用、そして公務員といったところだろう。ここにさらに社会における女性差別的な問題も入れているわけか(多分)。 

スペックと末路を少しまとめてみる。 
・主人公 
 性別 :女  
 番い :彼氏あり  
 雇用形態 :正規雇用 
 仕事 :お金のためと言いつつも、意義を感じている 
 末路 :悪に真っ向から受けて立ち勝利する  
・警備員 
 性別 :男  
 番い :妻子あり  
 雇用形態 :非正規雇用 
 仕事 :家族のため お金のため 
 末路 :何も知らずに死亡 
・エレベーター修理屋 
 性別 :男  
 番い :妻子あり  
 雇用形態 :公務員 
 仕事 :お金、物、権力は必要な分だけあればいい、もう手に入れた 
 末路 :正義(主人公)側につき、肝心な時にいないがなんだかんだ得をする  

 皮肉っぽくまとめていると感じられるかもしれませんが、劇中で起きる真実がこれです。いったい何を言いたいのでしょうか。 

 最後も悪に奔ることをすれば出世街道まっしぐらで、彼女は社会的地位を極限までに高めることができたのに、それをせず正義をひたすらに貫く。裏街道でしか女は地位を確立できないだろうという男性の皮肉や偏見に対しての抗議だったのではないでしょうか。

〇最後に 
 お金のために仕事をするんじゃない・・・、というようなことを誰かが言っていました。しかしそれはお金を十二分に持っているから言える戯言です。お金を持っている人が言えば何かかっこよく聴こえますが、無い者が言えば負け犬の遠吠えとしか思わないでしょう?? 勘違いには気をつけましょう。

2015年2月7日土曜日

シャーク・ナイト(2011)

シャーク・ナイト[DVD]


~需要と供給~ 

〇こんな話 
 たくさんのサメにたくさん噛まれるお話。 

〇需要と供給 
 犯人の一人が、過激なドキュメンタリー番組や、いくつかの映画作品を持ち出して、自分たちの行動の正当性を述べていたシーンが何とも印象的だ。
 実際の死体を映し出した「ジャンク」という映画は各国で上映禁止になったが、今ではネットで誰でも視聴可能だと。需要があるからこそ出回るのであって、我々も需要があるから人がサメに喰われる様を撮影していると。そして撮影用のカメラは映画「皇帝ペンギン」で使用されていたものと同じものを使っていると。自然というリアルを体感するのによちよち歩くペンギンであれば肯定され、人間がサメに喰われる様では否定されるのはおかしいと。そこに悪意があって為されているか否かの違いはあれど、需要があるから、求めている者がいるからこそ彼らはこの作品を製作、供給している。やってることは商業的に見ればそれらの番組や作品と同じなわけだ。需要と供給(商売)に関して善悪という概念は関係ない。真実の報道を心掛けるとか言ってる連中も結局は営利目的で、さんざん残酷なことをやっている。そんなことを考えると、食人サメ作品を作っていた彼らの言い分はわからなくもない。 
 何と言おうと結局は金が目当てであったわけだが。あと憂さ晴らしか。良い商売だな。ストレス解消が金儲けか・・・な~んて。

〇最後に
 エンドロール後に演者たちのファンキーな一面を、ラップ??により観ることができる。歌われる内容から実話が基になってるのかなとも感じるが、シャーク映画ならぬジョーク映画・・・といった感じなのだろう。楽しまれたし。

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...