2017年3月31日金曜日

アルティメット・サイクロン(2015)

アルティメット・サイクロン


~仕事~



〇はじめに
 ジョン・トラボルタを見る度に私は「パニッシャー」で笑いたくなる。


〇想起する作品
 「ボルケーノ」(1997)
 「守護神」(2006)
 「アンストッパブル」(2010)


〇こんな話
 ラインマン(架線作業員)のお話。


〇仕事
 仕事は一回で済ませるものだと。正確には一回で済ませるために一連の工程の細部まで作業を怠らない。

 少しの不注意が、怠慢が死に直結することは最初に観せた。直接の原因では無いものの結果的には弟のミスで兄貴が死亡したことになる。1つのミスが命取りになるという説得力は見事だろう。後々作業員(若者)たちに死を意識させる言葉に重みが出てくる。それが伝わるかどうかはまた別のお話で。

 嵐の中でも出動(出勤)は免れない。いやむしろ彼らがいるからこそ保たれているものがある。家族が求めようとも、必要としていようともその時に彼らは家族を家に残し現場に赴かねばならない。仕事と家族のどちらが優先なのかという問題とはまた違うところが複雑だ。

 こんな状況だから浮かび上がってくる家族問題家庭不和。この人間ドラマの描き方はさすがで持ち味なのだが・・・

 この人間ドラマのおかげで当初掲げていた仕事における緊張感が薄らいでいく。現場にひたすらに私情を持ち込んでいるジョン・トラボルタが気にかかる。

 いや究極的なところで人を想う気持ちが仕事を完璧に完結させるという意義や意欲につながるのはわかる。誰かのためという目的があるからこそモチベーションの維持や向上にもなるだろう。何よりも覚悟である。ラストの自己犠牲がそれに当たる。

 しかしである。それが最終到達点ではないはずなのである。動機として描かれるのは納得がいく。しかし順番が違う。誰かのために完璧な仕事をするのではない。完璧な仕事をして始めて誰かのために繋がるのである。そしてその完璧な仕事には誰かのためにという当初の動機があるわけである。生きて帰って来ることでそれを再度自覚するのである。

 ここをまず最初に突き崩したのだから、その重要さを知る人物に徹底して守らせる緊張感を描けていて、やはり誰かのためだという最終到達点からラストの自己犠牲を観せたのならば当に完璧だったと思う。安っぽい言葉で括るのならばツンデレである。仕事の場においてひたすらにツンであった者が最後自己犠牲というデレ(揺らぎ)を観せる。最後の姿は、命を守るために例外を作らず規則を徹底順守する姿を観せてからだからこそ活きてくる画なのである。

 人間ドラマとして成立させ且つ調和を保つのは難しいところなのだろう。


 全員が全員同じ能力を有しているわけではない。それぞれの分野で能力で優劣が存在する。故の上下関係や指揮系統。これが現場では人を、その個人を見ることで適材適所に人材を配置することとして顕著に現れるわけであるが、これがデスク側だとそうもいかない。個よりも全体を見ることに重きが置かれる。ここが直接に問題なのではない。問題はこれが安全意識よりも作業効率に重きが置かれていることにある。さらにはデスクと現場とでの意思の疎通が図れていないことにある。パイプ役とのやり取りは観せられたわけだがこれは言わずもがなだろう。完全な対立を見せている。

 これを描こうとしているからこそ、仕事とプライベートにおける公私混同が目についてしまう。ジョン・トラボルタは現場監督(指揮官)として作業員たちを気に掛ける必要があるわけだが、それはデスク側との対比ではなく、飽くまでも命を預かっているという趣旨で描かれるべきであるわけだ。兄を死なせてしまった彼だからこそわかっていることがある、訴えることがある。これが単に嫉妬や妬みとしてだけ落ちている。いや唯一残された家族の存在が彼をそうさせているのは事実なのであるが、作品のプロットを考えるとどうしても彼の行動(意志)が浮いてしまう。もう少し気にかけてほしかった。しかしラインマンたちの男気はすばらしかった。
 




〇最後に
 まぁ私の仕事に関する見解は理想論に過ぎませんけどね・・・

 エンディングが気に入ったので載せときます。




 ではでは・・・

2017年3月30日木曜日

インシディアス 序章(2015)

インシディアス 序章

~繋がり~


〇はじめに
 1作目2作目ありきの作品。一番おもしろかったのは1作目だが、これがシリーズの中では一番好きだな。

 2作目では自由度が下がった故としたが、これはよく前日譚として収めた(繋げた)なと感心してしまった。監督ジェームズ・ワンじゃないんだよね。



〇こんな話
 1作目へと繋がる物語・・・



〇繋がり
 1作目に繋がるカタチとなっているが、エリーズとスペックス&タッカーの出会い、コンビ(トリオ)結成が堪らない。





 とある現象に対してのアプローチ。クインが見舞われている状態があるわけだが、仮にそれを結果と定義しよう。彼女は襲われている。いずれ殺されてしまうことが確定している。

 ここにエリーズはどのようにアプローチするのかというと、霊界と交信し彼方(向こう側)へ入り込むわけだが、これは根本的な原因を探っているわけである。彼女が「なぜ」狙われているのか。「誰に」狙われているのか。ここを解消しないことには彼女は解放されない。

 それに対してスペックス&タッカーは、彼女が「どのようにして」現象に見舞われるのかを調査している。現象の様を、現象に見舞われる様をただ観測しているに過ぎない。そして彼らは現象に立ち向かう術を持ち合わせていない。


 原因(エリーズ) → 状態(スペックス&タッカー) → 結果(クイン) 

と繋いでいる。


話の流れとしては・・・

 結果(クイン) → 原因(エリーズ) → 状態(スペックス&タッカー) → 共同作業

 状態より過程とした方がいいかもしれない。

 スペックス&タッカーはエリーズの埋め合わせの部分、繋ぎの部分として機能しているのである。1作目にて科学的な調査(インチキ業者)から、最終的なところでアナログに落ち着くという流れをイジったが、これをものの見事に今作でまとめ上げている。

1作目の段階・工程が


 
科学調査(スペックス&タッカー) → アナログ(エリーズ)】

という導入だったが今作では、


 【アナログ(エリーズ) → 科学調査(スペックス&タッカー)


と逆になっているわけである。


 科学的根拠が信憑性という部分で機能するのは同じなのだが、これの順番を変えるだけでエリーズの頼もしさというところが変わって見えてくるということを観せている。何もわからずにエリーズが勝手にオカルトをやるのと、何が起きているのかをスペクッス&タッカーで観測してからオカルトやるのとでは。エリーズという存在のギャップを一作で観せているのである。

先ほどの順番を正確にすると、

 【アナログ(エリーズ) → 科学調査(スペックス&タッカー) → アナログ(エリーズ)


 エリーズに還ってきているのがポイントで・・・


 で、シリーズを通して観ている人はエリーズの実力(頼もしさ)を知っているからこそ、先ほど示した工程をすっ飛ばしてスペックス&タッカーの登場にニヤリとするわけで。スペックス役のリー・ワネルが監督やってるから狙ってるんだよねこの観せ方は。




 1作目でダースベーダーの件をイジったが、いや~今作でよく繋げたよ。



 エリーズは当初交霊ノートに聞こえたものをメモしていた。単語程度のものを。交霊中はエリーズの行動に制限があることは見せられており、事後記憶を辿るが故に曖昧であろうことを伺わせる。これをクインの臨死体験でも関連付けている。事故前の記憶はあるが、彼方へ行っていたときの記憶はほとんどない。これを受けての書記の存在の必要性なわけだ。

 私の言葉を書き留めろとスペックスがエリーズに指示を受けるわけであるが、口に出しながらメモをする。怪訝な貌をするエリーズにニヤリとさせられる。この仕事以降幾度となくあったのだろう。それを受けてのダースベーダーなのである。エリーズの口を塞ぎ、拡声器としてスペックスを機能させ且つ記録係としても。最終的に一番効率が良いと落ち着いた結果なのだろう。

 エリーズとあのババアとの因縁が描かれるし、シリーズ通しての心霊現象が全て負のものだという固定観念からのほっこりが今作は堪らない。そこに付け込み・・・



 これうまかったな~


あと・・・



 この通常の足跡を見せられて



壁走りを見せられて











 この反対側はびびったな~ww




〇最後に
 今作は家族という繋がりに始まり、あの3人の繋がりの描き出し方が本当にすばらしかった。劇場では怖いので4作目が出たらDVDで小窓で観ることにする。



 ではでは・・・


2017年3月29日水曜日

パニック 脳壊(2000)

パニック 脳壊


~終わるものなんてない~


〇はじめに
 ウィリアム・H・メイシーの物悲し気な表情が活きた作品だね。





〇想起する作品
 「マッチポイント」(2005)


〇こんな話
 アレックスという独りの男から見つめるナニカ。



〇始まりと終わり
 アレックスという人間を見つめなおすということがひたすらに行われていく。

 1つはセラピーにおいて。セラピストとの会話が大筋ではあるが、初診でその診療所のシステムに慣れていくという段階で1人の女性と出会う。その女性に惹かれるという男としての本能的な話がまずあるわけだ。というより人が人に惹かれるという人間としての本能かな。してそこから関係を築いていくということ。深めていくということ。人と人とはまず出会いによって始まるわけだ・・・



 そして新しいシステムに移行する、慣れていくということ。自分という存在の立ち位置を探る必要があるわけで。そして何より誰もが皆何かしらにおいて初めてがあるということだろう。その初めてにより物事は始まるのだと。



 1つには息子との会話。父に疑問を投げかけてくる。当たり前だと思っていたことを。今まで考えなくともそれが当然だと思っていたことをだ。正確には普段考えないようにしていることか。考えようとも思わなくなったこと。





 家族というもの。両親、妻子。選べなかった人生と選べた人生と、今まで築いてきた関係を今ある関係を、その始まり(初めて)を通して新しい出会いと新しい環境に触れることで見つめなおしが図られていく。


 殺し(殺し屋稼業)というところで描いたのは人の始まりというところの究極の対比となる死という終わりを描くためだったのだろう・・・か。

 男女関係と同性愛とを見せているのも終わりに対しての始まりというところを意識してだろう・・・か。




 まずは銃を撃つことから、そしてリスを殺すことから始まった。それが数ある仕事をこなしていくことで究極は父親を殺すことに繋がってしまった。もしその始まり(初めて)が無かったらというところが息子サミーへと作用している。繰り返されてしまう、また始まってしまう何かがあるかもしれないと。そのしがらみをここで断ち切らねばならないと。それまではそんなことを考えたこともなかったわけだ。ただ言われるがままに要求されるがままに生きてきた人生。


 映画の始まりからアレックスという人間の変化の兆しはあるものの、自他共にアレックスという自己を見つめているようで実はただ内的な本能的なものと父親という外的な圧力により流されているだけなのではということが段々と明らかになっていく。それが自らを見つめてくれた他者を見つめることでやっと自己を見つめなおし下した決断。下さざるをえなかった決断。


 息子のサミーが締める。終わるものなんてないのだと。

 始まるものに必ずしも終わりがあるわけではない。彼は見えるものとして終わりを定めていた。終わりがないなら見えるはずがないと。しかし父親の死後彼は自らの中に父親を捉えている。そして父親を知るサラという存在との出会い。

 人は始まりというものに何か期待と不安を覚える。そして終わりを意識し始めると不安だけが取り残され恐怖を覚えるようになる。では始まりとは何なのか、終わりとは何なのか。我々が捉えているそれは果たして・・・

 というより普段そんなことを意識しないで生きている。意識しないように生きている。考える余裕が無いとも言えるのか。そこをふと立ち止まってみることをさせたいのか。

 見えるものとしての始まりに対しての見えるものとしての終わり。そして普段何気なく捉えているだろう見えるものだけが全てではない、その見えないナニカ・・・というところを1人の男の迷いから見つめる、見つめなおす。これがこの作品の言わんとするところか。




〇最後に
 本文とは全く関係ないですけど・・・


 こういう服の脱ぎ方できないんですよね・・・ どうでもいいか。


 ではでは・・・

2017年3月28日火曜日

ひとり交換日記(2013)

~宇田川さ~ん~

〇はじめに
 交換日記って今でも流行ってるのかな?

 年賀状が廃れつつある時代。あのやり取りの間に耐えられないかもしれん。そもそも手書きのやり取りが無いのではないか。ま、時代は、世界は移り行くものです(遠い目)。別にその波に無理して乗んなくてもいいんじゃないの~・・・



〇こんな話
 ポジティブになる!


〇ぴょんぴょんするんじゃ~















































































〇最後に
 あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ


 手抜きで失礼します。

 ではでは・・・




2017年3月27日月曜日

幕末高校生(2013)

幕末高校生[DVD]


~幕末先生~

〇はじめに
 石原さとみが心地え~ パニックになったり、投げやりになったり、開き直ったりは彼女の十八番だよな~ 白けてる感じもまじ堪らん。

  柄本明何してん・・・


〇想起する作品
 「戦国自衛隊」
 「タイムライン」(2003)
 「ミッドナイト・イン・パリ」(2011)
 「信長協奏曲」(2016)

 「ジパング」


〇こんな話
 歴史の教科書に書かれてることと違った~


〇はいかわいい





































 コアな層向けでした~



〇最後に
 マジレスをするのならば、歴史なんてのは因果関係を決めつけてそれの辻褄合わせで何をしたのかということのみが残っているもので。ハイライトやダイジェストですよ要は。ぐだぐだぐだぐだまわりくどいものをストレートに伝える。野球やサッカーなどのスポーツをニュースばかりで観ている人がいざ本物を観ると何ともつまらなく感じたり、まどろっこしく感じたりする。さらには印象付けされてることが違うのである。自分のことでも他人のことでも、過去話に耽っていると食い違いがあったことがなかろうか。

 勝海舟が何もしていないと。史実ではこうであったと。ギャップに萎えている。サッカーで点が入らなければ何もしていないのと同じかと。メンバーは?フォーメーションは?戦術は?ディフェンスは?セーブは?起点は?アシストは? 結果が全てというのはここからき来ているのかもしれない。

 でも逆もあるんだ。実際を目の当たりにし、見直す、見つめなおす、興味が湧く。これが先生の役割でもあったわけだが・・・ 生徒でもあったのか。それなら事前にもっと歴史を軽んじておいてほしかったな。徳川さんの件がそれなのかな。


 なんとも気に入らないのは未来というものをすべて先生のほんっとうに狭い料簡、世界だけで括ってしまっていることだ。未来では星が見えないと。果たしてそうだろうか。仮にそうだとして、なぜ星は見えなくなったのか。その代償に何を手に入れたのか。

 フォローが入ってはいた。勝海舟は言う。技術は進歩しても、人だけは進歩していないと。しかしこの料簡に対して、全体を通して先生の思慮浅さがなんとも印象が悪い。そして石原さとみだけにさらに馬鹿に見える。いつもなら褒め言葉として使うが、今回は残念ながら・・・

 ま、石原さとみ好きであれば何だって耐えられますよ。

 ではでは・・・

2017年3月26日日曜日

アブノーマル・ウォッチャー(2015)

アブノーマル・ウォッチャー


~覗き見~


〇はじめに
 監視カメラが売り物であること、売るのも商売だということで観せた入りはうまかった。謳い文句宣伝文句から何を想像できてしまうのか。






〇想起する作品
 「388」(2011)
 「ハングマン」(2015)




〇こんな話
 大家が覗き魔らしい。



〇覗き見
 最初から顔バレしていることもあり、大家(管理人)がお客の家庭を覗き見る気持ち悪さの演出は秀逸である。間取りを理解している状況で監視カメラを取り付けるわけだが、その間取りをどう活用しようかというのは入居者の裁量に委ねられる。それ故に望んだように見えてこない(覗けない)もどかしさや悶々というのを最初に印象付けている。そしてその微調整と補填のためという夫婦の生活への介入の動機もスムーズだった。




 そんな大家と対比される存在の配置も割かしうまい。まずは家主。自分の家であるわけだから当然と言っちゃ当然なのだが、鍵というもので家の中に入る。そして家の中を自由に使うことができる。

 次に引っ越し祝いに始まる友人との付き合いである。彼らはチャイムやノック等において家主の了解を得て家の中に入ることができる。入ることを許される。そしてある程度の遠慮というものがある。

 そして不倫相手。これがうまかった。最初いきなりプールの場面が描かれ家に入り込んでいるわけだが、後日別の理由において家に招かれることになる。本来誰かにとっては招かれざる客なわけだが、別の理由においては歓迎されると逆転させて観せているのである。夫婦にとって(いや夫にとって)、大家にとって(覗きにとって)共通の邪魔な存在としても観せた利害もこれだ。そして無断侵入(及び監禁)。




 そもそも夫婦という関係も夫と妻の間だけで完結しているわけではなくできるわけもなく、最初に賃貸であるが故に大家との関わりを観せているわけだが、そういった付き合いというものにおいて友人関係に不倫関係に夫婦外の人間を許容するべく歪であるとしている。他者が介入する余地を残しているのである。それを覗き見るということは如何に監視カメラが見つかりにくいとはいっても物理的な干渉は必要不可欠で、覗き見たいとする者たちと平行線を辿ることは不可能。確実に何かしらの干渉が必要となる。その綻びや隙間というところを家の間取りに始まりその夫婦のイザコザにて暗示しているのである。 


 必ず夫婦及び夫婦のどちらかが介在した関係を観せられての大家なのである。ちぐはぐ凸凹な関係を観せられた中での大家なのである。1日中家にいるわけではない。1日中夫婦でいるわけでもない。彼はその隙間を埋めているとしている。夫婦の綻びを埋めることで、主としては妻の方が目当てだったわけだが覗きライフを楽しむことができる。夫のシャワーシーンにおいて大家は離籍している。空き部屋となっていところを活用した物理的な監禁もこの図式を意図してのものだろう。しかしここで夫婦と大家の関係において綻びが生じる。干渉するはずではなかった関係性にリンクが生まれてしまう。ここから見えてくるもの、この綻びを埋める者は誰なのかというのがおそらくは今作の見どころ。



 妊娠に引っ越しによる環境の変化とその夫婦に訪れている何かしらの時期があるとして、新居における生活がこれまでもあった一連の夫婦生活の一部であるというのと、大家が覗き見ているのがその家におけるさらにその夫婦の生活の一部であるという切り取り方も練られたものだった。

 ただ監視されている夫婦がフィーチャーされてはいるものの、監視されているということ自体は特殊な演出によりこだわっているわけでもなく、これにより大家が象徴するナニカが我々の生活に介入してくるという嫌悪感よりも、我々鑑賞者が彼の生活を覗き見るという逆に作用しているととれる。

 如何にカメラを設置したところで24時間体制での監視は不可能。大家の眠りこける様は描かれており、つまり彼にも監視だけではない生活があるわけだ。



 最後笑顔なんだよね。ここに彼の狂気を観るのと、意外な一面というか劇中彼に観たものはまた一部でしかなかったという、彼という存在の一連を垣間見ることになる。ジェラルドっていう名前が呼ばれるのもラストが初めてだよね。

 こっちがメインなんじゃないかな。覗き見られているということよりも、我々鑑賞者が彼らを覗き見ていたのだという。ちゃんと確認してはいないのだが、原題の「13Cameras」ってのは我々鑑賞者が見たこの作品というのが1つのカメラもカウントされてるんじゃないのかな・・・どうだろ。





 ディスプレイには9個なんだよね。これに玄関と車庫とプール内部で12個・・・かな? あれ地下室(クローゼットって言ってたか)もあったな。13個になったか。いや玄関のはバレて途中で外すからやはり・・・



〇最後に
 まぁおもしろいもんではないよね・・・

 ではでは・・・




2017年3月25日土曜日

インプット-記憶-(2003)

インプット[DVD]

~衝動~


〇はじめに
 記憶というのは自分が体験したものによる主観映像であるわけだが、そこに妻の存在の落としどころを見出したのは中々におもしろかった。


〇想起する作品
 「ボーン」シリーズ
 「時計じかけのオレンジ」(1971)
 「フェイス/オフ」(1997)
 「ペイチェック 消された記憶」(2003)
 「クライシス・オブ・アメリカ」(2004)
 「アンノウン」(2011)
 「ブロークン・アイデンティティ」(2012)


〇こんな話
 目覚めたら記憶が曖昧な男のあれやこれ。



〇衝動
 殺人犯であり死刑囚である者に記憶置換を施すことで殺人衝動は無くなるのか。というのをテーマにして研究していた女性が利用されていたわけだが・・・

 暗殺対象に銃を向けるも引鉄を引けない主人公がいるわけで。しかし送られてくる刺客は容赦なく殺していたりする。この違いがようわからんかったのよね。直接手を下しているか否かなのかな。それとも特に意味は無いのかな。

 殺人衝動をベースに考えるべきなのか。殺したいとする感情にて殺される者には善も悪も無いことが問題で、対象は人間すべてになる。しかし今回の場合ターゲットはとあるお偉方の利権を守るためのもので、お偉方を悪とした場合に彼は善なる存在となる。そして刺客は悪という事に。

 善を排除できなかったというところが重要で、悪である刺客とボスは特に気にすることなく倒れていくのを楽しめば良いのか。

 要は善悪の区別をつけられるようになったことが進歩というか何というか。



 そして主人公の元々の殺人衝動は生い立ち(家庭環境)にあったとされていたが、ラストはどう見ればいいのだろうか・・・

 置換された幸せな家庭の記憶を思い浮かべ旅立っていった。彼が赦されたのか、ではなく彼が人を赦したというところが重要なのか。

 赦しとは殺人衝動と正反対の位置にあるものということか?



〇余談
 殺し屋から「ドイツ車め」ってな捨て台詞が吐かれるわけだが、アメリカにおいてドイツ車の評判ってのはよくないんですね。



〇最後に
 人は別人(他人)になれるのか。その人を形成しているのはいったい何なのか・・・ これは記憶に注目してみましたと。

 ではでは・・・


悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...