2016年8月29日月曜日

女子大生・恐怖のサイクリングバカンス(1970)

女子大生・恐怖のサイクリングバカンス


~全員容疑者~

〇はじめに
 まず女子大生が出てこないのと、主人公にとっての外国語ですら字幕が馬鹿正直に全てを訳してくれちゃってるのが、製作者の意図を全く汲まないすばらしい仕事だなと感じる。

〇想起する作品
 「ブレーキ・ダウン」(1997)
 「ジーパーズ・クリーパーズ」(2001)

〇こんな話
 女子大生を探せ!!





〇あやし~い
 ジェーンとキャシーの2人が休暇をサイクリングに勤しむことにしたわけだが、2人の口から飛び出す言葉は仕事の事ばかり。患者のことばかり。仕事熱心なのかは定かではないが、それほど仕事に時間が割かれているのだろうことは伺わせる。そんな折角の休暇なのである。

 サイクリングの何を楽しむのか。2人の見解はほぼ正反対。サイクリングをすること自体を楽しむのか、サイクリングの(合間の)道程を楽しむのか。

 複数で旅をする場合は少なからず誰かに合わせなければならなくなる。全員が100%満足の行く旅など不可能と言っていいだろう。一緒に行動することが前提だが、絶対的な自分の時間はまず作れない。何かしらを許容し容認しなければならない。それで2人のひと悶着なのである。逆に一緒に行動してよかったなんてこともしばしばあるわけだけど・・・。それで2人の引くに引けない姿なのである。一緒に行動しとけば・・・

 一本道ってのも何かあるんだろうな・・・ 喧嘩別れしようともその道を辿れば(戻れば)2人は合流できたはずだから。本来それしか選択肢が無かったはずだから。しかし別の分岐ができた。気を付けろ!!

 OPとEDで同じ音楽が流れるのよね。現場へと向かうパトカーが通った道を逆方向に女性二人組が自転車を漕いでいく。これまた道が繋がってるのよね・・・ この辺りが「AND SOON THE DARKNESS」ってなことなのけ? 一寸先は闇って諺かと思ったが別に英訳はあるのね。ようわからん。



 2人のやり取りを見せられての外国という場所での不安なのよね。喧嘩であろうとも2人で同じ言語を用いて言葉のキャッチボールができていたわけだがそれがうまく通じなくなる。2人で完結できていた感情(関係)が孤立することで解消されなくなる。そういう目で見ると全ての人物の言動が一々疑わしい。気遣いや配慮なのか、貶めようとしているのか。疑心暗鬼に陥る。全員容疑者だ。


〇最後に
 はじめにも書いたのだが、サスペンス要素の軽減にはそこまで至らないものの、字幕の訳し方が気になる。外国という言葉がわからない故のあの不安な雰囲気が台無しになっている。折角文化にギャップを覚える姿を2人で描いているのに。しかしそれを以てしてもおもしろかった。誰を信用していいのかの線引きがまるでできない。一々信用を喪失させる描写はさすがだろう。

 ではでは・・・



2016年8月28日日曜日

怒り




※もっと早くに載せる予定だったのですがタイミングが掴めずに今に至りますm(__)m


〇はじめに
 普段ほとんど読書をしない人間であり、今まで読んだものなんて片手で数えるほどだが、とある人間に強く勧められ手をつけてみた。


〇想起する作品 
 映画化が決まっているそうで・・・ 2016年9月公開か・・・ 割と近いな・・・

 「きみはいい子」(2014) 
  ・・・原作の中の3作品を繋げて観せた感覚が近い。 

 「白い沈黙」(2014) 
  ・・・刑事視点を入れたことによって、物語の中盤から我々読者が情報的に事件
    を先行するカタチとなるところ。 

 「あん」(2015) 
  ・・・偏見や差別という観念をどら焼きの生地とあんとで観せた作品で、理解とい
    う項目で少し取り上げてみる。 


上記3作品が強く浮かんだ。以下テキトウにその他もろもろ

 「容疑者Xの献身」
 「ゴーン・ベイビー・ゴーン」
 「ゴーン・ガール」
 「僕だけがいない街」
 「ブリッジ・オブ・スパイ」
 「(劇場版)金田一少年の事件簿2 殺戮のディープブルー」



〇総評
 まず総評から。

 抜群におもしろい。はじめに愛子という人間を描き出すことでグッと引き付けられた。その描かれ方から、最初愛子という存在を小さな女の子であると錯覚する。そこでOLと同い年?と。ギャップを提示されるわけである。我々(というより私個人)が勝手に抱いていたイメージと。

 我々は他人(ひと)をどう判断するのか。愛子という人間にはじまり、これが物語全体で頻りに描かれていく。第一印象、ファーストコンタクトから、だんだんと他人の輪郭が定まっていく。そしてさらに深いところへ深いところへと。果たしてそれは本当に深いところへと向かっているのかと。とあるギャップで、一瞬にして浮上し、抱いていたイメージは崩れ去る。

 これが山神一也でいう単純に整形というところ、そして動機となる部分と掛かっていて、刑事視点で明らかになっていく彼という人間像、そしてとある者たちの間で描かれた彼という人間像が照らし合わされていくことで我々は混乱していくこととなる。とともに考えさせられるわけである。しかし思考が追いつかない。追いつけない。余裕が無いんだ。見えないものがあるんだ。

 最初、3者の中で誰が犯人なのだろうと、関わりを持っていく人間たちと同じ目線で疑いの目を向けていく。しかしそれが、北見という刑事視点が織り交ぜられていることにより、とあるところで転換点を迎えるのである。事件に関する情報にて、読者が先行するカタチとなるのである。ここから我々に彼らが直面する事象に関して幾分か余裕が生まれ始める。なぜ彼らはそのように行動したのかと。信じられなかったのか、信じられたのかと。そしてそれを深める刑事にとっての数ある中での1件と、それぞれに振り回された1件としての見せ方。この転換がほんっとうに秀逸だった。前半で誰かが犯人であるとして共通点を探し出させ、相違点を見つけ出させてるから効いてくるんですよね。いや~おもろかったな~。


・補足
 
 犯人の「怒」の、殺人の動機が結局わからずじまいでつまらないとして低評価とするレビューを見かけたが、全く的を射ていない。しかしそんな人間がいるということも、いや、正確にはそのようにしか理解できない、感じられない人間がいるということも、この作品は全体のテーマとして描いており、彼らのような人間をも抱擁しているのである。高評価の方は反発することはない。いや、それを受け入れている人が高評価なのだから心配いらないか。

・さらに補足
 では犯人は何に怒っていたのか、何で怒っていたのか・・・ 殺人の動機は???

 言っちまえば、そんなんわかるか~いってな話でして。で、そこであきらめるんですか?探るんですか?。動機となるであろうことはひたすらに散りばめられていましたよね。でもでもそれって必ず動機に繋がると言えるのでしょうか? 結局は想像でしょ? だからってあきらめるんですか? では答えの無い事象にどうやってアプローチするんですか? してきたんですか? この辺を一旦考えてみましょうよ。

 そんな感じで割り切った。


 その工程というか何というか・・・、次の項目で取り上げてみる。


〇理解
 他人の本気は見えないというやり取りが為されていた場面があった。そして尺度としてチベットの僧侶の焼身自殺が挙げられていた。

 人は物事を決して理解などしていない。ただ「理解した」と割り切っているだけなのである。

 そこにその人に対する信用や信頼というものが関わってくる。ここがなんとも難しいのである。面倒くさいのである。

 何をもって信用するのか、信頼するのか。その尺度はどのように築かれているのか。



 例えば・・・

 ・猫好きに悪い人はいない

 これはどう理解しようとするだろうか? 割り切るだろうか?


 に焦点を当ててみよう。

という動物の特徴や性格を考慮し、好きになる人間に悪い人はいない」

と書き換えてみたとする。するとどうだろう、猫という動物に信用・信頼を置いていることがわかる。


 では悪い人ではどうだろうか。

 悪い人は猫を好きにならない、ということになると、悪い人に信用・信頼が置かれていることになるのである。


 では最後に、好きは? 

 好きという行為(感情)をどのように把握しているかだろう。好きをどのように表に出すのか、表現するのか。もっと言えば、愛情というものをどのように理解しているのかと。必ずしも愛情が人を傷つけることにつながらないとは言えない。  


 北見は言う。信じたいのだと。信じられると信じたいのだと。

 優馬も言っていた。疑うということは、信じているのと同義なのだと。

  ・・・この辺りの解釈は「ダウト ~あるカトリック学校で~」を観ると良い。



 「あん」という作品でも少し書いたのだが、その人間の本質をどこに見出すのか。単なる容姿か、仕草や態度か、喋り方や言葉遣いか、声色声質か、常識やマナーか、食事の場面か、仕事や趣味嗜好か・・・etc  そしてそれのどこにどのように信用や信頼を置くのか。さらにはそれらの重要度を如何に自らを律し、序列化し、さらには判断をするのか。

 我々は経験上無意識に意識に無自覚にも自覚にもこれをやっているわけである。

 ここに、そんな日常に一旦立ち返らさせる描き方がこの作品は秀逸なのである。




〇最後に
 映画化へ向けての激励を・・・

 如何に3人の男を印象付けるかだろう。とある場面を迎えるまでに人間像を形成させる。それによって前半部分は誰が犯人なのかと疑心暗鬼に陥りながらもサスペンス・ミステリー要素を楽しませられることだろう。

 そして転換点。

 犯人が判明した時の恐怖を植え付け且つ、そこから犯人ではないとわかった他2人の周辺で見舞われる事象で如何にやきもきさせることができるか。ここが一番に力を入れていただきたいところ。この辺りは上にも挙げたが「白い沈黙」、同監督の作品で「デビルズ・ノット」という作品がおもしろかったので付け加えておく。

 泉がとある事態に巻き込まれての胸糞悪さ、そして「怒」の恐怖。ここがどうなるのか・・・

 期待している。しかし不安でもある。この味が出せる人間が日本にいるのかと。監督の前作を観ておこうかな。厳しい目で鑑賞させていただく。

 ではでは・・・





砂上の法廷(2016)

砂上の法廷


~真実~


〇はじめに
 弱いな・・・ これが観終わっての感想。


〇想起する作品
 「推定無罪」(1990)
 「真実の行方」(1996)
 「ディアボロス/悪魔の扉」(1997)
 「ニューオリンズ・トライアル」(2003)
 「リンカーン弁護士」(2011)
 「ダウト・ゲーム」(2014)
 「ジャッジ 裁かれる判事」(2014)


〇こんな話
 とある裁判のなんやかんや・・・


〇騙される心理

・ 94分、あなたは騙され続ける

・ 全てが覆る衝撃のラスト11分、法廷の禁忌が破られる


 こんな文言が書かれているわけだが、この手の騙されるをウリとしている作品はどうも肩を張って観てしまう。結論ありきで観てしまう。

 しかしこの作品のウリはラストの逆転劇では決してなく、それまでの裁判におけるある1つの真実の形成過程を眺めてみての、じゃあ本当はどうだったの?という今一度真相を見つめなおしてみると・・・ってなところにある。そこで人はなぜ嘘をつくのかというところが際立ってくるのである。


 陪審員が判断するのは有罪か無罪かだけということと、それゆえの裁判における陪審員へのアプローチは見もので、ここは踏まえるべきところだろう。劇中の真相へのアプローチは、裁判における証言を繋げて作られるイメージ(及びライン)と、それに情報が補足されたカタチでの再現映像によるイメージ(及びライン)で行われる。陪審員制度においてそれはどこまで抉られどう判断されるのか。どこに影響されるのか。


 前者において嘘がつかれていたのなら・・・、として後者を観せていくわけだが、この嘘、嘘、嘘と来ての弁護士にすら黙秘を続けていたマイクの衝撃の真実の告白の流れはうまかった。そしてもう一件も。マイクの晒されている状況からの判断なわけだが、口を開くまではマイクの意思は全く介入せずに話が為されている。当事者抜きに真実が形成されていく。断片的な真実が都合の良いように組合わされていく。

 我々はこの外に存在していることがおもしろいところで。証言者の証言による真実の形成と、実際とされるものが映し出されるわけであるが、ここでそれを比較できるのは我々だからなのである。そこにマイクが一石投じることで気付かされるのである。我々も同じように断片的に都合の良い真実を組み合わせ真相を探ろうとしていたことを。最終的には前後関係をも訴え始める。明らかにされた真実の因果関係が狂わされるわけである。

 これの何がうまいのかというと、結論ありきで話が為されているというところを突いたことである。裁判においてはマイクが父を殺したということ。これありきで動機を究明する事が焦点になっていく。そしてその動機を陪審員に訴えるのである。情に訴えるのである。これが裁判なのである。陪審員裁判なのである。


 最初に弁護士による裁判の概要説明から入るのは意図してだ。要所要所で彼の見解が挿み込まれたりもしている。彼の情報をベースに裁判にアプローチさせられる。前提(結論)をまず踏まえさせられるわけである。


整理すると・・・

 1,証言者による証言

 2,実際とされる映像


 裁判においては1のみでの判断であること。1と2を比較できるのは鑑賞者だからということ。1を都合よく組み合わせ陪審員の説得にあたる弁護士と検事のやり取り。これと1と2を比較して真相に迫ろうとする我々のやり取り。このアプローチの仕方が同じであることに気付かせるのがマイクの衝撃の真実の告白なのである。そして振り返るのである、裁判にて何が話し合われていたのか。何が目的とされていたのか。そして辿りついた真実とは何だったのか。




 極論だが、そもそも真実なんてのは主観的事実を繋ぎ合わせた客観的とはほど遠い代物で。この作品で陥るべきは騙されたという爽快感ではなく、いったい法廷では何が話されていたのかという喪失感で。どこかでも書いたが、裁判とは事実を解き明かすべき場ではなく、真実を創り出す場なのである。




〇最後に
 いや~おもしろかったな~。煽り文句が無い方が親しみやすい気がする。変に緊張させると負けまいとする感情が先行してしまって素直に観れないのよね。2回観たが肩を張らずに観た2回目の方が全然楽しめた。

 ではでは・・・



2016年8月27日土曜日

88ミニッツ(2007)

88ミニッツ


~証言の信憑性~


〇はじめに
 朝目覚めてこれ観たら・・・





〇こんな話
 アル・パチーノゾーン。美女ばかりが寄ってくる。

 キムをもっと大事にしろよ!!





〇騙される心理
 機能していたかどうかは定かではないが、少しだけ挙げておくと・・・

 ・ジョン・フォースターを弁護していたのが女性であるということ

 ・女性を猟奇的に殺すのは男性だろうという先入観があること


 そして選択肢として与えられる、共犯者の存在/模倣犯/フォースターは無罪、というもの。

 これらを踏まえ、容疑者としてキムの恋人が挙がったり、ローレンの革ジャンの男という目撃証言が繋がってくるわけである。


 これらの前提となるものの観せ方はうまかったように思う。正確には先入観故の行動。それが我々に言動における簡易化と効率化をもたらし、さらには混乱を引き起こす原因ともなっている。

 中でも、

 マンション(アパート?)の煙騒動にて、階段で立ちすくむ老婆を助けるシーンだろう。

 煙騒動という事件において、

 エレベーターが機能していない状況で、

 階段という場で、

 老婆という人物が立ちすくんでいたら?

どのように判断するだろうか。それぞれの設定を考慮し、助けなければならないという選択を取るわけである。今日の晩御飯何にしようかしらと呑気に考えているとは思わないわけで。


 講義における教授というのも最初にあった。先生が絶対なわけである。生徒が減ったなというのに対し、あなたが追い出したのでしょ?と。もう死んでる人間が生きてるかのように振る舞ったのを信じ込んだり。

 あとは爆弾か。絶対に無いではなく、あるかもしれないという前提で行動する必要がある。万が一を想定して。





〇証言
 裁判における証言の信憑性の話は「ソロモンの偽証」および「デビルズ・ノット」で確か多少なりとも触れたと記憶しているが、この作品はその証言というところに囚われ過ぎた気がする。そのおかげでサスペンスとしての面白味に欠ける。

 最初の裁判にて弁護士が語っていることと、猟奇殺人鬼とされるジョン・フォースターがインタビューにて答えているところでそれが示されているわけだが・・・



 裁判の勝敗を決定づけるのは証拠及び証言だ。過去に戻って実際に誰がどのように犯行を行ったのかなどを精査するわけではない。そもそもそんなことは不可能だ。人の記憶から、残された証拠から、それを探るしかないのである。推測するしかないのである。補うしかないのである。この作品では証言が決め手だった。被害者の、そして主人公(専門家)の。

 作品の始まりにて殺人鬼の犯行が描かれる。しかしそこに犯人の顔は映し出されていない。使った道具が丁寧に映し出されている。ジョン・フォースターが犯人だと証言した双子の片割れが犯人の顔を実際には見ていないということと、後日犯行がどのように行われたのかという推測でモノを言っているに過ぎない、ということなのだろう。

 被害者は今まさに犯行が行われている最中に正常な判断ができるのか、記憶できるのか。そして後日部外者がその犯行の様を正確に捉えることがいったいどこまでできるのか。



 主人公が与えられた88分という時間。大きくは妹が殺されるのにかかった時間なわけだが、それと相まってタイムリミットがあるということが少なからず判断に焦りをもたらすようになる。全てを疑う時間は無い。どこかで何かが正しいと判断し行動する上での前提を構築しなければならない。限られた時間から限られた情報を得、それを基に推理していくしかないわけである。

 これがひとつ、ローレンの「革ジャンの男に襲われた」という証言を鵜呑みにするというところだ。男性には執拗に話を聞いていたのに、女性とわかるとすぐにスルーするのである。


 この作品はひたすらにその対立だった。大きくはもちろんジャックとフォースターだ。ジャックが裁判でやったことは、被害者に偽証させることと、それを基に陪審員の心を掴むことで。フォースターは弁護団の心を掴んだ。ジョン・フォースターが無罪であると信じる者が多数いること。そしてそれに心酔してしまう者がいることは示されていた。法廷ではジャックが、弁護団ではフォースターが信じられたわけだ。前提だったわけだ。

 周りに多くいる女性を信じる及び疑うというのと、信じ込ませるというのも対比だったのだろう。

 ジャックは88分という時間の中で限られた情報をある前提の基推理を始めた。ローレンはフォースターの事だけを信じた。マイクは犯人から与えらえるジャックが犯人であるという情報を基に答えに到達した。ガイはキムがジャックにたぶらかされているのではと。

 それぞれがそれぞれに限られた情報を手にし、前提を基に、それをめぐって行動した。この描かれ方は中々だったが、そこまでおもしろくもない。



 最後の宙吊りの演出は堕ちるのは簡単ってなところなのか。というより逃れられない。血が下へと滴っていく様も狙っていたか。引き上げる・引き留める存在がいれば。しかしそれはそれなりの労力を要する。フォースターと繋がった携帯電話を投げたのも、ローレン(リディア・ドーアティ)が落っこたのも、上で留まった人間との対比なのか。





〇最後に
 88という数字には何の意味があるのだろうか。横にするととか? Love and Kisses?


 ではでは・・・


2016年8月26日金曜日

ダークスカイズ(2013)

ダークスカイズ


~範疇~


〇はじめに
 最初にアーサー・C・クラークの言葉が挿入されており???だったが・・・、そっちか~い!!


〇想起する作品
 「サイン」(2002)
 「フォーガットン」(2004)
 「ノウイング」(2009)
 「運命のボタン」(2009)
 「ポゼッション」(2012)
 「ディアボリカル」(2015)


 最後無線から声が聞こえてくるってな作品がなんかあったんだよ・・・ 忘れた・・・




〇こんな話
 こんばんは~どうも・・・





















〇範疇
 "Two possibilities exist...

 Either we are alone in the universe or we are not.

 Both are equally terrifyng"

 「我々は宇宙で唯一の存在かそうでないかの2つの可能性があるわけだけども、どっちにしろ恐ろしいわい」

ってなことをアーサー・C・クラークが言ったそうな・・・


 このチョ~ひろい宇宙の中で生命体は私たちしか存在してないの~? 怖~い(/ω\)

ってな孤独的な話と、

 他にもいるかもしれないよね? じゃあ接触する場合があるっちゃ~あるよね? 怖~い(*ノωノ)

ってな衝突(接近遭遇)に関する話なのよ多分。

 で、これがそのままの話だったっていうさ・・・ ジャンルそっちかと・・・


 一時期流行りましたね。説明のつかない現象を全て宇宙人に擦り付けるという解決法。ミステリーサークルとか・・・ 宇宙人の仕業だ~ってはしゃいでたら、僕たちが作ったんだけどと言われ・・・え?(´・ω・`)

 この思考とは逆を行くわけでして。宇宙人ありきで見せていない。ここがおもしろさであり、しかしホラー映画として観ると評価が分かれるだろうところでして・・・

 劇中では家が荒らされたり、キッチンアートが作られたり、写真立ての写真が抜かれていたり、防犯アラームが一斉に鳴り出したり、ムクドリが大量に降ってきたり、いきなり叫びだしたり、身に覚えのない傷跡ができていたり・・・etc

 アートだわ・・・


 何かしらの未知の現象に見舞われたときに我々はどのような対処をとるだろうか。その道の専門家を呼ぶ(聴く)、というのが1つの方法だろう。劇中では警察、業者、野生動物センター?、医師、J・K・シモンズといった者たちが入り乱れた。

 そこで一応説明がつけられる、様々な可能性が考えられるとしていた。正確には説明をつけようと思えばいくらでもつけられるが明確には答えられない、か。泥棒、家庭不和、虐待、地球内部がどうのこうの、エラー、誤作動・・・ 

 人は結果に対して理由、原因を求める。説明をつけることで何かしらの感情を解消しているのである。理解することで安心を得るのである。ここを父親が部屋中に監視カメラを取り付けることで糸口としたのはうまかった。測れるとは限らない1つの線引きができる。家族、専門家だけでなく、第三者の目としても機能する。

 その枠組を構築させてからの、終始曖昧なストレスや緊張感を与えてからの、全ての現象が繋がる、合点がいくとして見せる宇宙人なのである。ここがミソなわけだ。

 その家族を世間からおかしいと思わせようとしているのが気になったわけだが。これは宇宙人にその意図があったのかなかったのか、というよりは、家族が現象に何かしら理由付けをしようとアプローチしている事に対しての、そのおかしな家族に何かしら理由付けをするという家族外からのアプローチを意識させようとしたのだろう。



 こういうのを観る度に思うのだが、彼らには外交という概念が無いのか? ある程度地球人にも許容のある者はいるぞ。彼らも亜種なのかな。地球人の中で決して犯罪が無くならないように宇宙人の中にも無法者がいるのだろう。

 いや、これが彼らのやり方なんだ・・・ そもそも人間と同じ所に立っていない。対等ではないんだ。


 弟が尻尾のとれたトカゲをリハビリしていると言い張っているわけだが、ここに宇宙人(グレイズ)と地球人の関係を見るのだろうか。いじめているのか、労わっているのか。なぜそのトカゲが選ばれたのか。そもそもトカゲの区別はつくのか。

 父親の就職活動、母親の不動産の売買もこれと関連してくるのだろう。企業が面接によって人を判断し取捨選択をする(される)。お客がその家が相応かどうかを判断し買う(買わない)。恋愛要素もそれか? 大きくは家族愛か。

 何かしらの判断材料があり選択は為される。職歴、実績、人柄、価格、立地、相性、本能?・・・ 比較対象を持ち出してより良いモノを選択する、したがる。これが当然なわけである。常識として浸透しているわけである。ここを突いているわけである。


 結局は判断がつかない。侵略しに来ているという前提で人体実験をしていると結論付けているが、これは人間の想像の域を出ていない。兄貴(ジェシー)は小さいころに原因不明の病気になったとされているが、これは宇宙人の仕業ではなく、宇宙人に助けられたともとれる。

 最初の接触において病を発症したのか、病が発症したから宇宙人が接触し何かしらの痕跡を残しておいたのか・・・ 彼らの単なる好奇心なのか、善意なのか悪意なのかというところは判断ができない。

 一応説明は添えられているが曖昧だとしておこう。実験用ラットに研究者の意図が理解できるか否かと補足もされているのでこれくらいにしておく。


 しかしこれだけは言えるようだ。被害にあった家族は苦しんでいる。最後の交信はどのように捉えるべきなのか。家族を取り戻すための一縷の望みなのか、それとも家族を一生苦しめる入口なのか。先輩の姿は見せられた・・・



 ポイントは宇宙人の目的が何だったのか?ではなく、我々の常識とされている現象に対するアプローチからの宇宙人への落とし方であるのでね。宇宙人の常識と我々人類の常識との照らし合わせではなく、宇宙人による未知の現象を見せられての我々の常識というところへの再アプローチ。これを楽しめればいいのではなかろうか。

 ・・・究極家族というところを見つめなおすのか。





〇アニー・サーマン

 キュ~ト





























〇最後に
 ま~奴らはどこかにいるでしょうね・・・

 ではでは・・・



2016年8月24日水曜日

ミッドナイト・ミート・トレイン(2008)

ミッドナイト・ミート・トレイン


~どうしろってんだよ


〇はじめに
 地下鉄はこのために存在してるんやな~



〇こんな話
 地下鉄で人間解体ショー。


〇どうしようもねえ・・・
 何が怖え~って、深夜の地下鉄における連続殺人鬼の撲殺をひたすらに見せつけられてからの、さらに人間の解体と処理の工程を爪はぐわ目ん玉くりぬくわでエグイのに、決してそいつがボスではなくただの雇われという・・・。

 謎を追い求めて決定的瞬間を撮ったど~と観せてからってのがまた利いてくるのよね。このどうしようもなさよ。運転手(車掌?)もグルだし警察にも協力者がいるし、もう街全体がグルなわけで。その犠牲のおかげで街の平和(とでも言うのかね)が成り立っているという容認があるわけで。

 父祖って何なんだよもう、勘弁してくれよ。地下鉄とか絶対乗らないわ。



 どうやってミートが選考されているのかはわからないが、主人公の場合は首を突っ込みすぎたのが原因で。紳士がホームレスを避けている写真に関して言及があったわけだが、まぁ普通(とされるもの)はそういった諍いは避けて通るもの。しかし彼は街の心臓を捉えるために強盗現場にも足を突っ込む。助けた女性は皆逃げるのにと感謝のキスを残しミートに。



 いぼってのは何かの象徴だったのかだろうか? 

 解体屋は体中にいぼができておりそれを何個か切除してコレクトしている様が映し出されていた。1個2個切除したところでといった、世界の秩序を守るために行っているという主人公が直面してしまった陰謀の大きさと掛かっていたりいなかったり? どちらも根本的な解決には一切なっていないわけでね。自らの境遇・現状を受け入れ容認しているともとれるのかな。




〇最後に
 ホラー映画を積み重ねる度に逃げ場が無くなってくのよね。安全な場所っていったいどこなんだろう・・・ 布団の中だ!! その神話を破壊した作品もありましたね・・・

 ではでは・・・


2016年8月22日月曜日

マイティ・ソー(2011)

マイティ・ソー


~ムジョルニア~

〇はじめに
 今作で弓の奴出てくる。


〇想起する作品
 「エボリューション」(2001)
 「ジョン・カーター」(2012)
 「バケモノの子」(2015)


〇こんな話
 むか~しむかし、氷と暗闇の巨人に襲われたそうな。そこに助けに現れたのがソーのお父さん。そこから地球と付き合いがあるとか無いとか。




〇ムジョルニア
 どうしてハンマーなのか気になったんだ。明らかにただ杖を振るだけで敵を攻撃するロキの方が有利だし効率的。なぜ古代(古典的)の武器の道を極めたのか。

 ハンマーとはどんなものなのか。人間が効率良く力を振るうために開発された道具であろう。かる~く叩くだけで強い力を発揮できる。それが最初のソーの姿なのであろう。国を守るためにひたすらに敵は殲滅すると。その強大な力を見せつけ見せしめ国を守る。それはその力を恐れ他国が攻撃してこないようにするというもの。自らが振るう力の誤解があり驕りがある。ここを人間界にてコメディとして描いている。私はオーディンの息子である・・・。どこか核の抑止力の思想にも近い。

 ソーとロキは父親の思想を双方極端に解釈した産物であって。ソーは良く言えば真っすぐで正義のヒーロータイプ。しかし力が全てだと思っている。ロキは良く言えば戦略家、賢者タイプ。自らは公に力を振るわず駒を動かす。この関係性にてソーの力を提示したのはうまい。国を守るためにと力を振るうのは何ら問題は無いようにも見える。しかしその力の振り方はどうなのかと。強大な力を有する者。一国を落とせるほどの。結局ソーとロキでどちらもエゴで力を振るっていたわけだが。ここではソーがエゴ(力の顕示)、ロキがソーの無知蒙昧な力を利用ってな話で。力の危うさですな要は。

 終盤でのソーがハンマーを振るうシーン。幾度となく防がれる。振り下ろす前に中断させられる。この余計なモーションがあるだけに攻撃が届くまでに時間がかかるんだ。だからこそ力を振るうということがソーの意識に浸透していると見て取れるのではないだろうか。力を持つ者が一転力を持たない者となり、恋をし友と酒を酌み交わし辿りついたところ。

 おそらく柄が短いのも、その適用される範囲を意図したのではなかろうか。そしてハンマーの小ささからは過信、振るっている力の再自覚を描くため。

 原作でどこまで意図していたのかはさっぱりわかりませんが。

 でもハンマーうっかり落とすと地球が滅びるみたいな設定があるとかないとか。



 人間の中で誰も持ち上げられないのも皮肉なのか。

 あの、スタン・リーでさえ・・・

 ここもおもしろいんですよね。持ち上げられるか否かはその個人の資質や能力によるものではあるわけだが、それを決めた設定した存在があるわけで。要は上の存在(上位種)の示唆なわけでね。


〇スタン・リー























〇余談
 氷の巨人ってのはスノーボールアースから来てるんか?



〇最後に
 次は「キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー」。

 ではでは・・・

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...