2014年11月29日土曜日

パワー・ゲーム(2013)



~情報格差~ 

〇はじめに 
 正直盛り上がりに欠ける。といのも鑑賞者として追っていくものがあまり見えてこないからだ。しかし情報社会における情報戦争で実際に追うべきものは、劇中で描かれるような人物たちの動向ではなく、その人自身が持っている情報であり、それはなかなか可視化できないものだ。その人物たちの動向はヒントや手掛かりでしかない。それを踏まえて観るとまた違った味わいができるのではなかろうか。 
 「社長>主人公」という構図がなかなか崩れない、崩れていく兆しが見えてこないというのもある。ここが長いから退屈に感じる人も多いと思う。 

〇想起する作品 
「ラッキー・ナンバー7」
 なんとなく、二大巨頭に立ち向かう感じが。

〇こんな話
 とあるスパイを強要された男のお話。

〇位置 
 ある一人の男に対する映像と、その背後に聴こえる他者の声という演出が、その男の現在位置を示してくれている。いや、不確かさか、これからの兆しか。思い悩む男の背後には無邪気な子供の笑い声であったり、全てを失おうとしている男の背後には嘲笑ともとれる周りの笑い声であったりという風にだ。主人公が扱っているシステムが3DPSという位置情報を確認するシステムであったので、現在位置で良いような気がする。 
 世間や社会において、その者の位置というのを決めるのは、決して自分ではなく他者である。ここでいう位置とは、その者に対する価値や評価といったところだ。如何に才能や能力を持っていたところで、そこに他者から価値を見出してもらえなければ何の意味もない。受け入れられる努力をしなければ、何もしていないのと同じこととなる。他者との差異など無いに等しい。 

〇壁 
 彼の辿りつく答え。一発逆転を狙うことより、地道にコツコツと歩むことが一番の近道であると。格差社会を皮肉っている映画であるが故に、この1つの答えは勝者の戯言に聴こえてならない。この世には生まれながらにしてでは決して越えられない壁があり、その壁を越えるには一発逆転に賭けるしかないという境遇の者もいる。近道であるという努力が出来ないからだ。それは個人の問題か、周囲の、環境の問題かは人それぞれであろう。そしてそんな弱者たちを糧に生きている者たちもいるという。


〇情報媒体 
 アイコン社が開発しようとしているシステムは究極人間がいらなくなる。というのも、現在我々が使用している情報端末と人間という関係性を、究極全くの逆にしようとしているからだ。それは情報媒体にもう一人の自分を創り上げようとしているシステムであり、情報の正確さ、速度で言ったらオリジナルである人の形をしたものを超えるであろう。人が電子機器、携帯端末といった情報の媒体を扱うのではなく、それらの情報の媒体や媒介に人間が用いられることになる。しかし結局は人間がいてこそなのだが、今のところは・・・。

〇情報社会の行く末 
「見えている者と見えていない者」 
「見ている者と見られている者」 
「見ようとする者と見ようとしない者」 
というのが今日の情報社会における構図であろう。より全体を、先を見通した者が勝者となる。スパイという境遇をうまく利用した主人公。二大企業の情報を知り得たのはスパイである彼だけだ。情報量において彼は勝ったのだ。もちろん彼の才能や力量もあるが。 
 ところどころで言われる、宣伝力、広告、需要(ニーズ)などといった言葉。さらには主人公がパスワードを覗き見ていたり、システムの情報を全て公開しなかったり、最先端ならではの自動充電機能が仇になったりと、見方を変えることでその情報の価値はいくらでも変わる、もしくは変わったように見えるということを交えて、メリットとデメリットの演出がふんだんに為されている。主人公のその業界における才能は申し分ないものの、スパイに抜擢されたのは、主人公に見出された価値が技術開発におけるものではなく、社長に対して見せた反抗心や野心によるものからだった、というのも1つの例だ。
 情報というのは持つ者、見る者によっていくらでも価値を変えることができる。そしてそれを(提供者は)いかに有益なものに見せるか、有益なものとして使うが、情報戦略の鍵だ。消費者(受け手)は情報の真意を見抜かねばならないか、知らぬまま盲目に生きていくかだ。情報社会においてそれに関わる者自身が持つ情報の量、質というのが重要で、それが原因で生まれる情報格差。誰も丁寧に1から教えてくれるわけではない。知ってて当然だろと突き放されることもしばしば。そこにはある程度の水準が存在する。それに追いつけるのか追いつけないのか。結局は自分次第である。
 時折映し出される監視カメラの映像も、そんな情報社会の構図を示唆させているのではなかろうか。

 そもそも我々人類と言う存在も情報という産物に過ぎない。知識や経験、知恵などがそうだ。さらには才能と言った先天的なものも遺伝と言った情報に過ぎない。容姿もそうだ。それをただ生殖により後世に残しているだけだ。そこに感情を持ち込むから人間を何か尊く感じるのであって、価値を見出す者がいなければ人間には何の価値も無い。
 最後に主人公とその周辺の人物における、友情や愛による復活劇、成功劇のように観せ、何とも痛快に終わるわけであるが、この作品においてはそんな不思議な力をもたらす現象は何ら意味をもたない。愛や友情といったものも先ほどから述べているただの情報に過ぎないからだ。血のつながりといった家系。お互いに価値を見出すからこその友人や恋人といった関係性。どこまで情報を共有するのかという情報なわけだ。線引きの仕方によりその表現が異なるというだけで。
 つまり彼らは最後に明るい未来を手に入れたわけでは決してなく、評価されるべく、必要とされる新たな1つの情報を手に入れたに過ぎない。そこに価値を見出すか否かで、作品としての評価が分かれる、というのを改めて感じさせていただいた。

〇最後に
 スパイものというと007シリーズなどが浮かび、よりスリリングでアクションが目立つ作品が多い。それらの作品に対してこの作品はなんとも静かであり、且つ見えてこない部分が多いために物足りなくも感じてしまう。しかし情報戦とは見えてこないからでこそ際立つものがあり、扱う題材も情報媒介・媒体に関してで、前の項でも言及した情報社会についても考えさせるような演出が為されているので、その辺は解消されているようにも思う。まぁ、でも物足りなかったなぁ。

イコライザー(2014)



~正々堂々~

〇はじめに
 クロエさん、盛り過ぎです。いえ、ありがとうございます。

〇こんな話 
 面倒見の良いおじさんが、悪をバッタバッタとなぎ倒すお話。

〇正々堂々 
 この映画の渾身のギャグがおわかりいただけただろうか。イコライザーだけにね、とでも言わんばかりの渾身のものを。 

 まず彼の能力の高さを提示する場面。宣伝では19秒で悪を退治するされていた場面だ。彼は単身で悪党の本拠地に乗り込むのである。そこでバッタバッタと敵の持ち物で敵を一掃する。これが何を意味するのか、最後の刺客との対決の場で活きてくる。対決の場とは彼の職場であった。では彼が働いていた職場とは何だったのか、思い出してほしい。そう、ホームセンターである。彼は職務を行うにあたり、間取り、物品の有無・位置を把握している。彼は店内にある物品を十二分に活用し敵を追い詰めていく。この辺でお気づきになられた方も少しはいるのではないだろうか。そう、彼にとってのホーム(ホームセンターと掛けてる)なのである。そして敵の本拠地に単身で乗り込んだ場面、あれが彼にとってのアウェイである。つまり彼はホーム・アンド・アウェイ方式で悪と戦っていたのである。敵地にて不利な中、自分の本拠地にて有利な中、と2試合行っているのだ。どちらでも彼は勝利した。悪に対しての完全勝利を意味する。最新鋭の武器が、ホームセンターで売ってる物に負けますしね。スカッとした。 いや~、おもしろかった・・・ギャグが。

〇19秒 
 宣伝で前面に押し出してくる19秒での悪者退治という文句。いったいこれは何を意味していたのだろうか。実際のところ劇中彼は悪者退治に時間という制限を設けていない。じゃあ何なんだよという声が多いだろう。私の見解を述べさせていただく。

・宣伝だけで考えた場合
 正義が悪を倒すという構図でよりおもしろさを持たすのは何のか。
正義という悪には無い制限性である。悪があらゆる手段を用いて正義を倒そうとする中で、何か流儀があり、恩義があり、どこか感傷的であるという正義の弱みでもあり強みでもある部分。というのを際立たせるための制約的なものだと思っていた。

・実際に鑑賞してみて
 はっきり言うと、19秒という数字には彼は何らこだわりはない。彼の前職が関係してだろうきっちりとした正確を際立たせるための1つであった。とともに正義という位置づけの甘さを示した場面でもあった。
 彼は危険察知能力や、状況の見積もり能力に長けている。そんな彼の敵地での状況把握により、悪者退治の設定、見積もり時間は16秒であった。しかしなんやかんやあり28秒かかってしまう。のだが、自分で勝手に設定するロスタイムを引いて19秒とするのだ。それが19秒という時間の現れ方なのであった。ここから勝手に解釈することは・・・。
 設定時間を定め自らにノルマを課し、それを過ぎてしまったと自分を戒めているととれば、彼の面倒見の良い性格から他人に優しく自分に厳しくとシビアなものととれるのであるが、ロスタイムを勝手に設定して、実際のかかった時間を差し引いている方に重点を置けば、ある程度寛容さを持ち合わせるという正義の甘さの象徴ともとれるのである。要は彼がどんな人間であるのかということを感じてくれという象徴的なシーンであったと。
 それにしてもこのPV作った人、映画観てないんじゃないのぉ~???? 煽っていきますよ(笑)

〇余談
 読むべき100冊の本として出てきた「老人と海」という作品に対しての最後の彼を背景に描かれる海という画と、「見えない人間」という本を前にしてのインターネットによるやり取り。狙っているんだろうな。

 主人公に対する刺客の実力としての描き方は、主人公の最善且つ最適であろう戦い方に対して、容赦のない、わざわざ痛めつけるような画であり申し分ないのだろうが、何分主人公が常に上を行く。それは正義という制限性ありきで描かれるために尚更かっこよく観える。デンゼル・ワシントンならではだと感じた。
 強いて不満を言わせていただくのであれば、ホームセンターで戦うに至るまでの主人公に対して刺客が仕掛ける策が甘々すぎることか。主人公の知人を人質に取るものの、それとの対比が自分たち(悪者だけ)のところに来いというものなのだ。「悪者だけ」と「悪者&人質」というどちらかを選択させる形で、感傷的な主人公が知人たちを見捨てて、のこのこ悪者たちだけの前に姿を現わすはずがない。これはどちらにも人質を用意しておくべきだった。天秤にかけさせるべきだった。

〇最後に
 正義という制限性がありながら、常に悪に対して上を行く感じが何ともカッコよく、デンゼル・ワシントンという風格があってこその作品だと感じた。
 最後の終わり方は正義の味方を職業にしようとする終わり方なのだろうか、シリーズ化の方針で行くのかはわからないが、それならば是非とも決めていただきたい文句がある。彼の正体についてだ。時折「お前は何者だ?」という問いが彼に投げかけられる。元の職業やつながりは明かされるものの、この問いには性格には答えていない。ここで是非とも某探偵漫画のような、「ただの小学生だよ」といったような見た目通りか、「探偵さぁ~」といったような見た目とのギャップでかっこよく見せるような決まり文句を作ってほしい。よろしくお願いします。

2014年11月26日水曜日

MONSTERZ(2014)

MONSTERZ[DVD]


~死ぬまで生きる~ 

〇はじめに 
 能力者の能力の制限がかなり曖昧になっており、折角のおもしろくする要素を台無しにしている。最初の子供のころの演出で受ける彼の能力の制限は、目が合った対象を操れるということであったはずだ。それが数十年経った次の場面では目に映る全ての者ということに変わっている。能力を磨いてきたのだろうか。能力に伴う代償の演出でそれを示したつもりなのだろうか。まぁ能力バトルものじゃないからな。「Z」というところが主要テーマだからな。これでいいのかな。
・・・でもこれだと、何でもありになってしまう。何でもありなら、観る側に「それならこれもありだろ」というような反抗心を生んでしまう。それを逆手に取ってくるならそれもありだが、結局何も無く・・・。これじゃぁウケないでしょうよ・・・。  

〇想起する作品 
「アンブレイカブル」(2000) 
 MONSTERZを観た後、こっちを観てほしい。同じような対立と言うか関係性が、正義と悪という形で描かれている。どちらがおもしろいか、是非比較していただきたい。 

〇こんな話 
 ある日、見る者全てを操れる能力を持つ男と、その能力に唯一操られない男が出会った。何で操れないんだ。操りたい、思い通りにしたい。何十年も抱いていなかった気持ちが蘇る。いったいこの気持ちは何だ。そう、これはまぎれもない、恋だ!!

〇Z
 操る男と操られない男の二人の関係性がテーマである。

 「死ぬまで生きる」というのが目的であった。これは彼のエゴであり、誰から認められているものではなかった。能力が故に、両親からも死すべき存在として認知され、最初の事件以降は誰にも気づかれずに生きてきたくらいだ。承認されるはずもない。 

 そんな存在を主人公は自分以外を操れるというところから、化物認定する(そもそも化物認定というのも、両親以来彼が初だ)。しかし、彼の執拗なまでの追跡と戦いを通して自らの能力についても自覚するようになる。そして彼に対してだけでなく、自分と彼というお互いに化物じみた能力を持つという共通項を見出すことで、最後彼に向けられた言葉が「死ぬまで生きろ」という、彼のエゴではなく他人からの承認であったことが、二人の関係性と彼に何かしらの変化を生んだという証明になっているのは紛れもない事実であり、この作品の根幹だ。 

 しかし彼にそれが適用されていいのかという疑問が沸き起こってしまう。彼は自分の都合の良いように他人を操り好き勝手していたわけで。いや法が適用されないというような終わり方ではなかったか。彼は全身を拘束されており、死刑執行を待っていたのかもしれない。それともただのモルモットか。つまり主人公の彼に向けた「死ぬまで生きろ」という発言は間近に迫る死に向けて、罪を償うという意味で生を全うしろということだったのかもしれない。いや逆か。能力が故に差別されてきたという、彼に対する旧人類からの罪の解放を意味するのか。もう背負い込むなと。解放されていいだろうと。愛する者にさえ化物認定されて、排除されるべく対象だと認識されていた彼にとっては、主人公の彼の生を認める発言と存在は何にも代えがたいものである。互いの存在が互いの存在証明であり、唯一主人公に認められるだけで、今までの感情は消化できる。正反対の存在はそれぞれが独立して存在するわけではなく、対を為すべくつながっていると。最終局面で主人公は左足を引きずり、操作系能力者は右足を引きずっている。対の存在であると互いに自覚した、という直接的な表現なのであろう。しかしなにかくだらなく感じてしまう。 

 そもそもの問題は、誰にも認知されないという理由で支配欲に駆られ、人を操り好き勝手生きてきた人間が、「死ぬまで生きろ」という承認を受けることに対して、何で彼が認められるのかという疑問の方が大きくなってしまうことにある。その承認が彼との戦いを通して尚認めることのできる主人公の寛容さということで、悪に対しての正義と定めたかったのかもしれないが、主人公のコメディ的演出が大きいために、ただの馬鹿だからという方に思えてしまう。・・・いや正義故の純粋さととるべきなのか。逆だったら良かったんですよ。悪側の自己満足的正義の承認。正義側は何か悶々として終わるという。「アンブレイカブル」という作品がそのような感じなわけだが。

 彼への執拗な執着は、主人公をひたすらにストーカーし、ちょっかいを出すわけであるが、これは自分を人を操れる化物として認識されたことによる彼への興味から沸き起こった衝動であろう。先ほども書いたが彼は認知されて生きてこなかった。唯一母親だけが生かされ、彼という化物を認識していたわけだが、母親に対しては能力が有効であるためにいくらでもごまかしが利くので大した問題ではない。いや、唯一能力の存在を知り、生かしており執着する存在であるという演出も為されるわけであるが、存在証明としては母親という以外に、同じ土俵(能力において)に立つべく存在ではないために却下しよう。

 彼の行動は、他人からの承認を得たかったというただの我儘だったと見ることもできる。自分の存在を唯一認めてくれていた母親という存在の消失。能力ではどうにも手に入らなかった母親からの愛。それを失くしてから彼は孤独に生きてきた。支配欲を満たすことで孤独を紛らわしていた。そんな中に唯一操ることのできない主人公の出現。興味、関心、沸々と沸き起こる様々な感情。それはいずれ愛に変わる。 
・・・ありの~ままの~♪♪



〇対策 
 能力者に講ずる対策が甘すぎる。操作系能力者は人類の敵であった。視野に入る者全てが操られるという広範囲に能力が及び、明らかに危険な存在である。国家の存亡を揺るがすほどであっただろう。それにも関らず、彼らはどんな対策をとったのか。是非この映画を鑑賞して確かめてほしい。ここなんですよ。能力に制限性をしっかりとしていないといくらでも反抗心が生まれてしまい、つまらなくなる原因は。何でもありなのに、なぜ対策において何にもしないのよと。視野に入ったら操られるのよ、後ろから制止の合図をしようと振り返る隙を与えたら終わりなのよ。拘束なんて意味ないんだよ。まず目をつぶすんだよ(躊躇してしまうだろうが)。なのになぜ!! うーーん、バカ!! 

〇最後に
 石原さとみかわええええ。
 敢えて無表情をピックアップ。








ではでは・・・。

プラチナデータ(2012)

プラチナデータ[DVD]


~プラチナ?データ~ 

〇想起する作品
主に監視システムに関して
 「エネミー・オブ・アメリカ」(1998)
 「イーグル・アイ」(2008)

〇こんな話 
 犯人特定システムに絶対の信頼を置いている〇〇が、そのシステムにより犯人とされてしまう。真相を突き止めるべく逃走。追跡システムが猛威を振るう。   

〇プラチナデータ 
 国民のDNAを国が管理することを前提とする。そのデータからある者たちとその関係者を選別・除外したものがプラチナデータと呼ばれる。犯罪に関与した場合は意図的に該当者なしと判定される。

 これは特権階級の暴走みたいな事が起こり得るが、医療関係のシステムにも適用していたら皮肉ともとれる。これほどの技術が蔓延している時代だとしたら、全国の病院間で個人データが共有されており、そのデータを基に医療行為が為されるはずである。病院間だけで公開すればいいではないか、という人もいるだろうかよく考えてほしい。医療の場合だけに限定して直接アクセスできるシステムが可能だろうか。可能としても必ず漏れる。ということはそんなリスクをお偉いさん方が犯すとは限らない。プラチナデータと言う究極の自己保身システムを作るほどだ。つまりだ、自己に関する情報に対する防御システムを究極に極めようとするならば、まず誰にも知られないようにするしかない。都合の良いように情報を限定して公開するということは、わざわざ紐解く糸口を作っているようなもの。

 何が言いたいのかというと、プラチナデータに載っている人物たちが、九死に一生を得るような事故や怪我などを負ったときに、参照すべき彼らの情報は何も無いということになる。治療の仕様がないのだ。プラチナデータが彼らにもたらすのは恩恵だけではない。この作品は、そんなことに目が行かない連中を「ざまぁ」という風に冷めた目で見れば良いのではないだろうか。 

 いや待て、お医者様もなかなかブラックだからな~。お金のためなら・・・。


結論 
 (情報に関しての)究極の自己保身は究極の自己破壊でもある。



〇最後に
 二宮くんは俳優路線で良いのではないでしょうか。私的見解ですが、嵐で見る彼はあまり好きになれません・・・。


2014年11月20日木曜日

白ゆき姫殺人事件(2014)

白ゆき姫殺人事件[DVD]


~創造神~ 

〇はじめに 
 蓮佛美沙子嫌いじゃないんだが、この役は上野樹里で観たかったなぁ。ダイワハウスのCMを見る限りの印象です。と最初は思ったが、最後まで観ると蓮沸さんで良かったのかと。うまいなぁ、そして怖いなぁ。あとキャラ的に井上真央を能年玲奈で観てみたい。

 噂話や勝手な謎解きが好きな女性の妄想を真に受ける男というのが何とも滑稽。これがジャーナリズム。当事者だったらとんだ迷惑だわ。不愉快極まりない。

キャッチコピーは
 「真実は解き明かすものじゃない、創り出すものだ!!」


〇想起する作品
 「ニュースの天才」(2003)


〇こんな話 
 いつでも、どこでも、誰でも、あらゆる情報が手に入れられる時代。それが正しいかどうかは別として、情報の伝達速度は光速化した。それは伝言ゲームと同じで、情報は独り歩きをはじめ、どこで誰が改変しようと留まることは無い。誰か止めて~。


〇創造 
 数々の真実が入り交ざり、ある事件に関してのひとつの真実が創り出されていく様が描かれていく。記憶というのは年月とともに改変、改竄されていくものとある者が言うが、おそらくその通りで・・・。 

 真相を探る報道関係の者、そのインタビューに答える者たち、報道に踊らされる赤の他人、自称親友、同級生、さらには当事者である者という視点で真実が暴かれていく。どれが真実なのかはわからない。いや、どれもがその者たちの真実なのだ。という思い込みであると知れずにだが。しかしそこには何の問題も無い。ここで問題なのは、その真実とされる情報が独り歩きを始め、当事者以外のところで別のものとして創り上げられてしまうことにある。自分という存在がわからないというような発言をする当事者。自分という存在がどのような人物であるかを証明するのは自分ではなく他者なのだ。SNSという情報収集能力や、伝達速度の向上による人間関係への影響が少なからず垣間見られる今日。世間ではスマホゾンビが横行し、常に誰かと繋がっていたいという意思が汲み取れる(これは私が勝手に信じている真実)。彼らは事件の真相なんてものはどうでもよかったのだ。事の顛末を知りたいだけだ。そしてその情報の最先端にいたいだけだ。乗り遅れるのが、皆とはぐれるのが怖いだけだ。情報社会における競争に必死なだけだ。疎外感を刺激され、見えない情報に翻弄され、見える人間に怯える毎日。人に嫌われないように生きていくことで、自分という存在を保つ。事前、事中、事後の意見や意思が変わったところでお構いなし。 問題は今の自分をどう保つかだ。今の自分を肯定的に捉えさせるために、正しかった過去を尊重するのか。それとも間違っていた過去を消し去り、 「妙技:手のひら返し!!」を繰り出すのか(これは恐るべき業だ)。 ツイッターにおけるつぶやきの内容の変遷、父親の世間と娘を敵にしたくないがための利己的な発言の数々。それらが対象の真実を創りだしているという現実。あなたはどう感じるだろうか。 


〇真実
 報道を創っていたものは最後の最後まで容疑者としていた者の顔さえ知らない。その程度の情報で、それはもうコツコツとひたすらに積み上げ、真実を創り上げていく。ネット民の馬鹿さ加減もそうだが、それよりも報道関係者を皮肉っている。どちらが悪いというわけではないけれど、そもそも情報に踊らされるネット民は情報の提供者がいてこそで、それを考えるとこの作品は、SNSの危険性と言うよりは、報道する側の情報収集及び選別のいい加減さと、事実確認の不足を問題にしている。それを先導していた者もそうだが、その番組を取り仕切っていた者は、下の者を恫喝し首を切るだけだ。人が変わっても構図は変わらない。また同じことが繰り返されていくのだろう。何ともいい加減な。この映画然り、そんな虚実の混ざった情報提供を我々は鵜呑みにしている。どこに真実があるのか。
・・・あなたが信じたものが真実だ。そんな世の中。


〇騙される心理 
 因果関係や動機を提示せずに都合のよい証言だけをピックアップすることで、新しい真実を築きあげる。報道の時間の都合もあるだろうが、そこには製作者の意図が介入する。当事者以外の当事者に関わった時間・期間だけの証言と、最後の当事者の小学生の頃からの順を追っての回想劇における対比がそれをうまく示している。少し証言に関して、取り上げてみる。 

・同僚1の証言 
 犯人しか知り得ない要素をインタビュー中にいろいろと暴露しており、なぜこれに気付けないのかと。まぁ気付けないだろうな。話の流れがぶつ切りになっているにも関わらず、記者は途中から想像入っちゃってるよね、と。想像で補える真実。ある程度つじつまを合わせるために推理が必要になるのはわかる。しかしね、真実を伝えるべく報道関係者がそれを真に受けるというのは・・・。ま、それがおもしろいんですけどね。彼の目的は真相究明ではなく、一発逆転のスクープだったわけですし。  

・同僚2の証言 
 送別会の主役の先輩をねぎらう典子の言葉に対して、後輩がごますりをしている場面。ここの人物が同僚1の証言において食い違っている。それぞれの証言において自分が主体になっている。ここでどちらかが嘘をついていることがわかる。この人物も独自の想像を交え話が進められるが、殺す場面には至っていないのでまぁ。 
 さらには独自調査を進める記者に対する同僚1の見解も明らかになる。完全にナメられてるだろ、と。 

 他にも証言者はいるが、容疑者は出揃った!! あとはいいや。

総括 
 証言を再現VTRにすることでより明確となるのだが、会話やその対象の食い違いに目がいきがちである(確かにそれも重要な要素ではある)。しかしそれよりもここでは時系列の問題として取り上げてみる。そもそも食い違いが時系列の問題と関連するのではあるが・・・。 
 それぞれに真実となるべく証言が異なる。これは何ゆえに起きるのか。時間の経過による記憶の改変・改竄である。現在と過去の比較にもなるのだが、過去における結果として現われている部分と、現在という動機や原因が渦巻いており、まだ結果に結びつかず現れていない部分。現在においてはその人物の行動の動機は見えていない。しかしそれが過去となると何かしらの結果として現れているものがある。それを自分の都合の良いように順番を並べ替えるのである。この映画での結果は城野美姫を犯人と決め付けることにあった。証言者が証言を進める上で、犯人は城野美姫だという前提は一致している。ここに騙されてしまう心理が存在する。彼らの証言で見えてくる彼女の行動に、彼女が犯人であるという前提で理由付けがされてしまう。他の動機があったとしても、典子を殺したという結果と結びつけてしまうのだ。その場面を以下に少し・・・。 

場面例(城野美姫の証言を事実として照らし合わせた場合) 
・ボールペンを盗まれた時にニヤついていた 
 これはボールペンを盗まれた時の捜索している時の状況ではなく、典子が美姫に芹沢ブラザーズのチケットをもらうという事実を受けての笑顔なのである。 
・バッグをラグビーボールのように抱えて階段を走って行った 
 これもライブ会場へ急ぐという理由であるが、自分が殺してしまったという罪悪感か恐怖という理由に置き換えられてしまう。 
・足指マッサージ 
 ただのマッサージが性交渉中の内容に・・・。 

・・・などなど盛りだくさん。いや~、この映画うまいね。上記のような証言者による因果関係の都合の良い順番の入れ替え。それに加えその情報をさらに番組が都合の良いように編集されるというのを巧みに描いている。  

 真実が形作られていく過程の証言とそれの取り扱いについて書いてきたが、そもそものミスリードは被害者ではなく容疑者に焦点を当ててしまった点で、典子と事件の全容のイメージが同僚Ⅰの証言で固められてしまっていることにある。後の証言でチラホラ典子という人物の黒い面や、証言の食い違いは見られるものの、比較対象は本筋となっている同僚1のイメージなのである。最初に提示されてしまうものを優先せざるをえないのは人間の心理か。他の同僚に典子についての証言を得れば何かしら見つかっていたはず。死人を悪く言うはずないか。典子に貶められたが故の自分の失敗談など話したくもないか。噂好きの女性の証言が典子の悪口よりも、城野美姫の殺人犯という真実の方が上回っただけか。

 兎にも角にも、答えありきで話を進めようとするのは「だめよ~、だめだめ」


〇余談 
 先生うざ。まぁ教師なんてのは・・・。やめておこう。どの世界にもこんな奴は存在する。自分も誰かにはこういう存在かもしれないし・・・。気をつけよう。まぁ、これも小学生ならではの受け方だからな。先生の意図とは違う風にとられている可能性も無きにしも・・・なしか。 

 あとこれ一番厄介なのが、真犯人の同僚よね。自称親友もか。いや、全員厄介だわ。それぞれが答えありきで話を進め始める。もう自分の中に答えがあり、それを真実として話し始めるから、仮にそれが自分の記憶ではなく他人から聞いたことも、自分の真実として話してしまう。世界を見る目にフィルターがかかっているのでしょう。自称真実というフィルターが。


〇最後に 
 当事者を日蔭者として描くことで、当事者という以外に、それぞれの証言者より信憑性のおける人物として描いているのだろう。しかし、これも彼女にとっての真実でしかなく、証言内容においては彼女の主観がふんだんに盛り込まれていることを忘れてはならない。でも実際うまいんですよね。真犯人以外の証言の再現VTRには、それぞれの証言者が必ず登場するんですよ。そりゃ証言だから当たり前なんですが・・・。その人にとってはその証言したことが全て真実なんですよ。それを踏まえると犯人しか知り得ないはずの事実というのを、犯人は誰かに置き換えて話しているととれるわけです。誰かに自分の何かを相談する時の演出で、自分の友達の話なんだけど・・・というのがあるではないですか。となると唯一犯行現場での様子を証言してしまった人物があやしいとなるわけで。 嘘を気付かれにくくするには、最初から嘘を積み上げるのではなく、真実を時折織り交ぜることがポイントなんですよ。逆だ、真実に嘘を織り交ぜるか。真犯人は自分の犯行に至るまでを、嘘で少し脚色したに過ぎない。そして記者はその証言、つまり城野美姫犯人説を本筋(真実)として、独自の推理という嘘を脚色していったに過ぎない。故に信憑性が増してくる。さらに都合の良い情報のピックアップもある。もう真実以外見えなくなるだろう。お~、怖い怖い。 


 あと擁護するわけではないが、三木典子も生きるのに必死だったんですよ。他者と自分とを比べて自分のプライド及び存在価値を保つためには他者を蹴落とすしか方法を知らなかっただけで。表には出してないだけで、コイツ裏では相当にヒーヒー言ってたはず。まぁ実際いたらムカつきますけどね。

 自分のいないところで自分という真実が創り上げられてしまう。何とも恐ろしいことだ。劇中の報道で城野美姫という人物の真実が創り上げられていったように、三木典子という人物は、自分以外によって作り出される自分という真実を、他者よりよく見せようと生前必死だったわけです。自分という存在を他者に依存するしかない世界・社会。面倒くさいなぁ・・・という言葉は心の中に留めておこう。あ、出ちゃったか。

2014年11月12日水曜日

蜩ノ記(2014)

~時、間~


〇はじめに 
 邦画をあまり見ず、さらにはこういった時代ものをほとんど観ない私にとっては、この日本人が作り出す独特な日本の文化は何とも心地よく、落ち着いた雰囲気で観ることができた。 
 しかし話としてきれいすぎるな~。まぁその世界観に堀北真希は見事にハマっていたと思うわけだが。

〇時、間
 場面場面における間の取り方が非常にすばらしい。これぞメイドインジャパン。外国映画に毒された日本文化の表現では決して表現できないものがこの映画にはある。しかし、全体の流れとして観ると、どうも途切れ途切れに思えてしまう。場面ごとのつながりがどうもちぐはぐと言うか。しかしそれは作品の中で何度か語られることになる、一日一日を大切に生きるということを感じさせるためにわざとやっていたのかもしれない。季節の変化、関係性の変化、情勢の変化など全体として観せるのではなく、場面場面でそれぞれ考えさせるというか、1つの完結を迎えるというか、何を私は言ってるんだか・・・。

〇最後に
 この映画はコンディションを整えていかないと、ほぼ確実に寝る。表現がとても落ち着いている。落ち着きすぎている。それに安心してしまうのである。良く言えば心地よい映画である。悪く言えば退屈な映画である。

ザ・ホスト 美しき侵略者(2013)

ザ・ホスト[DVD]


~適者生存~ 

〇はじめに 
 侵略映画としてはきれいすぎる。恋愛映画としてはお粗末すぎる。しかしSF侵略恋愛映画とミックスして考えたときに、この映画は新たなるジャンルを得る。そこがすばらしい。 何てジャンルだろ(白目)??

〇こんな話 
 地球はかつてないほど平和だった。しかし、地球を支配していたのは人類ではなかった。地球を取り戻すため人類は密かに活動をしていた。そこにソウル(侵略者)を入れられた人間が潜入する。はてさて・・・。 

 〇想起する作品 
 「鉄腕バーディ」 
 「光る眼」(1995)
 「フォーガットン」(2004)
 「インベージョン」(2007) 
 「V」

〇侵略者 
 侵略者は寄生型のエイリアンである。彼らは人の中に入り込み、その寄生した人間の意思を抑え込み、新たな人格を得る。主人公は特殊な例であり、主人格は乗っ取られるものの、完全には制圧されていない。頭の中で野次を飛ばせる、会話くらいの抵抗は可能である。

〇適者生存 
 ラストが一癖ある。侵略者を人間とは異質であるということを決定づけるのだが、それをもってしても両種は共存できるという何か前向きな方向に持って行く。この、愛は種という障害を乗り超られる。というような一見感動的なラスト。なんと愛はすばらしい。別に感動的なままでも良いのだが、それでは私個人としてはあまりおもしろくはない。勝手にほじくり返そう。

 恋愛要素を絡めることで、彼らは自分の意思で共存を選択したととれる。しかし、実はこれはただの自然界における適者生存、自然淘汰といったことでしかないのである。よく思い出してほしい。シーカーとされる人物が、ソウルを取り出された後どうなったかを。人類とは共存できないからと別の星に飛ばされたではないか。共存できる者は地球に残り、共存できなかったものは他の惑星へ飛ばされる。異種間だけでなく、地球人間でもよく見る光景ではないか? 仲良しグループ、派閥などなど。共通の目的や思想の基集まった集団。方向性が違う者たちを排除していくことで完成する閉じられた世界。同じ時は良い。しかしそれを違える時が来たらどうなるのか。ある集団、お国同士、地球規模で起きてる事を、ただ宇宙規模で種を超えて表現しただけではないか、と冷めた目で見ることもできるわけで。 
 簡単にまとめると、この一見愛は種を超えて育めるというのは、仲良くできる連中だけで生きていきましょうと、そして仲良くできない奴はどこかへ行ってくださいと。究極独裁体制に近いわけです。それを愛とか・・・、と思えてならないわけで。

 ここで冷静に物語を見つめてみる。進化論に関して少し触れたので、彼らの歴史からどう進化してきて、これからどう進化していくだろうことを探ってみよう。この表向き愛は種という壁を超えるといういわゆる共存という行為は、彼らにとっては進化のための選別だったのかもしれない。先ほどは地球人と共存できるかという意味で、適者生存を説いた。しかし侵略者という種のみで適者生存を考えた場合、他の惑星に飛ばされた者たちは共存できる場所に辿りつくまでタラいまわされるということになる。それぞれに合った種を見つけなくてはならない。今までは器を制圧することで為し遂げてきた侵略が、死した器に対して新たなる命を吹き込むことで、地球においては共存という形に変わる。いや、別の惑星でまた侵略という形態に戻るかもしれない。しかし人格を支配する力が弱まってきていることも問題視していた。これは支配による共存、彼らにとっての生存の術の限界を示しているのではなかろうか。いや彼ら自らが支配による生存以外を選択しはじめたととるべきなのか。何にしろ侵略者に何かしらの変化が起こったことは確かである。その先に何が待ち受けるのかは誰もわからない。最終的に滅ぶこと以外は・・・。   

〇最後に
 地球人とエイリアンの対立や共闘・協力の演出により、最終的に恋愛観を広げ、愛は種という障害を越えるという何とも感動的且つ、希望を見出すような表現が為されている。同志を募っていくと表現すれば聞こえは良いが、劇中の関係性は前の項でも述べたが、排除されていく者がいるからこそ築ける世界なのである。それを愛の中の美しい部分だけを用いて表現することで、鑑賞者はその美しい部分だけを受け取り、愛が全て、愛ってすばらしいなどという見解を持つに至ってしまうことだろう。そんなことでは決してない、と少し皮肉る形で話を進めさせていただいた。考慮されたし。

2014年11月11日火曜日

ザ・ライト エクソシストの真実(2011)

ザ・ライト エクソシストの真実[DVD]

~信仰~ 

〇はじめに 
 「エミリー・ローズ」を一緒に観ると、エクソシストという職業についてより深められるのではないでしょうか。 

〇こんな話 
 家系柄、葬儀屋か神父になることが定められている主人公。神学校へ。 卒業の年、彼は神学以外は最高の成績を収める。信仰に関して欠落しているものがあると悟っている主人公。ある時事故に遭遇する。そこで死を看取る時にお祈りを頼まれる。彼は彼女の頼みに答え、お祈りを始める。家の葬儀屋の仕事を手伝っており、死体は見慣れていた彼ではあるが、人が死ぬことに遭遇するのは初めてであった。そして信仰の欠落。にも関わらず彼はその事実を受け入れ、お祈りをしたのである。そんな現場を見た司祭?がエクソシストにスカウトをする。そしてある出会いから考えが変わり始める。はてさて・・・。 

・ざっくりと 
 急募!! エクソシスト不足しています。 

〇運命 
 まずある事故によりこのエクソシストの物語は始まる。 事故のあらましとしては、司祭がマイケルを呼び止めようと道路を横断しようとしたところ転んでしまい、それを避けようとした女性が車に轢かれ、マイケルにお祈りを請うに至る。ある一人のエクソシストの誕生にはこの事故が必要不可欠であった。信仰に関する心情の変化の始まりと、半ば脅しのエクソシストへのスカウト。様々な経緯を経てエクソシストになり、そしてこれから彼に救われていくだろう多くの命。一人の尊い女性の命が多くの命を救うのだという将来的な見通しを残してこの映画は終わる。 
 司祭がマイケルに対して、あの時転んでいなければ彼女は亡くならなかったと、私には責任がある気がしてならないと話すシーンがある。司祭は死んだ彼女に対して何かしらの免罪符を得ねばならなかった。そしてそれに必要なのは彼女と最後につながりがあったマイケルをエクソシストにするということになる。故に事故がマイケルのエクソシストへの道の転機だったととれる。事故で女性が死んだ時点でマイケルがエクソシストになる(多くの命を救う)ということは決まっていたのだ。

〇信仰 
- 悪魔を信じる、故に神を信じる -

果たしてこの道理は通ずるのだろうか? 

 彼は最初悪魔に憑かれた症例を精神病か何かの類と馬鹿にしている。そしてエクソシストという仕事を映画の中で描かれるような派手なものではなく、地味なものだと。しかしその症状・症例が実際に悪魔によるものではなかったとしても、本人にその自覚はないわけで、悪魔の仕業と信じているのならばそれが対象の真実なのだ。その辺の認識の違いなんだよな・・・。実際日本だと悪魔ではなく幽霊・悪霊といった現象で判断される。霊的な世界においても文化や地域色が存在するわけだ。仮に悪魔に取り憑かれるという事象を違う国に持って行ったら、別の原因が見出されることになるということ。つまり、原因が不明確なのである。ただ単に我々の目に見えない、手に負えないものによる恐怖を軽減するために、何かしらに理由をつけたいだけなのである。そして恐怖の軽減のために用いる違う方法として、我々は現象の解明に文化や地域色といった観点ではない、第三者的な立場の科学的な根拠を求めるようになる。これが「オカルトVS科学」のはじまりである。よく両者の対立が(おもしろおかしく)取り上げられている。オカルト側が劣勢を示す場合が多いが、恐怖の軽減という共通の事象が、両者を対立する存在としているのである。目的は同じなわけだ。

 この映画で言わんとしているところは、説明のつかない現象全てを、安易に・短絡的に悪魔と結び付けること無かれということなのだろう。劇中でも語られる精神病と悪魔憑依の混同。悪魔という存在を信じることで、人は悪魔により罪を犯す、という考えに至るのは非常に簡単で救いを見出しやすい見解である。単純化されるヒーローものと一緒だ。ヒーローものでは、正義が世界に悪(混沌)をもたらしていると定める(というより勝手に決め付けている)悪者を倒す。倒すことで次の悪の出現までの一時の平和を得られる。しかしこの平和は、悪の根源を排除したことではなく、悪をもたらしているとされる者を倒したという、周知の事実により訪れることに注意されたい。エクソシストの場合は、その者が信じる悪魔を倒す・排除することが、一時の人の心の安らぎを見出すことにつながる。本質的な問題が悪魔というところになくとも、対象がその現象をもたらしていると信じ込んでいる悪魔と言う原因を排除したとする事実を信じることができれば、やすらぎにつながるのである。つまり真の原因が解消されたとしても、その現象の解消に至らない可能性があると。そして信じなければ倒すことを許されない悪魔の存在。そこがまた複雑で。悪魔の存在を確かなものとする、証明するものとしてある事象が、現代ではマジックのトリック・タネといったようなもので、疑ってかかるスキがあるものばかり。傍から見れば笑止ってな具合に。ではどうするのか。信仰が鍵となる。

 悪魔が実際にいるという事象に対抗できるのは、悪魔がいないという否定的な見解を最初から持つ者ではなく、最初から悪魔はいるという見解に立ち、悪魔を追い払える・追い払ったという見解を得られる者でなければならない。なぜなら超常現象に関して科学者が科学的根拠を見出し、その事態に何かしらの対処ができるように、悪魔という何かしらの原因を見出し、それに原因を押し付けることで問題を簡易化することができ、且つ被害者にそれを信用させることができるのは信仰者という存在だけだからだ。主という存在の力が悪魔を倒せるという共通の見解。信仰者間だけで完結する関係性。信じる者(だけが)は救われる、という文言が皮肉めいて聞こえる。信者以外さようなら・・・。当にそれが悪魔という事象を通して露呈した。 ここが信仰というものにまったく縁の無い私の考えの限界。

 劇中に起きる悪魔と関連するであろう経験を通して、悪魔がいる(存在を信じる)という見解に立ち、故に神を信じる主人公。これは果たして通ずるのか。悪魔を信じることで、神の存在を信じる、ということは逆も通じなければならない。神を信じる、故に悪魔を信じる。となると、よく映画において描かれる不条理な出来事に関して被害者が訴える、神に慈悲は無いのか、という演出は仕方の無いこと、となるのである。神を信じる者は悪魔の存在も自覚しており、悪魔が罪を犯させるという前提ありけりで生活しているはずだからだ。それなのに信者たちは何を嘆いているのだと。日々の生活の中に起きる負の事象は全て必然である。故に割り切り、あきらめ生きていかなければならない。事後、もうそこには罪という概念は無い。といより、悪魔による事象・現象はあるとして生活しているから、実際に起きた際に何かしらの感情を持つこと自体がおかしいのである。誰の責任でもない。全ては何かしらにより創り出された悪魔の仕業なのだから。これは拡大解釈か。現実に罪を犯すのは人間である。その者が悪魔に取り憑かれていようといまいと。そこがまた問題で。罪を犯させる衝動(ここで言う悪魔という存在)は実態が見えない。それを存在するという証明にエクソシストといった人物が必要なのである。どこに、誰に責任や罪を背負わせるのか。どこかに矛先を向けなければ解消されない感情がある。それの簡易化、軽減を図るために、何かしらに原因を決めつけるためにだ。

 問題は神と悪魔の存在に関する道理であったわけだが・・・。
ここで問題となるのは、神と悪魔とを表裏一体の存在として、切っても切れないものとして扱っていることにある。信者全てがこの事実を受け入れているのかと。神を信じる者が、悪魔の存在を信じているのかと。もっと言えば、神の方を先に信じ始めた者が、悪魔の存在を受け入れられているのかと。どうも宗教というのは都合の良いように扱われがちである。奇跡が起きれば神の御業だと。都合が悪くなればおお神よ・・・と。全て神を中心に回っている。それ以外の悪とされるものを寄せ付けないためであろう。悪に原因があるのか、神に原因があるのか。悪魔の仕業だとしても、神を頼るのである。エクソシストが当にそうだ。神の御名において・・・。そこからはじまる宗教の誤訳と誤解釈。最悪それは意図的に行われる。都合の良い部分だけの抜粋。故に信者を煽れる煽れる。いったい彼らは何を信じているのだろうか。神か、悪魔か、神の教えとされる宗教か。その教えを説いているのはいったい誰なのか。
 まぁ、神と悪魔といった表裏一体の考え方はエクソシスト特有なのかもしれない。でもカルトや何やらで信仰を煽る時に限って都合よくこういった考え方は使われたりするよなぁ・・・。

 以上宗教というものを全く理解していない私が、偏見を全開に意見を述べさせていただいた。

〇最後に
 人を救うがために原因を悪魔と言及し、心配事を排除する。それが本当に良いことなのか?悪用する者もいる。 ある講義で突然停電というか電源が落ちる場面がある。そこである者がつぶやく。「悪魔の仕業だ」と。たかだか停電である。何かしらが原因で起こった事だ。悪ふざけで発言しただけかもしれないが、ただの停電に対しても、そのようなことを言ってしまう。何とも短絡的ではなかろうか。ここが問題なのである。原因が何かわからない事象・現象に全て悪魔や信仰的何かを当てはめる。信仰が人を盲目にする典型例であろう。信仰は何故にもたらされるのか。信仰の裏には理解という概念が・・・、
・・・これはまた別の機会に。

ではでは・・・。

2014年11月8日土曜日

グランド・ピアノ 狙われた黒鍵(2013)

グランドピアノ 狙われた黒鍵[DVD]


~キー~ 

〇はじめに 
 演奏を作っていく感じに鳥肌が立った(ここは劇場用だろう)。それ以降はサスペンス要素に夢中で、あんまり音楽が聴こえてこなかった。しかし、そんな人たちのためにエンディングロールで全ての演奏が聴けます。圧巻です。 

 〇こんな話 
 過去のトラウマで舞台恐怖症に陥っていた主人公。ある日恩師のピアノによる講演で復帰を果そうとする。その恩師は曰くつきで、多額の隠し財産があるとかないとか。そしてその財産はピアノの中に隠されているとされ、開けるのにはある曲を弾かなければならないと脅される。その曲目はというと、彼が舞台恐怖症に陥る原因となったものだった。はてさて・・・。

〇金庫 
 ピアノ自体が金庫の鍵になっていて、ある曲を一音も間違わなければ開けることができる。 生きているものの中で、その曲を弾けるのはイライジャ・ウッド演じる主人公のみ。
 ピアノ自体を金庫にしてしまうという発想。鍵盤=鍵ですか。なるほどなるほど。最近思いつく開かずの扉をもつ金庫は、何重もの暗号や、動体検知センサー、振動感知センサー、などなどハイテク技術によるものばかりだった。その設計者の上をいく頭脳の持ち主と、仮に方法があるにしても、それを可能にしてしまう実行力と運の持ち主。みたいな金庫破りものはたくさんあった。しかし、これはある音楽を奏でなければ開かない。しかも一音でもミスしてしまうと開けることができないというからくり要素。運など適用されない本人の実力が確実に結果に左右するという展開。過去には知らないが、最近では観たことがなかった仕様である。

〇鍵 
 重要なのは最後の4章節だけだそうで、弾き直すことでも開けることができる。一音も間違うことができないという緊張感で話を盛り上げ、しかもそれが大衆の前ということで緊迫感はピカイチだった。・・・にも関わらず、最後の最後で4章節だけを弾き直すことで金庫が開く。となると主人公が弾く必要なくなっちゃったよ、と感じられてしまうのだ。その曲でなくてはならないという、リズムや弾きの強さなどが重要ではなかったようで。主人公である必要がある要素が「手の大きさだけか~い」と突っ込んでしまう。ロボットでも開発するかという話を交えるシーンがあるが、犯人ほどの知識があれば楽譜を読み解いてなんとか弾き終えてしまえば、手に入る。
 まぁつまり、金庫を開けるのはその曲の音楽やメロディではなく、鍵盤を押す順番であったとなるのだ。何ともがっかりである。

 犯人が主人公を助けようとするシーンがある。曲を弾けるのが生きている者の中で唯一人という理由が大きい。唯一金庫を開けられる存在を死なせるわけにはいかないという犯人の緊張感。 しかしそれも最後の演出でおじゃんだ。まあ一番の問題であったのが、代物が伝説の人間のピアノだったというだけに、公演やらの移動で一つの場所にとどまるのが限られた時間だったということだろう。故に犯人は劇中の行動を起こすしかなかった。それを忘れてはならない。とはいっても何だかな~、もっとどうにかなったでしょと思わせてしまう出来になってしまっているんだよなぁ。

〇最後に
 指揮者が主人公のプレッシャーを小さくするために、観客は演奏を間違えたところで気付かないから大丈夫だ、などと発言する。これが後に大きな意味を持ってくる。金庫の鍵であったこともそうなのだが、それよりも観客の誰ひとりとして彼の芸術としての演奏を理解していないとして映画が終わることが問題なのだ。劇中彼は犯人に脅され、それを打開しようと演奏のことなど考えている暇はなかった。演奏の最中に状況の打開を図ろうと、演奏よりも対策に躍起になる。それをもってしても彼は演奏を完成させてしまうところが、天才足るが所以なのだろうが、それならばもっとすばらしい演奏ができただろうということになる。しかしラストは拍手喝采、スタンディングオベーション(だったと思う)。おやおや~。
 そもそも芸術とは何なのか。観客に感動を与えようとして為されるものなのか。それとも芸術家のエゴの押しつけか。・・・とこの映画から少し考えてみよう。彼は観客に聴かせるための演奏など考える暇は無かった。金庫の問題からどうせ間違ったってというスタンスで曲を弾いていた。それなのに最後の大歓声である。天才ピアニストの復活を祝ってのこともあるだろう。しかし犯人を除く誰一人として、彼の演奏した曲の間違いを指摘できない、気付けない。観客はそんな不完全な演奏に大満足である。何とも滑稽ではなかろうか。演者に間違ったところで色あせない芸術性があるのだろうか。それとも鑑賞者が芸術を評価していると錯覚している自分に酔いしれている状態に大満足なのか。おそらく後者であろう。鑑賞者は盲目である。というのがこの映画で私が一番におもしろいと感じたメッセージであった。
 芸術はその芸術と評価するものとがいて成り立っている。そしてそれに価値をもたらす者だ。
「芸術 ― 評価する者 ― 価値をもたらす者(お金を出す人)」
といったように繋いでいる。しかし劇中のような状況であると、仲介者である評価する者が省かれるか、価値をもたらす者と同義になる。その辺りが、鑑賞者(評価と価値とが同義になった者)を盲目にする。人によっては、映画をここで勝手に語っている自分もさぞ盲目に思えることだろう。悪しからず。
・・・と最後といってまた長くなりそうなので、何もまとまっていないがこの辺で終わりにする。芸術に関して考えるのには、もっと良い題材になる映画があるのでそちらで書いていくことにする。
作品のタイトルは「鑑定士と顔のない依頼人」
項目名は~芸術という産物~とでもしておく。お楽しみに。
ではでは・・・。

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...