2014年4月18日金曜日

GAMER(2009)

GAMER[DVD]

~ハリボテシステム~

〇世界観
ソサエティという仮想空間で、現実の人間をアバターにゲームを楽しむことができる技術が蔓延している時代。その技術を基に、死刑囚が自由をかけて戦うスレイヤーズというゲームが横行していた。ルールは単純。30バトル生き残れば自由の身。この映画までに自由になった死刑囚は0。スレイヤーズになれない囚人にもチャンスは与えられるが、生存率ほぼ0%。しかし、それは本人の意思で動くのではなく、操るプレイヤーがおりFPS・TPSを楽しんでいる。主人公は囚人ケーブル。自由まであと4バトルと迫ったところから話は始まる。彼は死刑囚ではあるのだが、ある陰謀に巻き込まれていたと・・・。

今日のオンラインゲームが、画面の中ではなく現実に起きているというだけの違い。 いくらCGが精巧になろうと現実でない。これが本来の操作プレイヤーは安全という前提の下で、リアルを追及するというゲームの究極系か。

プレイヤーに支配されると遅れが生じる。ピング。通信誤差的な。その緊張感が見事。 アップデートによりプレイヤーと通信可能になったりと、資金や知識によるゲームの格差感の演出も見事。あとはゲームマスターというチート。そしてゲームシステムの抜け穴。

囚人管理のシステムとしては「デス・レース」と同じ。あれは民間の刑務所だったんだっけか? 囚人を使って利益を得て、それを基に刑務所を運営するというのは理想的なシステムではなかろうか。

〇システム
システムの循環は一見うまくいっている。犯罪抑止力、利益循環、娯楽性、雇用など。問題はこの技術が囚人だけでなく全人類に適用できるというところで、キャッスルは密かにそれを行おうとしており、ヒューマンズはそれを危険視し抵抗していた。キャッスルはアバター全員を操作できる。対象を思い通りにできる。思い通りにできるというのがミソで、正のイメージだけでなく、負のイメージにも適応されるという皮肉。正のイメージよりも負のイメージの方が想像しやすく拭いにくいからな。これは考え付かんかった。一番の欠陥はキャッスルという人間だったと・・・。システムの欠陥は彼の人間性を観れば容易に察しはつきましたけどね。でもそれをどうこうできないというのが現実にはあって、その不満というかフラストレーションを映画内では払拭してくれると。

〇ゲームの需要と供給
アバターが現実の人間であろうと、このゲームを求める人は少なからずいるだろう。現実に不可能な自分の欲求を性別・年齢を厭わずに他者で投影する。その欲求は仮想よりもさぞ満たされることだろう。表面的には支配される側と支配する側の両者の欲求を満たしているとしている。要はSMネタではあるのだが。 需要がある反面、人員が確保できるのかというのが問題。ゲーム内では仕事としている人もいたが・・・。そしてスレイヤーズというゲーム。囚人にも限りがあり、人数が間に合わなくなる。これが仮に犯罪抑止力になっていたら尚更。開催と人数制限をしていれば供給がなくなることはないか。まあキャッスルが狙ってたのは世界情勢を操ることだから、そこまでは考えていなかったのかもしれない。あとはその問題が露呈するまで、このゲームが続くとも思えないし・・・。いやそれほどまでに犯罪が横行しているという暗示なのだろうか?

〇死刑囚について
死刑で死ぬことが決まっているのだから、ゲームで殺されようと一緒。死に方が違うだけ。このようなニュアンスの発言が劇中にある。死というのは同じ。この考えが難しい。死が決まっているのは生物なら必然であり、この考え方が死刑囚に通るならば、全人類に適用されることになる、と反論してみる。この道理は通ずるのか? 死刑囚になぞって考えてみたい。

・寿命という観点
仮にその人間がいつ死ぬのか決まっているとする。しかし、その人間が死刑に足る犯罪を犯し、死刑が執行されたとする。それは自身が犯した罪により死を迎えたのだから、本来の寿命とは違う時間で死んだとするのか、それとも寿命がその死刑の時間に尽きることが決まっており、その者が死ぬことは決まっていたから、必然的に死刑足る犯罪を犯したのか。誰も知ることはできない。この思想だと犯罪を犯してからの、この犯罪を裁く上での経緯が全て茶番になる?
死に方が寿命の帳尻になるため、死に方は確定されない。

・死に方という観点
病気・事故・殺人・死刑・自殺等、死に方は様々ある。そのどれかに死に方が決まっており、死刑と決まっていたとする。死刑という死に方が決まっているから、犯罪に手を染め裁かれるのか、誤って裁かれるのか。そして死に方が確定しているならば、いつ死ぬかというのが問題になってくる。早いか遅いか。死刑と決まっていてもいつ執行されるのか、いつ死刑に足る犯罪を犯すのか。誰も知ることはできない。
寿命が死に方の帳尻になるため、いつ死ぬかは確定されない。

では両方が定まっているのか。寿命と死に方が確定しているならば・・・、とそんなことを考えても今の我々には知る由もない。どちらも決まってないのと同じことだ。この辺で止めにしよう。訳が分からなくなってきた。現段階では人類すべてに死が平等に訪れるということしかわからないのだから・・・。 まあここで問題なのは死刑制度にあるのであってここまで深く考える必要はない。法律というもので罪を償うという行為で死刑にされるのか、スレイヤーズというゲームによって殺されるのか、という関係者の満足度と法律という形式に当てはめていたかというのが問題で? 追及していくと死刑制度についての考えも述べていかねばならないので、それはまた別の機会に・・・。

〇最後に
技術は日々進歩しており、留まることを知らない。我々が普段気兼ねなく使用しているものにもたくさんの技術が用いられており、そのもの自体がどういった事象・現象で動いているのかわからずとも使用できる。理解を超えるものですら使用できるという技術すらある、ということになる。何が言いたいのかというと、理解できていないがために、その技術に振り回されることになる、ということ。利便性を求めるあまり、その技術の孕む問題性を軽視・無視しがちで、その無知さ故に問題の侵攻に気付けない。気付いた時にはもう遅い、といった状況に陥ってしまう。この映画で起こった出来事が当にそう。ソサエティというキャッスルが産み出した技術に翻弄される、それを使用する者たち。同じような事が現実世界でも起きている。あなたが使用している技術に対して、あなたは耐性があり問題が起こっても対処できますか。真実・事実が視えますか・・・。
情報社会に生きる今、無知の知や騙される者が悪いとは言わないが、確実に情報格差(デジタル・デバイド)は存在する。それにより損をする者も確実に存在する。現在のシステムをうまく利用して何かしらをだまし取ろうと知恵を働かせる奴がいる。それらに対して脆弱ではないですか。あなたは身を守れますか。私は自信がありません。そして自身が視えません・・・、以上。

2014年4月7日月曜日

THE WAVE (2008)

THE WAVE[DVD]

~教育の実態~

独裁性という高校の授業を嫌々担当するハメになった教師が、独裁を再現・体感してみようと段々と調子にノって取り返しがつかなくなる話。 生徒も最初は疑問に思っていたのだがまんざらでもなくなり、洗脳されていく。

〇実感を伴った理解
「実感を伴った理解」は最近理科の学習指導要領に追記された事項であるが、それにピッタリと当てはまる授業がこの映画で行われている。これぞ教育の目指すところだと言わんばかりに。体感型の授業により、教師と生徒が一体となりひとつのテーマについて学んでいく。学校で学んだことが日常生活にも活かされ、教師と生徒、生徒と生徒間の信頼関係も深められていく。なんとすばらしいことか。・・・となるはずの授業展開である。
授業中だけならいいのだが、学校外でも影響してくる。これは一見良いことであるように思われるが、果たしてどうだろうか。この関係性は実はクラスという組織の内輪だけで成り立つ信頼関係だったのだ。クラスに関わらないものは徹底的に排除される。要は自分たちだけが幸せならそれでいいといったような感じか。考えようによっちゃ不幸な者の存在が我々を幸せにする、ともとれなくもない。

〇集団心理
団結の力。団結こそが重要だと説く。独裁者の呼び方、意見表明の際の注意点、制服、敬礼、ひとつになっていく様がなんとも異様な感じを醸し出す。授業内だけでなく、授業外にまで影響が及ぶ。最初は仲間意識による助け合いなのだが、独裁者をよそに組織が独り歩きを開始する。集団意識がもたらすものは罪悪感の軽減、自分の力の過信。集団でいることが人間心理を麻痺させる。
この一見すばらしい組織形態は、あるコミュニティ内だけで成立するもの。クラスの思想に反対する者は排除していき、内輪の都合のいいような組織にしかならないという実態を持つ。教師が組織の解散を促した時にある者は「正していけばいい」と言った。果たして正すことができるのか? 否だろう。独裁者=正義であるが、その正義は組織にとっての都合の良い正義であって、真に正すべきものとは限らない。悪だとわかっていてもそれを是としかできない。最悪悪とも思わないかもしれない。それほどまでに感覚は麻痺する。「赤信号皆で渡れば怖くない」とはよく言ったものだ。集団心理の的を射ている。異論を聞き入れ、踏襲してこそ正すという道が開けるが、異論のある者は排除していけばいい、というスタンスをとる独裁体制ではそうはできない。

〇問題視
もっと早い段階で止められたか?
無理だろう。問題視するのが遅すぎた。事件に発展するまでに傍観した者が多数存在する。確かに始めたのはこの教師ではある。しかし、教育に携わるもの全てがそれに関わることを放棄した。授業を促す者までいた。事件になってから初めてこの教師に非難する目が多く集まる。危険視していた少数派はそれまで聞く耳を持たれなかったのに。そう、これが教育の目の向けられ方だ。結局は結果主義でしかない。結果が出ればそれを是とし皆が見習い、出なければ非難され排除される。大事なのは結果ではなくそれまでの過程だ、などという風潮が教育現場では流行る(日本だけかな?)。そんなのは詭弁だ。いくら勉強したところで、その人物を図る指針は成績という数字だ。いい学校に、いい会社に、いい年収などなど社会に適合するにはこれらの背景が必要になる。これが現実だ。それでいて子供には努力や頑張りがきっと実を結ぶなどと夢を見させるような事を言う。なぜ結果重視の世界に生きている者が、過程重視を語れるのか。教育から実践への移行。つまり過程重視(とされている)の世界から結果重視の世界への移行。この正反対とも言える世界へ放り出されるとはなんと残酷なことか。移行段階でまず選別されていたのだ。社会に適合できるか否かを。

これの反対意見として子供・大人という区別を持ちだす者もいるだろう。だがその決めつけは本当に正しいのか。子供だからと教育を制限し世界を狭める必要がどこにある。犯罪に巻き込まれるなどの危険性が増すからか。そうだな、情報の制限は悪いことばかりではないな・・・。

〇原因
人と人。実際の自分と理想の自分、そして周りからの自分と自分自身の差異。どこにでも差異は存在する。存在するのに歴史や過去からの傾向とみて、何かしら決めつけを行いたがる。事象・現象に関する完全な認識の一致などは存在しないのに、原因を何かに押しつけたがる。より混沌としたものが原因なのに、結果に対する憤りを何かにぶつけたいがために、原因をより単純に体系化・形態化を行う。
典型的な例が「昔は・・・」、「ゆとりだから・・・」などとのたまう者がいることだ。原因の一端に過ぎないのに、原因をひとつに決めつけたがる。歴史の変遷ではなく、ある一時に重きを置き過ぎている。「昔は・・・」「ゆとりだから・・・」と語るのは、今現在とは違い因果が見えている過去に執着したいがためだ。現在では原因が視えないから自分なりの真実を作りたいだけだ。原因を一つに決めるのは楽で、実際のより混沌とした原因から目を背けるための一時しのぎにすぎない。すぎないがその一時の快楽を得られる。人はそれに縋りたがる。
確かに常識、付き合い、対応、我慢強さ・・・とか?による現代の若者による問題行動は多くあるだろう。しかし、それは今に始まったことなのだろうか。昔もいたでしょう、絶対。それが露呈する手段が少なかっただけで。今やネット技術が普及し、機材があればどこでもだれでも情報を容易に入手できる。それで過大評価されているだけではないのだろうか。実際にゆとりが原因とされる事例が増えているとしよう。まあ、増えているとは思うが・・・。しかし、それはただの事例数であって割合ではない。日本も過去とされる時よりは人口増加しているし、(仮にだが)そのゆとりという役割が世界に必要なものとしてみれば、人口増加に伴うゆとりの増加も必然で何も不思議ではない。
話が反れたし、ゆとり擁護と思われるかもしれないが、詰まる所何が言いたいのかというと、ある事象に関して混沌とした原因があるとして、それに対するアプローチをしやすいように原因を単純化するのはわかるのだが、それに託けて真に問題として取り上げるべき原因を回避しようとする姿勢にイライラしているということ・・・です。

〇最後に
結局歴史なんてものは犠牲の上に成り立つ。こういう言い方をすると意味の無い犠牲など無いと取られかねないが、因果という結びつきが視えてこないには判断の仕様がない。その因果が視えにくい現在で結果を出していくには、過去の事象を参考にするしかなく、過去から視えてくる傾向だったり決めつけを行ってしまうのは致し方のないこと。しかし、それだけに固執するのはちと問題と。

映画の内容から割と脱線しましたが、この辺で終わります・・・。

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...