2015年7月28日火曜日

ベルファスト71(2014)

字幕翻訳:寺尾次郎


~複雑化~ 

〇はじめに 
 試写会にて鑑賞。 

 さっぱりだ。対立関係がまるでわからない。イギリスとアイルランドの対立。そこにプロテスタント系住民とカトリック系住民。英軍と工作員、IRA。いったいどうなっているんだ。 
「英軍とプロテスタント系住民」 VS 「カトリック系住民とIRA」
と思ってみたら英軍とプロテスタント系住民の間にもいざこざがあったり・・・ 

 ボイルって奴と、大尉が似てるのも原因なんだよ。劇場の所為かスクリーンが観難く終始薄暗い。顔がよく見えなかったんだ・・・  でもこれも意図的なのかな・・・

〇こんな話
 北アイルランド問題に関して。

〇複雑化  
 さっぱりな理解を開き直って、改めてこの作品を見つめてみる。 
 
 この作品を鑑賞して感じたのは、この直面している問題の糸口がまるで見えてこないことだ。いったいどこに解決策を見出したら良いのか。そもそも解決策などあるのか。なぜここまでに複雑化してしまったのか。

 敵地ではあれ、彼を助けてくれる人間は存在していた。しかしその規模が大きくなれば、そんな存在は呑まれてしまう。まずとある女性に暴行を受けているところを止めてもらうものの、1人は間を縫って射殺される。そして子どもはいっちょまえに大人ぶってはいるが、子どもの話など大人は話半分だ。簡単にあしらえる。そして傷の手当てまでしてくれるものの、逆らえないと恐る恐るの行動であった父娘。そして敵視していた少年に助けられるという兆しや希望は味方とされる者たちによって殺されてしまう。

 
 子どもが軍や対立する勢力を罵っている。ここに1つの原因が見える。おそらく彼らはそのように教え込まれている。悪とする者が何かを刷り込まれている。その対立が起こるに至った歴史的事実が省略されて。原因や理由など無く、ただ忌み嫌うべき対象であるという事実のみが取り残される。それがひたすらに世代を越えて繰り返されてきたのだろう。おそらく対立の起源なんてほとんどの人間が理解していない。あいつらは敵だから、という単純な思考。

---その示唆が、主人公が地元の町だか村が、他の町と仲が悪い。というようなことを語るシーンだ。なぜ?という問いに、よくわからない、と。歴史的な対立が出来上がってしまっている状況に生まれた者たち。その事実をどのように受け入れていくのか。ダービーという町の名前だった。これはダービー(マッチ)と言う因縁の対決に用いられる語源を意識させたかったのだろうか。---

 単純ならば解決は容易だと思われるかもしれないが、逆に単純だからこそ強い恨みにつながってしまう。解決すべきところ、アプローチするところが抜け落ちているからだ。論点が存在しない。故に歩み寄るための道、共通項が見出せない。これが問題が複雑化している経緯だろう。


 中尉がよく突然割り込んできておいて、去り際に「続けろ」と一言。これも問題の示唆だったのか。中尉は何をしているのかもよくわからず言葉を掛けている。

 そして最後の軍の隠蔽工作。緊迫した状況下で敵味方の区別を的確に判断できない。把握できない。それを利用し軍の都合の良いように真実を書き換え、事実をうやむやにする。深淵へ・・・
 

 あと弟とだけサッカーしてたりもするんですよね。


〇最後に
 「わからない」で思考停止してはダメなんだろうな。日本でもお隣の国々とまぁ対立しているわけで。文化、お国柄があれな国だというレッテルを全ての国民に当てはめてしまう。限られた情報であの国の人間は〇〇だと括ってしまう。まぁあちらさんの方がそれが強いわけだが。歴史を知りもしない、いや改竄された歴史を正史だともしている(これは私の偏見か)。
 911のときもそうだったのではなかろうか。その国の人間を見るとあれはテロリストかもしれないと疑ってかかったのではなかろうか。震災における風評被害も記憶に新しいか。悪いイメージとだけ結びつける、結びついてしまう。よくあることだ。故に闇が深い。そんな状況に、世界に、人間に、どう向き合っていけばいいのだろうか・・・・・・ 


2015年7月22日水曜日

進撃の巨人 ATTACK ON TITAN(2015)

~100年早かった~ 

〇はじめに 
 完成披露ジャパンプレミアにて鑑賞。 

 ただただ悲しかった。涙が出そうだった。

 原作の方は3,4巻でドロップアウト。人間が巨人に為すすべもなく蹂躙される様に興奮を覚えた口で、巨人と渡り合えるようになったからとさよならした。あ、「ベルセルク」大好きですよ。

〇想起する作品
 海云々の件は「ダークシティ」を思わせたけどな。不発弾のところ。

〇こんな話 
 撤退を知らない男たちが、後ろを振り返ること無く、今、突っ走りはじめる。
・・・果たしてどれだけの人間が後篇まで付いてきてくれるのだろうか。


〇人間VS巨人 
 この構図が何ともいただけない。 

 人間が為すすべもなく蹂躙される様を描ききれていない。女、子どもを直接的にグロテスクな描写につなげられないのが枷となっている。もう少し何とかしてほしかった。PG-12でこれまでなら十分合格点なのかもしれないが。
 そして大きさの対比をさせるのも必ず人間が手前で巨人が奥に陣取っている。この構図の繰り返しではさすがにバリエーションが無さ過ぎる。 巨人に喰われる様を描いたのは良かったか。しかしそれは人間側が巨人側に合わせる画だったわけで、逆に巨人が人間に合わせてくる画を描いてくれた方がより凄惨さは伝わったであろう。人間の目線に巨人の顔が降りてくるとか。壁穴から覗きこまれるシーンはありましたよ。しかし殺風景なところで、人間と、巨人の顔という対比は無かったんですよね。圧倒的な戦力差というか、人間はガチなのに巨人はナメプっていう対比がね。ま、難しいか。よくやった方なのかな。


 立体機動とかPOVで良いと思うけどな~。そっちの方が粗が見えにくくなると思うんだが。撮れんのか・・・。舞台挨拶で「クロニクル」って単語が出てきたのに。全体的に巨人の見え方が我々視点じゃないんだよな~。そもそもの世界観から入れないんだけど。


・足元 
 巨人の足元で為す術無く逃げまどう人間。そして逃げまどう人間の足元で何もできない赤子(母子)。巨人に踏まれる人間、人間に踏まれる食べ物。
 何かしらの意味があったのでしょう。しかしこれが、先ほど書いた人間(手前)と巨人(奥)を同時に映し出す構図の正当化にしか思えない。  

・銃 
 もっと使って良かったんじゃないかな。巨人に対しての銃の威力をもっと見せつけてから、あの自決のシーンを描くべきだったんじゃないのかな。 銃が効かないことを散々に見せつけられて、より小さい銃に弾を込めている人間を見て何を想うのか。一矢報いようとしているのかもしれないと期待をさせて・・・。巨人への恐怖が増すじゃないか。私の感覚がズレてるのか・・・

・生殖 
 巨人の生殖方法が不明。人間は言わずもがな。この対比もな~、安っぽいよな~。
 男女、親子、友人等々の人間のドラマ部分を見せつけて、それが見えてこない巨人に無関係に殺られていく様がそそるわけでしょ。チューチュー、揉み揉みとさ~。戦場でさ~。敵地だぞ、おい。そもそもこいつら終始緊張感が足りないんだよ。経験不足な兵士というのは考慮に入れるよ。しかしだよ、夜中の隠密行動でさ、巨人を起こさないように音や声を立てるなと言ってるのに、ガタゴトとトラックうるさいし、ドアの開閉でガシャンガシャンとさ。お腹の音が際立たなかったのは大失敗じゃないのか・・・。音だけじゃなくキャラが立つってところでもさ。そしてそこら中をライトで照らしていると。  
 そもそもそもそも何で夜なのかと。一番リスクが小さいからさと。でもさでもさ、巨人との100年ぶりのコンタクトを昼に描いていたことを含めるとさ、周り暗くすることでセットを隠せるよねと。そして市街戦や立体機動もさ、夜であることに違和感無くせるよねと。なんか下心が見えるんだよ。

 そういえばベイビー巨人?巨人ベイビー?、・・・巨人の赤ちゃんが出てくるわけだが。これは伏線なんですかね~。


〇説明調 
 邦画に良く見られがちなこの確認作業。何んの前振り(伏線)も無かったのに突如解説を始める。答えを提示する。

 一番はミカサが巨人をエレンと判断するところだろう。2年間会ってなかった仲という設定をどうも忘れている気がするのだが。 
 その前のひと件も気になる。なぜかハンジが巨人の闘い方を見て知能を有していると判断するのである。ただ殴り合ってるだけじゃないか。どうせなら武道の精神や型をエレンが習ってるとかの設定にしておけばよかったじゃないか。その特有の動きを観て人間なのではないかと察するとか・・・。

 エレンとヒアナがイチャイチャする件がさ。父親になってくれってさ。いきなり言われたってポカーンでしょうが。なんで全部口で説明するん。なら日常パートもっと描いて家族や友人、恋人のつながり大きくしておけば良いじゃないの。別れ際だけ描かれてもさ、ピンと来ないのさ。 

 そんな説明調なのに、最初に描かれるエレンのフラストレーションが感じ取れないという・・・。閉鎖感が足りないんだよ。壁の外を見てみたいって広大な土地に広がる壁を観せられてもさ~、どうなん? わざと青年設定にしてるんだろうね。社会への不満をため込んでいる典型的な層という。それにさ~、最初の超大型巨人よ。インパクトを与えるのには有効よ。でもね、あいつあの大きさなら壁またげたじゃん。穴空けるだけ空けて終了って。全体像を観せないのは焦らしなんだろうとはわかるけどね。ならもっと小さな巨人たちが人間で遊ぶ画を観せた方が良いじゃないのかな~。人間ナメられてますやん、と。そこを人間がチクチク針刺してくのがおもしろいんでしょ??ファンは??違うの?? 巨大な悪を前に小さな正義が奮闘すると・・・。まぁ壁に対しての対比なんでしょ、エレンと大型巨人は・・・。

〇女優陣
・水原希子 
 ビジュアル(表情というか目力、要は貌ですは)が良いのに、そのビジュアルにお芝居がついてきてなくて少し残念だった。 
 傷の位置を脇腹でなく背中にして、エレンに傷を見せる際は上裸で良かったと思うのだが。よりアクセントを加えるのであれば、シキシマに脱がされることで見せつけられると。上裸のミカサをエレンが後ろから、シキシマが前から眺める構図。これでNTR要素完璧。わ~お、カ・ゲ・キ。シ・ゲ・キ・テ・キ。  

・石原さとみ 
 「B地区 生殖器」 
 「ヤりたいの!!」 
 「こんなの初めてええええ!!」 
これ言わせたかっただけだろ。 
 
 そして舞台挨拶にて監督が言う彼女への発言、汚してしまったどうのこうのが下ネタにしか聴こえなかった。 
 さらに
 「粗探ししないで」
て、あんた、悪い女だな。私は逆に好感持てましたけどね。彼女には何かが見えていたのでしょう、何かを感じとってしまったのでしょう。

・桜庭ななみ 
 食べるシーン、ありゃダメだ。食に対する思い入れが感じられない。ただ口の中に物を詰め込めば良いってもんじゃないでしょうが。すごく下品に感じてしまった。 あとペースト状でなければならなかったのか。これがより下品に見えてしまう原因でもあっただろう。食糧危機であることはわかる。しかしだ、使いこなせもしない新兵全員に立体機動装置配ってるでしょと。ここら辺矛盾しませんかね。 
・・・あ~なるほどね、口元から白いのが見えることに意味があったのね。巨人さんたちは企画ものの男優さんたちね。

 弓矢は爆弾くらいつけてほしかたよ(ボソ)


〇余談
 このクオリティで「彼岸島」を撮っていてくれたのならば大絶賛していたところだ。しかしそこは残念。「彼岸島」にそんな力は無い。

 原作者が別物で撮ってくださいってのがクサいよね。保険だったんでしょ。作品の出来不出来に関わらず原作は売れるだろうしね。

 ボブ・サップにも出演してもらえばいいのに。曙出てたんだから(笑)

 グロテスク、恐怖を求めるなら、観せ方としては園子温監督の「リアル鬼ごっこ」の方が断然おもしろかったけどな。R-15だけど。なんか評価低いけど。



〇最後に
 「ウルトラマン」や「ゴジラ」を観るつもりで観ると、特撮云々ですばらしさを感じ得るのかもしれない。最後のエレンの戦いがドヤドヤなところなのか。それとも最初の大型か。しかしその分野ではるか先を行っている、今の日本の技術では到底追いつくことがないであろう領域の作品に、毒されていない人間などいないわけで。これを日本の超大作だと言って売り出すのであればそれ相応の出来が期待されるのだが、この作品は世界との差が縮まったと見せつける作品では決してなく、逆に開いてしまった差を嘆く作品となってしまった。ワールドプレミアにおける5分間のスタンディングオベーションが本当だったとして、それはいったい何を意味するのか。うさぎと亀におけるうさぎの余裕か・・・。いつかは・・・・・。・・・・・・・。


「命、捨てます!」

・・・間違えた


「心臓を捧げよ!!」

・・・ではでは。

2015年7月21日火曜日

脳内ポイズンベリー(2015)

~選択肢~ 

〇はじめに 
 で、でけぇ。 

〇こんな話
 頭の中がぐちゃぐちゃします。

〇脳内会議 
 まず5人の感情を定義づけしていないのがうまい。それぞれの感情に明確な名前などないからな。人それぞれに幅を持つ感情を、1つの解釈や方向性に持って行ってやる必要は無い。 
・・・と思っていたのだが、公式サイト見たらバリバリ書いてあるのか。あと感情ではなく、思考という設定なのか。下調べが足りんかった。真木よう子を観たいという動機だったからなと言い訳。 

 
〇選択肢 
 生きることは、人生は選択の数々であると。 我々は常に何かを選択している。選択肢が複数あるときもあれば、1つしかない時もある。選べる時もあれば、選べない時もある。リミットがある中、何かしらの答えを出さなければならない。タイミングの問題が大きい。あの時にやっておけば良かったと。過去の分岐点を後悔することがある。 

 大げさに考えてくれなくていい。例えばとある朝の「おはよう」を次の日の夜に返したりはしないでしょと。こんな小さな選択から人間関係は変化していくわけで。はじまったり終わったり、うまくいったりこじれたり・・・。

 勝手に大きく見ていくと、どんな人生を辿るべきなのか、といったことになるのか。選択は年齢が上がるごとに絞られていく。制限されていく。周囲の圧力や社会的規範によって形作られていく自分の中の固定観念。世間的にこうあるべきだという自分との対比として持ち出されるオーソドックスな人生及び人間像。勝ち組や成功者とされる誰もが憧れるであろう、幸せであろう明るい未来。自分という存在の内外からの圧力で勝手に選択肢を狭めていく。狭められていく。
 
 いつまでも子どものままではいられない。いつでもやり直しは利く。この辺の人によって異なる価値観、情報の発信の仕方や受け取り方を、2人の違ったタイプの男(本能型と理性型)と、脳内会議でそれに揺れる主人公、さらには事実と異なる改変を交えた過去回想を映しだすことで見せていく。

 さあて、どこへ向かっていくのでしょうか(遠い目)。

「30歳でそんな帽子被ってんのかよ」m9(^д^)プギャー
ここめちゃんこおもろかったわ。

〇揺れ
 動揺において、隔離していた感情が飛び出してくるような演出があった。 これと掛けて是非とも、会議室の揺れを別のものでもやってほしかった。お山が2つ激しく揺れていると。最初の階段を駆け下りるシーンで、なぜあんなに見せつけたのか。ボンデージ女が5人を眠らせた。その起きる場面を、とある行為の最中における揺れにしても良かったのではないか。
「何だ、この揺れは!?」 
上下左右にグワングワンと。 
感情云々を性的快楽という観点からも是非とも描いてみてほしい。

〇余談
 衝動(ハトコ)の女の子、「さいはてにて」の女の子じゃないか。この子うまいな。桜田ひよりさんです。
 
 神木君も◎ 「バクマン」観ますよ!!

 だがしかし、この作品は最後全て西島さんに持ってかれるな。かっけえええ。

 あと年齢公表してない吉田羊に女のなんたるかを語らせるのはさすがだね。

 
〇最後に
 まぁこれって突き詰めれば、自分っていったいどこからどこまでが自分なんだって話になるわけでしょ?? 仮に指が切断されたら、その転がった指はあなたですか?と。自分の指であることには違いないが、その指が自分という意思を有しているのか?と。

「さぁ、会議を始めよう!!」



2015年7月20日月曜日

HERO(2015)

~扇子が無い~

〇はじめに 
 「HERO」って何やねん??

 俺だったら夏を強調し汗だくの人間をひたすらに描くことで、冷房や扇風機が無いことを演出したね。

〇こんな話 
 親しい友人の同窓会になぜか付いて行って、その友人の親しい友人たちが、友人の関わっていなかった昔話を楽しそうに話している様を、苦笑いして見守っている友人を、何もわからず見つめなければならないお話。 

〇内輪ネタ 
 キャラ立ち、それぞれの立ち位置、役回り、勢力図、話の流れ、全てが思い出補正に委ねられている。正直どうしようもねえ。 

 日常パートがまずくどい。1つ良かったところを挙げれば、1つの事件に没頭するあまり別の事件が疎かになっていることを描いたことだ。その分周りの人間が苦労していると。しかしこのくどさがそれを台無しにしている。
 
 そしてサスペンス要素よりコメディ要素が強い。そしてそのコメディ要素があざとすぎる。ストレートすぎる。
皆覚えてる、こんなんありましたよね~??笑うところですよ~??」 
製作者側にそんないやらしい気持ちは無いかもしれない。しかし勝手に感じ取ってしまうんだ。 

 一番は次席の娘か。誰もが彼女だと思っていただろうに。なぜそこを「HERO」についてきてくれた視聴者の連想力にまかせてくれないのか。信用してくれないのか。ここが先ほどの思い出補正と矛盾する。非常に不愉快だ。 

 雨宮の彼氏もだ。貿易ぼうえきくどすぎる。容易に想像つくことだろう。そしてこのためだけに存在したという事実。
 そもそも久利生と雨宮がこの劇場版で結局どうもならないというのは見えていたことだろ。そこをなぜ、序盤にわざわざこんなことをするのか。アンジャッシュ児島の時点で・・・・(彼を否定しているわけではない)。そして先ほどの貿易強調。はいはい。 


 勝手に通販の意味するところを決めてたけど、何ら意味は無かったんだね。

〇余談 
 北川景子の役とは全く関係ない雰囲気が時折漏れてくるのは何なん?????? 私の見方が悪いんかな?? 

〇最後に
 「HERO」に思い入れがある方たちでないとこの作品は苦しい。一見さんお断り感が半端ない。もう最初に雨宮が検事になりましたよアピールした時点でハードルを上げすぎよ。誰だよってなるは、知らん人。その後登場人物紹介を兼ねコントが繰り広げられるのだが、これがよりハードルを上げる。これだけではキャラの把握が困難だろう。まぁわかるわかるとひたすらに笑っている方たちがいらっしゃいましたよ。
 最後のキムタクのお言葉もキムタクがどういう役柄だったのかをシリーズを追って理解していないと、ただのウザい戯言だ。そもそも言葉で言っちゃってる感が何かむかつく。彼がどんな人物かを補足する面々も描かれるが、これもキムタクと同じ現象が起こる。お前らはいったい何なん??と。その人物ならではのネタを持ちこんでくるからだ。ま、良いのか。わかる奴らだけ観てってくれよってな作品なのだから。
 問題はだ。往年のファンがこの作品を観て、改めて「HERO」という作品を振り返ろうとなるかもしれないが、初見さんが観て最初から追ってみようという気にはさらさらならないだろうということ。知らんけど。
 

 佐藤浩市が最後7本?のソーセージを前にしてるのは唯一笑った。

 ではでは・・・。

2015年7月18日土曜日

セッション(2014)

字幕翻訳:石田泰子
     監修 :ヒロ川島


~考えるな、感じろ!!~ 

〇はじめに 
 思考が追いついてこない。途中から感覚に身を委ねている自分がいた。音楽について、指導法について、ついつい寄り道をしたくなったがノイズにしかならない。 


「邪魔だ、退いてろ!!」 



〇想起する作品 
 「ドラムライン」(2002) 
 「ミラクル」(2004) 
 
〇こんな話 
 Good Job は言わない。

圧巻
 最後が堪らん。ここまで高みまで上り詰める作品を今までに観たことが無い。

 なんやかんやいざこざある。ここが重要な部分なのだが説明しても伝えきれないと思うので是非鑑賞してほしいのだが、私の興奮を少し冷ます為にもラストの感動を少し語りたい。 
 師と弟子の関係において、堕とすところまで堕とされて、一矢報いてシメシメとしているところ、和解のような関係に持っていく。教授ええ奴やったんかと安心させられたところにガツンと金属バットで頭を殴られる。ドン底や。

「・・・え?・・・」

「えええええええええええええええええええええええええええええ」 

ってなったわ。問題はその後だ。私だったら逃げ帰っただろう。いや、教授にタックルをかましていたかもしれない。しかしそれは前に観せていたからそんなことはしないことはわかっていた。何をしたのか。圧巻である。教授が用意した、徹底的に準備したであろう土俵で 復讐を遂げるのである。指揮者を差し置いて、周りのプロ連中?を差し置いて、彼が演奏を開始し、引っ張り始める。 


「かっけええええええええええええええええええええええええええ」
 
 さらにさらにそれだけでは終わらないところがね・・・・。

 この最後までは言葉でのやり取りがあったんですよね。相手をねじ伏せることにおいて。しかしここから言葉はいらない。

 高みへ。


〇少し落ち着いて  
 結果論ではあるが、彼の実力から見て、教授の指導法は間違ってはいなかった。1つの正解であったところがまた複雑なのだ。

 それよりも前の彼のあきらめない姿勢もだ。事故に遭いながらもドラムを叩こうとするフレッチャーへの対抗心。そもそもの彼の野心を支えるコンプレックスが関係している。

 そして指揮者と奏者、教授と学生、師と弟子といった関係性。後者は前者の枠組の中での存在でしかない。最初の寝坊を見透かされていたところから掌劇場ははじまるわけで。全て教授の思う通りのものを提供する。認められるまでやると。
 と、ここでそんなものは音楽なのかと・・・。誰が音楽を奏でるのかと。指揮者なのか、奏者なのか・・・。

 っんなこたぁ~、どうだっていいんですよ。考えてんじゃねえと、ソウルに響いてくるものは無えんかと。身を、委ねちまいなよこの興奮に。


〇最後に
 想起する作品で2作品挙げたが、同じようなことをやっていたりする。スパルタ指導、指摘厨、意図的に出現させるライバル(カンフル剤)との衝突、アメとムチ。しかしそれらが全く霞む。2作品に対する贔屓目で見てもだ。それほどまでにすさまじい作品である。


2015年7月17日金曜日

吐露かつお 1貫目

~ふと思い出した~

 むか~し、むかし、とある学校とある授業(講義)中。私の周りには数多くの教員を目指す者たちがいた。そんな中、〇〇の中に言葉を入れて、川柳を作ろうという課題が出されたのであった。

「〇〇〇〇〇 2人で歩く 峠道」

 いくつかの班に分かれ、1つの意見に絞ってさらに全体でそれを絞りこんでいったわけだが、結果は「結婚は」だか「人生は」みたいなものになった。

 で、問題なのがというか、不満があるからこんなことを書くに至るわけだが、私はどんな言葉を提案したのかというと、「3人で」としたのである。


「3人で 2人で歩く 峠道」
 
 理解していただけるだろうか。この複雑な気持ちを。

 この5文字の提案をしたとき、皆???な顔をしたのである。そして突き付けられた言葉が、直後の言葉が「2人で」としているのに、その前の言葉が「3人で」と「で」で終わるのはおかしいと。

 ふむふむ、いつからこの授業は日本語の文法の授業になっていたのかと。川柳を作る課題じゃなかったのかと。

 もちろんこの川柳の状況の説明をしましたよ。喰い下がりましたよ。しかし反応は???なまま。こいつは何を言っているのだろうと。

 あれ?、小学校とかで道を歩くときは列を作って邪魔にならないようにとか教えられたよなと。

 あと別にこれは道幅の話とかだけでなく、人と人との関係性みたいな少し深い話もありまして。別に2人、1対1とかの仲の良い絡み合いとかなら問題は無いのだが、3人とか4人とか対人が複数になってくると2対1、3対1みたいにあぶれてくるでしょと。それにわざわざ割って入ってくる人たちもいるわけだが。集団の中であなたはどのように立ちまわる人間だろうか。

 ピンと来てくれない人たちがいるかもしれないので、より詳しく説明すると・・・・





















 こんな感じです。
 
 是非理解していただきたい。この複雑な感情を。




---ここから偏見---

 きっと彼ら彼女らはすれ違いざまに道を譲ったことがないのだろう。避けたことがないのだろう。道幅を占領し歩いていることを何ら気にしたことがないのだろう。その横の列からあぶれることに何か恐怖を感じてしまうのだろう。置いてかれてしまうのではなかろうかと。自分の立ち位置を保つのに必死で周りが見えないのだろう。
 入口や出口で丁度相対してしまったとき、譲ってくれる存在を何ら気にしないのだろう。自動ドアだとでも思っているのだろう。

 そんな者たちが今の教育を支えているのか。支えていくのか。すばらしい。未来は明るいな。まぶしすぎて見えないよ。

 以上、戯言でした。ではでは。

2015年7月16日木曜日

バケモノの子(2015)

~バケモノの子~ 

〇はじめに 
 このテーマをファンタジックに描かなければならない仕様の日本映画界を想うと何か虚しさを感じる。いや、アニメ界だから良いのか・・・。 
 超大作だと?? これは世界観を広げようとしたんじゃない、脚を運ばせる客層を広げようとしたんだ。その結果がこれだ・・・・残念で仕方が無い。 

〇こんな話 
 持ち球はストレート。

〇剣 
 胸の剣の件を、熊徹と九太の師弟関係を熱心に描いてから観せるのは良い。親を見て育つ、真似て育つ。そしていつしかとある部分で親を抜いている。そして反抗期。自立への覚悟や迷いへとつながる。2人の関係性の変化の描き方。この成長過程はおもしろかったと思う。 
 問題は人間界とバケモノ界を行き気するようになってからだ。恋愛要素はここでは置いておこう。本当の父親が現れ、人間の方に気持ちが傾きかけた時、なぜか熊徹を思い浮かべる九太。自身の中に熊徹を見出していたのだ。この辺でやめておけば良かった。この時点である程度見えてくるものではないのだろうか。
 そして最後のバトルへ。この鯨との戦いが自分自身との戦いを意味していたわけで、さらに念を押すかのように最後ストレートなそのままの表現でわざわざ胸の剣を描く。比喩的な表現を具現化してしまう意味よね・・・う~む。 

 この映画は終始ストレート、直球を好む。熊徹と九太の取巻き連中がひたすらに解説を始める。何かを匂わせる、感じさせる表現を再度こういう意味だよねと確認をしたがる。いやそこが良さであるし、面白味であることはわかっている。しかしこれって主人公からは全く観えない世界であって。客観的に見えてしまっているからこそ感動してしまう要素が目立ってしまうと言うか。それに感謝をする九太が描かれてしまっているのがさらにその感情を助長する。それで感動したということは決して共感などではなく、同情か憧れみたいなものなわけで。人をより盲目に且つ受け身な姿勢に奔らせる
・・・一概には言えないな、失礼。 まぁもっとうまく主人公たちの周りをうまく固めていく描き方ができなかったのかなと。修行までは割と良かったんだけどな~。

 後で意味を持ってくる言葉ってのがあるじゃないですか。伏線と言い換えましょうか。子どものころもっと勉強しておけば良かった後悔みたいなやつでも良いですよ。要は気付きってやつです。「意味は自分で見つける」って熊徹の言葉もそうなんですが。ふとあの時の言葉はこんな意味があったのかと痛感する時が来る、場合がある。そんな現象をこの作品はこうだよとわざわざ解説してくれる。これがありがたいのか、ありがたくないのかは人それぞれではあるのだが。初見以降の気付きが、2回目3回目と時を経て観た時に何かしら出てくるのだろうかと考えた時に、いやきっと無いだろうなと思えてしまう。そんな映画に私はおもしろさを感じない(いや、最初はおもしろかったけれども)。

 
 刀は1つの強さの象徴だったわけか。鞘に収まっていることがまた一時の平穏(均衡を保っている)の象徴で・・・。強さとは・・・・・。それ即ち・・・・。・・・・。


〇バケモノの子 
 最後の鯨との戦いは現実世界における何だったのか。 
まぁ自分との戦いだったということなのだが。自分の中の闇との戦い、葛藤。 
「俺は、私は、いったい何なんだあああああああああ。」 

 最後に鯨の影を見たと証言する人はいるが、監視カメラ(劇中は防犯カメラと言っている)には何も映っていなかったというところと掛かっているのか。最初に監視カメラに映り込む蓮がひたすらに描かれる。そして最後の決戦において一郎彦の姿のみ防犯カメラに映り込むのを再度映し出す。 
 皆を等しく映し出す監視カメラという1つの現代社会の象徴。しかし全ての範囲をカバーはできない。故に見える世界、見えない世界が分かれる。人間界とバケモノ界ってところがまず意味を持つのだろうが、そこはおそらく、見ようとしている世界と見ようとしない世界、見えていない世界ってな対立なのだろう。どこで誰が何を抱えているのかがわからない。突発的、衝動的な事件がよく報道されるようになった。問題として取り上げられるようになった。社会という集団から眺めると、決して映らない個人の闇。見える人と見えない人と分かれてしまう事実。仮に見えたからといって対処できるものでもなかったりするわけだが。ここがおそらくすずちゃんの言う
「独りで戦っているわけじゃない」
というところにつながる。胸の剣、お守りが関係してきたりする。どこか孤独を感じてしまう現実世界を生きる人間に勇気を与えようとしている。
 しかし、胸の剣の項で書いたが、ここの表現がドストレートすぎてお粗末。

 「バケモノの子」ってのは1つの自覚なんだろ。自分を築き上げる上での土台。それを示す上で、バケモノの世界へ行かなければならなかった。人間の世界における関係を一回白紙にしなければならなかった。その上で九太とそれを取り巻く関係を築き上げていく。で、まぁなんやかんやあって、すずちゃんとイチャイチャしてってのがあって、バケモノの子だねってなる。バケモノの子という1つの自覚があって、はじめて自分で決めるという覚悟につながると。 
 この構図が正直何とも気に入らない。なぜ現実社会へのアプローチをバケモノの世界を使って外から始めるのかと。客観的に眺めるとかそんな理由もあるのかもしれない。でも観えないんだよ、客観的になんて。先ほども書いたが、取巻き連中が解説をはじめるところなんて特にだ。ストレートに感情吐露するような奴がそこら中にいるはずなかろうが。そしてストレートに感情を受け止め過ぎだろうか。誰が自分を認めているなんてのは正直ほとんど見えない。しかしそれらを観せられているからこそ、見えていないはずの九太の取巻きへの言葉が重さを持ってしまう。う~む。
 私らは現実世界におけるゲームキャラでしかないんだよ。プレイヤーじゃない。でも主人公なんだよ。あ、そっか主人公ならチュートリアルから始まるから、外からのアプローチで良いのかも・・・

〇余談 
 そもそも九太は図書館でなぜ白鯨を手にしたんだ?? 
義務教育を受けていない、鯨すら読めなかった男だぞ。数ある海外の文学作品の中でなぜそれを手にとって読もうと思ったんだ?? 
 劇中取った序盤の方のメモに白クジラって書いてあるからなんかあったんだろうけど覚えておらん。運命だったんだな。

 チコって何???

 9歳だから九太。本当の名前と師からつけられた名前が何かしら意味を持ってくるのかと思いきや・・・。個人情報どうのだけでしたと。2人の親の方だけ関連してましたか。

 一郎彦最初女の子だと思った。にいちゃんだかねえちゃんだか聞き取れんかったわ。そして口元を隠す様を観て何かあるとは思ったがそうですかと。大きな牙どうのとも言っていたしね。でもしっくり来ないよね。

 ニート、フリーター、正社員、モラトリアム、境界人、独身者、既婚者、親、子、師、弟子、集団、個、盛り込みすぎたかな。

〇最後に 
 私の中で細田守作品は「時をかける少女」が神格化されている。高校生のころに観た「ときかけ」は何ら響くものは無かった。正直駄作だという評価だった。同じ世代を描く映画として捉え、自らの高校生活に不満が無いといったらウソになるが、自分なりに精一杯で充実していたということなのだろう。いや盲目だったのかもしれない。しかしどうだ。高校を卒業し、何年も経って再度鑑賞する機会を得たとき、涙が止まらない。時を経て理解する高校生活の穴。見えてくる後悔、分岐点。あの時にもっとこうしていればという絶対に取り返せない時間。この隙間をドンピシャで突いてくる。埋めてくれる。見事なまでのジャストミート。これが「ときかけ」以降体験できない。「サマー・ウォーズ」も嫌いではないが、やはり落ちる。だから「おおかみ」は観なかった。 「バケモノの子」が響いてこないのは、まだ私と言う存在が成長途中にあるということなのか。親になってみればまた違った見え方ができるのかもしれない。しかし今は全くわからない。次があったら・・・どうするかな・・・・。

HERO(2007)

HERO

~正義~

〇はじめに
 アリバイのダブルブッキングの話聞いてるだけじゃ理解できんかった~(恥)。映像確認ありがとうございます。


〇こんな話
 命の重さの裁判をするそうです。


〇特別編について
 田舎にのさばる風土、慣習、暗黙の了解といった内輪な世界を、久利生というキャラの投入と、何でもあるよ店で観せたのは中々におもしろかった。ドラマ初期のある事件への公平な立場からの再アプローチが見直された形になったのだと勝手に思っている。・・・以上。

〇正義の象徴
 1期の終盤から際立ち始めてしまったのが、久利生こそが正義であるという認識の浸透。シリーズものの性であるのだが。
 当初は偏った事件へのアプローチを一回見直すことで、久利生の人間味を演出し、その上でやっとこさ検察側を正義として対立が発生した。しかしだんだんと話を経ていくことで、久利生が正義で幕を開けてしまうようになる。巨悪に対して風穴空けたるスタイルへ持っていくならば致し方の無いこと。そして移行したことは、非常に痛快ではある。しかしなぜだろう、何か違う気がする。久利生という人物を認めていく周囲の人間たちの描写も申し分無いが、それに纏わる縛りというか・・・。刑事ものなら全然構わないんですよ。でもこれどっかの話で「刑事じゃなくて検事」って念押すシーンあるんですよね。結局一方的な見解しか持てなくなるようにしてしまっているではないですか。先入観や前提というやつですよ。まぁ最初に通販番組に没頭する久利生を観せてはいるんですけどね。その後明かされる新たな情報でうなだれる様を描くのは良いが、それがハッピーエンドにつながっちまうのなが~。
・・・ま、何にせよそれなりにおもしろいから良いんですけどね・・・
 

〇最後に
 次は2期・・・

2015年7月14日火曜日

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)(2014)

バードマン[DVD]


~評価~ 

〇こんな話 
 とある男の物語。

〇評価 
 ワンカット手法により役者である主人公の全てが映し出される。役を演じている彼、夫であり父親である彼、バードマンな彼、その他もろもろな彼。その境目を見せることなく、繋げて映し出すことが最後のオチにつながる。  
 
 彼は過去の栄光に縋ろうとする。それにより終始現実と妄想の世界が入り乱れる。こんな俺を観てくれと。しかし本当の自分はいったいどこにいるのか、あるのかと・・・ 
 
 彼は評価されたい一心で様々な決断をするわけであるが、裸で街中を歩く動画が再生数を抜群に稼げたように、ネットにおける評価は数字が大きな意味を持ち、良くも悪くも数字は足されてしかいかない。増えてしかいかない。彼が意図した自分、観られたい自分、評価されたい自分とは異なろうともだ。  
 つまりラストの解釈の仕方についてなわけだが、私的見解を述べさせていただく。我々は劇中における彼の全てを観て、何を・どこを・どのように評価するのか、という問い掛けが為されているわけである。
 ラストで彼は死んだのか、生きているのか。仮に死んだとしてどこで死んでいたのか。生きていたとしていったい何になったのか。バードマンになったとして、それは現実なのか妄想の産物なのか。バードマンと認識したのは誰だったのか。妄想だったとしてどこから妄想だったのか。

*最後だけなんですよね、空想(妄想)から現実に戻らないのは。戻ったという描写が無いのは。

 
〇最後に
 解釈を一様にしないことを好まない方々がいらっしゃると思うが、これは仕方が無い。 
・・・というよりも、その意見も評価としての1つに入っているという大きな考えを私が持つべきだったのだな。

2015年7月12日日曜日

ターミネーター3(2003)

ターミネーター3[DVD]


~人間と機械~ 

〇はじめに 
 「T2」と比較され酷評されがちであるが、そのしがらみは鑑賞者よりもおそらく製作者の方が強かったのではなかろうか。続編は前作で描いたことを踏まえなければならないわけで。どう考えても不利ではないかと。しかし前作までの雰囲気を散りばめつつ、にやりとさせながらも違いを最後のオチでうまく示したと思う。が、まぁファンは納得いかない部分はあるはな。 

〇こんな話 
 あの小さかったジョンが青年に。また闘います。

〇人間と機械 
 ジョンとターミネーター(T850)の目的が違ったというオチは非常におもしろい。 誰もが「T2」を意識しているが故、物語を追っていけば自然とスカイネットのはじまりの部分を阻止することに頭が行く。行ってしまう。行かざるをえない。これぞ人間的思考といいましょうか。しかし最初から彼は言っていた。いや敢えて言いなおそう。あの機械は言っていた。「生きてもらう」と。

 人間のセンスや感覚に戸惑うというか。「この手に言いな」という台詞を真に受けたり。グラサンもなんか違うなと掛け直したり。当初の命令とプログラムを書き換えられたかで停止する様が人間における葛藤みたいな演出もあったり。人間よりに描かれている。親しみやすく描かれている。ま、「T2」ありきなんですけどね。が、人間と機械は根本的なところで違うのである。
・・・水素電池2本の件も良かったと思うけどな。基本電池2本で動くものが多かった時代でしょ??ジャポンだけ?? 身近に感じるものとしたんじゃないのかな。

 

 目的が異なるという書き方をしたが、少し言い換えればなんやかんやがんばるわけだが、審判の日は避けられません、ってことになる。未来は変えられないと。努力なんて無駄。究極生まれた瞬間から全て決まってるんだよ(これは言い過ぎか)と。
・・・ここなんかな~、低評価なのは。



〇最後に
 誰もが期待したであろう人間とスカイネットの決着。これに重点を置きすぎると・・・・まぁ・・・・意見割れるのも・・・・仕方ないかな・・・・。それだけじゃ・・・ないのかな・・・。

ターミネーター:新起動/ジェニシス(2015)

字幕翻訳:樋口武志


~新たなはじまり~ 

〇はじめに 
 「ターミネーター3」が見直される時が来た。この映画を評価する人は「T3」の出来を理解してくれているだろうか。再度鑑賞されたし。  

 シリーズの全てが踏襲されている作品だ。「ターミネーター」を観ておけば掴みはバッチリだろう。そして「T2」を観ておけばさらに心を鷲掴みにされることだろう。しかし「T3」「T4」「TSCC」まで観ている者たちはおそらく・・・・とてつもないそうでもない感。大したことない感を味わうことになるだろう。シュワちゃんのキャラ、アクションは見どころ満載。この持ち味は十二分に発揮されている。しかし全部観たことあるというか・・・。全て味わったことのある画だ。故に盛り込みすぎてお腹いっぱい。そのまえに出されすぎた料理に対しての食わず嫌いのような。その感情を抱いた瞬間ネタ映画と化す。それならば「T3」の方が好きだ。 

 そしてネタ映画を踏まえストーリーに奔る。時間軸の変更・改変における伏線の回収(定点の演出)はしっかりしており、ちんぷんかんぷんにはならないと思う。しかしこれを新3部作とするのは良いが、以前の作品がある程度頭に無いと、まとめあげるのは厳しいかと。
 あと勝手に予想していただけだが、ジョン・コナーに関する件というか1つのオチは新シリーズ全てでやるのかと思っていた。この作品で片がついちまった??

〇こんな話 
 新しくターミネーターします。

〇疑問 
 「1」で挙げた、ジョン・コナーがカイル・リースを送り込んだ理由。サラ・コナーを守るためでなく、自分を生ませるためになっていはしないだろうかという疑問。カイル・リースとサラ・コナーの関係を知っていないと特に何も問題とならないのかもしれないが、ここの話は初見さんでは厳しいのではなかろうか。

 「合体」って訳されていたけれど、そんなニュアンスで良かったのだろうか?? まぁ良いや。
 カイルはサラを守るために未来から過去へ。サラはカイルと、ジョンが生まれるための行為をするために、未来からの彼を待っていた。という目的の違いを楽しむのはファンを意識しての脚本なのだろう。「1」で愛し合った2人の関係を知っているからこそ楽しめる。ジョンが2人の愛によって望まれるべくして生まれるのではなく、何か義務、事務的な作業によって作り出される。機械と一緒やないかい。そんな感じなのだろうか。そしてジョンは・・・ってな件があるわけで。彼らの関係性とジョンの件は意図的に関連させていたのだろうか。そして「合体」という言葉の選択は良かったのか。シュワちゃんが口に出す単語でもあったわけだし。

 で、その関係に対してサラとシュワちゃんを長年連れ添わせていたところがまたミソになってて、シュワちゃんがサラの保護者的な存在として描かれているわけです。それでシュワちゃんのサラの交際に何か不満そうな顔から不気味な笑顔と。
「オジサン、サラとの交際を許してください」
的なノリなのかな・・・。シュワちゃんに挨拶行くのは怖いな。

〇ちょっとだけ文句
 シュワちゃんありきですよね、もう。そして続編ありきでシュワちゃんを生かす、活かすことが見えてしまっている。敵の強さなど関係無い。能力差を軽く埋めてくるシュワちゃん補正。容姿を老いさせることが逆補正だったのだろう。が、新旧ターミネーター対決の面白味を削いでしまっていることには違いない。それだけが原因ではないが、それ故の安心感が全体を通して漂っている。いや、そこがおもしろいから別にそこまで気にしてはいないんだけど・・・

〇字幕
 相当に読みづらかった。頭に入ってこなかった・・・
 さすがに「アイルビーバック」はセンスが無い。

〇余談 
 サラ・コナーがかわいいんだが・・・。戦士・・・なのか・・・?? 

 未来から過去へ行く際のタイムトラベルのシーン。皆でまじまじとカイル・リースの裸を眺めるのは笑うところでしょ??

 シュワちゃんが敵に飛ばされてヘリに乗っかかってしまい、ヘリが落ちていってしまうシーン。これの前にターミネーターの重さを表現していた描写ってありましたっけ?? 「T3」だったらあるんですよね~(ボソ)

〇最後に  
 まぁ最後まで見届けますよ。ちゃんと続いてくれるのならね。

2015年7月11日土曜日

悪党に粛清を(2014)

字幕翻訳:杉田朋子


~復讐~ 

〇はじめに 
 久しぶりに味わう感情だ。 「早く、復讐が観たい」 

 原題「THE SALVATION」=救世主?かな。

〇こんな話 
 ある男に妻と子供を殺された。そいつを殺した。そしたらそいつの兄とかいう奴が狙ってきた。そしたらそいつに兄を殺された。殺っちまおう。 

〇復讐と正義 
 その時代ならではの制限性がうまい。見渡す限り何も無い一本道を馬車が一台。携帯、GPSなんだそれ。ハイウェイなら行き交う車が多くあるだろうがここは荒野。馬車を降りた時の手段の無さ、絶望感。最初にこれを演出する。そして徒歩で辿りつく愛ゆえの彼の執念、憎しみ。そして7年越しの再開直後の妻と子供の死。やるせない。  

 最後ひとつの正義の象徴である保安官にある言葉を言わせたところがミソなのだろう。
「君みたいなものが救ってくれるのを待っていた」
とか何とか。劇中保安官の行動は見事なまでの事なかれ主義。彼が守っていたのは正義などでは決してなく、ただの秩序である。来るべき最悪の事態の先延ばしに過ぎない。正義とはいったい何なのだろうか、どこにあるのだろうか。デラルーの語る
「歯には歯を」
結局悪党とするところを倒したのは悪である。
「悪には悪を」
と。悪を倒せるのは悪しかないのか。そもそも悪を生むのも悪か。そして正義はそれを傍観するのみ。悪VS悪の結果に迎合する。自らの手は汚さず、一時の安寧を保つことこそが正義足るものなのか。

 ここに原題の救世主とされるものを関連させて考えて観るとおもしろいのかな・・・。

〇余談  
 レバーアクションライフルはやっぱりかっこいいね。 

〇最後に
 マッツ・ミケルセンかっけ~。質屋だか、雑貨屋の青年の俺も一緒に行きたいという意志に対して、振り向かずに去る。そして次のシーンでは連れてきてるという。なんだこの男は。
・・・あなたに・・付いていきます。

2015年7月10日金曜日

ターミネーター(1984)

ターミネーター[DVD]


~はじまり~

〇こんな話 
 ジョン・コナーという人物が、自分を産むはずである母親サラ・コナーを、宿敵スカイネットにより未来から送り込まれたターミネーターから守るべく、同じく未来からカイル・リースという人間を送り込んでどうこうするって物語。  

〇背景 
 未来では人間VSロボット(コンピュータ)という構図が出来上がっており、スカイネットってのが人間を滅ぼそうと躍起になっている。人間側はジョン・コナーというカリスマ的リーダーの下、必死の抵抗を試みる。スカイネットはそんな状況を打破すべく、人間たちのリーダーであるジョンって奴を根本的に歴史から抹殺してしまおうと考える。生ませなきゃいいんだ、母親を殺そうと。サラ・コナーって名前の奴を片っ端から殺してこうと。 ここから物語は始まる。 

 これ最初からうまいよね。送り込まれてきた機械と人間の対比。人間をなぎ払ってく機械と、人間から逃げまどう人間。サラを殺す者の片っ端から殺していけばいい容赦の無さ制限の無さと、サラを守るというまず対象を補足しないといけない究極の制限。プラスシュワちゃんの肉体を最初にまざまざと観せつけてるでしょ。勝てねえよ・・・という絶望感。最後も予算の都合上だとかで機会特有のカクカクした動きでよりいっそ人間との溝を観せてくるわけで。最後の暗雲立ち込める空へ車で走って行く様もストレートで好き。 あと使用言語が異なる子どもとサラの会話は、仲介者がいれば分かり合えるかもしれない人間と、確実な対立が待っている人間と機械とってことなんですかね・・・。


〇疑問 
 送り込んだ世界(現在)の未来では、仮にカイルと結ばれなくてもジョン・コナーが誕生する、という前提の映画である。父親については戦争前に死ぬだかで不明としていた。 
 しかし、1だけだと(2も含めると?)カイルとサラが結ばれたからジョンが生まれたという解釈にならないだろうか? だとすると、未来からカイルを送り込まないとジョンは生まれないのに・・・、と考えるとジョンの目的が自分を産む母親を守るためというよりは、自分が生まれるはずの既成事実をつくらせるためってことになり・・・、そうなるとジョンっていう存在がすごく不確かなものになってしまわないだろうか?・・・そうなるともともとの設定どうのこうのが・・・、でもスカイネットはそれを狙ってるから物語としてはいいのか? もうよくわかりません。もう未来とか不確実だからパラレルワールドとかそんなんでいいか。 カイルという存在を特別視しすぎているからこの疑問がわくのか? そもそもの解釈が間違っているのか? 少なからず、2でシュワちゃんが味方になって未来が変わってるからこの疑問は流せるか・・・。 
 
 まぁ何にせよこのシリーズが最強ですよね。強靭な敵が味方になったときの頼もしさというか。この1を観せられているからこそ、2での対立が深まるというか。そしてそんな屈強なターミネーターが何か可愛く見えてくるのもさすがで。
 ま、人間VS機械(スカイネット)という構図を決定づけられれば良いんですよね。それを踏まえてギャップを楽しませてくれるわけで。

〇最後に
 新作が楽しみだ。この勢いで2も観とこうかな。あとドラマ版もどうにか再始動にならないですかね~。

2015年7月8日水曜日

青鬼 ver2.0(2015)

~祐奈~ 

〇はじめに 
 杏奈は何なん?? 

〇こんな話
 杏奈ちゃんがシュン君の家に凸ります。

〇杏奈
 バージョンアップをいじめの主犯格の心変わりと掛けたり、決まった結末に対してゲーム内外を交互に演出し、人間ドラマへ安っすいアプローチをするのはまぁ大好物だから許しましょう。ひろし君の初見プレイゾーンをVSゲームではなく、友達という存在を意識させたVSシュン君とした読み合いも好きだ。だがな~、許せんことが1つだけある。


「これ、杏奈必要だったか???」

と。これじゃただの置物じゃ~ないですか。動きがまるで無いんですよ。てっきり逃げまどう側だと思っていたのに。是非とも薄着ではしゃぎ回ってほしかった。呑気にさっ、シュン君とイチャイチャしやがって。別に良いですよ。佇まいかわいいし、何か神妙になる時に手を前で組んで、うんうんと聞いてあげたくなりますよ。どうせなら私の部屋にも1人と言わず2人くらい欲しいもんだよ。・・・・・・・・・・・・・・・。 
 それにですよ、彼女のところだけ何かリズムというかトーンが崩れるんですよ。話し方に特徴があるから仕方ないんだけど。それが緊張や恐怖のリズムに間を置いているというか、むしろ間が抜けている気がして・・・。そういう担当だったんですかね。物語に緩急をつけているとも言えるしな。 

 ま、彼女の存在が観に行った動機だったんで、別に何とも思ってないんですけどね。作品として観てしまうとね・・・。

〇余談
 フワッティーとかいう新種出番少な・・・

〇最後に  
  進撃の巨人意識したでしょ、最後。そのセンス、嫌いじゃないです。

2015年7月7日火曜日

HERO(2001)

HERO


~人間味~ 

〇こんな話 
 検事のイメージ、ちょっと変えてみよ!

〇人間味 
 それぞれのキャラが立つ。役者のおかげもあるだろうが、それぞれがそれぞれに対応している様が何ともうまいと感じる。完璧な人間が1人としていない。足りない部分をそれぞれが補い合っているのだ。故に久利生の被疑者に対する姿勢が活きてくるわけだ。やったかやってないのかという結果だけでなく、一見無駄話・与太話から入るスタイル。これが人間を掘り下げる。これは不完全であるからこそ為し得る所業である。互いに働きかける必要がある関係性だからだ。 
 それでいて皆が集まるバー。ここでは何でも出てくる。何でも揃っている。不完全な人間たちとの対比なのだろう。しかし当たり前に出てくるという人間の反応ではなく、「え?あるの?」と驚くような反応にしているところがまたミソだ。必要だと思う時に必要なものが丁度あることの有難味。
 人間は当たり前のものに晒されすぎると、それが当たり前であると錯覚し、その有難味を感じなくなってしまう。いや、当たり前とも認知しない、あることすら気付かない連中ってのはそれぞれの分野に確実にいるわけで。その一例でデスクワークに慣れた連中と現場で一心不乱に働く連中との比較があるわけで。別の作品だと、「事件は〇〇で起きてるんじゃない!!」という名言があったりする。紙面上画面上のデータばかり追う者たちは、人を見ない。過程よりも結果を重視しがちなのである(偏見)。データは結果しか映し出さないからだ。そんな奴らにぎゃふんと言わせる話がいくつかあり、久利生という人間を観てきているからこそ、痛快痛快。

 この当たり前という言葉。先入観や前提という言葉でも代用できる。久利生がすでに流れの決まった事件に関して、再アプローチを始めるスタイルがそれにあたる。傾いた思考を一旦公平なところに戻す。久利生こそが正義であると思い込みがちになるのだが、彼にも通販に対する先入観があることがそれをまた足止めする。彼にもまた別に先入観があるのだ。他の連中と同じくだ。


 
〇余談 
 物語が動き出す際のBGMが何とも気持ちを高揚させる。 

 最終話だかで、上の連中を引きずり下ろすと言っている政治家と、コーヒーサイフォン?を交互に映し出していたのがくどかった。自然に落ちてくるの待ってるってことだったのでしょう。

〇最後に  
 劇場版までに間に合うか・・・

2015年7月5日日曜日

アイムホーム(2015)

アイムホーム


~仮面~ 

〇こんな話 
 とある爆発で5年分の記憶喪失。そして妻と子供が仮面に見える。な~ぜ~。 

〇仮面 
 仮面を被っていることで家族のことを聴かれても答えられない。そして過去の自分を知る周囲の人物に今の自分と比較される(痕跡という言葉にまとめられていた)。・・・という風に見つめ直しが行われていく。これを1話で位置づけたのは良かったと思ったのだが・・・

 最後仮面がスッキリ取れて終わる。 
なぜ最終回の西田敏行の発言を最後に活かさなかったのか。 
「分かり合えることなんてない、夫婦だって赤の他人だ」 
と。この前の回で前妻に 
「仮面を全て取る必要は無いんじゃないか」 
とも言われている。 今までに家族を蔑ろにしてきたという意味での仮面だったのではなかったのか。それで今回の件で見つめ直したのだろ。自分自身すらも。それで自分VS自分という葛藤のシーンも入れたのだろ。最後でやっと家族を見ることに、見ていこうとなるんだろう。劇中でひたすらに家族を放ってどっか行くじゃないか。なぜ仮面が取れて全て見えましたとしてしまうのか。これからじゃん。この話の帰結はただスタート地点に立ったに過ぎない。赦し合うという発言と繋げるのはナンセンスじゃないのか。最終回まででひたすらにそのテーマは見せただろう。関係者との関係の修復を終えて、やっと家族と真に向き合える兆しが見えたんじゃないか。 
 
 これなら話のところどころで仮面を変化させるべきだったのではないか。主観で変化を述べるに留まっている。視覚的な変化で、ひびを入れたり、割れたりして良かったはずだ。仮面を関係の尺度にしても良かったはずだ。いや人間簡単に測れないよ。何が拍子できっかけで関係が一変するかもわからないよ。心理的な壁としているからそれで良しとしてもいい。でもだよ、それなら貫き通して欲しかったんだよ。話の流れではなく、仮面の扱い方を。うやむやで良かったんだよ、仮面のことは。仮面に関することは。せっかく最終回まで尺度にしなかったのに、最後の最後で明確な基準にしちゃうんだよ。・・・ん~、やりたいことがわからん。 
 
 もしくは紅の豚風にしても良かったじゃないか。妻の顔がどう見えるのかというのを家路久の表情に委ねても。我々が家路久の顔を見ることにつながるじゃないか。今までの話の総括を我々に委ねてくれてもいいんじゃないのだろうか。なぜわざわざ・・・。このエンドで家族と言うテーマを深めさせることができたのかどうか・・・ 



〇勝手にサブタイトル
 「くちびるに歌を」で注目した山口まゆさんが出演されています。今回も笑顔が素敵です。彼女への思いを込めて、各話レビューを書くとしたら使ったであろうタイトルを考えていきたいと思います。
 
・第1話「アイロンと渇いた感情」
 アイロンは乾かすもの。しわを伸ばすもの。離婚しているという状態。今までのままなら夫、父親への感情は冷めた、渇いたものだったはずだ。これはぐちゃぐちゃであろう彼と周囲の関係性をこれからしわがなくなるよう引き伸ばしていくという暗示だったのか。

・第2話「通わないバス停」
 学校や会社に通うためにバス停に行く。そこには心が通わない父と娘がいる。

・第3話「再燃した愛とクッキー」
 クッキーは焼き菓子。愛は燃えると表現される。

・第6話「非通知の鳴き声」
 電話が鳴る。娘が泣く。呼び鈴は届いている。泣き声は届いていない。

・第7話「コールのない病」 
 電話は掛けるもの。掛かってくるもの。そこには意思を介す。介するからこそ、掛けたくても掛けられないもどかしい状況に陥ってしまう。しかし病気は意思とは関係なく掛かってしまうもの。そんな理不尽に心揺るがす。

・第8話「衣じゃ抑えきれない思い」
 中からクリームがとろけ出すカニクリームコロッケと、すばるの不意に溢れ出す思いが掛かっていたんでしょ? あ~食べたい。

・第九話「記事と家族」
 どちらも編集されていく。どちらも架橋に入ろうとしている。

・第十話「菓子と貸し」
 すばるの父親への貸し、息子(家路良雄)へのクッキー。カリ(借り)っと、おいし~い。・・・な~んて。



 物語全体でコッテコテに狙いに来てる演出の数々。毎話パターン化されていて安心して観ていられる。そんな話に私は飽きがちになるのだが、彼女がいいアクセントになってくれた。豪華俳優陣が脇を固める中、一段と輝く存在だった。これからも勝手に応援しています。 
・・・ひとつだけ。クッキーの件ですよ。せっかくの、せっかくの彼女の株を上げるシーンがですよ、主人公が料理得意という設定の所為で霞んじゃうんじゃあ~。 

〇余談 
 下ネタを織り込んでるんだろうけど、個人的にセンスが皆無だと感じた。敢えて言わせてる台詞が際立っている。 勝手に提案する。パン教室でパイをを作ったらどうか。それかいつも決まって丸いパンばかりを作るとか。それか必ずパンの背景には丸いものを映しだすとか。なぜ丸かって?? 円周率ですよ、円周率。円周率パン。 

〇最後に
 最後の最後でお話が壊れちゃった感が拭えません。キムタク故の安心感を最後まで引っ張らなくても良かったなと。次は「HERO」を観ます。ではでは・・・

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...