2015年10月29日木曜日

エール!(2014)

字幕翻訳:吉田由紀子


~声~ 


〇はじめに 
 試写会にて鑑賞。 


〇想起する作品 
 「陽のあたる教室」(1995)

〇こんな話
 声を聴く。声を届ける。


〇声
 声とはいったい何なのか。  

 娘以外耳が聴こえない家族。はじめに生活音の粗さ、雑さが聴こえてくる。彼らには聴こえていないが、娘と我々はその様を観ると同時に聴くのである。そして彼らの意思伝達の手段、手話。どこか大げさな身振り手振り。表情やその動作の強弱が相まって何かしらを伝えようとする。耳の聴こえる娘や我々とのギャップが、間の取り方の違いが、最初の挨拶におけるすれ違いでも描かれている。

 彼らの生活を観ていく中で、1つ浮かび上がってくる問題がある。唯一家族の中で耳の聴こえる娘ポーラ。仕事や生活において、他者とのコミュニケーションは必要不可欠。しかし手話を日常的に使用し且つ理解できる者は限られている。そこを埋めるために間に入ってくるのが彼女。通訳を担っている。両者の言葉が彼女を通して伝えられることとなる。  

 問題はだ、通訳の彼女の意思はどこにあるのかということだ。通訳ってのがそもそも特殊な役割でして。本来なら発された言葉に対して自らの感情を介さない。言葉(単語)は選ぶだろうが、その言語におけるニュアンスの通り別言語に訳す。しかしポーラの場合は、時に彼女の配慮があり、その関係の均衡を保っていた。手話、声とどちらにしかわからないように彼女の意思を介しやりくりしていた。この配慮の部分は彼女にしかわからない、見えてこない。家族の知らない、関与しないところでの電話での交渉は・・・。歌の練習を家族に伝えられない事態もこれの後押しになっている。  

 そんな時に出会うのが歌なのである。彼女の歌を評価してくれる、聴いてくれる者の存在。彼女は歌に何を見出すのか。彼女の歌の才能は我々には明らか。では耳の聴こえない家族にはどうなのか。



 声とはいったい何なのか。ただの発声なのか。発声が届かない者にはその声は届かないのか。彼女はいったいどのようにして声を届けるのか。
・・・ここの繋げ方がうまかった。
 

 村長選におけるインタビューの場面。良い意味で要約、悪い意味でいい加減に伝える。耳の聴こえる者と、聴こえない者の間で板挟みにあっていたポーラ。この辺りから彼女の意思が家族に見えるカタチとなってくる。家族はポーラを、ポーラは家族を必要としており、自負がある。

 
 

 耳の聴こえる観衆の中の、耳の聴こえない家族。手拍子や拍手、歓声に包まれる中の彼らの表情や仕草から、いったい彼らにはどのように聴こえているのかということが想起される。ここの比較は良く表現されていたように思う。彼ら目線に立たせるのも粋だろう。

 最後の件の前に、ポーラの歌の響きを、声を捉えようとする父親の姿があった。これがまた素敵なんだ。ここまでにコミカルな場面があるからこそなんだよな。


 最後彼女は彼女なりに歌声を届けようとする。歌詞がまた胸を打つんだ。




 


 頻りに性の問題が。これは障害者に対する差別や偏見っていったところとの関連なのだろう、か。

 初潮は1つの彼女の位置づけだったんですよね。女になった。しかし母親にとっては子どものままだと。あとは障害だけでなく、迫害は存在すると。
 肌の色に関しても言及してたな・・・。
 




〇余談(偏見が入りますご注意を)
 映画の見方なんて人それぞれですがね。この映画の良さであり、狙ってるところなのでしょうがね。障害をポジティブに捉えている彼らですし・・・

 頻りに笑ってる方がいらっしゃいました。物語の全容見えなさすぎではないでしょうか。単発の笑いに釣られ過ぎです。その画だけで判断しすぎです。コミカルな場面は、声という部分でラストにつながるであろうシーンということは頻りに示唆されていました。全体の構図をもっと頭に描くべきですよ。
・・・読めないもんかな~、これは押さえるべきポイントだなと。ワロてる場合ちゃうんやけどな~、わからん。

 ま、この辺のギャップを私が笑えるように伝えられれば良かったんですがね・・・・ 観衆の笑い声がただのノイズにしか聴こえなかったんですよね。つい笑ってしまうってより、必死に笑おうとしている感じがしたんですよ。周りに負けじと・・・。いけね、不満になっちまった。失敬失敬。
 この辺の勝手な価値観が映画を狭き門にしてる感じがするな。周知しようとしてる身でありながらいただけないな。もっと広い心を持たねば。

 大変失礼しました。
・・・じゃあ書くなよ・・・。



〇最後に
 コミカルな場面が目立つが、これが家族が彼女を、彼女が家族を思いやっての行動なのだとしっかりと印象付け、しんみりとオチにつなげたのは感動した。
 是非是非、笑って、笑って、笑って、感動して欲しい作品です。この気持ちに嘘偽り、邪な気持ちはございません。

 ではでは・・・


2015年10月28日水曜日

天使が消えた街(2014)

字幕翻訳:松浦美奈


~イマジン 


〇はじめに 
 カーラ・デルビーニュの立ち回りが堪らん。ハスキーな声もツボだ。仕草がまたかわいい。髪のかきあげ、挨拶をこれでもかと魅せてくる。おそらくわざと愛おしくなるように描いていた。彼女を殺されたとされる天使に見立てていた・・・、のではなかろうか。 


〇想起する作品
 「ナイトクローラー」(2014)
 合わせて鑑賞したので。感じるところが一緒だったんですよね。向こうの方が過激でしたけど。


〇こんな話
 天使の顔を・・・。

・補足
 この作品自体が思っていた印象と異なるというのを、劇中で説いてくれている。はじめ主人公が事件の外にいるんですよ。故に作品に対してのアプローチはしやすくなっているのではなかろうか。
 


〇主張
 事件に対する記者の姿勢がひとつ問題とされていた。おもしろおかしく事件を推理しようとする記者たち。そこにどこか不満気な主人公。裁判の妨げになってはいまいかと。真実がゆがめられてはいまいかと。


 当たり前であるが人にはそれぞれの人生が存在する。人には他人に見える人生、見えない人生がある。自分の知る自分、他人の知る自分がある。そしてある部分をピックアップするだけであら不思議。全く印象が違って見えたりする。そこに報道という分野が強く関わってくる。取り上げ方、用いる言葉の選別・・・などなど。

---
 子煩悩な親や教師が、親馬鹿や児童虐待、小児性愛者に見えることだって。殺人鬼が正義の英雄にだってなる。逆も然り。

---

 この作品で見えてくる人物たちの顔は、主人公との関わりのある部分だけである。その個人の主観を繋ぎ合せて人は人物像を創り上げる。しかし・・・・ってなところか。
 主人公が娘を愛しているように、家族の再生を決意するに至ったように、メラニーにも直接見えてはこないが誰かしらに愛されており、容疑者だった女性にも、殺された少女にも、それぞれに何かしらがあったのだ。
 男と女の絡みを、不倫や浮気、親権問題も取り上げられていた。実際に見える彼らと見えない彼らの差。現在の、過去の人間像。これらをどう判断していけばいいのか。この辺りを連想させるのはうまかったように思う。


 事件の真相、報道の意味、世間の興味。これが必ずしも一致するわけでは無いってのが背景にあって・・・

 世間の興味は安全なところから事件にアプローチし、彼女を助けられたのではないかと夢想することだと言う。。
 記者たちは視聴者や読者を見定め、創造力(想像力)を駆使し、掻き立て事件にアプローチする。
 事件の真相はというと・・・・

 どれもこれも想像力が補うのである。事実をつなげて真相を探りだすのも、パズルのように組み替えて興味を引くようにするのも、そしてそこに自分を投影しマスターベート(正確にはション)するのも。

 で、まぁ何が問題かって~と、事件に関する様々な主張に晒されていく中で、主人公が勝手に事件の取り扱い方に苦悩するってなところで・・・

 この場合の主張ってのは何もそれが全て正しいとするものではなく、1つの可能性の示唆なわけで。真実味を帯びることはあっても、決して真実には為り得ないと言いましょうか。その主張の扱い方捉え方でいくらでも変わってくると。いくらでもフォローできるし、反論、論破もできるもの。
 つまり、ひとつの主張には何かしらの代償が伴うということなのだが・・・。一度発した言葉は消せないってな文言がありましたね。言葉の重さに関して説いている。

 しかしそんなことをいちいち気にしていたら、深く考えすぎたらキリが無いんですよ。例えば「馬鹿」ってな言葉は本来否定的な意味で使われるが、褒め言葉として使用する場合もあるでしょと。「やばい」とかもそうですよ。発信者が、受信者が、どうその情報を深刻に扱うかってなところで違ってくるわけで。ワリキリと言いましょうかね。その場で判断するしかない。
 そもそもこのギャップは、その個人の背景、経歴、はたまた環境やその場の雰囲気。どこまでの情報を得ているのか。どの情報にどのように焦点を当てているのか。発信する情報の余波・影響をどこまでを想定しているか。ってなところが関係してくるわけで。「空気」ってな言葉にまとめることもできる。

---
 「KY」 空気を読める・読めない。その場の空気を作りだしているのは誰なのかと。多数派か権力者か。究極、マイノリティは付き従うか、口を閉ざすかしかないのかと。背けばKYと煙たがられる。
 ちゃうでしょと。場の「空気」を前提とした判断でしょそれはと。「空気」というのもただの情報に過ぎない。KY両者にも何かしらがあったんだよ。見えてこないだけで、見ていないだけで、見ようとしていないだけで。
---

 何も無責任であれ、って話ではないですよ。ざっくり言えば何でも人それぞれってな話です。その情報(問題)に関しての深度、鮮度、重要度が違うということです。ただそれだけ。どうしろとは言っておりません。

 適度にねと。思い詰め過ぎ、悩みすぎってのが損になることもあるわけで。結局は自分以外は他人なんですよ。


 着地するところを見失ったので投げます・・・・



・補足(偏見)
 人間ってのはどうも一喜一憂するのが好きでして。ふと失敗談を思い出し恥ずかしくなりませんか。他人が気にも留めないことでも気になってしまいませんか。体面を保つためにひた隠しにしていることがありませんかと。そんなマイナス面を埋めるためにね、他者の行動にね、自己を投影したり、非難したり、おもしろおかしく取り上げたりしてね、自らのプライドだか誇りだかを保っているわけです。まとめると「強がり」ってな言葉になるのかな。



〇最後に
 カーラ・デルビーニュにはじまり、全体的に女性の見え方、映え方に気を使っていた作品だろう。ジェシカの裁判における印象の変化も見ものだ。

原題 「THE FACE OF AN ANGEL」 天使の顔
 天使の顔など誰も見たことは無い。故に想像するしかないのである。劇中で事件を取り扱う者たちも、ほとんどの者が被害者女性の顔を見たことがないわけである。
 我々鑑賞者には様々な顔が見え隠れした。どれが、何が正しいのか。本当の顔なのか。情報の選別とともに何を想像(創造)するのか。そして辿りつく先は・・・・、そんな感じかな。次は我々の現実にそれが降りてくるわけでして・・・
 あと本当に天使だったのか?ってな問題提起もあったりするのかな。人は一面だけで天使にも悪魔にも・・・・

 ではでは・・・



2015年10月24日土曜日

メイズ・ランナー2 砂漠の迷宮(2015)

字幕翻訳:若林桃子


~鮮度~ 


〇はじめに 
 つ、つまらない・・・・  ぜ~んぶどっかで観たことある。焼き直し感満載。新鮮味がまるで感じられない。もったないな~、せっかく前作テンポ良かったのにな~。確かに物語の転換点としてどこかで立ち止まる必要はあったのだけれどね・・・ このおそらく意図せずしてってのがな~、イタイよな~。こんな設定無かっただろってのが流せなくなってるんですよね~。あいたたたたたたた・・・


〇想起する作品 
 「バイオハザード」シリーズ
 「28日後...」(2002) 
 「28週後...」(2007)
 「CUBE ZERO」(2004)
 「アイランド」(2005) 
 「アイ・アム・レジェンド」(2007) 
 「エンダーのゲーム」(2013) 
 「コロニー5」(2013) 

 ゾンビ映画全般ですかね・・・・
 「猿の惑星」なんかも近いかもしれない。



〇こんな話
 スイーツ店をハシゴするお話。

・・・デザートランナー、なんちって(テヘペロ)


〇既視感
 前作で迷路を抜け出した時点で、外の世界の説明がWCKDによって為されていた。ウィルスに汚染されたと。うんたらかんたらで実験を試みていると。ここに謎解き要素をもたらし今作はそれに向けてメイズランナーすると思いきやそうでもない。そもそも説明の時点で、彼らは嘘をつく必要がない(正確には真実を全て語らないってなことなのだが)。ただ事実を述べるだけで、青年たちは協力してくれる状況な訳で。それを考慮した鑑賞者の多くは、今回晒される状況を前作の最後ですんなり受け入れていたことだろう。終始想定の域を出ない。故につまらなく退屈に感じてしまう。ここに製作者は気付くべきだったのではないだろうか。どうせなら前作で示唆はせず、今作で初めて外の世界を晒した方が入りやすかったように思う。
 そしてまぁ話の流れが粗い粗いと。いやこの粗さこそが良さであり、ランナー要素を際立て唯一緊張感を与えていたのだが・・・・・耐えられない。キーワード、フラグ、これまた全部が大したことないのなんのって。


 ・高所のガラスピキピキ
 ・暗所でのゾンビックリ及び戯れ、飼育
 ・谷における狙撃
 ・女狩人(狙撃手)
 ・集落における快楽パーティ
 ・・・・その他もろもろ
 
 この辺の演出はもう使われすぎてカピカピよ。鮮度は落ちてるは、こちらの舌(いや目)は肥えてるわで。真新しさが無けりゃ緊張感はつなぎとめられまへん。




〇疑念
 最初の母親との別れの画から何をこの物語に散りばめたかったのか?

 前作からの同世代の者たちからの信頼(承認)。ここに裏切りや大人たちが絡んでくる。そんな中ゾンビは何の象徴だったのさ。迷路が大人たちに管理された環境下ってことで、その支配から逃れた先、無法地帯ってな対比だったのだろうかと。今までの常識が通用しない世界。迷路の中の集落から、迷路をさまよう、そして外の世界ってな具合に段階を踏んでいたと捉えるべきなのか。さらに酒や女の味で大人の階段登るってか? 自爆スイッチは自らでこれからの人生を選択すると。そして生を全うする上での犠牲や代償ってなお話なのけ?

 ま~、少年たちが成長するってなところでオチつけるんですけどね・・・

 


 前作は若者たちとの比較対象がいなかった、描かれなかったこともあるのだろう。今作はどうも、若者たちを引き立たせるために大人やゾンビ(クランク)がわざと手を緩めている気がしてならない。単に舐めているのか、カバなのか。いや、彼らは実は導き手だったとして次回何かしらの秘密が明らかになっていくのだろうか・・・・教育方針だったと・・・スパルタだったと・・・・なわけないだろう・・・


 最後本気でイラっと来たんだけどさ。あいつら何しに襲撃しに来たの本気と書いてマジで。効率悪過ぎるんだよ。捉えた奴は戦闘不能にしとけよ。煮え湯飲まされた(誤用)の忘れたのかよアンポンタン。あと出しゃばり博士ね。面と向かう必要あったかよ。最初の連絡手段観せた意味何も無いやん。足手まとい一々現場連れてくんな、迷惑なんだよ。



〇最後に
 次どうしようかな~、この分だと観なくてもいいなと思ってしまうな・・・観るけど。いやほんっと期待外れ。もったね~。

 ではでは・・・





2015年10月21日水曜日

白い沈黙(2014)

字幕翻訳:佐藤恵子



~結果論~ 


〇はじめに 
 序盤ウトウトしてしまいました。見落としている点が多数あるかもしれません・・・ 


〇想起する作品 
 「プリズナーズ」(2013) 


〇こんな話 
 誘拐事件の情報において神である我々が、その事件に盲目な迷える子羊たちの姿を観てイライラするお話。


〇結果論 
 多くの推理ものの醍醐味は、主人公と同様に事件にアプローチし、真相にいち早く辿りつけるか否かを勝手に競い、そこからどんでん返しがあるのかないのかってなところだろう。しかしこの作品は、予告では執拗に謎解き要素が強調されてはいるがそのタイプの作品ではない。推理を楽しむ作品ではない。初っ端から事件の概要が明らかになる。犯人側の視点が描かれている。かと言って「刑事コロンボ」のように犯人を追い詰めていく、追い詰められていくことを楽しむ作品でもない。これは、鑑賞者だけが最初に事件のあらましを踏まえさせられ、盲目な登場人物たちが事件にアプローチしていくことで繰り広げられる人間模様を追いかける作品である。

 この人間模様を何ともうまく描いている。我々鑑賞者だけに普段見えてこないものを見せておき、事件へとアプローチさせる。推理ものに長けている人であれば、何ともまどろっこしい登場人物たちに何度も憤りを覚えることだろう。なんでこんな行動に出るんだ、と。はよ判断せえや、と。何そこで揉めとんねん、と。誰疑ってんねん、と。過去の事例なんか知るか、と。それ飲んだらあかんやつや、と。犯人おるやんけ、と。その前にお前は誰やねん、と。 

 ここから見えてくるものは、考えられる事象は、ってなところがこの作品の醍醐味であって。推理ものとしては確かに物足りないというか、そんな作品では決してないことを念頭に置いて鑑賞していただきたい次第である。 




 ざっくり言っちまえば、結果論ですよ。なぜ彼らは劇中のような行動を起こしたのかというところへと思考を持って行かせる。このときは・あのときは、こうすべき・
ああすべきってな具合から、もう一歩。それぞれに事情を抱え、それぞれ違う環境や境遇にさらされていた。彼らにはどのように事件が見えていたのかと。

 そこまで思考することが億劫でない方には非常におもしろい作品。私は・・・、最初の事件の概要を示唆するシーンを目の当たりにし・・・コクコクと・・・・なっちまいましたよ。覚悟が・・・心と体の準備が・・・足らんかった・・・・



〇最後に
 「デビルズ・ノット」撮った監督なのね・・・、あれ寝ました。ウトウトどころでなく、DVDですけどね。再挑戦しよっと。

 ではでは・・・


2015年10月20日火曜日

ジョン・ウィック(2014)

字幕翻訳:松崎広幸


~掟~

〇はじめに 
 殺し屋は何も猟奇殺人鬼じゃない。掟を守る男たちが何とも渋くかっこいい。そして女を悪賢く描くのも常套句か。しかし最後は掟が勝つ。


〇想起する作品 
 「コラテラル」(2004) 
 「ザ・クリーナー 消された殺人」(2007) 
 「リベンジ・フォー・ジョリー 愛犬のために撃て!」(2012)
 「ラン・オールナイト」(2015) 


〇こんな話
 愛犬の餌を買いに行く。
・・・ここまでで終われば良かった。

〇ワンちゃん
 犬が何とも愛おしく描かれる。あいつわかっててやってたな。上目使い。じゃれてくる感じ。あいつが餌求めてきたら、朝飛び起きるね。あいつが起こしてきた時、それが目覚める時だ。習慣?予定?目覚まし? んなの関係ねぇ~。全てあいつが基準だ。そして餌食べる時にさ、首輪の飾りが当たる音とかもう完璧さ~。


〇復讐
 最愛の亡き妻の贈り物。いや、家族を殺された。そのための復讐。何とも貧困な思考回路だと思ってしまう自分がいた。いやしかし、作品を観ていくごとに実は何とも潔くもある選択肢だとも勝手に感じたんだ。命に変えられるものはないと。それほどの感情なんだ。愛するものを殺されたということは。
 そして復讐となると如何に相手をいたぶるかというところが楽しみとなってくるのだが、この作品は何ともあっさり、さっぱり、引きずらない。そこに辿りつくまでに、ガンフーアクションを観せるためにひたすらに焦らされたわけだが。相手方の描写に憎たらしく煮えたぎる怒りを感じるが、いざラスボスってなところで、スパンと容赦が無い。そんな容赦の無さで、言葉のいらない脅しが堪らなく、時折見せる情がまた紳士的。

 掟の存在。人を簡単に殺せるような人間たちがだ。とあるホテルでは無防備に顔を合わせ酒を酌み交わし、安眠する。簡単に破れるものだが、それを守ることに意味がある。掟を守った者、破った者の末路を見せつけることで、殺しはビジネスなのだというこの世界での説得力も感じる。その過程にも犠牲はつきもので、女(パーキンズ)に殺されはしたが、あの殺し屋はかっこよかったな~。あとマーカスは超クールね。



〇最後に
 アクション映画としてみると物足りなく感じる自分がいた。もっとガンフーとやらを観せつけてほしかった。しかしマガジン交換までも型の一部であるように流れる動きは魅力的だった。しかしガンカタのように語り継がれるかと問われると疑問を感じる。これからがあるならばそちらに期待する。

 ではでは・・・

2015年10月19日月曜日

ピクセル(2015)

字幕翻訳:松崎広幸


~世代~ 


〇はじめに 
 舐めてたわ~、ファミコンより前の世代か~。ゲーセンに駆け込む感じがわからん。そもそもゲーセンに行ったことが・・・。 

注、パックマンをリッジレーサー6のロード画面でのみプレイしたことがある人間の評
   価です。パックマンカーは出せませんでした(トホホ)。 


〇想起する作品  
 「ゼイリブ」(1988) 
 「バック・トゥ・ザ・フゥーチャー PART2」(1989)
・・・マーティが未来でレトロゲーを説明がてら子どもに見せつけてね、「手使うの?」ってな返答がくる感じね。
 「ギャラクシークエスト」(1999)
 「CHUCK」(2007~2012)


〇こんな話
 元オタクが、いや現役が、地球を救う。


〇オタク
 ゲーマーの栄光一歩手前の全盛期からの落ちぶれ人生。そこから屈強な軍人でも歯が立たない敵を一掃。この辺の起伏があまり感じられない。彼らがどのような扱いを受けてきたのかというところがまるまるカットされており、我々の想像に任せられている。キャリアへの執着。ラドローの軍人への叱咤激励(ここめっさおもろい)。ヒントは描かれている。そうであったのだろうという経験や知識に訴えたかったのか。ハイスクールムービーを観てれば軍人になるような屈強な人間がオタクをどう扱うのかってのは見えるか。まぁくどくなるからこれくらいで良いんだけどね。こっちの方が笑いもとれるだろうし。

 ゲームができるからといって何の役に立つんだと馬鹿にされる風潮があった。そんな中、日本でもゲーマーなるジャンルが見直されつつある今日。作品内外でもっと盛り上がりを見せてくれても良かった気もする。いやふざけてよかった。十分ふざけてたか。



〇世代
 平坦な2Dゲームを奥行きのある3D映画で堪能させ、最後にその物語を平坦な2Dで回顧録として観せる。この観せ方はすばらしかった。ノリと雰囲気は惹きつけるものがある。しかし残念ながら・・・プレイしているゲームが・・・世代じゃない。それになにより日本と海外でプレイしている、浸透しているゲームのジャンルの違いよね。FPSそこまで若者に流行ってるかと。親子で来てる人いたけどさ、やっててモンハン、妖怪ウォッチとかでしょってな雰囲気で、偏見だけど。ウケんわなおそらく。

 ゲーセンが社交場だった時代と、家にいて世界とつながれるオンラインゲームの対比がひとつのおもしろさだったのだろう。間にゲーム持っている人間の家に行ってワイワイってな時代があったわけだけど。人間VSコンピュータのスコアを競う時代と、人間VS人間におけるスコアを競う時代のギャップ。ステージを積み重ねる重みと、リセットボタンという軽み? ここら辺は通じないと思うけどな~、相当ゲームやってる人じゃないと。って言ってる自分がわからないわけでね。

 ま、ノリで楽しめればいいんですけどね。



〇戦争
 ゲームが戦争を生んだ、引き起こしたといったような表現が含まれていた。地球から送られたアーケードゲームのデータだかを誤解釈し、挑戦状だと受け取ったのだと。そこからは戦いの毎日だったとQバード。
・・・技術革新、革命は崩壊への序曲・・・??


〇最後に
 私自慢ですけどね、地球防衛軍3の実績全部解除しましたからね。TPSやないか~い!

 ではでは・・・


2015年10月18日日曜日

ラスト・リベンジ(2014)

ラスト・リベンジ[DVD]


~正義~ 

〇はじめに
 原題「Dying of the light」 消えゆく光? 

 はじめのニコラス・ケイジ演じるエヴァン・レイクの新人激励演説から、正義ってな言葉が聴こえてきたから[light]が[right]と掛かってるのかと思いきや、そうでもないのかな。いやLとRは正反対な印象を与えてくるか?。とある2人の対立を示唆するか・・・。

 [Justice]ではなく[values]って言ってるんだよね。価値観、信条。正義って訳でしっくりくるのだが、後々出てくるアメリカという宗教、イスラム原理主義ってな彼らを突き動かすそれぞれの行動原理と掛かってるのだろうから、単語としてははじめもはじめに出し過ぎかなとも思ってもしまう。「正義=アメリカ」という描き方に慣れてしまっている私のような人間ではつながらないような・・・気がする。

・・・最初[values]も聴こえなかったんですよね。日本語の[バリュー]って発音で聞き慣れちゃってるから。 


〇こんな話 
 前線から退き、デスクワークの毎日を送る主人公。ある日FTDという病に掛かっていることが発覚。記憶喪失や知覚障害、気性が荒くなるのだとか。と同時に過去に自らを監禁・拷問した男が生きているとの情報を得る。探し出そう。 


〇敵対
 一度は何も無く別れた両者。しかしそうは問屋が卸さない。そこまでに溝が深いということなのか。 

 敵対する両者が病に侵されていた。病気の症状から、

-----
・主人公側
 自らの記憶を頼ることができない場合がある。これが下記の敵側の疑心暗鬼要素、仲間ではなく自らに向くこととなる。しかし信頼できる仲間が存在する。


VS

・相手側
 病により自らが動けず、仲間を頼りとする。これは上と同じ。しかし仲間の誰かが裏切っているのではないかという疑心暗鬼にも苦しむこととなる。
-----

ってな対立が出来上がっている。何かを示唆したかったのかは不明。単に両極端な存在ということだったのか。埋まらない溝を見せたのか。

 ラストは仇討ちからの事故死。いや、自ら死を呼びこんでいるようにも見られた。それぞれに持つ[values]を振りかざし、自らには何が還ってくるのか。この戦いはどこへ向かおうとしているのか。残された者は1つの戦いを終え、何を思うのか。


〇忘却 
 憎むべき、復讐すべき相手を忘れる。これが復讐の連鎖を断ち切る1つの方法であろう。主人公はそれに加え、いずれそもそも自分が誰だったのかということも忘れることになった・・・はず。これをどう捉えるべきなのか。 

 誰もが死んだと思い込んでいた人物。個人の因縁など組織にとっては何ら意味は持たなくなる。次へと進むのだ。そのチャンスは与えられていた。組織から、そして病魔からだ。しかし執拗にこだわった。その結果もたらされたものは・・・。


〇最後に
 あれ?ニコラス・ケイジのアクションってこんなに格好悪かったっけ? いや敢えてそういう風に観せてたのかな~、役柄的に・・・。彼が出てるとなんだかんだ手にとってしまう自分がいる。ここでもどんどん紹介できれば良いかな、いずれ。

 ではでは・・・

2015年10月16日金曜日

ピッチ・パーフェクト(2012)

ピッチ・パーフェクト[DVD]


~魅力~


〇はじめに
 ふと思ったんだ。アナ・ケンドリックの魅力を伝えねばと。



 まずこの愛想笑い。呆れ顔。




















 サービスも忘れない。この見せ方好きね。



















 挑発もしてきます。





















 ラスト3枚ね。視線にやられてください。ついでにはみ出しちゃいましょ。








































くぅ~、堪りません!!


〇最後に
 作品に関しては特にないですね。「天使にラブ・ソングを・・・」的なやつですかね。






2015年10月15日木曜日

リメイニング(2014)

リメイニング[DVD]


~信仰~ 

〇はじめに 
 好きだね~、終末論。


〇想起する作品 
 「ヒューマン・キャッチャー」(2003)  
 「ハプニング」(2008) 
 「リセット」(2010) 
 「ダーケストアワー 消滅」(2011)
 「レフト・ビハインド」(2014) 
 「7500」(2014) 
 


〇こんな話  
 携挙で地上に取り残された者たちのお話。   
 
 携挙:プロテスタントにおける終末論


〇魂の救済 
 善人(信仰者)は引き上げられ、悪人(無信仰者)は残される 

 水晶体が濁って行く様が映し出される。その後息をしてないとの話も。これは肉体的な死を意味している。しかしこれはその人間の死ではないと。魂の器が機能しなくなったに過ぎない。 
・・・知るかよ


〇男と女 
 結婚、夫婦とは法律で形式的に定められたものにすぎない。本来はどうあるべきなのか。どんな意味を持つものだったのか。 
・・・、・・・・


〇極論の嵐
 人は死ぬために生きている。早いか遅いかだけの違いだ。寿命を全うする者、できない者。いや、それがその者の寿命だっただけなのかもしれない。いつどこで向き合うかわからない、誰も経験しえない、しかし誰にでも必ず訪れる「死」という現象(いや状態)。恐れるのである。理解のできない「死」という状態を。その解消に宗教(神)なる信仰対象を創り出した。「死」というものに関して、生身の人間による理解ではなく、信仰を介することでアプローチをするのである。「死」を理解する上での恐怖を、そのまま受け入れるのではなく、信仰によって軽減しようと試みたのである。大成功である。

 以上「死」からの宗教への簡潔なアプローチでした。


〇最後に
 肉体と魂を別々に扱うって観念がイマイチよ~わからんのよね、この手の話は。どっかで何かを介してアプローチできるといいな。その前にキリスト教の勉強しとかにゃな・・・

 ではでは・・・。



きみはいい子(2015)

~人間~ 

〇はじめに 
 これを観て以来、中脇初枝さんの作品を買い漁りました。まだ読み漁ってません・・・、読まにゃ。

〇こんな話 
 きみはいい子。 


〇桜 
 最初の桜の花びらは近隣の桜の花びらをゴミと認識する者たちと、季節ならではの風情を勝手に感じているおばあちゃんとの対比なのだろうか。 
 最後桜が舞い散るわけだが、枯木に花を咲かせましょうという何か疲れた世界と人間たちへの活気づけか。綺麗に咲き誇る桜もやがては散る。散り様も美しかろうが、散った花びらをゴミ扱いするのも事実。 
 花びらが庭に入ってきたという話を否定する教師たち。そして桜が綺麗という言葉に一度は?が浮かぶものの、受け入れるさくらい母。この違いはいったい何だったのだろうか。



〇人間

・見る
 悪とする対象を睨みつける。母が娘を。先生が児童を。店員に万引きを疑われるおばあちゃんもだ。これをピンポン(チャイム)で結びつけている。人が人を見るということ。もっと言えば人が人を見る上で、ある前提を作り出し見ているということ。人が人に接する上でと言い換えた方がわかりやすいか。根の深いところまで気遣っている余裕が無い。そんな社会であるが故に、前提、決めつけをした上で人と接するのである。コミュニケーションの省略としておこう。
 これが一番わかりやすいのが、子どもの障害を認識しないおばあちゃんである。ボケていると見られたり、万引き犯と断定されたり。おばあちゃんの見られ方を受け止めることで際立ってくる。そんなおばあちゃんは障害という前提ではなく、行動を受け止めているのである。しかしこの接し方も誤解を生むことが話を追っていけば気付くことだろう。立場や時間といったところが関係するのか。


 母親から先生へのバッシングは電話における会話のみ。電話口の話し手の口元(のみ)が強調されている。幼稚園(保育園)に上がる前の顔を揃えるママ友。それぞれに意地やプライドの張り合い。気の使い合い。自分という存在を象徴するものを飾り立てる。弁当、デザート、おやつ。我が子ですらだ。そんな関係にストレスをため込んでいる者たちの矛先はどこへ向かうのだろうか。そんな母親たちと先生のつながりは、数少ない。面と向かうことなどほとんどない。 
 ---濡らした床を娘に拭かせる母親と、自ら拭く教師。この選択の違いも関連してるのか。1対1、1対多、親と子、教師と児童という状況の違いが選択を異にする。クッキーを拾わせもしてたか。ここの落ちたクッキーを食べるのは笑った。---

 トイレに籠る母親と外で呼ぶ娘の関係を、家の中とレストランとで、内の母親、外の娘とそれぞれで観せる。籠っている母親など見られない。見られるのは外で待っている娘の姿のみ。そこから母親をどう判断するのか。 
 万引きの件もそうだ。おばあちゃんは認知症の気があった。それを知っていれば故意で万引きをしたとは思わないだろう。しかしそんな事情など店の人には見えていない。店の物を盗ったということでしか判断しないのである。せざるをえないのである。 
 それと変わらないことが、小野さん爆発事件でも描かれる。トイレ問題が関係しているわけだが、この事件だけを眺めてみれば先に手をだしたのは小野さんなわけで。それをある子どもたちが茶化すのである。

 
 小学校の教員の見られ方、社会的な位置を、モンスターペアレントだけでなく、彼女(ガールフレンド)の存在によっても演出している。一大プロジェクトを抱える彼女と、児童のおもらし問題を愚痴る男を比較させる。そして職場の別の男と楽しそうな彼女。実家で内弁慶な様も何か痛々しい。いや姉にすらディスられてるか。
 それだけでないところがまたおもしろい。学校の近隣の住人に「先生様」と呼ばれているのである。戦争を経験した者。戦前から蔓延る教師絶対主義という学校教育の闇、歴史にも触れていたりする。教師の見られ方は変われど、問題は山積みだ。

 
 
・虐待 
 尾野真千子演じる母親は子どもに必要以上に手を出してしまう。とある過去が問題となるのだが、これをひたすらに観せられた後、母親が手を上げると怯える娘の姿を観せられた後、教師が児童の肩に手をやろうとしただけで怯える子どもを見せられると、この子どもの家庭にも何かしらの問題があるのだろうと連想させられる。こういったそれぞれの人物の関連性を描くのがこの作品は何とも秀逸。 

 原作をかじったので少し比較してみる。どの作品にも共通することであろうが、文字媒体であるが故に、心情が直接描かれている原作。しかし映像媒体ではそれがなかなかに難しい。確かに集団における個という画で醸し出す微妙な場に馴染みきれない違和感の演出は見事。なのだが、それでは少し物足りない。そこで、それぞれの物語に関連性を持たせたのだろう。そして意味深な行動も背景を深めるエッセンス。


---教師においては茶々を入れてくる先輩の存在。彼女の存在。原作には確か登場しない人を登場させることで、彼の心情を吐きださせていたりもする。---

 


 彼らにとっての親なのである。暴力を振るわれようが。時折優しさを見せるのかもしれない。それが尾野真千子の方で描かれていた。うちの子になるかと問われた際、娘が嫌だと母親に縋るのである。おそろいの靴を持っていたり、なんだかんだわがままも聞いている。  

 この虐待児の行きつく先の違い。母親2人の分かれ目は何だったのか。そしてその子ども。さらには神田さん。そこに先生が介入しようとするまでで留めたのにはどんな意味が。



1つ戯言
日本の事情だけだが、人口事情で多産多死型から少産少死型に変化してきた。その分命に希少価値が生まれていくわけだが、そんな状況ですらも命を軽んじる行為が繰り返されるという現実。これも人類というシステムの一環なのか。死が遠のく分1つの命に対しての印象付けが行われる。




・当たり前 
 いつも学校に遅くまで残っている神田さん。とある日、先生と昼食をとることになるのだが、家庭の事情に少し介入することになる。夕飯は何を食べているのかという問いに「パン」と一言。そしてその後彼の口から語られるのは一週間の給食の献立なのである。いつも当たり前のように出され、食べている給食。一週間の献立など一体誰が覚えていよう。確認していよう。献立の放送など誰も聞いていない教室で1人おかわりをしている。このおかわりを、ピンポンダッシュ問題で注目させた子どもにイスを引かせる描写を入れることで注目させている。そしてそんな彼は給食費未納なのである。 
 傘の件も好きだ。揚げパンという共通項を見出し、神田さんが先生の差している傘の下に入っていく。そのまま家に送っていくわけだが、先生の下を離れると彼を父親の怒声罵声が襲うのである。それが聴こえてはいるのだが、先生は立ち去る他無かったのである。これが最後につながる。 
・・・しかしだ、おそらく傘下に入るというところを強調しようとするあまり、ここの会話シーンに違和感を感じてしまう。子どもが雨宿りのためにあの場所にいたというのは少し考えればわかることなのだが、先生だけが傘を差し、子どもは雨ざらしと観えなくもない。彼にとって優しい、心を開く存在に矛盾を感じてしまう。せめて子どもの上の屋根を観せても良かったのではなかろうか。



--5時になれば母親が帰ってくる-- 
 いつもと同じ帰り道をいつもと同じように帰る子ども。しかしある時家の鍵が無いことに気付く。おばあちゃんの家にお邪魔することになるのだが、5時になれば母親が帰ってくると言う。5時を告げるチャイムは、いったい彼にはどんな音だったのだろうか。
 彼とおばあちゃんにも実は関連性がある。おばあちゃんには見えないものが見えている気があり、特に桜なのだが、明らかに綺麗な道路を毎日掃除している。習慣づいている。そしてストレートな感情吐露。恥ずかしがったり、知られないように感情を隠す者たちとの良い対比だ。彼らが物語の基準となっている。


--5時になるまで家に帰ってくるな--
 神田さんの父親の外で遊ばせるための教育方針。逆にこれは5時になれば帰っていいことの裏返しでもある。特に当てもなく、校庭で一人時間を潰していた子どもには、5時を告げる時計がどのように見えていたのだろうか。前述の5時のチャイムでそれを我々に気付かせる。   


 揚げパンは先生の1つの覚悟であった。家庭の事情に介入できないもどかしさ。虐待されていようとも、その確認をするために子どもの服を脱がせることすらできない。ただの聞き取り調査に留まる。そんな彼が最後とある決意をするのである。目の前で何かが起きているのに立ち去るほかなかったあの時とは違う。
 ここがまたうまい。最初の児童のピンポンダッシュ事件と掛かっている。2回ノックするのである。1回だけでは確かではない。間を置いて、再びノックするのである。確かな覚悟を、示す為だ。


〇最後に 
 私の文章力構成力の脆弱性故、分けて書いてしまったが、明確な境目があるわけではなくて、それぞれがそれぞれに少なからず関連していて、それをうまく繋げさせようとする描き方が何とも秀逸な作品である。我々に連想させようとしている。もんのすごく丁寧だ。2015年の人に勧める作品で一番は何かと問われたら、間違いなく「駆込み女と駆出し男」を挙げるが、自分の中での一位はこの「きみはいい子」と断言する。

 答えが出て終わらない。全てが全て救済されるわけではない。立ち向かう覚悟に留まる。これを、あなたはどう見るだろうか。感じるだろうか。あなたがその状況に陥った時、直面した時、どうするのだろうか。この映画はそんな時の1つの覚悟のための準備の時間を提供してくれるのではなかろうか。


2015年10月13日火曜日

カンフー・ジャングル(2014)

字幕翻訳:鈴木真理子


~最強~ 

〇はじめに 
 こいつら絶対手から何か出せるだろ(笑) 

 ↓ ↘ → + P


〇こんな話 
 最強への道、いざ行かん。 


〇アクション映画 
 サスペンス調にしているがこれが足を引っ張っている気がする(アクションシーンにもそんなのがありましたっけ?足を引っ張る・・・)。主人公が最強を目指すわけではなく、悪役側にそれを背負わせることをしたいとなればこのやり方はありだ。しかしだ、何とも軽々しいと言いましょうか、物足りんというか、とってつけたようなものが・・・。アクションの腰を折ってくる。いやアクションとの敢えての緩急だったのだろうか。主人公が最強であろうことは観えており、いや見せており、そこに敵となるものが主人公に対して実力ともに近づいてくる、忍び寄ってくるという力関係の見せ方。堪らない。堪らんのに・・・、アクション映画としては最高級だと感じるのに・・・もったいない。
 歴代?のアクション俳優だか関係者を出したかったってのもあるそうな。そこまで精通してないからわからんな~。アクション映画好きならば話よりも俳優に目が行って気にならないのかもしれない。というより見方が違うんだろうな・・・。少し悲しくなる自分がいる。 
 そういえばカンフーの教えだか基礎だかも丁寧に教えてくれる要因にもなってたのか。でもな~、何だかな~・・・


〇彼らに言ってみたい台詞シリ~ズ 
・対峙して 
 「少しは、できるようだな」 
 「封印を解く時が来たようだ」 

・一撃を喰らって 
プラス思考 
 「俺にもまだ、紅い血が流れていたんだな」 
 「やっと、本気が出せる」 
マイナス思考 
 「私の域に辿りついているとでもいうのか!?」 

・一撃を喰らわして 
 「私にこれを、使わせるな」 
 「少し本気を出しただけでこれだ。恐ろしいよ、全力の自分が。」 
 「もう、手加減できんぞ」

・追撃
 「地面とにらめっこしてる場合か?」

・最後 
 「お前ならもしや、会得できるやもしれんな」



・・・随時更新


〇余談
 「かめはめ波」より「ギャリック砲」派です。

 一番好きな技は「操気弾」です。

 


〇最後に
 男なら一度は憧れる最強という称号。いやいつの日もか。
 
 かっこよかったなぁ~、・・・アクションは。


悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...