~人間~
〇はじめに
これを観て以来、中脇初枝さんの作品を買い漁りました。まだ読み漁ってません・・・、読まにゃ。
〇こんな話
きみはいい子。
〇桜
最初の桜の花びらは近隣の桜の花びらをゴミと認識する者たちと、季節ならではの風情を勝手に感じているおばあちゃんとの対比なのだろうか。
最後桜が舞い散るわけだが、枯木に花を咲かせましょうという何か疲れた世界と人間たちへの活気づけか。綺麗に咲き誇る桜もやがては散る。散り様も美しかろうが、散った花びらをゴミ扱いするのも事実。
花びらが庭に入ってきたという話を否定する教師たち。そして桜が綺麗という言葉に一度は?が浮かぶものの、受け入れるさくらい母。この違いはいったい何だったのだろうか。
〇人間
・見る
悪とする対象を睨みつける。母が娘を。先生が児童を。店員に万引きを疑われるおばあちゃんもだ。これをピンポン(チャイム)で結びつけている。人が人を見るということ。もっと言えば人が人を見る上で、ある前提を作り出し見ているということ。人が人に接する上でと言い換えた方がわかりやすいか。根の深いところまで気遣っている余裕が無い。そんな社会であるが故に、前提、決めつけをした上で人と接するのである。コミュニケーションの省略としておこう。
これが一番わかりやすいのが、子どもの障害を認識しないおばあちゃんである。ボケていると見られたり、万引き犯と断定されたり。おばあちゃんの見られ方を受け止めることで際立ってくる。そんなおばあちゃんは障害という前提ではなく、行動を受け止めているのである。しかしこの接し方も誤解を生むことが話を追っていけば気付くことだろう。立場や時間といったところが関係するのか。
母親から先生へのバッシングは電話における会話のみ。電話口の話し手の口元(のみ)が強調されている。幼稚園(保育園)に上がる前の顔を揃えるママ友。それぞれに意地やプライドの張り合い。気の使い合い。自分という存在を象徴するものを飾り立てる。弁当、デザート、おやつ。我が子ですらだ。そんな関係にストレスをため込んでいる者たちの矛先はどこへ向かうのだろうか。そんな母親たちと先生のつながりは、数少ない。面と向かうことなどほとんどない。
---濡らした床を娘に拭かせる母親と、自ら拭く教師。この選択の違いも関連してるのか。1対1、1対多、親と子、教師と児童という状況の違いが選択を異にする。クッキーを拾わせもしてたか。ここの落ちたクッキーを食べるのは笑った。---
トイレに籠る母親と外で呼ぶ娘の関係を、家の中とレストランとで、内の母親、外の娘とそれぞれで観せる。籠っている母親など見られない。見られるのは外で待っている娘の姿のみ。そこから母親をどう判断するのか。
万引きの件もそうだ。おばあちゃんは認知症の気があった。それを知っていれば故意で万引きをしたとは思わないだろう。しかしそんな事情など店の人には見えていない。店の物を盗ったということでしか判断しないのである。せざるをえないのである。
それと変わらないことが、小野さん爆発事件でも描かれる。トイレ問題が関係しているわけだが、この事件だけを眺めてみれば先に手をだしたのは小野さんなわけで。それをある子どもたちが茶化すのである。
小学校の教員の見られ方、社会的な位置を、モンスターペアレントだけでなく、彼女(ガールフレンド)の存在によっても演出している。一大プロジェクトを抱える彼女と、児童のおもらし問題を愚痴る男を比較させる。そして職場の別の男と楽しそうな彼女。実家で内弁慶な様も何か痛々しい。いや姉にすらディスられてるか。
それだけでないところがまたおもしろい。学校の近隣の住人に「先生様」と呼ばれているのである。戦争を経験した者。戦前から蔓延る教師絶対主義という学校教育の闇、歴史にも触れていたりする。教師の見られ方は変われど、問題は山積みだ。
・虐待
尾野真千子演じる母親は子どもに必要以上に手を出してしまう。とある過去が問題となるのだが、これをひたすらに観せられた後、母親が手を上げると怯える娘の姿を観せられた後、教師が児童の肩に手をやろうとしただけで怯える子どもを見せられると、この子どもの家庭にも何かしらの問題があるのだろうと連想させられる。こういったそれぞれの人物の関連性を描くのがこの作品は何とも秀逸。
原作をかじったので少し比較してみる。どの作品にも共通することであろうが、文字媒体であるが故に、心情が直接描かれている原作。しかし映像媒体ではそれがなかなかに難しい。確かに集団における個という画で醸し出す微妙な場に馴染みきれない違和感の演出は見事。なのだが、それでは少し物足りない。そこで、それぞれの物語に関連性を持たせたのだろう。そして意味深な行動も背景を深めるエッセンス。
---教師においては茶々を入れてくる先輩の存在。彼女の存在。原作には確か登場しない人を登場させることで、彼の心情を吐きださせていたりもする。---
彼らにとっての親なのである。暴力を振るわれようが。時折優しさを見せるのかもしれない。それが尾野真千子の方で描かれていた。うちの子になるかと問われた際、娘が嫌だと母親に縋るのである。おそろいの靴を持っていたり、なんだかんだわがままも聞いている。
この虐待児の行きつく先の違い。母親2人の分かれ目は何だったのか。そしてその子ども。さらには神田さん。そこに先生が介入しようとするまでで留めたのにはどんな意味が。
1つ戯言
日本の事情だけだが、人口事情で多産多死型から少産少死型に変化してきた。その分命に希少価値が生まれていくわけだが、そんな状況ですらも命を軽んじる行為が繰り返されるという現実。これも人類というシステムの一環なのか。死が遠のく分1つの命に対しての印象付けが行われる。
・当たり前
いつも学校に遅くまで残っている神田さん。とある日、先生と昼食をとることになるのだが、家庭の事情に少し介入することになる。夕飯は何を食べているのかという問いに「パン」と一言。そしてその後彼の口から語られるのは一週間の給食の献立なのである。いつも当たり前のように出され、食べている給食。一週間の献立など一体誰が覚えていよう。確認していよう。献立の放送など誰も聞いていない教室で1人おかわりをしている。このおかわりを、ピンポンダッシュ問題で注目させた子どもにイスを引かせる描写を入れることで注目させている。そしてそんな彼は給食費未納なのである。
傘の件も好きだ。揚げパンという共通項を見出し、神田さんが先生の差している傘の下に入っていく。そのまま家に送っていくわけだが、先生の下を離れると彼を父親の怒声罵声が襲うのである。それが聴こえてはいるのだが、先生は立ち去る他無かったのである。これが最後につながる。
・・・しかしだ、おそらく傘下に入るというところを強調しようとするあまり、ここの会話シーンに違和感を感じてしまう。子どもが雨宿りのためにあの場所にいたというのは少し考えればわかることなのだが、先生だけが傘を差し、子どもは雨ざらしと観えなくもない。彼にとって優しい、心を開く存在に矛盾を感じてしまう。せめて子どもの上の屋根を観せても良かったのではなかろうか。
--5時になれば母親が帰ってくる--
いつもと同じ帰り道をいつもと同じように帰る子ども。しかしある時家の鍵が無いことに気付く。おばあちゃんの家にお邪魔することになるのだが、5時になれば母親が帰ってくると言う。5時を告げるチャイムは、いったい彼にはどんな音だったのだろうか。
彼とおばあちゃんにも実は関連性がある。おばあちゃんには見えないものが見えている気があり、特に桜なのだが、明らかに綺麗な道路を毎日掃除している。習慣づいている。そしてストレートな感情吐露。恥ずかしがったり、知られないように感情を隠す者たちとの良い対比だ。彼らが物語の基準となっている。
--5時になるまで家に帰ってくるな--
神田さんの父親の外で遊ばせるための教育方針。逆にこれは5時になれば帰っていいことの裏返しでもある。特に当てもなく、校庭で一人時間を潰していた子どもには、5時を告げる時計がどのように見えていたのだろうか。前述の5時のチャイムでそれを我々に気付かせる。
揚げパンは先生の1つの覚悟であった。家庭の事情に介入できないもどかしさ。虐待されていようとも、その確認をするために子どもの服を脱がせることすらできない。ただの聞き取り調査に留まる。そんな彼が最後とある決意をするのである。目の前で何かが起きているのに立ち去るほかなかったあの時とは違う。
ここがまたうまい。最初の児童のピンポンダッシュ事件と掛かっている。2回ノックするのである。1回だけでは確かではない。間を置いて、再びノックするのである。確かな覚悟を、示す為だ。
〇最後に
私の文章力構成力の脆弱性故、分けて書いてしまったが、明確な境目があるわけではなくて、それぞれがそれぞれに少なからず関連していて、それをうまく繋げさせようとする描き方が何とも秀逸な作品である。我々に連想させようとしている。もんのすごく丁寧だ。2015年の人に勧める作品で一番は何かと問われたら、間違いなく「駆込み女と駆出し男」を挙げるが、自分の中での一位はこの「きみはいい子」と断言する。
答えが出て終わらない。全てが全て救済されるわけではない。立ち向かう覚悟に留まる。これを、あなたはどう見るだろうか。感じるだろうか。あなたがその状況に陥った時、直面した時、どうするのだろうか。この映画はそんな時の1つの覚悟のための準備の時間を提供してくれるのではなかろうか。
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