2014年10月31日金曜日

サボタージュ(2014)

~信頼と裏切り~ 

〇はじめに 
 試写会にて鑑賞。
ネタバレありきで話を進めますので悪しからず。 
あと主人公の名前全て「シュワちゃん」と表記します。

〇こんな話
 シュワちゃん率いるDEA(麻薬取締局)最強部隊。ある時麻薬組織のアジトへ奇襲作戦を敢行する。アジトを制圧し、1000万$を強奪しようとするのだが、その金が突如消失する。その現金消失事件の波紋からか、チームのメンバーが一人ずつ殺されていく事件が発生。はてさて・・・。

〇騙される心理 
 再度言いますが、ネタばれありきで話を進めます。10月31日現在劇場公開前なので注意されたし。 

 まず広告に書いてある文章を引用させていただく。劇中に起こるメンバーの殺人事件に関してであるが、 
「ジョンの恨みを晴らそうとする麻薬組織の仕業なのか、それともチーム内の何者かの犯行なのか」 
とある。ここがミソであることをまず言っておく。 

 事件の概要を踏まえ、騙される心理を言葉で説明しようと試みるが、わかりにくいと思うので事件の構図を図(下)に示してみた。しばしばご確認いただきたい。



図 事件の構図















 これは中盤に明かされる事実なのだが、組織から差し向けられる刺客の殺害(X)と麻薬捜査官の殺害(Y)と二つの殺人事件が存在する。
 この事件に対して我々はどのように推理を進めていくのかというと、二つの事件にどのような関連性と動機が含まれているのかということに着眼点を置き、ひたすらにこの二つを結びつけようとする推理を始める。まぁこれがトリックだったわけだが・・・。これが何とも杜撰なんですは。考えうるいくつかの犯人説を挙げながら説明していきたい。

・1つめ
 シュワちゃんの画面越しに眺める誰かしらの拷問映像は置いといて、作品のはじめに描かれる1000万$消失事件。捜査官と麻薬組織とを対立させる事件として描かれ、これを組織の怒りを買う原因として捉えさせる。捜査官殺しの1つの犯人として、組織が差し向けた刺客という候補を提示することになる。
・・・まぁこんなんミスリードとは誰もがわかるだろう。宣伝文句から「はいはい捜査官内に犯人いるんでしょ」と思っている連中を甘く見てもらっては困る。

・2つめ
 ただの仲間割れ。捜査官内に犯人がいると。
1000万$消失事件で、彼ら捜査官のチームは謹慎処分?になる。もともと無法者だった連中であるため、謹慎期間という刺激不足と、消失事件もありチームとしての一体感は崩壊していた。そこで説かれるチームにおける信頼。捜査において命が関わってくる以上、信頼関係が大事になる。しかし一回崩れた信頼関係(元々築かれていたかはあやしいが)を短期間で修復するのは何とも難しいもので、これが単に崩壊しただけだろと仲間割れ説が浮上する。実際そのような様子が描かれていくことになる。
 作品外の情報を勝手に付加するのであれば、こういった無法者(いや全ての人間に当てはまるか)が一体感を見せ集団で行動に及ぶのは、ある共通の目的があるからで、その目的が果たされないか異なってくれば崩壊は余儀なしとなる。この作品内で言えば、彼ら捜査官たちの目的が、麻薬組織の潜入捜査及び壊滅なのか、組織から拝借したお金なのかと。

・3つめ
 捜査官殺しが進んでいく中で、組織とシュワちゃんの因縁が明かされる。最初に映し出された、拷問されていた女性はシュワちゃんの妻だった。シュワちゃんには組織に復讐の動機があった。組織がシュワちゃんの存在を恐れての行為・報復が、彼にトラウマを残していた。これがシュワちゃん犯人説の提示だ。
 注意されたいのは、作品内において注目される捜査官殺しと安易にシュワちゃん犯人説を繋げてはいけないということ。さらには、シュワちゃんの過去が明らかにされるのと前後どちらか忘れたが、組織の刺客が事前に殺されており、捜査官殺しが不可能であったことがわかる。ここで1つめに書いた可能性が消えることとなる、とともにこの刺客の殺害がシュワちゃんによるものでは?とリンクさせておきたい。


 途中で消える1つの可能性を除いて、犯人がシュワちゃんか、それ以外の捜査官かということになる。(女刑事は?となるかもしれないが、捜査官殺しに対して捜査という後追いが、シュワちゃんと行動を供にしている時点で勝手に排除される。事件に対して情報量の問題で彼らと遠すぎるんですよ。無知すぎるというか。演技だったらすごいってなりますけど・・・。)

 2つの可能性を引きずりながら物語はある場面を迎える。捜査官を殺したとされていた、組織が送り込んだ刺客が事件の前に殺されていたという事態が発覚する場面だ。刑事たちは刺客が犯人だと思わされていたことになる。刺客たちを容疑者として浮上させる証拠を誰が与えたのかということに思いを巡らせると、ここで刺客殺しの犯人が確定してしまう。シュワちゃんなのである。現場検証では発見できなかった、指紋等の決定的証拠をシュワちゃんが刑事に与えるのである。事件前に死んでいた者の情報を事件後に提供できるのは、その者と事件前に接触があった者だけだ。刺客殺しがシュワちゃんと確定した。ここが重要なポイントになる。

 1つの事件で犯人が確定した。動機はおそらく組織への復讐だろうと。次は捜査官殺しだ。と推理すべく事件の思考を移行させる時に、おそらく多くの人が考えるテーマは、組織への復讐という動機を踏まえた上で、

「シュワちゃんがなぜ捜査官を殺しているのか?」

ということになる。それかシュワちゃんが犯人とは確定しないものの、

「なぜ犯人は殺す対象である捜査官を何もせずに殺してくれる刺客を殺した上で、捜査官を自ら殺してまわっているのか?」

となる。

 なぜこのような推理を始めてしまうのかというと、この項の最初にも書いた広告の内容がわかりやすいのだが
「~なのか、~なのか」
のような選択肢が与えられていることによる。

 池だか沼に斧を落とした話を聞いたことがあるだろう。何の変哲もない斧を落としたのに、女神だかが落とし主に提示したのは金の斧と銀の斧。どっちを落としましたかと。そりゃどっちかを選択しなきゃいけなくなる者の考えもわかりますは。

 いや待て、これは落とした物、つまり答えがわかっていての選択肢の提示だから例えにならないな。解答者側が答えを知らない状態で、出題者がある問いに対して答えとなるべき選択肢を提示する状況を想定してほしい。解答者は出題者の提示する選択肢の中に答えがあることを信じ、何かしらを選択する、せざるをえない。問いと答えが出ており、その両者を結びつけるのは解答者の勝手な思考ということになる。ここで解答者にとって真に問題となるのは、

~答えが選択肢のいずれか?~

ではなく、

~選択肢の中に本当に答えは存在しているのか?~

ということだ。解答者は答えを知る由もなく、出題者に全幅の信頼を寄せ、その選択肢の中に答えが存在するという前提を与えらてしまっている。そのことに気付けない状況が出来上がってしまっているのだ。この「出題者VS解答者」の構図を、「映画VS鑑賞者」とイコールで結びつけてもらえば良いか。このクイズ形式は、第三者がその中に答えがありますよという信用だか信頼があってはじめて成り立つもので、しかし二者間でこの形式を用いて選択肢の中に答えがあるだろうと、そんなことは考えずに勝手に思考を始める鑑賞者がそこには存在すると。

 劇中における犯人の可能性の示唆としても選択肢をいくつか提示させていただいたが、ここで何が言いたいのかというと、選択肢を与えられることで、人は答えを1つ(乃至少数)に限定してしまうということだ。選択肢以外にあまりものを考えようとしない。

 つまり、先ほどの図を見ていただければわかると思うが、二つの事件における犯人のミスリードとして、別々に犯人がいるという思考ではなく、ひとつの事件における犯人が、もうひとつの事件にも関連するものとして、両者をひとつに繋げさせようとしている心理がはたらいている。

 犯人特定の話に戻すと、シュワちゃんの組織への復讐という動機による刺客の殺害が確定した上で、捜査官殺しを繋げようとすると、情報が足らず繋げることができなくなる。ここで鑑賞者にシュワちゃんが犯人であるという推理の自信を失くさせる。ここはうまかった。しかしここからがいただけない。そこで新たな情報を待つことになるのだが、その次に出てくるのが、捜査官殺しの決定的な証拠となる、犯人が残りの捜査官を殺すという直接的な描写だ。せっかくシュワちゃんが刺客殺し、現金消失の犯人という最後の「えええええええ」という告白を活かすための、鑑賞者の勝手な推理を促す演出が、ここで物の見事に水泡に帰す。シュワちゃんがひとつの事件の犯人であるとしてこの場面を観ると、二つの事件の犯人が別々の者による犯行であったと確定してしまうからだ。別々の犯人であったというのを、最後の最後で同時に明かせば良いものを、シュワちゃんを際立たせようとしたのですかねぇ、本当に残念で仕方がない。その後はアクションの連続。答え合わせの時間だったのか、謎解きの時間だったのか。最後のシュワちゃんの一言に「うん、知ってた」となる。

-信頼と裏切り-
 サスペンスとしての演出が散々なのであるが、この作品を擁護するのであれば、タイトルにも書いた信頼と裏切りが重要なテーマとなる。シュワちゃんが訓練において説いていた、チーム内の信頼が確たるものとなっていれば、この作品内の複数の事件は起きなかった。

 遡っていく形になるが、信頼があったならばまず、現金消失に関してチーム内の誰が盗んだのかという問題がまず解消される。故にチーム内の殺しは起こらない。

 次にシュワちゃんの独断専行による組織への復讐のための現金強奪。チームの者たちを信頼し、組織への復讐を公のものとしていれば現金消失に関する事件は起きなかった。

 まぁこれだけだと、麻薬戦争で最強を誇る部隊の功績の数々は、チーム内の信頼が可能とした賜物である。そしてある事件から裏切りという崩壊をしていったともとれるのであるが、そもそもの裏切りは、なぜシュワちゃんは組織への復讐にチームの協力を得ようとしなかったのか、ということにはじまる。ここでシュワちゃん視点でチームのメンバーを少し見つめてみたい。

 メキシコだったかの組織の関連する事件後に自暴自棄になり、復讐の鬼と化すシュワちゃんが描かれる。そんなシュワちゃんに、復讐をしても妻子が戻ってこないとチーム内のある者が諭す場面があり、そこで気持ちは解消されたようにも思われるのだが、劇中のリアルタイムで再度妻が殺される場面を見つめるシュワちゃんがいる。引きずっていたのだ。復讐心を引きずる男と、死を仕方のないものと位置づけるチームのメンバー。この差が大きいのだろう。復讐したい気持ちはわかるが、死は変えられない。戻らない。という前提が彼らにはあった。仲間が惨殺されたにも関わらず、シュワちゃんも含めてだが、その死を口実に酒盛り・パーティを開催している様子からもそれは伺える。彼らなりの死者の弔い方なのだろうが、そんな者たちに大切な存在を殺された、やるせない気持ちを引きずる男の考えなど理解されようがないだろう。故にシュワちゃんは独断専行に奔ることになる。

 誰にも理解されようのない彼の悲しみ。そして復讐という自己満足と波紋。これが折角のサスペンス要素を崩壊させているちぐはぐな演出と、残虐描写とに関連させていると思われる(残虐描写に関しては次の項目で)。


〇余談
・残虐描写について 
 人が撃たれる様が直接描かれる。銃声や殺したことを醸し出す別の映像ではなく、そのまま描かれるのだ。これは何を意図してのものなのだろうか。シュワちゃんの愛する者を殺された言葉では伝えきれないものを、鑑賞者に不快な思いをさせてまで映像として表現したのだろうか。(フィクションという前提があり)他人が殺される映像を観せられる鑑賞者ですら気分は良くない。それが愛する者だったらと・・・、ってな感じなのだろうか。そして妻の銃殺と最後の妻を殺した者の銃殺の見せ方は意図があったのだろうか。同じ目に遭わせてやると。要は復讐ですから・・・。

〇最後に
 サスペンスとアクションの融合した作品と謳っているが、それぞれに別のパートとして描かれている感があり、どちらも中途半端に感じてしまう。アクションありきのサスペンス、サスペンスありきのアクションという表現では決してないわけで。サスペンスパートだけだとダレるだろう、アクションで緊張感保ちましょうってな感じに思えてしまう。
 そしてシュワちゃんというキャラクターが立っての作品ではない。時折観せるドンと構えたスタイルはあるものの、必要性をあまり感じられないというか。敢えてのシュワちゃんという安心感の演出だったのだろうか。今までのシュワちゃんではないと最後決定的に印象付けたかったのだろうか。しかしこれではシュワちゃんにはこういう映画はあまり向かないなっていう感想で終わってしまう気がする。今までに出来上がってしまったイメージというのが大きすぎるんだろうな。しゃあない。

 まぁ何とも垢抜けない作品に仕上がっております。私は嫌いじゃないですけど・・・。

2014年10月25日土曜日

思い出のマーニー(2014)



~わ~

〇想起する作品 
 「チャイルドコール 呼声」(2011)
 「ジョバンニの島」(2014)

〇騙される心理 
 マーニーとは何者なのか、というのが一番の謎(鍵)となる。この謎を読み解くことがこの映画の最大のおもしろさ、ではないところがまた良いんですよ。

 途中から現実と虚構を行き来するようになるアンナ。ここからミステリーやサスペンスが好きな方は血沸き肉踊るのではないだろうか。アンナよりも先に真相に辿りついてやろうと。実際私がそうだった。故に最後短絡的だったと自分を恥じた。負け惜しみになるが、久子さんのマーニーについての語りでアンナより先に真相には辿りつきましたからね!!・・・。 

 まず原作ありきではあるが、この話の構成と演出のおかげで見事に喰いつかされた。アンナが子供の頃の演出。おそらく養子どうのこうのと大人の問題が発生している事態を見せる演出。ここでアンナが抱いているお人形さんが存在するのだ(予告編でも映っている)。これが金髪でマーニーが着ているような服をめしている。これが謎を読み解く上で必要となる証拠物件Aだ(以降証拠物件という名称は出てきません)。ここで妄想力に乏しい人(私だ)は、一つの真相が導き出せた。 

真相1:アンナは小さい頃に何かしらの虐待にあっており、空想のお友達を創り
     出した。 故にマーニーはアンナが抱きしめている人形である 

注意されたいのはこれはまだ一つの可能性であること。
 
 しかしこれだと後々描かれるアンナが経験するマーニーとの冒険と、マーニーが書いたとされる日記に共通項が見られることの説明がつかない。日記の中の出来事、つまり過去の事象を追いかけるということになるので、アンナが以前に経験していなければならなくなる。それを踏まえて物語をさらに追っていくと、この引っかかりを補うためにまたひとつ真相を導き出すことができる。 

真相2:アンナは虐待によりマーニーという人格を創り出した。これは夢の中の
     物語。 故にマーニー=アンナである 。

 真相2から先ほどの真相1の問題点であるマーニーが書いたとされる日記との共通項の存在の説明がつく。・・・しかしこれだとマーニーの出現はアンナが寝ている最中に出現しているという説明は出来るのだが、現実にマーニーが顔を出す(マーニーの出現と同時に現実の人間と会話している)説明がつかなくなる。ここでサイロに行く場面で、マーニーを認識しているのはアンナのみという情報を考慮に入れると、またひとつ真相を導き出すことができる。 

真相3:マーニーは実在した。しかし劇中でアンナと行動を供にするマーニーは
     アンナの創造の人物である。

 何らかのかたちでマーニーは実在しており、アンナと関係を持っていたということになる。この真相により共通項の問題は解消でき、アンナの見ているマーニーは自らも認めるが、アンナが創り出したとしているので現実での認識問題も解消できる。
 ここで最後のシコリとなるのが、いかに二人が関係していたかということだ。そこで物語の前後を探ると、あらゆるところに散りばめられている伏線・ヒントに気づくことになる。
・・・アンナの瞳の色、おばあちゃん(がいた)発言、アンナの引き取り手問題、人形の存在、マーニーの日記、髪留め、マーニーの歌・・・などなど盛りだくさん。
 ここまで来ればもう大丈夫。最後にしっかりと解説してくれますから、必ずや真相に辿りつくことができるでしょう。


・真相へのアプローチ
 一回目の鑑賞で物語にのめり込み過ぎ、慎重さに欠ける推理を展開してしまった自分は情けなく、そのために再び鑑賞することになる。ここからは物語の真相を知った上で鑑賞し、冷静に物語の演出を見つめ直してみた結果だ。 私の勝手な解釈であるが、真相に辿りつくチャンスは三回用意されていた。以下それを詳しく解説していく。 

1つ目 
 サイロでアンナがマーニーに置いていかれるとされるシーンだ。
そこにおいて、アンナが夢でおばあちゃんにあやされている夢を見る。そこでの鼻歌がマーニーとパーティで踊った時の音楽なのだ。ここでおそらく初めておばあちゃんとマーニーが関連付けられる。あやされるシーンの続きとして描かれるのが、サイロでマーニーがおじいちゃんに助けられるシーンでもある。このお話はおばあちゃんにあやされるときに聞かされた話でもあった。

 ここで是非とも繋げてほしい劇中の事実は、アンナがマーニーに対して秘密を打ち明けるシーンで「両親が亡くなり、おばあちゃんも亡くなった」と言っていること


2つ目 
 次に関連付けられるチャンスが、久子さんのマーニーに関する過去回想だ。
 マーニーの実際の姿と、その後どうなったのかという状況確認。かずひことの結婚から娘の存在、そして孫もいたと。孫は両親を失い、マーニーに育てられることとなるが、その後マーニーも死ぬことになる。

 1つ目で繋がる事実とも関連して、アンナにはおばあちゃんがいたことを念頭に置いて繋げていただきたい事実は、アンナは二回もらわれているということ。
「両親→おばあちゃん→現在の両親」
と二回引き取られていることになる。さらにはアンナがお人形を抱きしめているシーンが二回挟まれるのだが、それが両親とおばあちゃんの死をそれぞれ意味している。 1つ目のアンナがおばあちゃんにあやされているシーンのおばあちゃんの後ろ姿と、ここで描かれるマーニーの姿が似ているということからも、ここがおそらく一番に真相に繋がるシーンではなかろうか。

3つ目 
 最後にアンナが今のご両親に引き取られる際に抱きしめていたとされる湿っ地屋敷の写真を、アンナがおばさんから手渡されるシーン。
 ここでマーニーが何者だったかが確信に変わる。真相に辿りつくチャンスとして1つ目、2つ目などと書いてきたが、その真相にたどりつく手段は、我々視点でしかなく、アンナにとってはここで初めて全てが繋がることになる。

 髪留めの演出が為されるわけだが、その髪留めもするきっかけもちゃんと描かれている。まぁ「髪伸びたねぇ」っていう日常会話なのだが、そこからずっと付けているんですよ。愛用の品だったことは明らかになるわけで、何か特別な思いが感じられて然りなわけです。

・騙される心理の総括
 おそらくこの映画をご覧になった皆さんは、マーニーが何者なのかという真実及び謎についての真相解明を急ぎ過ぎ、私のような推理をひたすらにしていたのではないだろうか。そういう見方であると、確かにマーニーという真実についての何度もされる確認作業は、余韻や考える幅を狭くしてしまうのかもしれない。マーニーが何者であったかはもっとボかしてもよかったのではないかと。
 はて、それはどうだろうか。アンナがマーニーについての全容を知り得た、繋げられたのはどのシーンであるかをもう一度考えてほしい。(我々にとっての)3つ目のチャンスの時なのである。そしてこれは誰の物語であるのか。アンナの(成長)物語である。そしてマーニーの物語である。その物語を通じて我々に対する何かしらのメッセージを発する必要性はあれど、我々の彼女たちに対するこうあってほしいなどという願望や要望はどうでもいいものでしかない。究極我々に関与する余地などどこにも無い。故に私はこの真相への繋げ方がベストだと考える。

 さらには奇跡とも言えるような偶然がいくつも重なったが故に、アンナは一つ殻を破ることができた。そんなことが実際に有り得るのかと。
 ここで思い返してみてほしい。おじさんが潮の満ち引きに関して言及するシーンであるが、「月の力だよ、月の力」とさりげなくも念を押すように言いまわすのである。さらには彩香の「私、エスパーかもしれない」という台詞も気になる。これはおそらく人間が理解しようとも手の届かないような力を暗示していたのではなかろうか。つまり運命や天命と言ったものである。これを肯定的に捉えることができれば、アンナの物語は実に清く、潔いものとならないだろうか。
 まぁ、単純に月とマーニーを関連付けたかっただけかもしれないが・・・。アンナのマーニーとのファーストコンタクトの背景は月(三日月)であるが、最後の別れは太陽背景であるのだ。 何かあるんですかね~? 陰と陽? 暗い過去、明るい未来的な?・・・(適当)。

〇マーニーとは 
・マーニーと人形
 勘違いされている方もいるかもしれないが・・・(私が勘違いしているのか?)、マーニーがどんな姿だったかは直接(第三者視点)描かれてはいない。ここが一番のポイント。マーニーの日記や久子さんの証言(アンナが描いたマーニーの絵を、昔の友人に似ているという証言もある)、アンナのおばあちゃんに関する思い出はあれど、絵や写真などで客観的に描かれてはいないのだ。アンナが描いたものは出てくるが、あれはアンナが描いたものであるから除外する。つまりこの映画で登場するマーニーは、アンナ自らも認めるが空想の産物でしかない。日記に書かれている、且つ久子さんにより語られるマーニー自身がこうありたいと望んだ姿を体現したに過ぎない。それはアンナの幼少の記憶に刷り込まれたもので、自らの境遇を呪い無意識にこうありたいと望んでしまったが故に出現した幻ということになる。 

 故に導き出される一つの結論。先ほどの真相1とも関連するのだが、マーニーのモデル(アンナVer)はおそらくアンナが抱きしめていた人形だと思われる。幼少期のアンナの腕に抱きしめられている人形。両親の死、おばあちゃんの死の時に必ず抱きしめていたくらい大切な、そして頼りな人形。その人形は後ろ姿しか描写されない。常に寄り添ってくれていた存在。そんな大切な人形にマーニーを投影するのもうなずけはしないだろうか。 
 さらにこの説を決定づけるのは、アンナとマーニーが抱き合うシーンはいくつかあるのだが、アンナからマーニーを抱きしめるシーンでは、マーニーの服装は幼少のころアンナが抱きしめている人形の服装が同じということもある・・・多分。

・伏線と事実
 久子さんによる語りと、劇中のアンナとマーニーの体験を照らし合わせることで見えてくる、マーニーについての伏線と事実。

 湿っ地屋敷にて開かれたパーティにて、マーニーはばあやを自らの部屋に閉じ込めるわけであるが、ここで明らかになるドアの鍵が外側についている事実。マーニーは常時か定期的にか閉じ込められていたのだ。最後にボートのおじさんもマーニーを「閉じ込められた少女」と形容・表現していることからも伺えるだろう。ここからマーニーがアウトドア派であったはずがないことが伺える。

 アンナがマーニーの絵を描いているわけだが、それを見たマーニーは自分の絵を描いてもらったのは初めてだと言う。お嬢様、お金持ち=肖像画のようなイメージがあるのに、その経験が無いという発言はちとおかしい。お嬢様ならではの経験が抜け落ちているという矛盾が浮上する。

〇わ 
 学校における集団意識と、それに順応できず孤立する者として主人公が使う「わ(輪)」という言葉。
 最初に主人公であるアンナが使う言葉「わ」という言葉を基にこの物語を追ってみる。「わ」に当てる漢字は「輪」で決まっていただろうが、この物語を追っていく上で私が勝手に解釈した「わ」というものを紹介していく。 


 まず最初にアンナが使う「わ」はおそらく「輪」というものである。 「輪」は自分と他人との壁という意味で用いられる。最初に自分は輪の外だという台詞がある。他人との関係性で見た場合は外であるが、自分という殻に閉じこもっていると見ると、「輪」の中にいるともとれる。公私という輪の内と外。そこがまたおもしろいのだが、それはまぁいい。ここでは殻を破れないのではなく、輪の中に入っていく勇気が無いと言った方が妥当であろう。全部を全部許容しているわけではないが、うまく関係性を築ける者たち。割り切るって言葉が妥当だろうか。アンナはそういうのが許せない。なぜに許せないのかというと、アンナの境遇や悩みもあってか自分を他の子とは違うのではないかと、自分の存在を否定しているからだ。そこからマーニーという存在を通してどのように変化していったのか。


 次に出現するのがつながりといった意味を擁する「環」。これはアンナとマーニーの出会いから始まる他人との関係性。さらには自分という存在の再確認にも関連する。形式的・表面的な繋がりは最初からあるし、アンナも最初から閉じこもっていたわけではない。ある事情から自分という存在理由を疑い始めるに至る。マーニーというきっかけで知り合うに至る存在がおり、そこから解き明かされていくマーニーの正体と真相。そして自分の境遇。改めて自分という存在を見つめ直すことができ、他人に対して心を許すことができるまでになっていく。  


 最後のオチとしてある「わ」は「和」であろう。主に和解。打ち解け合うといった意味でだ。 最終的にマーニーが何者なのかという真相に辿りつき、アンナはあらゆる感情をふっ切ることができる。ふっ切り始めたと言う方が正しいか。おばさんの援助金をもらっていることの容認と、久子さんへのおばさんの紹介が、母という呼称になるところからも伺える。 謎解きを一通りの解釈させてしてしまうのに疑問を覚える方もいるだろう。しかしこうも考えられはしないだろうか。アンナは自分と言う存在に疑いを持っていた。叔母さんがお金をもらっていたという事実。自分は愛されていないのだろうかという迷い。人に対する不信を抱きながらも差し伸べられる手には何か期待や希望を見出そうとしているような演出。しかし何分タイミングが合わない。人に対する不安や不信からくる迷い(がもたらす時間)がそれを許してくれない。それを確立するためにはマーニーと言う過去を明らかにする必要があったのだ。故に最後「和」に辿りつくことができると。  

〇余談 
・マーニーについて
 マーニーの髪ふわっふわだなぁ。
有村架純のちっちゃい「つ」の発音がうまいから、かわいらしさをとても感じる。
 マーニーがキノコに詳しいという設定。そしてお父さんと一緒にたくさんのキノコをどうのこうのと・・・。そんな邪な気持ちをこの作品に抱くでない。とは思ってみるものの、原作は日本ではなくイギリスであり、洋館という設定や、毎度開かれるパーティ、メイドたちにより閉じ込められていたなど、マーニーが商品として扱われていたという裏設定みたいなものは無いのだろうか。顧客のための接待要員だったのかもしれない。原作が児童文学であるため直接的な描写は無いにしろ、何かそのような意図が感じられなくもない。金持ちやお偉いさんには小児性愛者が多いという偏見が強すぎるのだろうか・・・。いやしかし、マッチ売りの少女も実は少女売春・買春という裏設定があるというではないですか。

・アンナについて
 アンナちゃんに泣きボクロつけてほしかったなぁ。
アンナちゃんの家に空気清浄機の描写があるのはさすがだなぁ。
 いつも濡れているアンナ。先ほども邪な気持からマーニーについて触れたが、思春期という時期や日常生活による様々なストレス、そんなアンナの置かれている(自ら置いている)環境を念頭に置くと、これも何かを意図しているのではないかと疑ってかかってしまう。自分の価値を知りたかったり、自分を汚してみたいとか、誤った方向に向かってしまう子供たちもいるではないですか。それを考えると・・・。

・その他
 十一さん(ボートのおじさん)もマーニーの過去に何かしら関係してるんじゃないかなぁ。ボートの漕ぎ方とか・・・。
委員長のこと最初先生か何かだと思ったわ・・・。

〇最後に 
 物語を紐解いていく上で肝心な下地がアンナとマーニーを繋げるまでにしっかりと描かれているからすばらしい。原作ありきなのかもしれないが、話の構成と見せる(印象付ける)場面の描き方がうまく、サスペンス・ミステリーとしても十分に楽しめる。しかしそれに固執しすぎると、何か物足りなくも消化不良感が否めなくなるかもしれない。決してそのような話ではないのだが・・・。

 ひと夏の事実や経験により一段と成長する女の子。経験ありませんか、夏休みを境に豹変した人たちを。大人しめだった女の子が茶髪だったり、ピアスなどのおしゃれをしはじめ、外見及び中身が別人に。今まで意識したことも無かった子に、今までに感じ得なかった魅力を感じ、何か意識してしまうようになるなど。経験を積むことで新しい世界を知り、一段と成長を遂げることができる夏休みという短くもあり長くもある特別な時間。そんな思い出に浸りながらも是非ともこの映画を楽しんでいただきたいものだ。 

 最後に念を押すが、このお話はアンナの成長物語であることを忘れてはならない。 
最初の 
「私は私が嫌い」 
という言葉に始まり、マーニーと出会い、秘密を打ち明けるシーンからの 
「私たち入れ替わっちゃったみたい」 
という言葉に繋がり、最後 
「あなたが好きよ、マーニー」 
という言葉に辿りつく。 ここからアンナは自分という過去を見つめなおすことで、だんだんと自分を好きになっていったということがわかる。セリフ間にはなんやかんやあるわけだが、それとともにアンナの成長をしかと見届けていただきたい。

 先立った両親や祖母への、私を独りぼっちにしたことを許さないという言葉からの、最後の許すという言葉につながるわけだが、アンナの成長物語として捉えるとこうも考えられるのではと台詞を少し取り上げてみた。

まぁ、この作品を一言で表現すると、
―自己陶酔による自己弁解―
ってな感じになってしまうんですがね・・・二言か。

・・・では。

2014年10月24日金曜日

ジャージー・ボーイズ(2014)

~1つのパート~ 

〇はじめに 
 クリント・イーストウッド。あなたはどれだけの才能を摘み取り、挫折に追いやり、夢破れさせたのだろう。そしてどれだけの才能を発見・発現させ、希望を与え、夢見させてきたのだろう。この映画を観終わった後、そんなことを思ってしまった。 

〇こんな話
 フォー・シーズンズの歴史を、フォー・シーズンズとともに歩む映画。

〇パート 
 クリント・イーストウッドの創り上げる世界と言うのは何ともドロドロとこってりとした、まぁ簡単に言ってしまえば重いという印象が拭えなかった。この作品も実際のところグループ内外もっとドロドロな関係であったはずであるが、何とも淡々と描きだす。しかし要点はしっかり押さえるといった具合である。基本的にこういった誰かの歴史を模った作品はダイジェストムービーになりがちで、何とも急ぎ足に感じてしまうものだ。しかしこの作品はそんなことを一切感じさせなかった。逆に要点を絞りきれずに、だらだらと退屈な作品にもなりがちである。しかしこの作品は最初から最後まで一気に見入ってしまった。時間を奪われてしまった。いや同等の対価を払ったに過ぎないか。いやこちらの対価が足りないくらいかもしれない。そんな思いを抱かざるを得ない。 

 フォー・シーズンズというグループの者たちに焦点が当てられ描かれていくわけだが、グループという組織の存続における表事情と裏事情、それぞれ互いには知り得ない・知り得る問題を抱えているという境遇を、音楽と言う題材だけに、その人間関係における協和音と不協和音を見事に演出してくれる。 そしてなんとも陽気にすっきりとこの作品はエンディングを迎える。今までのドロドロとした関係を清算するかのごとくだ。「え、いいの?」と。いや、逆に「良かった」と思うかもしれない。そしてこのすっきり感の演出にはミュージカル調が見事に活きてくる。 

 関係性の清算と言うエンディングで感じた微かな違和感の正体。
 結局のところ、この作品は1つのパートに過ぎない。フォー・シーズンズとそれに踊らされた、躍らせた、躍った人たちが織りなすそれぞれのパート(人生)により形作られた人生と言う1つの作品に過ぎない。故に1つの完結を迎えているのである。我々が何かしらの疑問や違和感を感じたところで、彼らがそれで良かったのだと言えばそれでいいのである。何もそこに介入するべきではないというのではない。介入する余地があることに関して、あなたはどう感じどうすべきであると考えるのかと、自分の中で、そして他者との共有でひたすらに考えていけばいいのではないかと。文句を垂れるのも、受け入れるのも1つ方法である。私が、あなたがどう思おうと、彼らは彼らなりの答えに辿りついた。それを見つめ、あなたは・・・?という具合である。
 そしてこの作品に関わる、関わらずのまた複数のパートが織り成して、この世界はまわっている。直接的に関わるものもあれば、間接的という見えない、見えにくい関係もある。あなたは今までとこれからと、どのような関係を築き(に気付き)、どのような結末を迎えるのか。そんなことに思慮を巡らし、展望してみるのもまたおもしろいのではなかろうか。

〇最後に
 「ジャージー・ボーイズ」という1つのパートと、「かつおよろし」というパートが出会えた、交えることができたことに感謝。
 シェ~リ~、シェリベイビ~♪♪

2014年10月21日火曜日

プロメテウス(2012)

プロメテウス[DVD]


~探究心とエゴ~ 

〇はじめに 
吹替で鑑賞の方へ。剛力さんに土下座したくなりますよ。「もうやめて」・・・と。 

〇こんな話 
様々な時代の壁画に描かれた共通のメッセージ。それを読み解いてみるとある惑星を発見。人類の起源を探るとの目的で、そのメッセージを送ったとされる惑星に実際に行って探検しようという物語。

・はじまり 
最初に白い巨人が出てきて黒い水を飲むシーンがある。海へ落ち一度細胞が分解されて再構成されていく。これが人類の基となる(そうな)。 船内に画が映ってのアンドロイドの存在。エイリアンの出現確定。お疲れさまでした。

〇起源 
人類の起源とはどこまでを探るのか。ホモ・サピエンスの原型を辿るということなのか、生物がどこから来たということなのか。しかし、生物となると惑星にたどり着いたところでこの生物たちはどこから来たのかと結局のところエンドレス。究極宇宙の起源を探らなければならなくなるだろう。劇中でも述べているが進化論の超越というか、ミッシングリンク、突然変異、世代を超えない進化(つまり変態)の肯定化といえるのか。 

結局神なのか。主人公が十字架を首に掛けているのだが、科学者が十字架を背負うというのは何か矛盾を感じる。最後は信仰心のあったものが助かるんでしょ。そんな世界じゃないでしょうが・・・。地球だけでないということなのでしょうね、共通の神の存在は。 

う~む。生物の中で人類は特別視しすぎではなかろうか。まぁ特別っちゃ特別か。

〇台詞 
ラストにある二言ピックアップ 
・I deserve to know why 
吹替:「私には知る権利がある」
字幕:「私は知りたい」 
直訳:「私は知るに値する」 
この発言はどう受け止めるべきなのか。人類を代表してとのことなのか、クルーを亡くしてまで得るものが無かったから、私には責任があるということなのか。彼女のこの映画の行動から受ける印象では、ただ単に彼女の願望のように聞こえてくる。要はエゴだ。確かに科学者は知的欲求の塊ではあるが、こいつの行動は自己中すぎて周りの連中に迷惑をかけていた。それでいてこの発言を最後に受けるとイラっとくる。本来の目的は人類の起源の解明であったはずが、いつのまにか彼女の欲求充足にシフトしている。吹替で聞くと剛力彩芽さんがやっているから尚更そう聞こえるのかもしれない。 

・Searching 
吹替:「真実を追求し続ける」 
字幕:「探求し続ける」 
人類が誕生したのはただの事実であり、それに真実も何もない。真実としてしまっている以上、こいつはただ自分なりの答えを見つけたいだけ。自分が一番満たされる人類の起源の答え及び理由の追求。彼女は自分の望む答えをすでに持っている。探究とは名ばかりで、自分の罪悪感や重荷を軽減したいだけ。実際は「強殖装甲ガイバー」に描かれているように、地球はただの生物実験場だった的なノリでしょ。我々人類が生きているのには意味があるというのと、宇宙に何かしらの影響を与えているという思い込みの為せる所業。人類の力の過信。食物連鎖の頂点にいるという誤解。全ては人類の、いや彼女のエゴが人類誕生という事実を受け入れがたいものとしてしまっているのである。

〇最後に
吹替にて鑑賞した次第であるが、字幕と吹替でそれぞれ鑑賞してみると、やはり印象が異なってくるのでしょうか。比較する元気は持ち合わせておりませんでした。いや~、それにしてもつまらなかった。最後は意味深でしたね。この記録は事実なのか、真実なのかといった感じに。続編に期待と。

2014年10月18日土曜日

ノイズ(1999)

ノイズ[DVD]

~省エネ侵略~ 

 〇はじめに
 笑顔が不気味な映画です。ジョニー・デップだけに。 

〇こんな話
 宇宙飛行士の夫が宇宙での任務から帰ってきてから何か様子がおかしい。船外活動中に爆発が起き、交信が途絶えた時間が存在する。その時に何があったのか。一緒に生還した宇宙飛行士はおかしくなり死亡(殺害?)する。そして妻も自殺(殺害?)してしまう。夫にその時何があったのかを聞いてもはぐらかされるばかり。そして妊娠。はてさて・・・。 

・ざっくりと
 地球外生命体による省エネ侵略のあり方を解説するお話。

〇侵略 
 宇宙には何かいる。二分間の出来事の録音テープでひどく怯えている二人の会話が聞こえてくる。宇宙飛行士はあらゆる訓練を受けており、常に冷静に対処できると。そんな二人が怯えるとはよっぽどの事が起きたに違いない、と調査官。そして二人の声以外にノイズが入っている。それは入るはずのないものだった。ここから侵略のあらましがわかるのだが・・・。

 侵略に星間航行など必要ない。わざわざ侵略先に出向く必要などなかったのだ。ただ思念を飛ばして、器(身体)が来るのを待ち、乗っ取ればいい。宇宙に出てくる・出てこられるような個体は優秀に違いないと。

・・・確かに、と最初は思ったが、これは無理がないだろうか。外部からの侵略よりも、内部から侵略が侵攻していた方が効率的であるのはわかる。いきなり異種間遭遇によって軋轢が生まれるよりも、直接の遭遇が無いまま、だんだんと侵略する対象を侵略者に対して都合のよい方向に持っていき、気付いたら侵略されていて取り返しがつかない、とした方が。


~なぜ我々は地球外生命体と遭遇しないのか?~
という理由に、同じ時間というか時代に存在できていないというのがある。地球型惑星は多くあり、生命が存在可能な星はいくらでもある・・・と言われている。広すぎる宇宙で地球だけに(知的)生命体がいるのはおかしい。しかし宇宙は今の人類の手に負えるものではない。何が言いたいのかというと、自尊やうぬぼれかもしれないが、今の人類ほどの知能、技術を持ってしても、宇宙航行は(公に)行われていない。そこまでの進化及び技術革新には時間がかかることが伺える。そしてそこまでの技術を有する文明もいずれは滅びる。さらにはその域に到達できず滅んでいく文明もさぞ多かろう。そんなことを考えると、やはり宇宙航行を行える技術力を有する文明をもってしても、同時代、同時間に、同程度以上の技術力を有する文明に遭遇することは難しいのだろう。しかし確率は低くとも0ではないわけで、いずれは出会うことになるのだろう。地球でかもしれないし、我々の知らない別の惑星でもうすでに異種間で出会っているかもしれないし、過去とも未来とも・・・。
 この映画における侵略者の思念を飛ばすという方法は、とても効率的且つ合理的な侵略方法であるとはいえる。・・・のだが、ラグを考えていない。まずは先ほどの文明が同時代に存在しえるかというラグ。存在しても衝突までに至らない場合もあると。

 次に思念波とその思念波を操る本体とのラグ。これを詳しく考えてみたい。どれだけの距離を障害物を縫って飛ばしているんだ?って話ですからね。本体とその思念が繋がっていれば、自分の意思で動かすことが可能なので回避可能であろう。しかし、思念と現地(本体)は繋がっているからといって、同一時間になりうるのかという問題が出てくる。同一時間というのは、自分の意思と行動が為される時間が同一時刻に処理されるのかということ。意思の伝達速度(つまり反応・反射)にも限界があって、電気信号であるから光速としよう。秒速30万キロメートルと。侵略者の星が地球を中心に30万キロメートル圏内であれば、一秒以内に対処できる。いや、往復だから2秒以内か。待てよ、認識、反応できても行動する上での判断にはまた時間がかかるから2秒以上は確実にかかる。
(注、参考までに言っておくと、我々が地球で目にしている太陽の光は8分前に発されたものである。太陽までの距離は1天文単位=1億5000万キロメートルである。)

 話が逸れるが前におもしろい話を聞いたので少し。(設定は曖昧です)
「宇宙戦艦ヤマト」の話で、ヤマトと地球のやり取りで何光年も離れている間を光速通信で会話が為される、成立する。実際には通信に複数年かかる距離であるので、何かしらの問いを投げかけると、今欲しい答えが何年後かになってやっと返って来ることになる。答えが来た時には、そんな状況とっくに過ぎ去ったはと。そんなこんなで劇中のようにリアルタイムで会話が成立するわけは無いのだが、成立しているということは・・・。
 地球側はヤマトが飛び立った後の状況、つまり未来を的確に予測していたということになる。どれぐらい的確かというと、いつ・どの座標を通り・どのような問題に直面し・どのような解決策が考えられるか、というようなこと全てを想定しているくらいだ。ヤマトとの会話をリアルタイムで成立させるには、ヤマトが交信を必要とする前に地球から電波を送っておかなくてはならないのだ。そしてヤマトが交信を必要とするその時にちょうど届かなければならない。
一昔前の流行に乗っけて簡単に言うと、
ヤマト側 「交信いつやるの? 今でしょ」
地球側 「交信いつ来そうなの? 〇年後くらいじゃな~い、だから今送信っと・・・」
みたいな感じ。つまらんし、逆にわからんか。
地球を救うという目的の下、未知の世界に飛び込んでいく者たちに対して、全てを知っていたかのような地球側の行動。笑えませんか。ヤマトの冒険が何か不憫に思えてならない。


図1 出発時
 距離が近いので通信に時間がかからず会話が成立する。


図2 数ヵ月後・数年後 Part1
 ヤマトが順調に航行を続ける中、地球は未来を予測して行動を開始する。場合によっては通信が不可能となる。

図3 数ヵ月後・数年後 Part2













 図2で地球が予測した場所をヤマトが通らず通信できず、地球にしてみたらヤマトが危機に陥っていることなど知る由もない。そして次の予測へ(しかしここでは予定地の方にもう送っていなかければならない)。ヤマトは地球が応答しないことに困惑。もしかしたら地球の位置すらつかめていない可能性も・・・。そしてここから通信の見事なすれ違いが始まる。
注、これは最悪パターンです。

 通信がうまくいった場合を以下にざっくり書く。

 地球側はヤマトが交信してくるであろう日から何年か前の現在において、想定しうる状況しか送信できないわけです。会話の内容に関してのアドリブが効かないといえばおもしろいだろうか。会話の間合とか、船員の状況全てを勝手に想定しているわけです。仮にある船員がどこかで死んだとしましょう。地球側はその人物を生きていると想定して、その死んだはずの人物に執拗に話しかけてくるのです。ヤマト側が事情を説明しようとも、地球側は決してそれを受け入れてくれないわけです。想像できるでしょうか、この何とも言えない重苦しく、しかし鑑賞者としては笑いを堪えきれない雰囲気を。あの劇中に起きる感動だか悲劇的な艦長の死が、一瞬にしてコメディに変わってしまう様を。
ここでヤマトの船員たちの声を聞いてみましょう。
A:「あれ、会話ちぐはぐじゃね?」
B:「この人、まるで話聞かねえ」
C:「僕(私)が今しゃべっているんだ!!」
D:「まだ何も言ってないのに、何で勝手に頷いてるんだろう」
E:「何これ? 怖い・・・」
F:「艦長、艦長って、・・・艦長はなぁ!!・・・」


 話を戻そう。勝手に盛り上がりすぎた。

 状況は異なるのだが、そのラグを少しでも感じていただくために、自身の体での体験を思い起こしていただきたい。足をどこかの角にぶつけたとき。小指でいいですよ。ぶつかったとわかる(衝撃が走る)と、痛みを感じるのとで若干の誤差はないだろうか。そして痛みを口に出すのは痛みを感じた後だ。
「ぶつかる → (ぶつかったと)認識 → 痛み → 「いってえええ」と叫ぶ」
ってな順か。たまにぶつかった瞬間に痛くなくとも「痛っ」と言う習慣の人もいるだろうからその人は例外としとこう。自分の体ですら反応と痛覚には時間差が存在する。そこから体を伝わる信号には速度が存在するということをまず理解いただきたい。信号が伝わる距離が短いからぶつかったのと同時に反応できる。そして伝わる速度が単純に反応する信号の方が早いから、衝撃を先に認識できるだけで、後から痛みは追いついてくる。反応はできても対処できない、その状況を理解しなくては。情報の後追いが起こると言えばわかりやすいか。この感じと似ているんですよ。思念と本体とのラグは。

 つまり、思念(侵略対象である星)と本体(現地)の時間にはズレがあるわけで、仮に侵略が成功したとしても、それが本体側で成功か失敗かの判断がつくころには、すでに文明が滅んでいるのかもしれないということ。
「侵略成功or失敗(今起きてる) → 送信中・・・ → 現地到達(何年後か)」

 よくよく考えると人間が宇宙に出てきたら、身体を乗っ取るというオートプログラム的なものであれば、本体と繋がってる必要もないか。そしたらラグとか関係ないしな。しかし思念からの情報はどうやって得ているのだろうか、という疑問が新たに湧きおこってしまう。それは・・・、まあいいだろう。

 彼らは宇宙航行・星間航行を選択せずに、わざわざ思念を飛ばすという手段を取った。それは技術的に物理的なものを移動させることが不可能だったからか、可能だったが労力的な問題で省エネ且つ効率的・合理的な手段であったかのどちらかである。後者だったとして、地球でお偉いさん方が方法を選択するとする。危険で予算のかかる方法と、安全且つ省エネな方法とどちらを選択するだろうか。きっと彼らも同じ状況だったのではなかろうか。
 侵略という行為に関する理由が、文明の存続がかかるという切羽詰まった状況であれば、そんな悠長なことも言ってられないから、余裕があったと捉えるならば、侵略が趣味とかそんな感覚なんですかね・・・。


〇女性は子宮でモノを考える 
 夫が妻に僕はお前の中にいると言い、そこを乗っ取ったとお腹を指差す。つまり双子が存在する子宮を差す。これはおそらく「女性は子宮で考える」といったところに関係するのではなかろうか。「男は頭でモノを考え、女は子宮でモノを考える」と何かしらにつけて言われる。この文言は「男は理性的に、女は本能的にモノを考える」という意味で使われる。 妊娠中に中絶を試みるが結局できなかったり、子供が生まれたことで父親も新たに迎え入れており、最終的に母親自身が、双子が宇宙飛行士になることを願っている。女性の本能的な部分を侵略しているととれはしないだろうか。夫の方は宇宙飛行士になるであろう子どもたちのために、宇宙船のツインシステムを開発しており、子供たちの未来絵図を描いている。今ある命を守ろうとする母親と、将来的な命を守ろうとする父親。そんな男女の対比を描いているのではなかろうか。

〇最後に
 侵略という単語を聞くと、やはり侵略者が現地に赴くことを前提に考えてしまう。外部からの侵略然り、内部からの侵略然り。その点でこの映画は侵略映画としてうまく捻った作品だ。楽しまれたし。

2014年10月17日金曜日

ふしぎな岬の物語(2014)

~人と人とのつながり~ 

〇はじめに 
 割と低評価の方が多いようなので、私の意見を先に少し言っておくと、この作品は人それぞれ映画に何を求めているかによってかなり評価が分かれる作品だ。そんなこたあ全ての作品に言えることなのだが、これはそれがより顕著というか・・・。 

〇こんな話 
 最終的に(いや、最初からかな?)、吉永小百合と愉快な仲間たちになってしまう話。

〇つながり
 群像劇と言いましょうか、吉永小百合を中心に岬の人たちの関係を描いていくわけであるが、何とも薄いというか深みが無いというか・・・。そう感じるのも、まず序盤の話の作りの段階で、カフェや吉永小百合の位置づけがよくわからない。そしてそれぞれの人物における背景や関係性がはっきりと見えてこない(そこが入っていきにくかったんだよなぁ)。・・・とは言うものの、敢えて見えない、語らせないということをしていたように思う。それは全て最後の吉永小百合の独白に最高潮をもってくためだ。まぁ一応言っておくと、それぞれの人物を関連付けるというか、世界はつながっているという演出で、カップ、包丁、灯台の明かり(としての役割)、などなどありましたよ、あからさまに。

 我々が作品として見始める時点よりも前にも後にも、それぞれの登場人物に過去があり、背景がありと、まぁ様々な問題を抱えているわけで。それが見えてこないとなれば何とも共感しがたい物語が出来上がるもので、この作品がいったい何を言いたいのかというのはまるで見えてこないでしょう。そんな方は是非、これを映画としての見方ではなく、自分たちの日常生活に当てはめてみてはいかがだろうか。 

・・・とその前に、映画は基本的に鑑賞者を感動させるために、共感という手法を用いて鑑賞者に訴えかける。それのほとんどが、それぞれの人物に焦点を当て、こういった過去を持っていますと映像という描写を交えて丁寧に説明してくれる。しかしこの作品はそんな描写は一切ない。過去が映像として描かれない。現在という時間において登場人物たちから語られるだけに留まる。これがおそらくは評価を分ける要因であろう、ということを言っておく。

 戻ろう。あなたは、あなたに関係する人全ての背景、詰まる所のその人物を形作っているもの全てが見えていますか、見えてきたことがありますか。ただぼーっと眺めているだけでは、わからない。心開いてくれる人などいないのです。思い返してみてください。あなたの周りの人物を。全てとは言わないまでも、そのほとんどが表面的な関係を保っているに過ぎなくはないですか。嫌われたくないからと、あまり自分を出さず多少を我慢して怯えてはいませんか。事無かれ主義ではないですか。ただ衝突を避けるために、あきらめてるだけの人もいるでしょう。心を許せる人以外の人物との関係はこんなもんじゃありませんか。我々には到底見えてこない背景がそこには存在するのです。現実に群像劇として観たところで、そこに至るまでの背景を誰かしらが要点をまとめてくれ、編集してわかりやすくして観せてくれるわけではないのです。そこを我々の勝手な想像でどう補っていくのかというのが大切なのです。それこそが、つながり(ここでは共感しようとする試みとでもしておくか)となるのです。

 この描き方ができる、といよりそう捉えようとするのも、人間の行動には何か理由が伴うという前提があっての解釈になることを理解されたい。故に登場人物における背景と言うものを、鑑賞者は役者の演技力から勝手に探っていくしかない。そしてそれがどう読み取れるのか。これが全てを分けるのだろう。ここが面倒でわかりにくくあるのだが、ここにこの作品の人間味を感じてしまうのである。

 この作品を無理やりまとめると、個人で勝手に背景を補いつつというのはさんざん書いたので置いといて、人と人とのつながりは者や物によって、互いに認知することが無くともつながっており、そのつながりが新たなるつながりを生んでいくと。故に我々は独りではないと。そんな感じか。現実世界では自分という存在であるが故に、主観的視点であるが故に、この世界における全ての事情を把握している人など存在しない。そんな世界を群像劇(客観的視点)として観せ、且つ敢えて過去回想などの丁寧な説明をしない今という視点で観せていく。そこから見えてくるものがあるのやら、ないのやら。
 こう書くと、「LIFE!」という映画を思い出す。あれはおもしろかったなぁ。これはというと・・・。いろいろ書いたが、結局は製作者たちが力不足なだけだったのかもしれない・・・。

〇余談
 「ふしぎ」という単語は劇中の台詞で使ってほしくなかったな。ふしぎってのはこれがふしぎだって宣言するものではなく、自然と醸し出すものだと思うんですよね。偏見ですけど。

 吉永小百合の最後の爆発は中盤で想像がついてしまったなぁ。何か人との付き合い方が達観的で、全てを分かっているかのような発言と行動が癪に障っていたからこそかな。皆を支えているようでいて、実はその人が支えられていた。そして支えを一番に必要としているというのを醸し出すんですよね。意図的なのかな。だいたい他人に弱さ(脆さ)を見せずに、優しさを与える存在というのは、一番に弱さ(脆さ)を知っているというか、弱い(脆い)存在なわけです。これも偏見です。

「だいじょーぶ」「おいしくなーれ」 
といったような吉永小百合曰く魔法と呼ばれる鑑賞していて何かこちらが恥ずかしくなるような演出が為される。そして感情をむき出しにするような演技もだ。ふと思う。いつからだろう、こういった人間性をさらけ出すことを恥ずかしいと思い始めたのは。素直でまっすぐに生きることが、何かかっこ悪く感じてしまったのは、いったいいつからだ。

〇最後に
 この作品は宣伝で、あなたは独りじゃないということを謳っている。人と人とのつながりがテーマであるわけだが、そこに無理に感動する必要は決してない。感動するもしないも、鑑賞者の自由だ。共感すると言う人もいれば、全く理解できないと言う人もいる。1つの映画においてここまで評価が分かれるということが大事なのだ。そしてそれぞれの意見に耳を傾ける、目を向けることがより大事となる。あなたと関係する人、すぐそばにいる人で、この映画に対して賛否が様々あるわけで。そんな中に独り自分という存在がある。そんな人たちと生きている。これが人と人とがつながっているということなのである。
 くどくなるが、この作品に登場する人物たちの関係を追っていったときに、浅い・薄いと感じる人もいれば、深い・厚いと感じる人もいる。これが何を意味するのかと言うと、人と人とのつながりに意味を見出すのは、それぞれの主観であるということだ。人それぞれに違った感情があり、考え方があり・・・、この違いこそが人と人とをつなぎとめる。違いを是正しようとするためだ。そしてそれは100%相互理解に達することは決してない。達したのならばそれはおそらくつながりとは言えない(何て言うんだろう? 一致?)。逆に違い故に争いも起こる。勘違いされがちだが、それもつながりだ。人と人とがつながろうとする時点で、衝突も調和も避けられない。そこのとことを頭に入れ、ある程度割り切る必要がある。注意されたいのは、これは世間から見ればあきらめととられてしまうのである。なんでわからないかなぁ・・・、とこれもまたつながりだ。
 脚本がなってないという人もいるだろう。我々の人生を振り返ってみたときに、起承転結しっかりついていましたか。伏線をフラグを張り巡らしていましたか。そしてそれをきっちり全て回収してきましたかと少し反論してみる。こんなんでいいんですよ。人生が予定通り、計画通りに進むわけはないんです。緩急があり、喜怒哀楽があり、驚きがあり、全てに説明がつくわけではない。理不尽なことだってあるでしょうよ。皆さんは生きてて楽しいですか。周りの人を気遣う余裕がありますか。わざと目を向けていないことがありませんか。そんなことを考え、心に余裕を持ってこの映画を楽しんでみてはいかがですか。
・・・・・全てブーメランだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
ではでは。

リアル 完全なる首長竜の日(2013)

リアル~完全なる首長竜の日~[DVD]


~死と眠り~

〇想起する作品 
・「ザ・セル」 
ダイブネタ。
・「13F」
何階層にもわたるシステム。
・「イグジステンズ」 
「13F」に同じ
・「インセプション」
階層システムと階層における時間の流れ方。
・「記憶探偵と鍵のかかった少女」

〇こんな話 
 自殺未遂をした漫画家の彼〇の脳内(精神世界)へダイブ。彼〇はいったい何を感じ、何を思い、何を考えているのか。首長竜の絵が、そのカギを握る。はてさて。

〇騙される心理 
 彼女の精神世界のイメージが現実世界へ干渉することにより、若干のホラー要素を演出し、ダレがちである恋愛要素に対して緊張感を保っている(この程度の理解だと騙されます)。彼女がグロテスクな漫画を描く人間であるが故に、現実(とされる)世界に現れるとされる不可思議な現象たち。彼女のイメージが彼に流れ込んできていると。そしてフィロソフィカルゾンビの存在。この二つがしっかりと互いの世界(観)の反転の伏線となっている。干渉に関しては、現実に現れてくる現象に対しての言い訳。ゾンビの存在は現実か夢(精神世界)の区別のための情報となる。干渉ではなく、単に漫画家である自分の精神世界であったわけです。あ、ネタばれしちゃった。でもゾンビに関しては彼女からの輸入と考えてもいいのか。意識・無意識による世界の限界と、都合の良い存在、一種の記号のようなものとされるゾンビ。まぁどちらの精神世界のものなのかは複雑だわな。 

 このゾンビなどのホラー要素が、彼女から彼への精神世界から現実世界への干渉システムでなければ・・・という可能性を全く考えなかった。自分が情けない。ミステリーとして観ないとすぐ油断するからなぁ、私は。いくらでも観てきただろう、この手の映画は。はぁ~。 

 〇色香 
 綾瀬はるかの不思議ちゃんイメージ(+清純?)からか、わざと女医さんをエロく演出していると感じる。釣り合いを保つために。ま、そんなエロくもないか。作品中のキャラクターとは合っているが、やはり綾瀬はるかには色気を感じない。そこがこの映画の欠点に思えてしまう。不思議ちゃんとエロスという要素を二つ持っていれば良かったのかと言われればそうとも言えない気がするが。せめてラバースーツでも着させればいいのにと思ってしまう。この作品はおそらくわざと綾瀬はるかのボディラインの出にくい服装をしている(契約上なのか)。しかし日本における日常と精神世界の違いにおける違和感の演出を映えさせるためには、日本で普段使用されない(というより私の生活圏でただ見かけないだけか)ラバースーツのようなものはいらないか。そしてね、物語の反転を考慮に入れると、やはり綾瀬はるかで良かったなと思ってしまう自分がいる。前半部で「不思議ちゃんめんどくせっ」と思っている自分が、反転してからは「良いなぁ~」と思ってましたからね。 まぁつまり、綾瀬はるかで良かったわけです。個人的にですけど・・・。 

〇ジャパニーズホラー 
 不気味さ、グロテスクさの表現は海外仕様には劣るものの、やはり同じ日本人だけに海外産では感じ得ない恐怖を覚えてしまう。この作品の場合は人間の無表情による演出だ。この演出により、普段の生活で日本人の顔・表情を見慣れているだけに、我々の日常生活においてその現象がいかに異常なことであるのか、ということを敏感に感じ取ってしまう。故に不気味さが格段に増し、恐怖を覚えることになる。 
 余談ではあるが、私は日本のホラーが観られない。海外産であれば、何か別の世界と割り切って観られるのだが、やはり日本産は普段の生活と直接にリンクするものがあるだけに、もしかしたら・・・と私の現実世界に干渉してくる。そんなことを改めて感じさせられた。皆さんはどうだろうか? 

〇首長竜 
 こいつは何だったのか。イマイチピンと来なかったのだが、襲ってきたことに関しては何となくわかる。首長竜はモリオという人物に対するコウイチの罪の意識が精神世界で具現化した姿で、一旦は弁解により引くものの、もう一度襲ってくることになる。なんでやねんっと突っ込んでしまうのではなかろうかと思うが、まぁ心の奥底で、深層心理とでも言うのか、自分で許しを請うものの、相手が仮に許してくれたとしても、勝手にこちら側が許してくれないだろうなという意識があったのだろう。綾瀬はるかのこの世界はこういちのどうにでもなるとの発言からもそれが伺えるか。つまり、この精神世界は彼の意識下も無意識下も全て具現化していたと。んなところではないだろうか。 

〇死と眠り 
 最後に彼女が彼に対して起こす奇跡。彼を生き返らせるという御業(正確には死んでなかったか、死の一歩手前)。死という世界からどうやって彼を生き返らせたのか、ふと疑問に思ってしまった。勝手に考えていこう。 

 死は永遠の眠りにつくとも言う。眠りか。彼らは眠ることで共通の精神世界を冒険していた。これは単純にどちらかの精神世界であったのかと。実は生と死の狭間の世界だったのではと。なぜなら言葉のあやではあるが、眠りという共通点から死という世界とリンクしていたのではなかろうかと考えられるからである。そして眠りとは現実世界で行われるものである。つまり、眠りは生と死を結ぶものとしての機能を果たしているのだ。正確には眠りによって作り出される世界が、生と死の世界を結んでいるか。よって彼女が最後、現実世界に彼を呼び戻すという事象は、こういったことを考えると、「ふむふむ」ということになるのである。罪の清算みたいなものも感じたから、生から死へ移行できる世界としての精神世界という演出ではなかったのかなと。

〇最後に
 ラストは彼氏が目覚めてハッピーエンドというより、エンドレスセンシングって感じなのかな。我々が現実世界としているものは、それぞれ個人の世界(観)の衝突であるとかっこつけて言ってみる。故にこの世界は常に誰かの世界を体現していると。そんな世界は誰かに優しく、誰かに厳しい。甘い蜜を吸いたいな~。

2014年10月15日水曜日

大統領の料理人(2012)

大統領の料理人[DVD]

~美味しそう~ 

〇はじめに
 日本だったら配役は泉ピン子かな・・・。

〇こんな話 
 料理人の取材のためにオーストラリアのTVクルーが南極へ。そこで出会った女性料理人。 彼女はかつてフランス大統領の料理人だった。取材するにつれて明らかになる彼女の官邸サクセスストーリー回想。相手の心を掌握するのに言葉なんていらない。料理の味で勝負だ。 

〇おいしいとは
 料理をおいしそうに作る、観せるというのが印象的な映画な気がする。そしてあまり食べる演出がない気がする、食べてもらう対象の、つまり大統領の。しかし唯一とも言える大統領のトリュフをトーストで食べるシーンが堪らなくお腹をすかせる。トリュフなんか食べたこと無いんですけどね・・・。大統領が食べてるところを見られない。それは彼女も同じで、様子を見ていた人物から様子を聞くしかなく、手さぐり感がすごい。だからこそいろいろ試行錯誤し、おいしいというものへの追求ができる。と同時に成果が見えにくい。故に要求も大きくなり、費用も嵩み目の上のたんこぶにされてしまう。大統領もなかなかの通で、気に入られてしまうからまた仕方ない。

 大統領の好き嫌いを誰も教えてくれない。というか知らない。そしておいしいという演出は料理自体の味だけではない。まず食べる前に必ずと言っていいほどの真っ先に入ってくる情報がある。見た目だ。つまり視覚的なもの。いや臭いが先か。料理が出てくる前に漂ってくるもんな。次に後々わかってくるであろう食べてくれる人の好み、過不足や何を必要としているか、生活柄、日々の体調等、専属料理人であれば様々なこと考えなければならない。彼女曰く、官邸という場所での料理は、規則に囚われ人に食べてもらうためという料理が為されていない。味としてはおいしくとも、それは真においしいとは言えない。料理人と食べ手の関係は信頼で結ばれているんだ。そこに美味しいという感謝が生まれる。

〇演出 
 料理の手順を口頭で述べながら調理する。これを癖として容認しろという。変な癖だなと思うかもしれないが、画として黙々と調理している姿を観せられても、鑑賞者は何が何だかわからない。こういう作業をしているんだよ、と調理過程も楽しませる。心もこもっていると。誰か対象への気持ちというか、そんなものもこめられていると。料理人がつまんなそうに作ってもおいしくはないだろうし。 

 南極と官邸での別れ方の対比。感謝されて皆に送り出されるのと、敵前逃亡のような去り方。料理人であるのに作り手・食べ手と何か壁がある官邸と、すぐそこに食べ手の笑顔が広がる南極。どちらの関係性が好ましいのだろうか。一長一短か、場合によりけりか。


〇疑念 
 残飯はどこへ行くのだろう。いくらきれいに、おいしそうに話を作ったところでこの問題はぬぐえない。おいしいものの表現は申し分ない。しかし、おいしいものの代償は? 作る時に出なかったか、ゴミとなるものが。食べた後に出なかったか、ゴミとなる残飯が。そんなことが気になってしまう。大統領の残した演出とか、料理人の大統領に残さず食べさせるといった演出の時だけでもいい。少しは食後の連想を入れて欲しかった。  料理人が食べ手に気を使うのは当然である。
プロセスが、

「料理を作る → 食べてもらう → 評価 → 次の料理へ」であるが、
                          ↑
                  ここにもうワンクッションほしい

評価に関して残飯が出てしまったという結果が、大統領の満足のいく物ではなかったという料理人の腕不足という主人公の戒めだけでなく、他の所にまわれば救われたものがあるかもしれないという責任や、作り手の気持ちや思いをもっと尊重してほしかった。商売においてそんなことは気にするべきでないかもしれない、そして大統領という食べ手がいてこその世界で、そんな些細なことは気にする余裕がなかったのかもしれない。しかしですね、食に関して通であり様々な文句や試行錯誤をしてきた者たちがですよ、食材に関しての責任や感謝をもっと持つべきなのではないでしょうか。いや、十分に表現されていたのかもしれないな。料理人は食べ手に対して美味しい料理を提供するということで、責任や感謝は十分に果たしているわけですからね。そこの試行錯誤を描けばもう十分すぎるほどか。

 まぁ、綺麗ごとや偽善ととられても仕方がないことですしね。この映画の物語上必要の無い事象でもありますし・・・。

〇最後に
 某ジャパン漫画で
「おいしそうなパンがあったらまず最初に食べさせてあげるのは誰だ」
という問いに、
「まずは自分で食べてみる」
というのがあった。「おいしそう」とはまだおいしいとは確定していなくて、人においしいものであるか不確かなものを食べさせるのは失礼だとか何とか。実験台は自分であると。この映画も大統領に食べさせるということで、料理として提供するまでに様々な試行錯誤があり、困難に見舞われる。そんなことからも、料理人と食べ手という関係性をこの映画は見事に表現していたのかなと。
なんか、お腹空いてきたなぁ~。

2014年10月14日火曜日

ノア 約束の舟(2014)

ノア 約束の舟[DVD]


~シャウエッセンの足元にも及ばない~ 

〇はじめに 
 それは創世記ではなく、ソーセージです。いいえ、ウインナーです。あと、アルトバイエルン派の人すみません。 
その程度の知識しか有しない私がこの映画に挑むとこのような感想が生まれます。以下。

〇こんな話
 地球に存在する全ての生命の行く末は、ある一人の信者に託された。彼の名は、狂信者ノア。ある一族の末裔だ。ある時唯一神からのお告げを授かったことを良いことに、方舟の建造を開始する。大洪水による人類の洗浄が迫る中、彼は宗教と言う後ろ盾に自らの行為を正当化し猛威を振るう。ノアは言う「我は、選ばれし者」(ここで脳内でprogress流してください)ぼくらは~♪

・ざっくりと
 「ノア」=「狂信者」

〇人類の繁栄 
 最初の人間とされるアダムとイヴ。彼らはカイン、アベル、セトという三人の息子を授かることになる。なんやかんやあって、カインとセトの子孫が地球で蔓延。 へぇ~。男だけでどうやって子孫を残すのだろうか。アダムとイヴ以外にも人間がいたことになる。それともイヴが・・・。ま、んなことはどうでもいいのでしょう。これはノアのお話なのだから(白目)。

〇最後に
 ノアの方舟話そのままだそうで。いろいろ言われておりますが、知識の無い自分にとっては整合性などどうでも良く、ただただエマ・ワトソンを眺めていた。


 ではでは・・・。

記憶探偵と鍵のかかった少女(2013)

~勘違い~ 

〇はじめに 
 ゲーム・アニメ・漫画における登場人物(主に女性キャラクター)をうらやましく思ったことはありませんか。普段は人見知りなのに、ある特定の人物だけに心を開いてくれるような究極に一途であろう人物を好きになったことはありませんか。そんなあなたにはこの映画がオススメ。目を覚まさせてくれます。 

「あのな~、夢とわかっていても覚めたくない夢があるんだよ!!」 


〇想起する作品 
・「サウンド・オブ・サイレンス」(2001) 
・「インセプション」(2010)
・「サイド・エフェクト」(2013)
・「鑑定士と顔のない依頼人」(2013) 
・・・など 

〇こんな話
 自分だけが彼女の記憶の鍵を開けることができると思っている勘違い主人公と、あなたには私の記憶の鍵を開けるわという思わせぶりな少女が織りなす濃厚サスペンス。

〇騙される心理 
 まず記憶探偵という前提・設定から考えていく。

 記憶探偵という演出により、鑑賞者は序盤にどのような思考がカタチ作られてしまうのか。記憶探偵は相手の記憶に入り込み、事件や経験を追体験することができる。ふと、記憶とは事実をどこまで正確に表現されるのかという疑問が湧くのだが、それはここでは良しとしよう。 対象者の記憶への介入は何を意味するのか。対象者の記憶をのぞき見る上で、その世界に入り込むというような演出が為される。鑑賞者が得られる情報は、その世界では活動はできるが、干渉はできない、というものだ。これは記憶の中に自分という記憶が入り込んでいることを意味する。それはなぜか。仮に自分という記憶ではなく、対象の記憶における自分という存在が記憶に介入したとする。そうすると記憶の改竄という形で、その記憶に干渉することができることになるのだ。しかしそうではない。さらには事件の真相を探るという目的の下活動している記憶探偵がそのようなことを起こしては意味が無い。つまり対象者の記憶世界で存在し続け、記憶を追体験・傍観する存在は、対象者の記憶(の世界のもの)とは別のもの、別の記憶という定義が必要なのだ。記憶捜査を取り仕切ることができる、ということからもそれが伺えよう。
 では、記憶の中に記憶を入れるという思考に陥った上で、謎解きをはじめるとどのような真相に達するのか。読み解く上でのひとつの大きな鍵は、記憶の介入は決して主人公から少女という一方通行ではなく、相互に干渉してしまい、少女の記憶が主人公へと影響を及ぼすのでは、というものである。実際、記憶への介入を行ってから(彼が定義する)現実に謎の男が現れるようになる。これを少女の記憶からのものだと解釈してしまう。こういったことから物語の終着点は、現実と夢の混同による主人公の誇大妄想か、現実と夢の逆転によるものだと解釈することになる。 


 次に主人公が晒される境遇から考えてみる。 

 主人公の男は、ある少女を〇〇〇してくれと依頼を受けるわけである(自分から仕事を求めたようであるが)。まず肝心なのはファースト・インプレッション。彼の質問を予期していたり、サイコパスだかソシオパス診断においての期待する答えをはるかに上回るような分析力と判断力。その辺から彼女の能力における信頼性は高くなり、判断基準において彼女と言う存在に対しての偏見をもたらすことになる。彼女に対して比較対象(周辺人物)があった場合に、能力的に優れている者を、差別・優遇するのは当然のことだろう。
 故に、彼女の総じて「私は被害者である」という証言に対して同情を抱いてしまうのである。そして今までに起きた・起こした事件には、「彼女が無実である」という前提のもと、裏があるという思考に陥ってしまう。これが見事にハマっていると思う。彼女の主人公に対する心理トリックは、我々鑑賞者にも介入してくるからだ。最後の彼女が我々に視線を送ってくるのもそれを意図してのものと考えられる。

・思わせぶり 
 謎を読み解く上で、何か関連するのでは? ヒントになるのでは? という思わせぶりな演出がいたるところに為されている。この演出に何の意味があったのか、最後に疑問を抱いた方は多いのではないだろうか。これが何を意味するのか、私が辿りついた1つの答えを提示させていただきたい。 
これは男性視点での考えであることをはじめに言っておく。 

 皆さんは片思いをした経験はおありだろうか。・・・よし、設定は学生時代にしよう。そして入学したて、転校したてぐらいがより深められるな。どんなはじまりかというと、 
ある程度同級生を把握してきた頃に、今までに特に意識はしていなかった、存在すら知らなかった女性がいるとする。それがある日、何かをきっかけに突然気になりだす。あれ? あんなにかわいい子いたっけ?・・・と。 
 あとは幼馴染ネタね。異性として意識していなかった存在が、少しめかし込んだくらいで恋愛の対象に変わる。・・・もうここまで来ると、漫画やアニメに毒されすぎです(・・・私だよ!)。 
 まぁ、まずはこんな感じで気になりだすわけです。そしてひたすらに一方的に思いを寄せ続けるわけです。何の進展も無くぐだぐだと、思いだけを募らせていく。それがふとある時、何かをきっかけに、想い人が自分に気があるのではないか?、というような希望に変換される。なんでもいいです。 
・よく目が合う ・・・・・・・・・・・・・・・・見すぎです。
・同じ時間のバスや電車に乗る ・・あなたが合わせているのでしょう。
・消しゴムを拾ってくれた ・・・・・・・そりゃね。
・自分にだけ挨拶をしてくれる ・・・んなわけありません。友達いないの?
・自分の机・椅子に座った・・・・・・そこに机・椅子があったからです。
・・・などなど、勝手に思い込む分には要素は盛りだくさん。一回目はただの偶然かもしれないと片付けるかもしれない。しかし、それが二回、三回と続いていくとどうなるのか、
「あの子は自分のことを好きかも知れない」と疑問形だったのが、
            ↓
「あの子は自分のことを好きだ」という断定に変わってしまう、いや、変えてしまうのだ。
客観的に見れば全くと言っていいほどそんな素振りは無い。しかし、自らは勝手な主観で物事を判断し、自らに都合の良いように解釈してしまうのである。恋は盲目・・・的な。

 まとめますと、彼女はただ普段通りの生活をしていただけなのに、男側は勝手にその行動が自分に向けてのものと勘違いしてしまい、自分の都合の良いように解釈してしまうと。簡単に言えばストーカーの形成過程をそのままになぞっていく感じか。

 つまりはこの作品における思わせぶりな演出は、男性視点で
「ある女性がもしかしたら自分を好きなのではないか?」
という思わせぶりのそれと同じだ。何ら意味は無い。思わせぶり、謎解きに関係してくるであろうと勘繰り、意味を持たせているのは自分という主観に過ぎないのである。まぁいますけどね、意図した行動で男をたぶらかす女の人。この作品のヒロインもたぶらかすほうですし・・・。敢えて学生時代という設定にしたことで墓穴を掘ってしまった。

 意図した行動である方も考えていくか。彼女は男性を虜にする方法に長けていたわけであるが、彼女は何も探偵のことを本気で好きだったわけではない。自らを助けるために、彼を陥れたに過ぎない。先ほども書いた、彼女がどういう人物であるかという前提を意識してしまうと、同情から彼女を疑うという行為よりも信じるという行為が上回ってしまうために、彼女のアプローチを戸惑いながらも受け止めてしまう。そうなったら彼女の思うつぼ。彼女は主人公に対して、勝手に意味を持たせるような表現をさりげなく織り交ぜていけば、事は勝手に彼が大きくしてくれる。彼女にしてみれば、こいつちょっろw・・・となるわけです。彼女の良いように操られちゃうわけです。
 思わせぶりということに関しては、意図の有無に関わらず同じなわけです。意図してか、意図せずかの行動は勝手に意味を見出すものがいれば、その者に都合の良いような意味が付加されていく。それは第三者視点では意味の無いものであるとわかるも、当事者となってはそうは言っていられない。気になって気になって、確かめられずにはいられない。「好きだ~!!」と爆発する日に向けて、カウントダウンは進んでいく。さて、どうなることやら・・・。

〇事件へのアプローチ
 ある事件に対する人間の主観によるアプローチとして、思わせぶりと言う観点で、片思いという少し偏った事象で説明させていただいたが、ここではもう少し真面目にお話を進めていきたい。

最後に記憶探偵から語られる言葉ではあるが、
「この記憶による証言は裁判において信用に足るべきものとしては扱われない」
とのこと。ここで記憶と言う主観が危険性を孕んでいることを再確認することになる。記憶はどこまで事実を忠実に再現しているのかと。
 この作品において語られてきた、彼女を擁護するかのような記憶探偵の捜査は、このオとし方により、完全に彼女が主人公をハメたという見解に行きつかせるようになっている。彼女が悪いと。しかしこれは記憶探偵の彼女に関わった時間の、主人公の主観という記憶に過ぎなかった。ここで疑うべきは主人公の自覚の無い記憶の改竄である。
 この作品はリアルタイムで事件が進行していく様を観せられていたのではなく、ある程度事件から時間が経ち、主人公が彼女が犯人であるという見解に達した上での、事件当時の主人公の主観的記憶の解釈を観せられていたということになる。主人公にしてみれば、彼女にハメられたという状況であるが、我々鑑賞者にしてみれば、彼女が彼をハメたのだろうかという疑問の前に、主人公が我々をハメているのではないかということを疑うべきなのである。極論を言ってしまえば、この作品内で起きた事件(ミステリー要素)はまったく謎解きをする必要がない。ある真相に達したところでそれは、(無自覚に)彼にその真相に辿りつくように操作されている危険性があるからだ。

 まとめると、この作品で考えるべきテーマ
~ある事件に対して、一方的な視点(主観)でアプローチしてみたら?~
・・・ということになる

〇最後に 
 はじめににも書きましたが、この映画は夢に浸りすぎた人を見事に現実に引きずり戻す映画です。現実に夢のような、自分だけに心を開いてくれる美しき女性がいたとしましょう。まずは鏡を見て自分の顔を確認してください。その人に相応する容姿ですか。そしてスペックは伴っていますか。 仮にツンデレ属性がいたとしましょう。あなたに見えているのはツンの部分だけです。どこに好きになる要素があるのでしょうか。人見知りな女性がいたら・・・、あなたとの接点はきっとできません。避けられますから・・・。我々がそういった夢の世界の住人を好きになるのは、外面と内面の両方を観察できているからです。その差、つまりギャップに萌えるのです。しかし、現実に我々に見えているのは外面に過ぎません。残念ながらギャップ萌えなど存在しないのです。
 率直に言いましょう。いくら空想世界に夢を描いたところで、あなたは現実世界ではあなたの夢見るような主人公では決してありません。つまり夢の世界のようにうまくはいかないのです。実際にそういったシチュエーションに陥ったとしたら、この映画のようになります。・・・といったように警鐘を鳴らしてくれているのです。お前がそんな幸運に巡り合うわけが無ぇ。恩恵に与る要素がお前のどこにある?・・・と。寝言は寝て言え。夢は寝て見ろ。現実に夢を持ち込むな。仮に現実に事が起こったら何か裏がある。 
・・・全てを疑え!!

・・・・・・もう、私のHPが・・・

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...