2015年12月27日日曜日

野火(2014)

~戦争~ 

〇はじめに 
 「わからない」「伝わってこない」 
こんなレビューを見かけた。当にこれだろう、この作品の全ては。何と戦っているのか、何のために戦っているのか、どこにいるのか、どこを目指しているのか。戦況、情勢、因果関係、わかるわけがない、伝わってくるわけがない。彼らにもわかっていないのだから。そんな中、その結果、どんな状況に行きついたのか。これを受け止めるべきなのだろう。そこに至るまで、別にうまく観せる必要なんてない、観てやる必要なんてない。しかし惨く汚い目を背けたくなる戦争という事実を、見つめ直さなければならない。 


〇戦争 
 明確な敵が描かれない。その上で、直接的な人間の死をまざまざと映し出す。戦争映画における1つの目標(終わり)。敵の殲滅による戦争の一時的な収束。この希望やはっきりしているものが何もない中で見せられる凄惨な光景に何を見出すのか。この状況に陥った原因は、誰が悪いのか、誰にその怒りや憎しみをぶつければいいのか、どうしたら救われるのか。敵と味方との命を天秤にかけていた。今まではそんな思いで戦争映画を観てきた。いや観せられていたんだ。 

最近鑑賞した戦争映画で・・・ 
 「アメリカン・スナイパー」も敵は何者だったのかというテーマを含んでいた。しかし、その時点での倒すべき敵を描いていた。いやそんな描写があってこその映画であることは重々に承知している。それを踏まえて何者を殺していたのかというのを想わせる作品なのだから。
 「日本の一番長い日」は原田監督ならではであろうが、人間ドラマに焦点を当て、泥臭さを一切に排除し、見られる(見やすい)作品にしてしまっていた。いやそこがすばらしいところなのだが。 
 どちらも素晴らしい作品であることには変わりないのだが、どちらも戦争という事実より、戦後という結果から浮き彫りになった何かしらを見つめる作品であるということが、「野火」を観て想うところとなった。 

 戦争映画でやられがちなのが、戦後ならではの、客観的に事実や結果を眺めたことによる、因果関係を明確にした上での反戦の価値観を含ませること。そんな作品が多い中、この盲目的な戦況にいる兵士を描く「野火」。観ていられない、見たくない。惨い、グロい。衝撃だった。ここまでやるのかと。いや現実にもっと悲惨だったのだろう。 

 人間の尊厳を冒してまで、我々はいったい何と戦おうとしていたのか、戦おうとしているのか・・・ 


〇野火
 火は何の象徴だったのか。


 たき火にしろ、狼煙による合図にしろ意図的に起こされた火。これは人の存在を意味するのか。そして生では食べられない芋を蒸かす役目もある。緊張や不安、混乱をもたらすものであり、しかし希望でもある。

 火を求め、マッチを求め、原住民を殺してしまう。しかし火を起こす技術があれば・・・
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 国が違う、言葉が違うという緊張感もある。身近で言うなら、日本という日本語が話される国においてホームであるにも関わらず、英語で話しかけられただけでテンパってしまう。そんな人が多いのではなかろうか。
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 爆撃や病院の火事、手榴弾も火の位置づけなんだろうかね。

 最後彼は何を見ていたのだろうか。



 マイク・タイソンを育てたカス・ダマト氏の名言を最近かじったので取り上げてみる。

以下引用
 「恐怖心というのは人生の一番の友人であると同時に敵でもある。ちょうど火のようなものだ。火は上手に扱えば、冬には身を暖めてくれるし、腹が空いた時には料理を手助けしてくれる。暗闇では明かりともなり、エネルギーになる。だが、一旦コントロールを失うと、火傷をするし、死んでしまうかもしれない。もし、恐怖心をコントロールできれば芝生にやって来る鹿のように用心深くなることができる。」
引用終わり

 この言葉がしっくり来たんだ。



〇芋 
 自然の異様に明るい色と、人間の薄汚い色の対比が目についた。森の緑と兵服の緑など。

 芋が何かを暗示していたのか。 土にまみれた芋を食す兵士たち。そんな芋は土の中でなっているものの、地上では青々とした綺麗な葉を茂らせる。土にまみれた芋が彼らだとしたら、地上の葉は何者なのか。それを掘り返すということにもまた意味が含まれていたのか。


〇戦後世代
 おそらく彼もおかしくなったのだろう。

 少ない食糧を仲間内で争いはじめる。食糧が無くなったらどこへ行きつくのか。そして餓死、野垂れ死に、自決といくつかの末路を見せていた。

 最後妻が彼の食事の前の“何か”を眺めるシーンがある。それは全容が移されることなく、何の行いなのか明かされることなく、妻の目線で後ろから映されている。これはいったい何を意味していたのだろうか。

 戦争を経験した者と経験していない者の差。これから世界を支えていくのは誰なのか。同じ過ちを起こそうとはしていないだろうか。


〇最後に
 とある劇場の舞台挨拶にて、塚本監督のお話を聴くことができた。印象に残ったのは、戦争で生き残った人たちは少なからず何かしらをしているということ。被害者の観点から語ることは多いが、加害者の観点から語られることは少ないと。伝えられていない事実があると。

 この作品に出会うまでに知らなかった、見ようとしていなかった事実があった。まだまだ知らない、明かされていない事実がある。そんな私のような人間がいずれ日本を、世界を覆い尽くす。そこに危機感を覚えるとともに、それは逆に幸せなことかもしれないとも感じてしまう。しかし人は何かを忘れた時、それを再び思い出さなければいけなくなる。





2015年12月26日土曜日

FOUJITA(2015)


~芸術活動~


〇はじめに
 そういえば「ギャラリー・フェイク」なんて作品があったな~。そのくらいの知識の人間です。


〇想起する作品
 「魔女の宅急便」(1989)


〇こんな話
 藤田嗣治の半生。


〇印象主義
 絵画を鑑賞し、心を打たれることはしばしばある。しかし藤田のパリにおける解説を聞いていると、所詮印象主義など「ぽさ」だろと思ってしまう自分がいる。印象という単語に引っ張られる。アーティストを批難しているわけではなく、評価する側のあやふやさというか。

 芸術というモノの評価。この正当性がどうも理解できない。

 評価されるから売れるのか? 売れているからと評価されるのか?

 どちらが先行するのか。流行だと流されてはいまいかと。


 ユキに対して、絵より綺麗だと口説き文句なのかもしれないが本人に囁いている件があったような・・・

 -わかる奴にはわかる-

 -わからない奴にはわからない-

 これで済ませても良い。しかしここを繋ぐ存在ってのが芸術分野にはまたいましてね。


 これがパリにおける活動と、日本における軍での活動の比較だったのか・・・。ここにも注目すべきなのか・・・・ わからん。

 最初の藤田の運ばれていく画を見て口論となる夫婦。記者?の質問に答える藤田と、それを理解しようと躍起になる者たち。彼を、彼の作品を理解しようとする者の存在。藤田が主体だったわけか。

 しかし日本にて軍での芸術活動。〇〇を描いてくれと。芸術界も欧州から脱却せねばと。大東亜どうのこうの・・・・ 描き手ではないわけだ、主体が。





〇FOUJITA  
 パリのフリマ的な場所で、物のカタチに関して言及している場面があった。日本での供出でひたすらに物のカタチを歪められていた、壊されていた。その様を意味深に眺める藤田が何とも言えない。

 酒場で各国の人間が入り混じっていた。そしてカクテル。各国の酒をシェイクシェイクしていた。それが戦争では・・・ってな話もあるのだろうか。

 西洋画を堪能させてからの日本画を観せたのは、見る者が見れば後々の展開に活きていたのだろうか・・・

 狐の話。いったい誰の話なのかと。話される者によって変化を遂げてきた話。主体が変わっていくと。この「FOUJITA」という作品は、どのように眺めるべきなのか。



〇最後に
 芸術から、藤田という存在から、戦争を眺める作品へと姿が変わっていった作品だった。しかし何ともさっぱりな作品だった。

 ではでは・・・

2015年12月25日金曜日

ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲(ラプソディ)(2014)


~ホモ・サピエンス~


〇はじめに
 はじめの牛の解体ショー(調査)からの、生きた牛が連れ込まれて行く画はなかなかにショッキング。人間は彼らの命を食べるために育て、食べるために摘んでいる。

 そして犬は・・・


〇想起する作品
 「猿の惑星」シリーズ
 「犬に名前をつける日」(2015)


〇こんな話
 動物たちの反乱。


 人間という存在をどこに位置づけるか。頂点捕食者なのか、調整者なのか。食物連鎖の中なのか外なのか。


 人間社会は人間が快適な暮らしを築くために、全て人間の都合の良いように作られている。さらには一般的とされる平均的な人間が対象とされている、としておこうか。今でこそお年寄りに優しい、子育て云々と声が上がって来はしているが。

 そんな世界に犬が、飼い犬が、ハーゲンが放り出される。

 飼い主のいない犬はどのように扱われるのか。世間の野良犬への目、態度、保護業者、闘犬・・・

 調教の際、まだ心があると。そんな犬たちを強制的に鍛え上げ、闘争本能を研ぎ澄まさせ、怒りを誘発させる。

 いったいその怒りはどこに向いているのか。解き放たれたら、どこにぶつけられるのか。




 主人公は子どもである。少女である。それ故に力を持たない。この無力さを感じさせてからの、彼女の大人への見栄。自暴自棄もあったのかもしれない。悪い友達と付き合い、パーティに行き、酒にたばこ、薬物にまで手を出そうとする。私はもう子どもじゃないと。大人の世界に足を踏み入れる。未知の世界に足を踏み入れる。

 そこから父との和解。これがハーゲンとも掛かっていたのだろう。犬と人間との和解の兆しを見せたところまで。

 父と娘の和解。子に対する見方を、考え方を改めたと。

 では犬と人間の関係は? 今までの関係で良いのか?



 全員助けてやりたい。彼らに何の罪があるのか。自分勝手を押し通し彼らを蔑ろにしてきたのは我々ではないか。

 しかしどのシリーズかは忘れたが「猿の惑星」でも語られていることがある。皮肉であるわけだが。人間は腰から下の文化が秀でていると。どんどん数を増やしていく。

 それが犬たちにも言えるのだ。制御しなかったら。彼らを制御する存在が必要なんだ。
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 人工的に繁殖させている分、食物連鎖という自浄作用が間に合わない。いやそれすらも渦の中か・・・ようわからん。
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 しかしそんな責任など、モラルなど・・・

 人間にその資格があるのかと。ただ命を弄んでいるだけではないかと。


 
〇歩み寄り
 芸術。人間のための、人間による娯楽的要素。この作品では音楽。

 練習の場において、ハーゲンは排除された。犬は邪魔だと。確かに音を扱う繊細なものであろう。少しの物音にも気を遣う。しかしそれよりも、犬だからという、犬には理解できないだろというニュアンスを含んでいたように思う。

 そんな音楽が最後、1つの希望を見せる。ここに、人は人間よがりしすぎているのではなかろうかと、問題が投げ掛けられている。我々の心に、一歩踏み込んでくる。



 トムとジェリーを犬たちが鑑賞しているシーンがある。トムがピアノを演奏しているのだ。人間以外の動物が芸術に親しんでいる。

 猫と鼠を擬人化した風刺作品。これが何ともジワジワと利いてくる。犬に対しての猫でもあったのだろう。



◯最後に
 正直物足りなくあった。しかしその感情が、私に偏見があることを気付かせてもくれる。

 人間はまず言葉が通じるか否かでその人を判断する。そして次に自分の意見を通せるかどうかで。エゴを優先するのである。

 ではそもそもその土俵に乗って来ない対象はどう扱われるのか。偏見が入るのである。同じ人種、いや人間ではないと。

 合理主義が罷り通る今のご時世に人の心は見えにくい。見るのが億劫なんだ。目を向けることさえ面倒臭い。そもそもそんなアンテナを持っていない連中の方が多いかもしれない。

 そんな人間たちに犬を気遣ってやれるはずもない。

 この作品が(私を含めた)そんな者たちの警鐘を鳴らしてくれればと思う。

 ではでは・・・


わたしはマララ(2015)

字幕翻訳:栗原とみ子


~教育~


〇はじめに
 世間で大人とされている方々、そして特に教育に携わる方々に観てほしい作品。

〇こんな話
 活動家マララの半生。

〇マララ
 原題「He Named Me Malala」

 彼女の活動は、人生は、誰が為のものかと。

 ここの線引きが難しいところ。世界的な活動家でありながら、恋愛ネタに時折気恥かしさを見せる彼女が映し出される。普通の女の子と何ら変わらない。彼女という存在を通して見えてくるもの。彼女がどう見え、彼女のことをどう感じるのか。

 父親が意図的に彼女をマララと名付けたのだとか。話を追って行くごとに、どこか彼女に子どもであるからと主義・主張を代弁させているのではという感情を抱いてしまう。彼女に半ば強制的に教えを説いているのではないか。偏った思想を植え付けているのではないか。

 この構図が、実は批判している連中のやり方と変わらないのではないかとも思えてしまう。教育を、情報を制限し従順にさせる。反抗する力を、術を与えない。他の選択肢を与えない。

 下心が決して無かったとは言えないようだ。彼女が撃たれたことに自責の念を抱く父親の姿があった。

 しかし最後のマララ自身の言葉に尽きるのだろう。私が選んだ人生であると。彼らが否定する教育を受け、教育の力を訴えている彼女自身の言葉だからこそ。ここが違いなのだろう。




〇主張
 教育が世界を変える。

 この作品を観て日本の教育を想う自分がいた。教育が世界を変えるという可能性が秘められているだろうかと。どこか教育の本質を忘れてはいないだろうかと。

 自らの主義・主張を、唱えられる人間がどれだけいるだろうか。周りに流されず、保てる人間がどれだけいるのだろうか。そもそも持てる・抱ける人間がどれだけいるだろうか。



〇最後に
 彼女のスピーチを聴いて思う。なぜどこぞやの政治家の(日本語の)スピーチは心に響いてこないのだろうかと。文法なのか、発音なのか、単にカリスマ性の問題なのか・・・ 自分の言葉、自らが発する言葉では無いからなのだろうな・・・

 ではでは・・・




2015年12月24日木曜日

岸辺の旅(2015)

~記憶~

〇はじめに  
 まぁ~、合わなかった。こちらが眠りにつきそうだった・・・  

 注、夫婦という関係に特に価値を見出していない者のレビューどす。 


〇想起する作品 
 「夫婦フーフー日記」(2015)


〇ホラー 
 時折ホラー要素が入る。神出鬼没な夫。新聞屋のおじちゃんの二回に上がって行くときの監視カメラ視点は何なのさ。そして生活感のあった場所がいきなり廃墟と化す。何で牛乳届いてんねん。中華調理屋の奥さんの顔が正直不気味だったのは私だけではないはず。この人こそが死者だと思ってしまった。柄本明出てる~、もう不気味ね。夫が死者だって話で、柄本明が死者なのかと思ったという終盤に来て何も設定を理解していない私。 

 このホラー要素が、妻と夫との交流を追う中で勘違いして行きそうになる関係を、生と死とがただの馴れ合いにならぬよう、死の異質感、生者が死に抱く感情としてうまく挿みこんでいたように思う。 


 光と宇宙の話はようわからんかった・・・ 光と闇、有と無、この辺が生と死との関連だったのか。そして性と結びつける。生者と死者の交わり。


〇記憶
 ~人はいつ死ぬのか?~

 私の敬愛するDr.ヒルルクが1つの答えを提示した。人に忘れられた時だと。


 この作品は人の記憶がものに根付く、根付いている様を描き出している。宿るってな言葉の方がしっくり来るかな。人の中に、物の中に、その人間が息づいている。場所もあるな。

 楽器は身体の一部だと。自分の音を聴きなさいと。この辺も関連しているのか。音楽と記憶の結びつきなんかは身近なのではなかろうか。

 料理屋もあったな。味や匂いにも懐かしさを感じることがある。手料理、おふくろの味を求めるものも少なくないだろう。


 妻の知らない夫の一面をこのカタチで辿って行く。さらにその関わった人間たちからも補完され、逆に補完していく。これがどう感じるかではなかろうか、この作品を楽しめるか否かは・・・。


〇疑念 
 仮に幽霊(この辺の定義がようわからんが)という、死した人間がこの世に現れることがあったとして・・・

 出てくる姿は何で決まるのか??

 死した時の姿か? それともその対象を観測する人間の願望(記憶)か?

 
 息使いによる、お腹の動きを観せたのにも意味があったのか・・・ 激しい運動により、息が荒くなる場面も・・・

 時折時間が、場面が飛ぶ。そして目覚める画へ。死ぬことを眠りにつくとも言う。この目覚めがあることが、彼女は生者であるという位置づけだったのか。


〇余談  
 蒼井優堪んね~なぁ~おい、・・・オイ!!。 魔女、悪女の貌。こっちがドキッとしたわ。ホラーテイストにしてたのは、ここら辺と吊り橋効果とってなところで掛かってたのかもしれんな~・・・・



〇最後に
 これは・・・・、ホラー映画だ。

 ではでは・・・


2015年12月21日月曜日

orange-オレンジ-(2015)


~パラドクス~



〇はじめに
 凝ったSF好き、特にタイムパラドクスに興奮を覚える人間は観ない方が良い。B級SF映画より話が練れてない。しかし友情ドラマがだ~い好きという方。どうぞ観てください。



 人によるだろうが・・・

 これは土屋太鳳の役じゃない。話し方、口調に難ありではないだろうか。せめて手紙におけるトーンと、現在におけるやり取りのトーンは変えた方が良い。未来における彼女は1つの帰結を迎えており、全てを知っているという体で語り始める。それに対して手紙を読む側、現在を変えていこうという体の人間が同じ口調ではまるで意味が無い。いや意味合いが異なってくる。翔を助けたいという気持ちよりも、自分が翔とつながりたいという下心あざとさの方が際立ってしまうんだ。

 おそらくぶりっ子と、内気(でいいのかな?)な人間を勘違いしている。違いをわかっていない。おとなしめの声を作り、たどたどしく話せば良いってもんではない。見抜く人はすぐ見抜くよ、コレ。



〇想起する作品
 「過去からの日記」
  ・・・世にも奇妙な物語で鑑賞。
 「栞の恋」
  ・・・上に同じ。
 「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」(2011)
 「桐島、部活やめるってよ」(2012)
 「だいじょうぶ3組」(2013)
 「幻肢」(2014)


〇こんな話
 10年前の私に手紙を書く。今の旦那にも、生活にも別に不満は無い。子宝にも恵まれた。でも、やっぱり翔が好き。翔と・・・、合体したい。

 こんな下心を感じる作品。もっとピュアな目で見てください。私のような下衆い方お断り。


 
〇パラドクス
 現在を、未来を変えようと躍起になる彼らと、友情パートを描きたいが故に未来が先に立ってしまうパラドクスが何とも観ていられない。

 しかしやりたいことはわかる。友情・恋愛パートの力の入れようは伝わる。リレーの件は周りが手加減しているのが見てとれながらも感動してしまったくらいだ。バトンを繋ぐのである。走った者たちから、走ってきた者たちから、これから走る者へと。過去と未来を繋ぐのである。

 
・現在パート
 10年後の私から手紙が送られてくるという設定。これはすんなり受け入れた。条件は何なんだ? 場所なのか?モノなのか? おもしろいじゃないかと。しかし手紙を読み始めた途端、SFネタの崩壊がはじまったんだ。

 皆さんは、人の名前で 「翔」 と書かれていたら何と読むだろうか? 会ったことも無い人の名前でだ。

 疑問に思った方はどれぐらいいるのだろうか? 

 菜穂は何の迷いも無く「かける」と読み進めるのである。全国の「しょう」君を敵にまわしたのである。

 ここはボかして良かった。苗字だけ読んで、翔の自己紹介が入るとかで。いっそ読まなくてよかった。これのおかげで、先ほどの変わらない口調とも相まって、現在と未来と、どちら側の目線なのかもわからなくなるんだ。

 仮に現在目線だったとして、「かける」と読めたことで、手紙を書いた私が存在する10年後の未来と現在とが時間軸として繋がったともとれる。しかしそんなことは考えていなかったのだろう。一切触れられることは無かった。

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 これを意識させていますよって感じを入れるならば・・・

 ラストはね。また手紙が届くとかにしておけば良いんですよ。え?翔の命を助けられたのに未来を変えられなかったの?と。逆もあるでしょ。翔は今も生きていますという手紙かもしれない。不思議な現象を目の当たりにした彼らだ。同じことをしようとしても何ら不思議ではない。ハッピーエンドにもバッドエンドにもとれる。さらには翔の死に方が、時間が変わっただけである。さらにさらに翔ではない人間が死んでしまう。ってな具合に様々な分岐ルートも妄想できるでしょと。パラレルネタがどんどん広がるでないの。SF映画だったらこうしたのだろう。

 手紙を「バック・トゥー・ザ・フューチャー」における写真みたいな設定にしておけば・・・
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 未来からの手紙により現在を変えていこうと躍起になる主人公と、過去を変えたい、後悔を消したいとする翔の人物対比はうまい。原作の賜物なのか。しかし判断と行動がまるで伴っていないことにさらなる疑念を抱かざるを得ない。

 まず未来からの手紙を信用する要素が薄すぎる。ま~それは最初の「翔」読みで私は勝手に補ったわけだが。それなのにどんどん信用を深めていく。にも関わらず対策が曖昧すぎる。全部中途半端なんだ。

 一番はやはり最後だろう。翔死亡ルートは確定しているわけで。その状況で、日時が確定している。場所が確定している。あなたはどんな対処を、対策をとりますか。その日にその場所に行かせないというのが一番の策ではないのですか。待ち合わせて・・・ 24時間監視体制でも良いくらいだろう。夜通しパーティやってろよと。
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 携帯ガンガンつことるし。プールで花火の件台無しよゲラゲラ。結局下心。菜穂の計算高さが際立ってしまう。
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 この行動がルートが分岐したことによる彼らの迷いだったのかもしれない。でも本気で救おうと決意したんだよね。念には念を入れようよ・・・

 道の真ん中で最後悠長に抱き合ってるし。全員死亡ルートあると不安になったではないか。



・未来パート  
 現在ではなく未来の彼ら側にも言えることなんですよ。

 10年後の彼らの現在は結果的には変えられない。後悔は消えないというパラレルワールドネタで解消しているととってもいい。ただの試みだったと。彼らに成功したか否かはわからないわけで。話半分、冗談だったと・・・

 しかし本当に過去を変えたかったのなら。そんな本気な設定だったでしょと。

 ここでの疑問。

 最大の分岐はどこだったのか?

 転校初日?のお誘いに最初重きを置いていた。しかし最終的には翔を死なせないでくれと。翔を死なせない事が最大の分岐だった。これを防ぐためにひたすらに情報を散りばめていった。ラストがそのピークに達するように。

 しかしだ。一番翔を死に近づけた事象は何だったのかを思い出して欲しい。転校初日における分岐でしょ。母親の自殺でしょ。なぜここをピークに持っていこうとしないのか。高校1年目から過去と連絡取っときゃいいじゃん。11年前の私へ、で良いじゃん。

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 それかですよ。実は11年前から手紙は届いていて、それに恐怖しトラウマがあったとするとかはどうだ。あれ、これデジャヴだと。どっかで聞いたこと、読んだことあると。そうだ封印したあの手紙だと思い出す件を入れてもおもしろそう。普通捨てるか。捨ててても良いんですよ。欠落した部分があるというスリルにも繋がるわけで。

 「恐怖新聞」ぽいな。

 定期的に送られてくる理由も明確ではなかった。あれ?届いたのって結局一通だったんでしたっけ・・・? 
 定期的に送られてくるとして、順番通りに届かないという設定でもおもしろいではないか。並べ替え、パズル要素を取り入れる。先ほどのホラー要素も活きてくる。
・・・日記をつけてる女子だからな。日付がそうはさせないか。

 でもでもでもでも。月日は書いてあるとして、年までは中々書きませんよね。頭行きませんよね。年を跨いでいれば、日付だけで揃えていたとすれば、パズル要素が活きる活きる。

 あれ? こんな内容どっかで見聞きしたな。 何の作品だったか・・・?

 あれだ、「この彼女はフィクションです」だ。渡辺静先生の。


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 私がこの作品を鑑賞して導き出した、10年後の彼らがすべきことだったであろう最短・最適ルート。

 彼らにとって一番の得策は、翔と関わらない、だったのだ。11年前からアプローチをはじめ、それを徹底していれば翔と接点を作らないことは可能だった。そうすれば翔の母親は自殺をせず、最大のダメージを与えなくて済んだのだ。しかし彼らはなぜか翔と接点を作り、いっぱい思い出を作ろうとした。あわよくばくっつこうとするとある人間のエゴもはたらいていた。
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 パラレルワールドネタで未来の彼らの後悔は消えないとなっていた。それはつまり、思い出もまた消えないということである。花火に必死こいていた理由もさっぱりだったんだ。未来の彼らは全ての思い出づくりを失敗していたのか??
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 翔に関しては母親の心配の種でもあったのでね。友達とうまくいっていないってな過去もあったわけで。この流れである必要はあったわけだが。翔の救いにもなるわけですし・・・

 それならば尚更もっと早くからアプローチしてればね。母親死なない翔と愉快な仲間たち総じて超ハッピーエンドが辿れたわけで。ま~そうなるとまた次の項目における「後悔」ってなところがパッパラパ~になるからアレなんだけど。


 これらを踏まえて究極の曲解ね。転校初日の分岐。これが翔に大ダメージを与えるわけだが、菜穂はこれを防ぐ気はさらさら無かった。なぜなら、これがひたすらに翔と接近するきっかけになるからである。それを餌に慰めてあげていけばと。さらには失敗した自分からのアドバイスもある。勝ち確である。人生イージーモード。翔、ゲットだぜ!


 どうだろう。見方が変わってきた方がいらっしゃらないだろうか。

 そうです。私は究極にひねくれています。



〇後悔  
 翔の死を防ぐということの重み。この作品では後悔という言葉を使っていた。後悔を消してくれと。

 パラレルワールドネタで未来の彼らの後悔は消えないとしたのはうまい。背負って行くものだと。しかし現在。ただ失敗を恐れている人間がビクビク生きているととれなくもない。背負うべき罪やその重みを避けて通る。それは果たしてどんな人生だ。経験(値)の積み重ねが無い人間になるのではないのか。
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 ヒトカゲのままでカスミが倒せますか? 他のモンスターを選びましたか。そうですかバタフリーを育てましたか。それはタケシでしたか。
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 もっと現在の彼らに、この辺りの苦悶を表現してほしかった。まずはその手紙を信用していいのかというところ。次に未来からの指示を実行してのその影響や余波。そしてその誤差による彼らの分岐選択の葛藤や衝突。もっとできたろうに・・・

  後悔を消してくれ、後悔をしない・つくらない、このスタンスをもっと綿密に練ってほしかった。

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 そもそも序盤の見え方として、手紙の内容が役者の演技のフォローにしかなってないという私の主観が先に立ってしまったことが邪魔してるのもあるんですよね。
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 ま~、もう手紙が届かないというところが、これからは現在の彼ら自身で選択をしていかねばならないと、未知の世界に挑んでいかねばならないと、ってなカタチにもなるわけだがね・・・



・手紙
 
 未来側は私たちのようにはなるなと、過去の自分たちの後悔を消してやろうとする。優しさからだろう。しかし現在から見たら? その情報の信頼性が高かったら? どんな気持ちが沸き起こるのか。「バック・トゥー・ザ・フューチャーPART2」を観ていませんか? 未来の情報がたんまりあったら。何に使おうとするのか。エゴを優先し始めるのである。邪な感情が出現するのである。ぐへへ。

 おそらくこれの抑制として原作には手紙という存在が大きくあったのではないだろうか。映画の中にも兆しはあった。手紙が届いているのは1人ではないと。未来の改変が特定の個人だけの利益ではないと。5人+翔、全員の総意であると。

 ま~そこまでやったとしても、翔にあそこまで固執する意味が理解できないが。友情や恋愛ものに理屈なんて持ち出すことがそもそも馬鹿げてたりするんですがね。この作品はどうもしっくり来ない。別のところで粗が目立ってしまう。



・参照映画
 「ファイナル・デスティネーション」シリーズ
 「バック・トゥー・ザ・フューチャー」シリーズ
 「12モンキーズ」(1995)
 「タイムシーカー(1999)
 「タイムマシン」(2002)
 「プライマー」(2004)
 「デジャヴ」(2006)
 「LOOPER」(2012)
 「ミッション:8ミニッツ」(2011) 
 「プリデスティネーション」(2014)

 ここら辺が見やすいんじゃないでしょうか・・・


〇余談
 山崎紘菜えがったな~。TOHOシネマズ近くに無いからな~・・・。上映前に毎度見られるのはうらやましいなぁ~。



〇最後に
 オレンジって何だったんですかね・・・ 何か言ってましたっけ? 花言葉的な?

 はじめにも書いたが、友情ドラマとしては中々に熱いモノを感じる。しかしSFネタを気にしだすと・・・。 何を期待されるかはあなた次第。

 長くなってしまった。これにて失礼。

 ではでは・・・

2015年12月17日木曜日

007 スカイフォール(2012)

007 スカイフォール[DVD]


~ 一言 ~



「M、お疲れ」

 007ファンの方には申し訳ないが、この一言でこの作品を語り終え満足してしまう自分がいる。



 待ってろ、スペクター

 ではでは・・・

 

犬に名前をつける日(2015)

~生命~


〇はじめに
 ドラマ仕立てにしているところが、作品としてどこかとってつけたようで馴染まない。しかしこれは人間目線からという敢えての撮り方なのだろう。

〇想起する作品
 「ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲(ラプソディ)」(2014)


〇こんな話
 飼い主のいない動物たちはどうなるのかという現実。


〇生命
 飼い主のいない犬や猫は生きていることを許されない。保護されたものたちは新たな飼い主を見つけるか、さもなくば処分されるかしかない。これが今の日本の現実。

 生き残れるものたちは、ペットに向き不向きかと、人間に従順なものだけが選ばれている。ここに疑問を抱かなくもない。しかし保護活動に携わる方の、助けられる命、助けられた命を精一杯に守ろうとする姿に胸を打たれる。救えない命がある。ならば救える命を終生尊重してやろうと。


 「ペット」とは何なのか?

 売り買いする物か。単に自分を飾り立てる物か。替えが利く物か。

 人間の都合に、わがままに付き合わされたあげく、死を余儀なくされる。自分を含め、そんな無知で生命を軽んじる姿勢に腹が立つ。


 本来ペットを商売として成立させるために、お金でやりとりすることは、その命を終生大切にする、尊重するという買い手側の代償であり保障だったのではないのか。それが何を勘違いしたのか、替えの利くものという認識にまで堕ちてしまった。商売ありきになってしまった。買い手側、売り手側のモラルの低下が原因なのだろう。


〇最後に
 辛いな、こんな現実があるんだと。やるせない。まずは知ることだな。この作品をその一歩とできれば。

 ではでは・・・



2015年12月16日水曜日

007/慰めの報酬(2008)

007/慰めの報酬[DVD]


~ボンド~


 この作品を鑑賞中にふと思い出したことがある。大分前の記憶なのでうろ覚えではあるが。

 「ザ・シンプソンズ」というシリーズものの作品があるのだが、そのお父さん役が何でだかは忘れたがイギリスを褒めちぎる際に、このジェームズ・ボンドを挙げたんだ。それがひたすらにおもしろかったのを全く作品の内容とは関係ないが思い出し笑ってしまった。

 イギリスは良いボンドを作りますよねと。ジェームズ・ボンド。


 これはディスリだったんかな~。アメリカ、イギリスならではの??


 終わり・・・

 スカイフォール行きまっしょい

 ではでは・・・

007/カジノ・ロワイヤル(2006)

007/カジノ・ロワイヤル[DVD]


~スペクターへの道~

〇はじめに
 スペクターまでがんばる。

〇こんな話
 カジノでロワイヤル。


〇ボンドガール
 エヴァ・グリーン出てるんか~

 それでは自己満足シリ~ズ






















 この目力的なものが堪らんのですよね~、眼力。



 これが一番感じ出てるかな~、遠目だけど。























〇最後に
 慰めの報酬へ・・・

 ではでは・・・

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...