〇はじめに
これは人類の「はは」を観る映画。いや、「ちち」を観る映画だ!!
〇想起する作品
・「トランセンデンス」(2014)
機械に人格(感情)をダウンロードしたらというテーマで描いたが、これはどちらか
というと人間が機械(人外)に近づいていくお話。
・「リミットレス」(2011)
お薬覚醒ネタ。
〇こんな話
人と言う括り及び環の中にいられなくなった主人公が、人間をやめる話。
「ルーシー、人間やめるってよ」
〇能力
我々の脳が仮に10%しか働いていないとして、100%になったらいったいどこまでの事ができるようになるのだろうか。この作品では電子機器を遠隔操作し、最終的には時を超え、体という器を捨てた。全知全能になったのだ。自分以外の他者など能力的には必要ない。しかし人間は彼女とは違い、一人では生きられないようにできている。いや、そう進化してきたのか。果たしていったいそれはなぜなのか。彼女が辿った生き様を基に勝手に考えていこう。
彼女は全知全能になった。簡単に言えば一人で何でもできるわけだ。他人なんていらないと。他人から得るものなど何も無いと。その過程にて感情や人間性の欠落を描いていたのだが、愛情のようなものが芽生えているような演出もされていたので、やはり人間性の根源みたいなものは残っていたのではないかと。そう仮定しよう。そうすると、
~ 人は独りで生きていけるのか ~
というテーマにたどりつくことになる。彼女のように全知全能になったとして、そこにはいったいどんな世界が広がっているのだろうか。イルカの話が人類との比較に持ち出されていた。彼らは脳を20%活用しているのだとか。人類は二足歩行を可能にし、腕(手)を使うことで道具の使用を可能にし、脳を発達させたというのが進化論の筋か。しかしどうだろう、能力を自分の体に還元してきたイルカと比較すると、人類は能力のほとんどを外部委託していないだろうか。道具を使用することで多種多様なことができるようになったが、人間の体だけでは制限されることが多い。故に適応能力という部分で考えた場合に、人間は極端に低い能力しか持っていないのだ。いやそこは発明や発見があるではないかというのであろうが、ここでは裸一貫でということで言っている
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逆も言えるんですよね。特定の突出した能力を持っていないが故に、進化や環境に適応していく上で選択の幅が広がっていると。それを補うのが道具。
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・・・まぁ難しいテーマだ。では道具を使用して可能になることをなぜ自分という体に能力として還元してこなかったのか。まだ進化の途中でこれから進化していくのかもしれないが、必要となった能力全てを一人の人間に還元していったらいったい何が起きるのか。その象徴というか末路がこの作品で描かれる彼女ルーシーである。
そこには誰も自分を理解していくれないといった、孤独が待ち受けているのではなかろうかと想像してしまうのである。 故に彼女は最終的に人間をやめることになった。
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「ヒカルの碁」という作品に、碁の神様は孤独だなという主人公の発言に対して、だからこそ人間に碁を教えて切磋琢磨させているという発言があった。碁の相手がいない神様が自分の相手を探し求めているのだと。そんなことを思い出した。
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そんな孤独を味あわないように人間は能力を制限し、集団で行動することに重きを置いた進化を遂げてきた、のではなかろうか。 〇集団心理
人間界における集団心理を模索してみる。
劇中においてもガリレオだかダーウィンだかが不遇であったと述べられている・・・確か。彼女ルーシーにもそれが当てはめられるであろう。10%しか脳を使用していない人類という集団の中に、突如発生した10%以上の脳の能力を発揮する人間。どのような扱われ方をするのであろうか。歴史的には排除であった。しかしそれは10%という凡人に対して、大差ない能力を使用した者たちだ。それが20、30%と増大していったらどうなのだろうか。というのがこの映画における思考実験であろう。
彼女を最後グロテスクに描いていたのも、人ととは異にする存在であることと、我々が排除するべき存在だと認識させるためか。彼女が我々を必要としなくなったのか、我々が彼女を必要としなくなったのか・・・
〇演出
電話越しの通訳とのちょっとした会話において、英語の習得期間が取り上げられる。これは後にルーシーの能力との対比に用いられることになる。
おそらくルーシーの人間離れしていく能力と、それに伴う残虐性の緩和として、胸の谷間や、薄着、乳揺れなどといった色気の表現を多用している。
・・・彼女の消失は我々の離乳となるのか。
〇最後に
彼女の能力というのは、現代の社会だからこそ適応される能力であることを少し追求したい。特には電子機器である。光速化する情報の伝達手段があってこそ為し得る彼女の所業。人体に干渉するような能力も見られたが、人類の祖と呼ばれるルーシーの時代に彼女の能力はここまでに発揮されたのかと問われれば疑問が沸き起こることだろう。そこがこの映画を楽しむ上では少しネックになるだろう。しかしそんなことはどうでもいいのです。この作品ははじめにも言いましたが、「はは」を観る映画ではありません。「ちち」を観る映画なのです。
ではでは・・・
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