~ビーストサイド~
〇はじめに
この土屋太鳳好きだわ。てめえの意見は聴いてねえって? すみませんでした。私は狼ではありません、子羊です。お部屋で待ってます。
〇想起する作品
「金田一少年の事件簿」
「インシテミル 7日間のデス・ゲーム」(2010)
〇こんな話
土屋太鳳の素を楽しむ。
〇ビーストサイド
人狼側ということで村人側の見舞われる様を冷静に観られること。それゆえに前作で指摘した、人狼ゲームからプレイヤーの動機へのアプローチではなく、プレイヤーの動機から人狼ゲームへのアプローチになっていること。これによりリアルタイムで人狼ゲームを楽しめるようになっている。これが前作とは違いエンタメ性において成功している点だろう。さらに新ルールを持ち出すことで人狼側が追い詰められる緊張感も保たれているし、むしろ全体での緊張感は増している。
ざっくり哲学なわけだが。1人の犠牲か、多くの犠牲か。そして全員が論理的思考ができないということ。これがゲームをひたすらに掻き回す要素で。
この作品だけでは定義しきれないのが、1回目の勝者がその勝ったゲームを前半戦として定め後半戦へと向かうのか、前半戦の勝利者が望んだゲームが全てのプレイヤーに後半戦として機能するのかということ。確実に勝者は2回戦うことになるわけだが、この辺りの定義が前作ありきになっており、最後の人狼の自分本位というところが活きてこない。もしかしたら村人たちが解放されたかもしれないと思わせてしまう。
前後半戦制というのは人狼のみぞ知ることで自らが勝てばゲームは終了。つまり解放を意味し、自らが負けることを選択すれば次のステージへとその者たちを送り出すことになる。ここの葛藤が少なからずあるのだろうが、これを人狼側の選択としてでなく村人側の選択として自覚させた見せ方が捻りがあってやるせない。これを用心棒だった人物の「何で無理ってわかるの?」というところで念を押される。あと一回だったら彼女らの選択も異なってきたのではなかろうか。前後半戦として先の見える戦いと、あと2回戦って解放されるかもわからない戦いに身を投じるのと、どう意識は変わってくるだろうか。その情報を土屋太鳳はあの場面で敢えて伏せたのである。敢えて偽ったのである。
まぁいいやとりあえず太鳳ちゃんかわいい
割とあるよね・・・
これは盛ってるのか?
この感じすごいゾクゾクする~
あの子を解き放て! あの子は人狼だぞ!
髪をかき上げるの仕草がイマイチようわからんかったな~。何か心理学的なことを考慮してたんか? ただの見映え?
あとは終始裸足だったのが最後靴を履くのよね。この辺も彼女の何かしらを投影してるのよねきっと。
〇最後に
土屋太鳳はこういう役をやっていってほしい。ちょ~っちブリっ子は厳しい。
ではでは・・・
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