2014年9月28日日曜日

ディザスター・ウォーズ(2013)

ディザスター・ウォーズ[DVD]


~地震VS津波~ 

〇はじめに 
 この映画の津波の映像どっかの滝の映像使ってるのかなぁ~。 

〇こんな話 
 波発生装置とやらを積んでいた潜水艇が爆発。人工的(原因が波発生装置による余波なのか、自然に起きた巨大地震なのか、二つが関連していたのかが不明)に巨大津波を起こすことになってしまった。はてさて・・・。 

〇対策 
 津波VS津波作戦が失敗したことを受け、津波VS地震にシフト。津波を止めるために地震を起こす。それの狙いとしては海溝を作り、津波の逃げ場所を作るそうで。 

・津波VS津波 
 津波に津波をぶつけたところで意味が無いのではないだろうか。津波に津波、同位相のものをぶつけるとより大きな波となる。下手すれば津波は大きくなると劇中でも危険視していたが・・・。津波と全く逆の波(逆位相)を当てるのならばまだわかる。波ってのはすれ違うんですよね(知ったか)。 
 計画に余念が無いとかいって科学者がGOサイン出すのだが、彼がやったのは衛星からのレーザー光線かなんかの攻撃で海底にズレを生じさせ、津波を発生させたただけ。計算も何もあったもんじゃない。これで余念が無い・・・だと。 

・地震VS津波 
 海溝とは海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む所である。それを創り出す? 海溝には海水も流れ込むから、それが海水の逃げ場所になるのかな。 そんなに大量に流れ込むものなのだろうか。
 海溝をつくるとなっているのだが、サンアンドレアス断層(かな??)を爆弾により刺激し、溝をつくるってな感じであった。城の周りにある掘みたいな。
以下実験の概要(図はイメージです)

図1 地震VS津波 爆発前


図2 地震VS津波 爆発後


 海溝とされていたのは、単純に海と陸の間に溝を作るという意味だったのかな・・・。

〇最後に
TSUNAMI VS 地震 
となってはいるが、正確には
TSUNAMI VS 地震により作り出された溝 
ということになる。もっと言えば、
TSUNAMIにより押し寄せる水量 VS 溝のキャパ
・・・なんかちゃちくなったな。

 執拗に自然に干渉してはいけません。しかし人類は自然との共存を求められます。生きるということは、難しいものです。

ジョン・カーター(2012)

ジョン・カーター[DVD]


~地球じゃなければ・・・~ 

〇はじめに 
 今の自分を見つめ直し、
「こんなはずじゃなかった」
と感じている人は多くいるのではないでしょうか。この作品はそんなあなたに捧げます。観てください、ジョン・カーター。 

〇こんな話
 ジョン・カーター loves 火野レイ


〇境遇 
 はじめにでも書きましたが、「こ、こんなはずじゃ!! 」というように自らの境遇を恨み・呪い生きている人は多いのではないでしょうか。かく言う私もその一人。そんな人たちの代わりにハチャメチャに冒険してくれる映画です。

 最後にジョン・カーターは火星へと旅立っていく。これをどう見るべきなのだろうか。地球は自分の居場所ではないと、俺はこんなところで終わる・収まる人間ではないと夢を追いかけてはいるが、どこか現実逃避をしているととるのか。それとも火星に戻るという人生最大の目標のために、如何様な犠牲も厭わずひたすらに努力、試行錯誤することで自らを見つめ直し、火星へ戻るというチャンスやっとつかんだと称賛するべきなのか。前者は火星に帰るという結果、後者は火星に帰るまでの過程、というのが考えの中心にある。

 どちらにせよ、ひとつそんな人たちと異なることは、この主人公は地球でも成功しているという点だ。しかも努力している。自ら努力しチャンスを掴んだものにしか手に入らないものがあると・・・そう言いたいのか。ディズニーも割と酷だな。夢の世界は夢の世界だけでは成り立たないのだよとでも言いたいのだろうか。 そうだな、地球で成功できないような奴がどこで成功できよう、と・・・。うわ、一気に夢がなくなった。これ実はとんでもない皮肉がこもってる映画なんではないか!?

〇最後に
 仮想世界(漫画・アニメ・映画・・・etc)で、自分ならこうするだろうと妄想するのはとても楽しいもので、しかし現実問題そううまくもいかないもので・・・。うむ、現実は厳しい。

2014年9月25日木曜日

オール・イズ・ロスト ~最後の手紙~(2013)

オール・イズ・ロスト[DVD]


~執着~ 

〇はじめに
 「ゼロ・グラビティ」の対極にある映画といっていいのではないだろうか? というのがこの映画を観ての感想。 人間が不自由を味わうのは何も宇宙空間だけではない。地球にもある。

 台詞がほとんど無いことで、彼の心情や行動原理・理由は彼の動きや表情から鑑賞者が探るしかない。さらには彼の境遇すらわからない。わかるのは用意周到で準備に余念がないことぐらいか。ま、一番最初にべらべらしゃべり始めたのにはさすがに笑ってしまった。手紙の朗読か何かなんですけどね。

〇想起する映画 
 「オープン・ウォーター」(2004)
 「パーフェクト・ストーム」(20000)
 「ライフ・オブ・パイ」(2012)

〇こんな話
 海で遭難したひとりの男のお話。



〇執着 
~生への執着は何から生まれるのか?~ 

 我々は生きる上で大半が「生きるためのベストな方法」ではなく、「ベストに生きるための方法」を模索している。 彼のような生死を分ける状況で描かれることでその様はより明白になる。彼の場合は「生き残るためのベストな方法」ではなく、「ベストに生き残る方法」の選択でそれを示してくれる。それはこれから迎えるであろう境遇と、生き残った際の状況を考えてしまい、今(を生き抜くこと)が全てであるのに未来を先見てしまうことからくるのだろう。漂流という状況上あらゆるものが無駄にはできない。後悔先に立たずというが、取捨選択は全て未来の見えない今にゆだねられる。彼のように命の危険にさらされることは日常的にはないかもしれないが、この選択の仕方は普段の生活でも現れているのではないだろうか。

― 後で使うだろう、あるに越したことはない、と物を捨てられないこと ―

そうやって残しておいた物はだいたい使わない。そして取っておいたことすら忘れる始末。だからといって思い出した時もまた捨てられない。思い出したのだからまたどこかで使うだろうと。簡単に言えば、残しておきたい心理ですね。

彼の場合は残しておいたところで使う機会を得ないだけでなく、最終的に全部海に沈みます。しかし最初から全部無かったら生き残れなかったわけでもあり、全部が全部無駄ではなかった。表現としては矛盾してしまうのだが、無駄も必要であったと。
貯金とかもそうなのかなぁ。

残しておきたい心理を踏まえた上で少し飛躍すると、

― 自分を実際より大きく見せるために着飾る(肩書にこだわる)といった行為(プライドとも) ―

にも当てはまる。以下飛躍の過程を少し詳しく。

 この映画で一番に感じたのは、ものへの執着。愛着のあるもの、そうでないものはあるものの、自分のものを手放すということには抵抗があり、覚悟が必要。ここでいうものを捨てるという行為は、今の自分の立場・環境からの逸脱。それは未知の領域に足を踏み入れるということ。自他共に未知である状況(期待や不安などの様々な感情がまじりあう中)では、身分証明に始まり、何かしら自分を証明してくれるものにすがるしかない。最初から信頼など得られない。過去の実績、これからの実績があってこそ勝ち得る信頼。それを証明してくれるのが、何かしらのものだろう。物であるかもしれないし、者であるかもしれない。つまるところ人が執着するものとは、時間の長短はあるにしろ自身にとっての歴史の証明、存在証明をするものととれるのではなかろうか。自分が自分であるという証明とその価値。評価される要素。それほどまでに人はものに依存している。それらの消失は自分という存在(生きること)への疑問に通ずる。人は他人に認められたがるが、その前に他人に認められるための自分であるという証明が必要なのだ。そしてそれは大きければ大きいほど評価される。具体的には学歴、職歴、年収、容姿・・・、などだ。要はプロフィールか。故に大きさにこだわる。だからこそものに執着する。おそらくそのあたりから人は一人では生きてはいけない、という考えが生まれるのであろう。そして究極プライドというかたちでも現れると。  

人類は二足歩行を可能とすることで手(前脚)が空き、脳が発達し道具を使えるようにまでなった。その道具は今日まで便利になることを止めず、ひたすらに人間の欲求を満たすことに努めてきた。その結果、ものに依存せざるを得ない人間を生んだ反面、その代償かツケか人との関わりは薄れ、孤独を求める者も増えた。我々人類はどこへ向かうのか? 永遠の謎である。 

〇過酷 
 遭難して自分の現在位置すらわからない状況に陥る。デジタルが頼りにならない中、アナログに奔る。六分儀の使用法に悪戦苦闘するも、何かこの状況を楽しみはじめているようにも見えてしまう。しかしそんな楽しいことばかりが続くわけもなく、すぐに過酷な状況に陥る。人生は苦楽の繰り返しなのだと。環境に慣れ始めたときに大きな問題に直面し、今いる環境は変化する。そんな変化に適応・対応していかねばならない。そんな状況を切り開いていける力があることが人間の強みなのか。

 周りを海(水)に囲まれながらも、飲料水に不自由するというのもまた過酷さの演出となる。

〇壁 
・船内
 度々描写される、船内と船外を行き来する際の壁の取り外し。引いて、外して、外してと3ステップある。この行為が意味するものとは?  
 これは彼の覚悟の現れではないだろうか。ある種の不安を埋めるためでもあるのだが、生き残るために必要な行為や準備。3ステップあることが彼の覚悟の固さを示している。 

・救命ボート 
 度々ボートの下からの映像が映される。ボートの上という限られた環境でしか生きていけない人間と、海を自由に泳ぎ回り生きる魚たちとの対比、しかしそんな海は一転、弱肉強食な世界という過酷な世界の演出に変わる。あとは孤独と集団とかその辺の対比にもなってるのかな。最後はぶち抜いてくれるのだが。  

〇最後に
 ロバート・デニーロでこの映画を観てみたい。コミカルとシリアスの緩急がよりついて大衆受けしそう・・・、異論は認めます。

2014年9月17日水曜日

イントゥ・ザ・ストーム(2014)

~我々は、飛ばされたいのか~ 

〇はじめに 
 B級SF映画と呼ばれる中の、ディザスターパニックものの安っぽいドラマの部分(人間の関係性)をそのままに、自然災害に関する映像を本気出して作った映画として観ることをオススメする。ありえなそうな自然現象を、鑑賞者という視点でそこまで物語にのめり込むことなく、高みの見物をすることで、より楽しむことができる作品である。 

〇こんな話 
 竜巻 VS 竜巻ハンター、ある家族、YouTuber   
 ・・・というようなお話。

〇人間VS自然 
 人間が自然災害に立ち向かうという構図を考えた場合に、人間の勝利は現象の解明や解消ではなく、生き残ることにあるのだ。我々を楽しませる要素としてある予防策や打開策は、生存のためのただの手段でしかない。そして劇中に起きる矛盾、無理な演出、ご都合主義を味方につけたもの勝ちだ。そんなことを念頭に置くことが、こういったディザスターパニックものを楽しむ上では必要になってくる。無い無いと頭ごなしに否定するのではない。あるかもしれないという思考で鑑賞する。すなわち、かもしれない鑑賞である・・・(適当)。

 さらにその人間VS自然を意識した、生き残るという物語を強調するために、主にPOV方式が用いられている。何が起こっているのかという状況把握をする暇もなく、現象に巻き込まれる。そのため災害に巻き込まれる被災者視点を、とても臨場感溢れる映像で楽しむことができる。携帯機器およびSNSが普及した現在においては、これが何よりリアルに感じるのである。それだけでなく何が起こったのかわからないような災害に対して、主に報道であるが、現象や被害の大きさを人間、建築物などの人工物との対比を用いて、引きで観せるという演出も為される。この辺もすばらしかった。現象に対してのアプローチが主体と客体を用いて演出されるのは「GODZILLA」で書いたものに近いのかなと。映像で観せるという技術は格段に進歩してきているので、これからのこういったジャンルの作品には心躍るものがある。

〇異常気象 
 日本でも騒がれるようになった竜巻。今までに起きたことが無い場所でも発生するようになり、異常気象だと騒がれている。もはや海の向こうの話ではない。 

 ここで少し取り上げたいのは、最後の父親のある言葉だ。タイムカプセルだか卒業制作だかのイベントで、現在から未来の者たちへのメッセージを記録に収めるというようなことをしているのだが、そこで最後父親が「25年後には思い出話さ」というような発言をする。恐ろしい目に会い、やっとこさ生き残ったのにこの発言。いや、別にこの時はいいんですよ。生き残ったことに安堵し、生の喜びを実感したと捉えればそれで何の気がかりもない。自然災害の前後でのインタビューの回答を比較させることもおそらく考えているでしょうし。しかしですね、25年後というようにある程度の時間が経過してしまってからは、どうなのだろう。記録には残っている。しかし記憶からは・・・。失われていないにせよ、薄れているのではなかろうかと。

 今日何かにつけて異常気象と騒がれている。ふと考える。今日では常習化してしまっている気象現象についてはどう考えたらいいのだろうか。それが始まった当初はどうだったのだろうか。異常気象という言葉かはわからないが、やはり同じように騒がれていたのではないだろうか。それが被害に見舞われるという経験を経て、防災対策などといった共存という道を探ってきて、今に至っているはずである。異常気象と騒がれたところで、人類がその環境下で生きることを選択したのならば、いずれはその現象が生活の一部になるわけで。慣れ、習慣化と言った方が良いのだろうか。いや、生きるための知恵か・・・。

 現状人間が自然を支配・制御するなどとは到底不可能であり、自然の中で人間がどう生きるかというのは結局共存の道を探るしかない。そしてその共存には確実に多少なりとも犠牲が伴うのである。もっと言えば、犠牲を伴うべきなのである。なぜならその犠牲が、自然と言う優しくも厳しくもあるものの記憶を我々に痛烈に刻み付けるからである。最近の自然災害における報道で、想定外、予想以上という言葉を多く耳にしなかっただろうか。我々は予想を上回らない事態には対処できる知恵を身につけている。そしてそれに慣らされた状態にある。その状態が我々に安定をもたらすのであるが、感覚を麻痺させもする(考えることを止めさせる)。そして自然はそんな我々を無視する。逆に考えれば、そもそも我々は自然を意識しているのか。当然かのような資源の無駄遣いを意識したことはあるだろうか。よそで人が死んでいることにも無関心である(だってどうしようもないじゃんと私は吐き捨てるが・・・)。木が一本切り倒されたところで何も感じない。トイレットペーパー、ティッシュペーパーなんてスーパーに行けば買えるじゃん。いくら使おうが私の勝手だろと。感謝の気持ちでそれらのものに接しろとでも言うのか。馬鹿馬鹿しい。と思うわけであるが、それと一緒なのだろう。自然(と大別してしまうが)を別に人間を排除すべく意志のある存在だと言うわけではないが、何ら人類の存在など意識されてはいない。この作品で言えば、竜巻ができちゃうんだもん。そうなるべくしてなっちゃうんだもんというような感じなのであろう。

 話を戻そう。詰まる所、異常気象もいずれは正常ではないにしろ、想定の範囲内の現象となる。それは人間の知恵や慣れによってもたらされ、それを超える異常気象なるものがいずれは現れる。それを繰り返すことが自然と人間とが共存していくということなのだ。
・・・とここではまだ終わらせない。はたして本当にそうなのだろうか。親父の「思い出話さ」という言葉に戻ろう。人間の記憶とは薄れるものである。そして都合の良いように改竄されていくものである。それを考慮に入れると、想定内という範囲が時間の経過とともに小さくなっている、想像力を欠くことに繋がっている、とも考えられるのではないだろうか。歴史的に見て現在よりも被害が出ている現象は数多くあるだろう。究極、人間は何度も同じ過ちを繰り返していると言える。それに対して被害の大きさは、情報量や技術的なものに依存するという人もいるだろうが、それによる対策が必ずしも是として働くわけではない、ということを理解されたい。

 自然災害による犠牲は無いに越したことはない。しかし犠牲が生まれざるを得ないというのが現状だ。常に細心の注意を払い、ビクビク怯えて暮らすわけにもいかない。なんとかならないものか。

〇疑念
 向こうではstormとtornadoという単語はどのように使い分けられているのだろうか?
 題名にはstormが採用されているが、実際にイントゥしたのはtornadoであった。tornadoをもたらすstormということだったのかもしれないが、tornadoの目にイントゥした映像が一番のクライマックスであったはずだ。スケールはEFというtornadoで使われるスケールが使われていたが、異常気象に関しての考察を気象学者が述べるシーンでは、ハリケーン"カトリーナ"を挙げていたりもした。学校はstormシェルターだと言っていたが、最後の報道ではtornadoという単語が使われていた。
 待て、tornadoが発生したことの無い場所で発生するというような状況だから、stormとの混同は良いのか。stormシェルターが安全だという心理に対して、いやあれはtornadoですという混乱をもたらしているわけであるから・・・ふむふむ、勝手に納得。

〇最後に
 はじめにも書きましたが、まとめますと映像はA級、内容はB級の映画ということになります。体感型映画ということで、映像を楽しむ作品です。存分に飛ばされてください。

2014年9月14日日曜日

グレート デイズ -夢に挑んだ父と子-(2014)

~区別・差別~

〇はじめに 
 ホイト親子が基になっている。いや、ホイト親子に影響を受けた人たちの話になっている・・・か。 

〇こんな話 
 ある父と子がトライアスロンに挑戦し、その過程や結果でいろんな人々が成長するお話。

〇区別・差別 
 父親が自転車を漕いでる最中に前に座っている息子が眠っていたかで、「寝るな、起きろ」と叱咤激励するシーンがある(水ぶっかけたんだったか)。これが障害者を扱った作品に対する少なからずの皮肉に思えてならない。 

 健常者と障害者でそれぞれ基準が違うことはわかる。しかしそれは健常者の障害者に対する偏見や、逆に障害者が健常者に対して求める最低ラインが存在することを意味する。そういう基準といった決めつけが差別に繋がっているのが現状である。事実障害者は生きる上で身体的に制限される。なにせほとんどのものの仕様が健常者を意識して作られているからだ。人工的なものでそれだ。自然界においてはそれがより顕著になることだろう。その格差を是正し、障害者に対しての道を広げているのは人工的なものでもあるわけだが。その技術革新が何をもたらしたのか。障害者に挑戦する機会を与えた、夢に一歩近づけたなどという見方をすれば聞こえはいい。父親が息子の友達に説得されるシーンは感動を呼ぶことと思う。

 しかし少し視点を変えてこの二人の挑戦を見つめてみると、この映画はトライアスロン(アイアンマンレース)に親子二人で臨むわけであるが、スイム、バイク、ランにおいて身体的負担を担っているのはどう見ても父親が大きい。息子はただ座っているだけではないかと。父親が踏ん張っているのに寝るとは何事だと。レース中に過酷な環境に晒されることになるぞという父親から息子への忠告や、息子のレース中の怪我もそんな鑑賞者の引っかかりを配慮してなのではないだろうか、と勘繰ってしまう。寝ていたとされる部分は、過酷な環境ゆえに具合が悪くなり意識が朦朧としていたのかもしれない。怪我に関しては、我慢して父親に黙っていたりしたことから、二人での挑戦に関しての父親への配慮や思いやりともとれるかもしれないがだ

 健常者を主体でこの映画を観るからそのような感情が湧きおこってしまうのかもしれない。実際のところこのお話は、障害者、健常者がどうのというのではなく、この話の親子とそれを取り巻く者の関係性の成長や改善を、トライアスロンに臨むという行為を通じて描いている。トライアスロンの訓練・練習ではバイクとランは息子と行うのだが、スイムはボートをけん引する練習はするものの息子は乗せていない。それを見守り、迎え入れるのは母親になっているのである。17年間連れ添い、世話をした母親と息子の関係。その歴史を途中から掻っ攫われる形にも見えるトライアスロンを通じた父親と息子の関係。それに揺れる夫婦間、親子間。それを支える(方向性を確かなものとする)姉、知人・友人との関係。最後のレースにおけるスタッフの補助の演出も見事だったと思う。父母、父子、母子、姉弟、にはじまりそれぞれの関係性に焦点を当てていたのも、そういった引っかかりを意識してのことではなかろうか。これは父と子の物語ではない。親子の物語なのである。いや、もっと広いな。  

〇最後に
 障害者、健常者と区別(いや、差別か)したときに、その両者は互いに広義な意味をもつわけであるが、健常者が障害者を支えるという構図がいち早く思いつくことだろう。この映画にもそれがひたすらに纏わりついている。前の項で述べた引っかかりの部分だ。先ほどは親子とそれを取り巻く者の成長物語であったということで完結させてしまったが、トライアスロンの前に父と子との会話を思い起こしてみる。二人でトライアスロンに挑むことを提案したのは息子の方であった。しかし、直前になってみて息子が「完走できなくてもいい」という、スタート地点に立てたことに満足するような発言を受けて、最初はトライアスロンへの挑戦に対して引き気味だった父親が「絶対に完走するんだ」と意気込むまでに至る。この会話に至るまでは息子が父親に寄り添っていくということで、障害者が健常者を支えているようなかたちだったわけだが、トライアスロン本番を迎えるにあたりそれが逆転する。父親が息子を引っ張っていくかたちになる。この関係性は非常におもしろくあるのだが、やはり最大の目標とされるトライアスロンで、結局健常者が障害者をけん引していくしかないというので感動を訴えるのはどうもしっくりこなかった。・・・と観ていたところ、やはりそんな人たちがいると危惧したのだろうか、しっかりと関係性の変遷を意識したのだろうか、最後のランの部分でタイムリミットと父親の身体の限界が迫る中、息子が自ら車いすを漕ぐに至る。挑戦することに意味があるというスタンスであった者がだ。身体的部分において父親に頼りきっていた者がだ。ここでやっと二人の関係性が一瞬かもしれないが対等になった、二人の進むべき方向が同じになったと感じることができた。。トライアスロンに至るまでのすれ違いや、スタート前夜の二人の会話のほんの少しの食い違いから、トライアスロンという過酷なレースを通じて、今まで見えてこなかった世界が開けたのではなかろうかと。一人ではできなかった、二人だからこそ、互いがいたからこそ、いや家族、知人、その他の関係者がいたからこそ成し遂げられたアイアンマンレースの完走。それが彼らに何をもたらすのか、もたらしたのかと少し感傷に浸ってみたりする。

 私は単純にこの手の映画には感動してしまうわけであるが、今回は少しひねくれた目で鑑賞してみた次第である。悪しからず。

2014年9月5日金曜日

トランセンデンス(2014)

トランセンデンス[DVD]

~人間VSコンピュータ~ 

〇はじめに 
 SF的世界観に浸る作品ではなく、映画に込められているであろうテーマを模索し、哲学していくことを楽しむ作品。 

〇想起する作品 
 「バーチュオ・シティ」 (1995)
 「ターミネーター」 (1984)

〇こんな話 
人間(の意識)をコンピュータにアップロードすることができたら、 我々人間はどんな進化を辿ることになるのだろうか。そしてアップロードしたものは、人間の意識を有したコンピュータなのか、コンピュータの能力を有した人間なのか。はてさて・・・。 

 コンピュータの進化における、コンピュータ>人間という構図になる危険性というのを丁寧に描いた作品。 


〇構図 
・人間VSコンピュータという構図
 「ターミネーター」のような人間VSコンピュータ(スカイネット)という構図が、もうすでに出来上がっている世界観はあった。コンピュータに人間が支配されているという設定の「マトリックス」はアクションに囚われ、真に理解されなかった。現代のコンピュータの普及に伴うネット社会による匿名生だったり、現実との混同だったりで危険性を説いていた映画もたくさんあった。これは現在と未来を描いた映画たちの狭間・つながり(人間はいかにコンピュータに支配されるに至るのか)を描いた作品である。 
 人間が支配されていく過程が「ボディ・スナッチャー」「インベージョン」といった、人間に対する内部的な侵略という風にとれる。しかしその侵略という絵図を、コンピュータVS人間という構図と関連付けて連想した時に、おそらく多くの人が暴力と言った単純な力、詰まる所物理的なはっきりとした対立を求めてしまうのではなかろうか。例を挙げると、地球に宇宙船という絶対的力を有し襲来した地球外生命体(侵略者)に対し、それを迎え撃つ地球人という構図。戦場という敵(侵略者)か味方(地球人)かという二元論でのはっきりとした対比。侵略者を悪と見なし、正義である地球人視点で、いかに悪を倒すのかというドンパチや、そこで表面化する友情や愛情を楽しむ。この映画はコンピュータVS人間という構図に対して、単純にどちらが正義か悪かという判断ができない。人間の意識を有したコンピュータなのか、コンピュータの能力を有した人間なのか。そこが人間とコンピュータの確執を描く上で、非常におもしろいテーマではあるのだが、そこが逆につまらなく感じてしまう要因でもある。そんな点をこのフィルムでしか映し出せないといったような映像美で観客の心を掴もうとしているのだろうが、それも何か物足りない。何かを意図した映像であったのかもしれないが、私には理解できなかった。 

〇参考までに 
 コンピュータという言葉を聞いた時、あなたは何を連想するだろうか。ほとんどの人がノートパソコン、デスクトップパソコンなどのパーソナルコンピュータを想像するのではなかろうか。今や家庭に一台以上。ネットなり何なり便利になりましたなぁ、とその程度の認識ではなかろうか。そんなものが我々人類をどのように侵略していくのか、どのように脅かすのかと。ピンと来ない人がいるのは事実。 では電子機器・電気製品と言えばどうだろうか。先ほどより多くの物が想像できはしないだろうか。ネットというもの以外に、生活には欠かせなくなっている存在。携帯、TV、クーラー、冷蔵庫、洗濯機・・・、何でもある。人間社会に欠かせなくなっているものばかりを思い浮かべないだろうか。 さらには機械と聞いたらどうだろうか。自家用車、公共交通機関・・・、もうすでにそれらありきで生活している。無いことは考えられない。たった一つ欠けただけで、何かしらうまくいかなくなることすらある。 

 この映画は先ほどの構図の問題もあるのだが、上記のようにコンピュータといったものに対する意識の違いから面白さは分かれる・・・と思う。身近に感じているであろうことを挙げれば、PC、携帯が普及し、今やいつでもどこでも誰とでもその媒介を通して繋がれる。ただその機械を使いこなすことができるだけでだ。どういったシステムで可能となるのかという理解などいらない。つまり、自分の理解を超えるものですら我々は使用できてしまっている。他には、電源を押せば機動する。冷たいものはレンジでチン。食材の保存には冷蔵庫。コンセントに差し込めば流れてくるのは電気であるのに、なぜそれが音、映像、熱などに変換されるのか??? わからないことばかりではないだろうか。利便性を追求するあまり、その技術に孕むある程度の危険性は軽視・無視するという現状に慣らされたあなたは、普段から危機意識を持っているだろうか。何かしらの事象に関し、想定しうる限りの事態を導き出すことができるだろうか。将来を予見できているだろうか。まぁ私は全くできていないが・・・。 

 まとめると、「コンピュータが人間を支配するという将来的な危険性」というテーマで考えた時に、いや待て、危険性という言葉はマイナスなイメージが強くなる。プラスな面もあるわけだから「コンピュータが人間を支配するという将来的な見通し」とでもしとこうか。というテーマを基に考えた時、この映画を観てどれだけの事を関連付けて、この映画の言わんとしている見通しを持てるのかというのが問題。おそらく鑑賞中、鑑賞後とすでに有していた個人の思考・判断・情報量等と、映画により得られたそれらを通して、この映画に対する理解には大きな差が出てきてしまうだろう。わからない人にはいつまでたってもわからないだろうし、理解するだろう人はすぐにでも理解する。この映画はそこに賛否が依存すると考えられる。そんな作品は今までにもいくらでもあったろう。ここで終わってしまうのであれば、私が言おうとしていることはただの皮肉ととられてしまうのだろうが、決してそういうことではなく、こういったテーマを扱ったときに確実に生まれるだろう格差を是正していく必要があることを言いたい。この作品は超越、特異点を扱った。コンピュータが人間を超え、その先に起こるであろう進化について。そのテーマに関して存在する現在の格差を露呈させ、問題として取り上げさせる時点で、この映画としては成功しているのではなかろうか。わからないで終わらせない、疑問点・矛盾点を挙げひたすらに哲学させると。 

〇不意をつかれたところ(参考までに②) 
 「これは君の字か」という問いに、「学生の頃書いたきりだから」と返答するシーン。それほどまでに電子機器に頼って生活しているといった暗示。 

 キーボードをドア止めに使うシーン。現在の常識が無くなれば、いかに高性能といえど、本来の使い道以外にはこんな使い方しかない。 

 ドリームキャッチャーの存在。これがまた、人間の意識を有したコンピュータなのか、コンピュータの能力を有した人間なのか、ってなところに関わってくる・・・多分。 

〇余談 
 「イグジステンズ」(1999年)という映画にこのTRANSCENDENCEという単語が使われていた。その時の字幕はトランスセンデンスとしていた。スペルの中にはSが存在し、発音的にも「ス」というはっきりとした発音ではないものの聞こえてくる音がある。今回はトランセンデンスである。ただそれだけ。 

〇最後に 
 映画としてウケるか、ウケないかと問われたら、私はウケないだろうと答える。ドキュメンタリーでよかったのでは、と思ってしまったことは否定できない。しかし議論するテーマとしては非常におもしろい(矛盾や無理な演出などもたくさんあるようですし・・・)。構図やら意識やら多くのことを書いてきたが、この映画を楽しむ上でそれらがネックとなるであろうことを理解されたい。

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...