2017年11月29日水曜日

ポプラの秋(2015)

ポプラの秋


~あの世への手紙


〇はじめに
 大塚寧々ってこんなに棒読みだったっけ・・・? まぁ闇を抱えているトーンとしては合っているのかな。



〇こんな話
 おばあちゃんはあの世へ手紙を届けます。



〇手書き
 人から人へと渡る手紙。手紙を書く、相手に送る、相手に届く、相手が読む、相手が返事を書く、相手が返事を送る、返事が届く。といったプロセスが存在し、この間にもまた様々な過程を経るわけだが・・・

 今や手紙を書いたことが無い人すらいるのではないだろうか。具体的に手紙というものがどのようなやり取りなのかという想像しがたいものとなっている人たちが。まぁかく言う私も年賀状のやり取りすらしなくなってしまった人間であるが・・・ 




 手紙に変わるものとして最近は電子メールですら衰退しLINEというものが主流だろうか。今私が書いているようにキーボードや、スマホで言えばタッチパネル等操作すれば手書きなんかよりはるかに速く文字を書き起こすことができる。思ったことと書きたいこととの間にほとんど誤差無くである。相手ともほぼリアルタイムでやり取りができるため、自分の主張の軌道修正も図りやすく、相手の動向を気にせずに特に文面を意識することなく文字を打ってはいないだろうか既読機能もある故、相手の返信を待たずして相手の動向を探ることすらできてしまう。どこか急かしている、急かされているという感情すら湧いてくる。

 文体は誰が使おうと全て同じもの。絵文字やスタンプ等技巧を凝らしてはいるものの、そこから感情を汲み取るのは難儀であり、相手の気持ちを受け取った上で反芻するという過程が置き去りで、どこか空虚なやり取りのようにも思えてえしまう。

 繋がりやすく依存しやくすくもあるが、そんな便利さ故に他人との距離感を測りかねる。他人の本音や真意が見えない、おそらくは本人にもまたわかっていない、それ故に面倒だからとやり取りを怠ったり、またいつでもできるからと離れていく人もいるかもしれない。

 人と人との結びがどこか希薄であると感じてしまう時代だからというものがあるのだと思う。親子というものに始まる人と人との絆。人は人と向きあっているのであると再確認する。

 まぁこれは個人的な感想程度だからね。時代というものがあるし、それに適応できるか否かという問題も孕んでいるわけだからね。うまく立ち回れる人は羨ましい限り。


 

 今の時代におけるどこか急ぎ足なやり取りとの対比として、手書きの質感というものをもっともっと印象付けて良かったと思う。

 手紙を書くに当たり、今日は何を書こうかと自分が書きたいことを整理しまとめる時間があっていい。下書きを書いたっていいだろうし、消しゴム等で間違いを正す場面があってもいい。まず何より手紙を書くには書く紙が必要になるだろうし、書くモノ(この場合は鉛筆)が必要になる。それの準備や手入れといった手間を惜しまない、この時間的な猶予を挿むだけでも娘からの父への想いというものがまた違って見えてくるはずだ。

 想った事との即連動で手紙を書き綴るのであれば、スマホに日記として書くのと何ら変わらないではないかとするリスクも生じる。そことの絶対的な壁は構築するべきだった。

 人が書く文字はそれぞれに特徴がある。その時の体調によって気分によって、また誤字脱字に誤用だってあるだろう。わざとらしくもそういった何かしらの要素がもっと欲しかった。









〇最後に
 別れはいつか必ずやってくる。先立たれたことでこの世に取り残された人間の悲しみが先行するが、死後の世界や魂の存在をあからさまに肯定するわけでなく、死した者たちもまた生者を想っているとし、両者の間を取り持とうとする手紙というアイテムがとても素敵だった。

 ではでは・・・





2017年11月21日火曜日

どろろ(2007)

どろろ


~親子~


〇はじめに
 妻夫木君かっこいいな。







〇想起する作品
 「フランケンシュタイン」



〇こんな話
 妖怪退治活劇。





〇親子
 親が子を産むというのは言わば人が人を創るということで。どこかフランケンシュタインを想わせる百鬼丸という男の誕生でそれを印象付ける。こんなことを平然とやってのけているのが人間なのだと。これぞ生命の神秘である。そんな血と肉を分かつ親と子の関係(絆)とはいったい何なのか・・・

 自分の身体を取り戻すというのは、自分の足で立ち、自分の目で見、自分の鼻で嗅ぎ、自分の耳で聞き、自分の口…いいや舌か(声)を持つといった、子の自立なり成長なりのお話に繋がっている様で・・・


 なんかもうようわからんから考えるの放棄するけど、そんなところは気にせず単純に百鬼丸とどろろとの友情物語(横の繋がり)を楽しめばいいんじゃないかな。なんかほっこりする。








〇疑念
 妖怪ごとに奪った体の部位が違ったわけだけど、それぞれの妖怪に特徴が目に見えて感じられなかったんだけどこれは良いの? 人間の身体ならばどの部位でも関係無く同じような効果が得られるの?


〇最後に
 ところで何で柴咲コウに白羽の矢が立ったの?


 いや全然構わないんだけど。

 ではでは・・・




2017年11月19日日曜日

吐露かつお 4貫目


~杉下右京~

 大分遅れたが相棒16の第1話を観た・・・

 木村拓哉主演の「HERO」でも書いたが、シリーズ化の弊害として回を重ねるごとに無条件に「主人公=正義」であるという構図が植え付けられていく。何が起ころうとも絶対的に主人公が正しいのだと。

 予告にて“正義は~という話があったが、「相棒」シリーズも例外ではなく、歴代の相棒やその他もろもろの人物が度々杉下右京と対立してきた。今回の件もその一環だろう。正義を謳う一方で、ではその正義とは何なのだろうか? と改めて定義する

 検察の聴取で杉下右京に不利にならないようにと、あるいは有利にはたらくようにと発言する者が多く見られ、正義故に…ではなく杉下右京だから…とする動機が見て取れる。彼らはフラットな状況からでなく、そもそもの事情を考慮することなく杉下右京を庇っている。

 杉下右京は絶対的な正義では無いのだと印象付けているのである。彼もまた1人の人間であると・・・。


 しかしこれを描く上でやっておかなければならないのが、杉下右京という人物像の定義である。様々な相棒を通して様々な事件を通して彼という人が変化しているのは事実であろう。しかし根底には揺らがない絶対的な何かがあるはずなんだ。なければいけないんだ。

 ある場面。伊丹刑事が“風の噂で・・・”と発言する場面がある。今となっては当たり前の様に使われており意味も通じるので別段問題は無いのだが、正確には“風の便り”という用法が正しい。ここに杉下右京が反応しないことに違和感を覚える。

 杉下右京とはSeason2の第12話「クイズ王」にて居酒屋でしかも見ず知らずの人間に対して“怒り心頭に達する” を “怒り心頭に発する”であると訂正するほどの人物だ。伊丹刑事にであれば尚の事注意が憚れることなんてないはずなんだ。たったこのワンシーンだけで杉下右京という像が揺らいでしまう。揺らがせるべき像以前のところでだ。

 全ての話を網羅しているわけではないので、この程度の誤用はいくらでもあることとは思う。シリーズも長くなれば段々と設定も忘れ矛盾も出てくる難しさもあるとは思う。脚本家は毎度変わるだろうし、中の人間だって入れ代わり立ち代わりだろう。しかし今回は状況が違うというか据えているテーマが違う。今回の単体の話だけで成立するものではない。もう少し気を遣って話を組み立ててほしい。

 なんだろうねこの虚しさは。結局は私が抱いていた杉下右京という像が勝手に揺らいだだけの話なわけだが、自分の中に抱いている正義の像が揺らぐということは何とも悲しい気持ちになるのである。




ラスト ナイツ(2015)

ラスト ナイツ


~信念~


〇はじめに
 忠臣蔵あんまり知らないんだよな・・・



〇想起する作品
 「ラストサムライ」(2003)
 「300」(2006)
 「キングアーサー」(2017)



〇こんな話
 忠臣蔵。


〇信念
 「47RONIN」(2013)がファンタジー化でウケを狙いハチャメチャやった挙句オオゴケした忠臣蔵という題材を、騎士道を基軸に日本人監督が調整修正を図り、世界で通じる作品をと頑張ったそうな・・・テキトウ。




 武士道精神と騎士道精神とは相通ずるものがあるようで、いやどこか絶対的に相見えないものがあるようで・・・ 仇討ちもしくは復讐へと向け動き出す、そして全うする彼らの信念というものが混乱を来すようだ。

 まぁ〇〇精神って言ったって時代によりけりだろうし、そもそも武士ってそんなでも…って話があるわけだけど、日本で育った日本の教育に触れた人間としては慣れ親しんでいる歴史や作品等で植え付けられている価値観というものがあるわけでね。これがあるかないかで…という溝を埋めるべく、女性を重んじるはずの騎士道の揺らぎを散りばめつつ、信念というところの醸し出し方が中々に面白かったと思う。



 一族諸共領土を追われたことで自堕落な日々を送り続け部下からも見放されたライデンであるが、これは復讐を恐れるギザ・モットがつけた監視を欺くためであった。

 これにより表向きの行動から真意を図ろうとする、いやそもそも真意など求めておらず外堀から相手の行動を束縛することで私欲を満たせれば良いという者と、

 忠誠を誓った主君への仇討ちもしくは復讐を達成せんがために表向きはどうであろうとひたすらにどこまでも忍耐強く内に秘めた信念を貫き通す者との対比が際立つ。


 自らの恐怖を克服できずただ闇雲に城の防御を強化するギル・モットのおかげで要塞攻略は盛り上がるし、根底を同じくする騎士道精神を貫き通したが故に衝突するライデンとイトーとの一騎打ちも見応えがある。






〇最後に
 忠臣蔵が題材の作品に手を出してみるかな。

 ではでは・・・




2017年11月18日土曜日

ゴースト・イン・ザ・シェル(2017)

字幕翻訳:松崎広幸
字幕監修:三谷匠衡



~男子たるもの紳士たれ~


〇はじめに
 ミラ・ジョヴォヴィッチをひたすらに魅せたいとする「バイオハザード」シリーズと、質感というか色合いというか上辺だけを取り繕った「カイト/KITE」の匂いが充満している作品。



〇想起する作品
 「マトリックス」

 「ザ・セル」(2000)
 「リアル ~完全なる首長竜の日~」(2013)
 「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」(2013)
  ・・・スカヨハという存在の捉え方はこちらの方がうまかった。

 「ターミネーター サラ・コナー・クロニクルズ」  
 「ALMOST HUMAN/オールモスト・ヒューマン」

 「RD 潜脳調査室」
  ・・・キャラの捉え方という点でこの作品を参考にしてほしかった。


〇こんな話
 スカーレット・ヨハンソンを愛でるったら愛でる。


 



〇男子たるもの紳士たれ
 少佐の内面的なところを描く上で、彼女の扱い方捉え方にもっと気を遣ってほしかった。

 「自分とは何者なのか?」という問いに対して、まず視覚というものからとっついたのはよかっただろう。自分が見ているものは果たして何なのか。今現実に起きているものなのか、過去の記憶なのか、はたまた観せられているものなのか。これを区別する算段が存在しなくなっていると。

 これをバトーの失明と目のみの義体化?にて印象付けている。そして唯一縋る、自分という存在を確かなものとするためのルーツ・・・とされていたもの。記憶というものへと迫っていく。究極行動原理というところに行き着くわけだけが、ここへの繋げ方は丁寧だったと思う。

 しかし自分という存在は何も自らの内の葛藤だけで定められるものではない。劇中で取り上げられる名前というものに想いを馳せてみてほしい。「少佐」という呼称で一人の人間の認識を共有しているわけだが、果たしてその「少佐」という像は全員同じものだろうか・・・。

 「草薙素子」というところへオトすことで「少佐」との差別化を図りそれを描こうとしたのは見えるが、ここに至るまでに桃井かおりが認識する「草薙素子」と対立する「少佐」という像を描き出さなければならなかった。バトーにとっての「少佐」、トグサにとっての「少佐」・・・etc 呼称や愛称を変化させたってよかっただろう。彼女の内面へと迫る上での架け橋として、事前に少佐自身に自覚の無い少佐という像を構築させるべきだったのである。

 いつも辛口な人間が突如口にする弱音を聞いて何を想うか。自分よりはるかに実力が上の人間、しかも身体はロボットである者に助けが必要だと思うか。ピンチだとして駆けつけようと思うか。こういったところがアニメ版には多数存在している。

 ではこの作品が作り出した対立すべき「少佐」という像はどんなものだったか。なんかエロい、たったこれだけである。まぁこれは私自身の感性に依存するわけだが・・・




 スカヨハが脱ぐシーンが幾度となく挿入される。そしてほぼ全裸に見える義体での闘い。後のシーンでは服も光学迷彩が適用される人間が描かれているにも関わらずスカヨハは羽織っているコート?を脱ぎ捨てる。

 この幾度となく晒される彼女の裸を観て、スカヨハが服を脱ぎ捨て全裸になったのを見て、我々(男目線)は何を想ったか・・・??

 ここが問題なんだよ。何よりもだ。

 「少佐」をリスペクトすべき女性として紳士的な対応をしようと一歩引いて見ることができたかどうかだ。少佐自身が自らに見出している価値と我々鑑賞者含む周辺人物が抱いている彼女の価値というものを照らし合わせることができたかどうか。ここにギャップを観たかどうか。葛藤したかどうか。

 おそらく大多数の男性陣が「あっ、俺も脱がなきゃ」となったのではなかろうか。失礼、そこまでイかなくとも彼女のお姿から心から目を背けた者がどれだけいるだろうか。

 この作品は、スカヨハを、いや少佐を、いや草薙素子という一人の女性を立てるのではなく、男を勃ててしまったのだ。これがこの作品の致命的なバグである。いや意図的ではあるわけだが。

 スカヨハを魅せたいとする意志はこの上なく尊重する。もうこれでもかとありがとうとエールを送る。しかしこの作品の肝だっただろうところはそこでは無かったはずだ。そこまで彼女を変態的に捉えられているのだからこそ、あとほんの少し気を遣うだけで全く別物になったはずなんだ・・・

 我々が捉えた彼女に対して何かしら一石投じるカタチを描けていれば・・・

 例えば水の中に潜った後舟の上でダイバースーツ(ウェットスーツ?)を脱ぐシーン。ここに脱ぐぞ脱ぐぞと期待を高められるわけであるが、少佐は脱いでいるところでバトーに話しかける。そしてバトーは脱ぐ間凝視した後にうつむく… ここを少佐がバトーに話しかけた後脱ぎ始め、バトーが目を逸らすと観せたらどう見えただろうか。



 全裸で戦うシーンは幾度となくあるわけだが、例えばラスト傷だらけの少佐をバトーが抱きかかえる支えるシーン。バトーが少佐に何かしらの羽織るシーンを描いたらどう見えただろうか。



 たったこれだけで「少佐」という像が違って見えてくるはずなんだよ。


 電脳通信等で情報の共有が為されていることを背景に、秘密を作りにくいといった印象がある中でこそ描けるギャップがあったはずなんだ。皆に見せる一面、誰かにしか見せない一面、誰にも見せない一面、自らも知らない一面。これを繋ぎ合わせることで自分という存在は確立する・・・可能性があることを示さなければならなかった。



――――――――
 アニメ版はちゃんとあるやん・・・
















 横乳は再現してたな・・・

















 そっちじゃないんだよ、こっちだよ・・・


















 バトーの捉える少佐と、トグサの捉える少佐とってのギャップもうまかったね。

―――――――――

 

 「少佐」という存在をもう少し丁寧に扱って欲しかった。キャラというものが描けていない。そもそもどうやってキャラを見出そうとするのか、見出せるのか・・・

 実写とアニメとの隔たりが一番大きくあるわけだけど、この作品はさらに人間とロボットとの隔たりが存在している。実写とアニメ、人間とロボットという段階的な隔たりを経て我々はそこに違和感を覚える。この違和感というギャップをどう埋めていくのか・・・、ここが試されているところだった。作中の言葉を借りるのならば、ゴーストの正体である。

 少佐ほどの頭脳や実力がありながら見せる弱気。浮き沈みの激しさとでも言おうか。衣装を脱ぎ捨てるというのも、それに対応する武装があるからで。海に潜るなんてのもそのまま潜水と浮上でしょうよ(多分)。これを単に水の中が無でどうとかでラストの死を印象付けるだけで終わってるし。

 要はツンデレだよツンデレ・・・ 


 現実世界においては見えにくい、独りの人間の表と裏。そして周りの人間のそのキャラに対するそれぞれの評価の照らし合わせ。ここに感じ取れる差異が、人間とロボット(義体化)との違いや、実写ではなくアニメならではってのとマッチしたんだよ。ってかマッチさせたんだよ。これが昨今アニメという媒体で根付かせた「萌え」という文化の礎だろ? ここをもう少し読み解かないと。これが1つゴーストの正体だよ。

 そしてもう一つ大きくは声である。起伏のある感情のこもった声を聴いている内に、そこに一人の人間が見えてくるのである。キャラに息が吹き込まれるのである。アニメだろうがロボットだろうがそこに人を見る事ができるのである。これがまた1つゴーストの正体だ。



 この作品は漫画及びアニメと実写との境界線を理解していない。この踏まえるべき前提を考慮していないのが仇となってしまった。



 吹替えで観ると多少なりとも変わるのかもしれない。やはり日本語の発音における起伏でないと感じ取れないものがある。正確には普段から慣れ親しんでいる言語。そういった配慮を踏まえて、その人物をどう捉えているのかによって異なってくる行動として、些細でささやかながらも感じ取れる気遣いというものを描かなくてはダメだったんだよ。







〇最後に
 円盤で吹替版を鑑賞したけどやはり多少なりとも印象は変わる。でもこれにあと一歩踏み込んでほしいんだよね。スカヨハ堪能する分にはこれ以上は無いんだけどさ・・・


 ではでは・・・


感染源 BIOHAZARD(2004)

感染源 BIOHAZARD


~本能~


〇はじめに
 「スピーシーズ」観たくなってきな。



〇想起する作品
 「バイオハザード」(2002)
 「DOOM」(2005)
 「地獄の変異」(2005)



〇こんな話
 本能の赴くままに・・・







〇本能
 とある男の証言による回想というカタチで、いったいラボで何が起こったのかという真相が明らかにされていく。その男は何かから逃れてきたと想われ、軍によって身柄を拘束されたことから、事態を如何に快方に向かわせるのかといった考えが先行する。

 しかし話が進むにつれ明らかになっていくのは、快方に向かうどころか証言内容それ自体はもうすでに起きてしまった事であり、今さら干渉することができない不変の事実であるとして、最悪の事態が今現在聴取している場に近づいてきていることだった。

 この現状どう動かすこともできない過去を定めることで、現在という取調室内に緊急事態を直結させる緊迫感はうまい。種の保存という本能として避けられない、定められたものが際立ってくる。




 母子、男女、父娘・・・etc 軍(組織)の上下関係もか?

 人間が築いている何かしらの繋がりを意識づけている。ではその関係性は何故築かれるものなのか…

 ざっくりとは人類の繁栄のためであり、もう少し細かく言えば人類という種の保存か。子孫を残すために男女で繁殖を行い、子孫を守るために家族(親子)という関係を構築する。それをさらに広げるとなれば秩序が必要になるわけで。

 同じ人類という種が攻撃される様を見て被害者意識が先行するわけだが、そういった本能的なものが我々にもあるように彼らもまた同じなのである。人為的に手が加えられたとされ、クローン問題も兼ねたかったのかはわからないが、彼らは何も人類が憎いから襲ってくるわけではない。ただ種の保存へと繋がる最適解として人類を利用しているだけなのだ。





〇最後に
 そういや中学の頃だったか…化学の先生がいきなり「スピーシーズ」の話をしはじめて笑った思い出があったな。「スピーシーズ」観ようっと。


 ではでは・・・


2017年11月17日金曜日

L change the WorLd(2008)

L change the WorLd


~Lです。~



〇はじめに
 「デスノート」が思いの外人気出ちゃったから軽い気持ちでファンムービーとして製作したんだろうね。



〇想起する作品
 「風の谷のナウシカ」
 「バイオハザードⅤ:リトリビューション」(2012)



〇こんな話
 ウィルスによる地球の浄化、人類削減計画とかなんとか・・・



これ絶対「風の谷のナウシカ」意識してるよね。



〇いろいろひどい
 「デスノート」と地続きの世界であるとする導入は、この作品はスピンオフでありLのファンムービーであるとする意気込み(いや開き直り)が伝わり、作品への入っていきやすさといった面での配慮を感じるが、Lに対して働いているデスノートの効力が人類を死滅させ得るウィルス兵器の脅威の足を引っ張っている。そこを何とか誤魔化そうと中々死なない斬られ役のような大げさな死に際を見せ場にしたり、いっぱい吹き出物つけたり工夫を凝らしたようだが、作り物感が先行してどうもね… そもそもこの題材は見えないというところが恐怖の根幹なわけだからこれも尚逆効果・・・ もうダメダメだぁ~。


 このラストのニアの件は割と原作を意識してるよね? 



 それなのに何でLは運動神経あまりよくない設定にしてるの? 逆に作りにくかったんじゃないかな。この制限を解放してあげるだけで大分作品の幅は広がったと思うけどね。


 Lの信用を得る!…と息巻いて南原が街中をクレープ屋のトラックで暴走し、Lは電車のつり革でブラブラと、さらには3人で自転車だ~


 

 なんかいろいろと狙いすぎている面が気になるんだけど、これってのは人を運ぶモノってのと、ウィルスとその宿主との関係を訴えてるんだよね? 発症しないままウィルスを保持する真希、人間がウィルスを運ぶ容器になっていると。ここはうまかったのかな…







〇最後に
 これ中田秀夫監督なのか・・・ 「リング」の人でしょ。どうしようもなかったのか・・・


 ではでは・・・



2017年11月16日木曜日

スリ(2008)

スリ


~新旧~


〇はじめに
 作品の内容というより感覚や雰囲気を日本に置き換えて考えようとするに、ごく最近の作品だけど「古都」(2016)が近いと思う。



〇想起する作品
 「ルパン三世」
 「リサイクル-死界-」(2006)
 「フォーカス」(2015)
 「古都」(2016)




〇こんな話
 スリの生き様、男の生き様、女の生き様・・・



〇新旧
 監督のインタビューを聞くに、香港という都市の発展の速さを感じたからこそ今残しておきたい記憶があったという。移り行く時代の中で残されるモノと失われていくモノ。

 「リサイクル-死界-」(2006)も香港の作品だけど、あちらは捨てられたモノがフィーチャーされていた。何かしら危機感を抱いているのだろうか。

 「ミッドナイト・アフター」(2014)という作品で知ったが、香港は諸外国の文化に晒されやすい様で。人の流入が多いからといった背景があるのだろうか、香港は文化の空白地であるとも言われており、それ故に良く言えば飲み込みというか浸透が速いのだろう。

 新しきに晒される新旧が混在する街に、いずれは新しきに飲み込まれるだろう旧文化。では香港らしさ(文化)とは何なのか。

 監督はこれが香港だという具体的なものの明言は避けるが、鑑賞者自身がこの映画のどこかに香港を見出せれば探してくれればといったニュアンスの事を言っていた。






狭い路地裏を抜ければ・・・










都会的な町並み・・・





 しかしそんな街並みの中には・・・







 こういった両極端なところとかもよかったね。






 個人的には特にこれが素敵だったなぁ~






単純な感想を少し・・・

 どことなく抜けてる感じ…それぞれのキャラの馬鹿馬鹿しいながらも憎めない感じに、騙し合いにスリ合戦は見ごたえあるんだけど、ヒロインが全く垢抜けてないんだよね・・・ まぁこれは個人の感想でしかないわけだけど。でもこれは人によっては鬼門だよね。



〇最後に
 どこの国にもあるんだよね。移り行く時代に何を想うのかね・・・


 ではでは・・・




悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...