~あの世への手紙~
〇はじめに
大塚寧々ってこんなに棒読みだったっけ・・・? まぁ闇を抱えているトーンとしては合っているのかな。
〇こんな話
おばあちゃんはあの世へ手紙を届けます。
〇手書き
人から人へと渡る手紙。手紙を書く、相手に送る、相手に届く、相手が読む、相手が返事を書く、相手が返事を送る、返事が届く。といったプロセスが存在し、この間にもまた様々な過程を経るわけだが・・・
今や手紙を書いたことが無い人すらいるのではないだろうか。具体的に手紙というものがどのようなやり取りなのかという想像しがたいものとなっている人たちが。まぁかく言う私も年賀状のやり取りすらしなくなってしまった人間であるが・・・
手紙に変わるものとして最近は電子メールですら衰退しLINEというものが主流だろうか。今私が書いているようにキーボードや、スマホで言えばタッチパネル等操作すれば手書きなんかよりはるかに速く文字を書き起こすことができる。思ったことと書きたいこととの間にほとんど誤差無くである。相手ともほぼリアルタイムでやり取りができるため、自分の主張の軌道修正も図りやすく、相手の動向を気にせずに特に文面を意識することなく文字を打ってはいないだろうか。既読機能もある故、相手の返信を待たずして相手の動向を探ることすらできてしまう。どこか急かしている、急かされているという感情すら湧いてくる。
文体は誰が使おうと全て同じもの。絵文字やスタンプ等技巧を凝らしてはいるものの、そこから感情を汲み取るのは難儀であり、相手の気持ちを受け取った上で反芻するという過程が置き去りで、どこか空虚なやり取りのようにも思えてえしまう。
繋がりやすく依存しやくすくもあるが、そんな便利さ故に他人との距離感を測りかねる。他人の本音や真意が見えない、おそらくは本人にもまたわかっていない、それ故に面倒だからとやり取りを怠ったり、またいつでもできるからと離れていく人もいるかもしれない。
人と人との結びがどこか希薄であると感じてしまう時代だからというものがあるのだと思う。親子というものに始まる人と人との絆。人は人と向きあっているのであると再確認する。
まぁこれは個人的な感想程度だからね。時代というものがあるし、それに適応できるか否かという問題も孕んでいるわけだからね。うまく立ち回れる人は羨ましい限り。
今の時代におけるどこか急ぎ足なやり取りとの対比として、手書きの質感というものをもっともっと印象付けて良かったと思う。
手紙を書くに当たり、今日は何を書こうかと自分が書きたいことを整理しまとめる時間があっていい。下書きを書いたっていいだろうし、消しゴム等で間違いを正す場面があってもいい。まず何より手紙を書くには書く紙が必要になるだろうし、書くモノ(この場合は鉛筆)が必要になる。それの準備や手入れといった手間を惜しまない、この時間的な猶予を挿むだけでも娘からの父への想いというものがまた違って見えてくるはずだ。
想った事との即連動で手紙を書き綴るのであれば、スマホに日記として書くのと何ら変わらないではないかとするリスクも生じる。そことの絶対的な壁は構築するべきだった。
人が書く文字はそれぞれに特徴がある。その時の体調によって気分によって、また誤字脱字に誤用だってあるだろう。わざとらしくもそういった何かしらの要素がもっと欲しかった。
〇最後に
別れはいつか必ずやってくる。先立たれたことでこの世に取り残された人間の悲しみが先行するが、死後の世界や魂の存在をあからさまに肯定するわけでなく、死した者たちもまた生者を想っているとし、両者の間を取り持とうとする手紙というアイテムがとても素敵だった。
ではでは・・・
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