~塵も積もれば~
〇はじめに
日常生活においてゴミってよく出るよね。
〇想起する作品
「千と千尋の神隠し」(2001)
「サイレントヒル」(2006)
「大木家のたのしい旅行 新婚地獄篇」(2011)
「パラドクス」(2014)
「インサイド・ヘッド」(2015)
〇こんな話
リデュースリユースリサイクル。
〇後は野となれ
諸説あるわけだが、人間は記憶を失う(忘れる)ということは無いらしい。単に記憶を結びつけることができないだけ、引き出せないだけで。奥底には残っているのだとか。まぁ結局思い出したいときに思い出せなければ忘れてるも同じなんですけどね。でもふと何かをきっかけにずっと忘れていたことが湧いて出てきたりしませんかと・・・
まぁつまり人間はひたすらに情報を生み出し続けており、それをまたひたすらに積み上げてるんだな。
作品の出来不出来に関わらず、ただ売れるか売れないかといった商業至上主義な編集との衝突が最初に描かれている。人間は何かを創り出す生き物であるわけだが、それの暴走と言って良いのか大量生産大量消費社会というのが昨今問題となっていたりする。
取捨選択を半ば強制的に強いられる世界。切り捨てられたモノたちはいったいどこへと向かうのか。現状この世からモノが消える、質量が消失するという事象はそこまで大々的に観測されてはいない。物理的なものであればゴミといった何かしらカタチあるモノとして残り、現状その処理に困ることになっているが、ではそれが思考やアイデアといった精神的なものにも作用させたらどのようになるのだろうか。書いても消せる、何度でも書き直せるというホワイトボードが1つ示唆だったのかな。
発明でもなんでも何かを創り出した者は「生みの親」と呼ばれる。つまりこの創り出すということの見方を変えれば産み出すということにも通ずる。これは生物全てに共通することであるが、これを母親というところに繋げたのは見事。
ラストがまたようわからんくなってるんだけど・・・
リサイクルが輪廻ってな意味に変わってるんだよね。輪廻という小説を書き終えた時点でリサイクルという小説の主人公は捨てられたモノとなった。
捨てられたモノたちとバイバイでハッピーエンドと思いきやと観せたわけだけど、彼女もまた捨てられたモノであると観せる。
リサイクルも輪廻もまぁどちらもぐるぐるグルグルするわけで。使い捨て用品が大流行する中で作り変えるということで古いモノが新しく、ゴミが使えるモノに生まれ変わったり・・・ それを人間に当てはめたんだよね。
輪廻という小説の着想も元はと言えばリサイクルなわけで。リサイクルを土台に輪廻を、リサイクルを新しく作り変えたことで輪廻という作品が生まれたことになるわけで。
主人公の前作も自身の恋愛(と失恋)がベースでしょ。要は自身の経験を基に製作されたもので。自身の恋愛は報われなかったが、作品としては大好評。見方によってはある種否定ある種肯定されたということだよね。
作者の感情移入というお話があったけれど、主人公は作品の登場人物につける名前を悩んでたんだよね。そして異世界において自分が堕ろした子どもに名前をつける件があるが、名を与える名を与えられるというのはその人間という存在の言わば肯定であって。
自分が捨てたモノが主としてあったわけだけど、男との関係では自分が捨てられた側でもあったわけで。ラスト捨てられたモノたちとの決別によって主人公の立ち位置を確立させてスッキリ終わるよりも、ある種自身の存在すらも否定されると見せた方が、名付けるというところでモブキャラを含めキャラの肯定と意味を見出させたというところが際立つか。捨てられたモノたちに後ろ髪を引かれるか。
主人公の立ち位置を曖昧にするモヤモヤさせる終わりの方が響くでしょうってお話なのかな??
〇最後に
最後のは蛇足な感じもするけどね…どうなんだろうね?
ではでは・・・
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