2014年12月27日土曜日

ゴーン・ガール(2014) Part1

字幕翻訳:松浦美奈

~信用と偏見~ 
〇はじめに 
 カップル、夫婦など男女で一緒に観ることをオススメします。是非とも、劇場に入る前に見た番いの顔をですね、劇場を出た後とで比較して、どのように見えたかを誰か詳細に教えていただきたいものです。 わ、私は、ひ、独りで観ましたけどね・・・。 

 「インターステラー」と真逆な映画ですかね。愛というテーマでここまでも違うものかと。家族愛と男女愛。愛、皮肉にしか聞こえません。 是非とも「インターステラー」も。

 長くなるので、作品をサスペンス部門とそれ以降という感じで分けて更新させていただく。

〇想起する作品 
「プレッジ」 
「悪の教典」 
「白ゆき姫殺人事件」 

〇こんな話 
 ガールがゴーンするお話。
・・・ゴーンするはおかしいか。

〇騙される心理 
 この作品の予告編はサスペンス部分だけに留められている(もうこれが妙なんですよね)。いったいこの夫婦に何があったのかと。故に妻の失踪事件に関する濃厚なサスペンス映画を期待する方が多くいるかもしれない。しかしこの作品は決してサスペンスに留まる作品ではなく、それ以上に大きいものを示してくる。サスペンス部門が終わったところこそがこの作品のはじまりだ。しかしサスペンス部分にもしっかりと注目していただきたい。  

 妻の失踪事件をメインに話は進んでいく。真相までの描かれ方は、事後から始まる夫(現在)視点と、夫と出会ってから事が起こるまでが綴られた妻の日記(過去)視点だ。この双方の主張で真実を突き詰めていく謎解きはすばらしく、サスペンスとしても十分に通用する。伏線も散りばめられており、宣伝、本編序盤で夫・男性側が加害者であるという仕様で進み、それがあるところから、妻側の狂言ではなかろうかという疑問も湧きあがってくる、といった具合だ。夫婦の関係性がある程度見えたところで失踪事件に関する真相を見抜く人は多いのではなかろうか。しかしある程度いったところで、推理したあなたの想定内(外)であった真相は、あっさりとネタバレされる。そこからがこの作品の真骨頂だ。後々のぐちゃぐちゃ劇に、サスペンス部門がどのように活きてくるのか。 

 失踪事件に関して夫婦の関係を探る中、夫、妻と、それぞれの視点で解き明かされていくことにまず注目する。それぞれに真実があり、両者の真実には矛盾が生じ、どちらかが嘘をついていることになる。そしてそれはいったい、いつ・どこで・どの程度の嘘をついているのかと。さらには事件に関与してくる親族やご近所さん、警察、報道関係者、やじうまが存在する。夫、妻、その他大勢によって作られていく失踪事件をはじめとする真実・真相。そしてその真実と真相が1つではないことを理解しなければならない。当事者である夫婦間(とその周辺人物)、メディアに踊らされる視聴者とでは結末へと辿ってきた道が全く異なる。我々鑑賞者は第三者視点で全てを辿ることになるので、情報の整理が必要であろう。全てが観えるからこそ何とも悶々とした感情で終わるこの作品。悶々とした方々はもうすでにこの映画の雰囲気に囚われている。情報格差により受ける印象の違い、辿りつく真実の違いを肌で感じているのだ。それをいざ言葉で説明しようとすると中々難しいものがあるのだが、この作品はそれを雰囲気として理解させる。 さすがだ。

 この真実を創り出しているのは人間の偏見が大きい。 
「男→女」 「男→男」 「女→女」 「女→男」 
とそれぞれを見る目や価値観というものにはズレがあり、この差によって創り出されてしまう対象のイメージというのを真に受けてしまう。 象徴的なシーンがいくつかある。 
 まずはTV番組内にて行われる女性司会者から男性黒人弁護士への夫に関するインタビュー。これは司会者の「女→男(夫)」の見方、弁護士の「男→男(夫)」の見方が交錯する。妻が失踪した夫をそれぞれどう見るのか。そしてそれぞれ男女の視聴者による男女の見方というのが介入し、真実が偏りだす。年齢、仕事柄という別の要因もあるのだが、性別という根本的なところに、ある対象への意見が偏りをもつことを感じていただきたい。 
 そして最後の妻への聴取で男性多数の中、独り女性刑事として質問をする場面。「女→女(妻)」 「男→女(妻)」という見方が見てとれる。事件への介入の深さというのもあるのだが、血まみれで怯えた(演技をしている)美しい女性を前に、男だとしたら(女だとしたら)どのように見えるのだろうか。どのように感じ、何を思うのだろうか。嘘をついていると判断し、あざとい野郎だと攻撃するのか。擁護し、守ろうとするのか。妻に不利な証拠があろうとも、それを凌駕する偏見や思い込みが存在する。
 日常的にもっと簡潔な例がある。どんなアンケートを行っているかは知らないが、よく雑誌で取り上げられる、女から好かれる男・男から好かれる男・男から好かれる女・女から好かれる女ランキングなるもの。その様相がだいぶ異なることは、周知の事実であろう。つまりはそれだ。
 身近にいないだろうか。男友達の間では気さくで親しみやすいのに、女性には滅法モテない。・・・女性間はどうかわかりませんが。

・信用と偏見 
 男と女による価値観や視点の違いによる偏見。この偏見こそが情報操作、印象操作の根源であることをもう少し紐解いていこう。 

 あなたは情報の見方に対して偏見や差別はないだろうか。少し考えてみてほしい。マスコミの問題が絡んでいるので、今日それが見えやすいTVを題材にしてみよう。 
 情報番組が数ある中、あなたはどの番組にどれほどの信頼を寄せているだろうか。ミヤネ屋なのか、報道ステーションなのか、とくダネなのか。扱っている題材は同じなのに番組によって印象がだいぶ違うことがたまにないだろうか。そしてそれが時とともに変化していく様を身におぼえたことはないだろうか。そしてその番組内においても誰が言っているのかによって信頼度が変わらないだろうか。司会者なのか専門家なのか、ゲストなのか、記者なのかと。 
 他にも何でもいい。情報の速度で比べてみてもどうだろうか。あなたが地震を感じたとする。あなたがあらゆる情報を手に入れられる場合に、あなたは何を先に観るだろうか。TVかネットか、ラジオか。TVやラジオだったらどのチャンネルをまわすのか。ネットはどこか登録してるのか。 

 劇中の様子を少し挙げてみよう。先ほども紹介した番組内のインタビューのシーンである。視聴者1000万人を超える情報番組があった。司会者は女性で、世論の声だとして持論をひたすらに展開し、事件をおもしろおかしく報道する。それに対して専門家である黒人で男の弁護士がインタビューされていた。夫が妻を殺した犯人であり、妻に同情する側で不特定多数1000万人の視聴者が存在する司会者と、夫を擁護するかのような発言をするその分野では多少有名な弁護士。世間はどちらに傾くか一目瞭然であろう。信用や信頼というのは情報の後ろ盾があってこそだ。衣装をきれいに着飾った白人女性とスーツを着た太めの黒人男性。常に番組で目の当たりにする司会者と、ぽっと出の弁護士。視聴者の望む情報を与えるメディアと、事象を的確に批判する(うさんくさい)専門家。この対比をどう捉えるのか。様々なものが絡み合い信用や偏見は生まれている(特には性別っと)。判断の根拠として真実など二の次だ。そこにエイミーはつけこんだ。 

 サスペンス部分で手に入る情報で妻エイミーと夫ダンを少し比較してみよう。手に入る情報によりどのように思考が傾いてしまうのか、感じていただけるとありがたい。 事件当日から現在進行形で展開され、だんだんと明らかになる夫の素情と、夫との出会いから事件までが描かれた過去視点で展開される妻の日記により明らかになる素情。それらを照らし合わせ、我々はどう情報・印象操作されるのか。妻の情報の変化を少し追ってみる。 
1,女性が書いた日記 
2,ライターである女性が書いた日記 
3,夫に不倫されたライターである女性が書いた日記 
4.妊婦で夫に不倫されたライターである女性が書いた日記 
というように変化していくのだが、それぞれで女性に対する信用度が変わってこないだろうか。下線を引いた情報が付加されていくことで、何を強調するかで、女性というところに最終的にかかる信用度が変化する。不思議である。これが偏見である。
「〇〇な女性(男性)は△△の傾向がある」
などという言葉が日常生活において飛び交ってはいないだろうか。
 まだ作品を観ていない方は是非とも、現在進行形で展開され夫の行動により明らかになる真実と、過去に遡りそこから付加されていく妻の情報との比較による、印象の変化を雰囲気でいいので感じながら鑑賞していただきたい。

Part2へ続く・・・はず・・・

ゼロ・グラビティ(2013)

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~故郷~ 

〇はじめに 
 この作品は安心感と、その安心感をどこに・何に置くのか?というのがテーマ・主軸にあり、それを最後に醸し出す、というか決定的に印象付けるための宇宙空間という演出が見事。 宇宙=自由ではない。宇宙という無限とも言えるような広がりの中の、窮屈・不自由な人間。手が届きそうな(目に見えている)所にありながら何もできないもどかしさ。つまり無限とも言えるような宇宙空間にありながら、人間という最大の束縛が存在する。そんな宇宙と人間の対比があってこそ味わえる安心感。そんな作品。 
 さらには宇宙空間と船内との比較(目に入ってくる情報量の差)。音の強弱・有無。ふと考えさせられるというか猶予が与えられるというか・・・。

・・・でもね、この作品は劇場用というか3D用というか。お家のTV画面で観ますとね、何とも味気ない作品となっております。


〇ジョージ・クルーニーという存在 
 いやらしさを醸し出す顔が見事にコメディ要素を盛り込んでくれ、緊張感を良い具合に緩和してくれる。 
 宇宙遊泳の最高記録に挑みたいという役柄、サンドラ・ブロックの船外作業クローズアップの背景にちょこちょこ映りこんでくる。ぷわぷわと。何やってんだこいつはと。気楽なもんだなと。結果論なのだが、これが無ければ燃料は足りたわけで・・・。後々苦労しなかったわけで・・・。なんという皮肉。
途中サプライズもありますしね・・・。

〇故郷 
 ゼロ・グラビティという邦題に対してであるが、無重力(この映画の映像技術)を意識させようとする意志を感じる。確かにここまでに無重力(というか宇宙)を感じさせる映画は今までには無かった。私は3Dで観ていないにしろ2Dでさえ宇宙という不自由さに見事に浸ることができた。この映画のウリは確かに宇宙空間を体感させるという映像技術にある。しかしこの映画は無重力という体験よりも、我々が今生きている地球という当たり前の環境について考えさせてくれる映画だというのが、この映画を見終えての私の感想である。我々は生きている限りなぜ生きているのかという疑問が付いて回るが、これはなぜ我々が生きていられるのかといったことを考えさせてくれる映画だ。ゼロ・グラビティと聞くと否が応にも無重力を意識してしまい、この映画が単なる映像技術によってのみのものと評価されてしまう気がする。そして単なる無重力体験で終わってしまい、映画としてではなく映像としての評価で終わってしまう。そこが少し残念。 
 我々には地球で生まれ地球で朽ち果てるという現状並びに常識がある。先祖代々それが必然であり、その地球という当たり前の環境に適応・順応し生きてきた。そんな中での非日常0G(すなわち宇宙)での極限下に陥った時に人は何を思い何を感じるのか? 何よりも欲しいものは自分が立っている位置(居場所)を知るということだと思う。自分が今どこに存在しえているのか? それは立場的なもの(人と人との関係性・輪)もあるのかもしれないが、この場合は単純なる立ち位置。自分という存在が確認できる場所であり、自分はここにいるという実感。それは重力によってもたらされる安心感によって確かなものとなる。 
 サンドラ・ブロックの宇宙遊泳(宇宙漂流)を終えてのステーション内での胎児の画、からの最後地球に降り立ってからの何とかの直立(二足歩行?)。そしてGRAVITYドン。繋がっている。最後は自分という存在を実感、そして存在が確立した瞬間だった。地球に降り立ってからの救助隊は描かれない。描いていたらグラビティという原題が台無しだった。我々は重力に縛られつつも、その重力によって生かされている。宇宙(0G)と地球(1G)との比較による我々の故郷とはどこにあるのかという問い。同じ人間にあらず、重力、つまり地球にある。 

〇最後に
 引力によってそれぞれの人間は引き合っているというのもありますしね。どこに故郷があるのかというのは一概には言えないのだが、宇宙と地球とで比べてみたらというと、そりゃ地球でしょと。生まれた星でしょとなるわけで。誤解のありませぬよう。

ロボコップ(2014)

ロボコップ[DVD]


~人かロボットか~

〇こんな話 
 ある日爆発により重傷を負った主人公がほぼロボットになり、正義を行使するお話。そこには様々な陰謀が絡んでおり且つ新たなる陰謀も絡んできて・・・。はてさて・・・。


〇人かロボットか
 効率化が優先されるロボットと、迷いにより決断や判断が遅れるロボコップ。ロボコップは人間的だと。博士はそれをロボットと人間のどちらの利点も持つ進化型に改良する。しかし人間の意志云々というところはそう錯覚させているという裏事情もある。
 はてさて、ロボットの効率化と人間の感情によりもたらされる優しさ(いや愛か)というものは共存できるのか。そしてロボットの体を手に入れた人間は、明らかに自分という存在より劣る人間を守る対象として見ることができるのか。・・・謎である。




〇偏見 
 メディアの意見は偏っており、余分な意見はカットされ、見事にロボット賛成派を後押しする。全ては法案を成立させるがため。おそらくわざと一部の偏った報道を描いており、報道される話と実際に起こっている出来事との対比で、その馬鹿さ加減みたいなのを描いていたように思う。 
 ロボットの賛成を謳う文句として、効率化や安全(性)が説かれる。圧倒的な情報収集能力や、判断に迷いが無い分的確に且つ迅速に事を運べる。ここを考えさせるうまいところが、そのロボットを統制している者は人間であるということ。しかも野心を抱えた。つまりは何も客観的というものでは決してなく、人間による偏見により操作されているに過ぎないのだ。何ら今の世界と変わりはない。違うところは支持を受ける側が意志を有しないということで、支持する者の意志がそのまま通るくらいか。 

 アメリカはそういえば大統領に拒否権があるんだよなぁ。法案成立はそこを通さないとと。いろんな派閥があるわけで、そんな対立をロボットを題材に描いたと。


〇余談 
 全身をオールブラックにするっていうのは、オールブラックスと掛けてんのかなぁ。 



〇最後に
 ロボコップというとポンコツ具合がウリだったような気がするが、この映画は速いしかっこいいしで、何かもう少しあってもよかったように思う。

2014年12月26日金曜日

マップ・トゥ・ザ・スターズ(2014)

字幕翻訳:風間綾平 
~個~ 

〇はじめに 
 ミア・ワシコウスカ・・・好きです。 

〇想起する作品
「ブラック・スワン」(2010)

〇こんな話
 ハリウッドの闇がどうたらこうたら・・・。

〇個 
 人は他者との比較の中で生きている。そして自分と他者とでの優劣にこだわる。集団の中に属する個という存在。自分は今どこに存在しているのか、立場や立ち位置、序列をひたすらに気にする。それが顕著に表れるのが人気や名声といったものが謳歌する、力を持つハリウッドという世界であろう。才能、努力、運、コネ、金、様々なものを介し、人気を獲得できれば老若男女誰でも富や名声を得ることができる。なんと夢や希望で満ち溢れた世界か。故に起きてしまう確執やしがらみ。それらを排除しようと世間一般とはかけ離れた常識やルールがまかり通る、適応されてしまう世界でもある。そんな奇妙な世界をこの作品は映し出す。 

 集団の中に属する個という存在を気にしすぎるがあまり、プライドがお高くとまる。そしてそれはストレスやプレッシャーとなって顔を出す。自分という個が他者にどれだけの影響を与えているのかが気になって仕方が無い。そしてそれは正の方にだけ働かない。自分の所為で誰かしらの恨みをかってしまったのでは、死に追いやったのではという罪の意識といった、負の感情にも向けられる。故に壊れだす精神。彼らは癒しや開放を求め、セラピーにはじまり、酒、ドラッグ、女、男に奔る。



 最後何ともスッキリしなかった方へ向けて、少しメッセージというか私的見解を述べさせていただく。我々は何かしらの作品を鑑賞した時に、何を一番に気にするのかというのを少し考えていほしい。作品全体の流れではないだろうか。個が所属する集団や社会がどこへ向かっていくのかという、兆しや方向性をエンディングに求めてはいないだろうか。主人公が、登場人物が社会に与えた影響がどれほどのものなのかという情報が欲しくはならないだろうか。そしてそれを自分に投影して、ひたすらにマスターベートする。

 自分という世界に縛られる、縛られざるを得ない人間たちが、普段は絶対に見えてこないものを見たがるという欲求からくるものだ。顕著な例を挙げれば、自己犠牲というドラマに感動を覚えることだろう。個の犠牲(死)が誰かしらを守る、守ったという人間ドラマ。しかしこれは客観的な視点による解釈でしかない。いや、死した者以外で語られると言った方が良いか。死した者には人間ドラマでも何でもないのである。死した者が自分だったらどうか。その前に自己犠牲精神を持ち、人間ドラマになるからと自らの命を投げ出せるか。お前の死が世界を救うと言われ、死ねるか。ってな問題になってくる。 この作品も同じで、彼らの世界はこれで終了及び完結している。社会どうのこうのなんてのはもう関係ない。んなもん知るかと。
・・・社会に何かしらの影響を与えたかもしれない。それに法に触れることをやっているわけで、それがどのように取り上げられ、もてあそばれるのかの度合いはわからないが、ある程度の方向性は示している。それがせめてもの救済措置か。

〇コネクション 
 あなたは、 
・豪華客船に乗りますか、泥船に乗りますか 
・豪華客船タイタニックに乗りますか、泥船に乗りますか
・氷山にぶつかった豪華客船タイタニックに乗りますか、泥船に乗りますか
・氷山にぶつかり真っ二つになった豪華客船タイタニックに乗りますか、泥船に乗りますか
そんな選択を常にしていないだろうか。どこの派閥に、誰と関係を深めていけばいいのか、という見極めをしなければならない時がないだろうか、なかっただろうか。選択肢は他にもあっただろうし、もっと複雑であったかもしれない。 

 運転手(俳優兼脚本家)の移り行く心が何とも象徴的で、付き合っている彼女がいたにも関わらず、有名女優の秘書になったと知れれば、その女性と付き合うし、その有名女優が誘ってくれば例えおばさんであろうともヤると。彼は田舎からハリウッドに出てきて、トントンと有名女優の秘書にまで辿りつくアガサの境遇を何か羨んでいるような節もあり、自分もチャンスを掴みたい、認められたいという意志があった。どこの派閥、どんなコネを持つかが業界で生きていく必須条件で、成功するかどうかはまた別のお話と。まずは脚光を浴びている連中と同じ土俵に立つことから始めなければならない。チャンスなど誰にでも訪れるわけではない。チャンスが与えられる場に行きつかねば。彼の行動はただそれがためにやったもの。彼だけでなく有名俳優、監督、脚本家、この作品に登場する人物全員がやっている。そんなことを思うと、人と人との関係性など何たるうっすいものかと思えてくる。劇中意外なところで(意図していたものではあるが)関係していたと、人物相関図を考えた場合に驚くのではあるが、何ら深いものはない。それぞれの欲望を満たすがために築いただけである。己をどこに、どれだけ捧げるかをはかるだけで、いつでも拾える、捨てされる関係性。そんなものにいったい何の意味があるのだろうか。いいえ、無ければ生きていけせん。

 それを踏まえての姉弟を観せるのよね・・・


〇最後に
 いや~、最初にも書いたんですが、ミア・ワシコウスカがもう何ともかわいくてですね。しぐさというか表情というか・・・まぁ堪らないわけです。「嗤う分身」という映画でもかわいかったのでね、そちらでもまた書かせていただくと思います。ではでは・・・。

アタック・ザ・ブロック(2011)

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~ケダモノ~

〇こんな話 
 若者ギャング(ケダモノ)  VS  エイリアン(ケダモノ) 

〇演出 
 子どものギャングたちがエイリアンに立ち向かっていくわけだが、エイリアンの大群が襲来してきた際、捕獲すると息巻き武器となるものを各自の家に取りに戻る。最初のシーンである女性に対してカツアゲをしたり、ヤクの売人と繋がっていたりする彼らではあるが、家に帰ればこんな扱われ方だよという、ギャングと言う集団での立ち位置、家での立ち位置という他方の見方を一気に観せていく演出は物語をより深くする。

〇正義と英雄 
 正義はどこに存在するのか。英雄とはどこに現れるのか。
・・・それは、君の心の中さ~。 

 最後の警察に連行されながらも、主人公のチャントが絶えない。これは何を意味するのか。作品をご覧になった方ならばおわかりだろう。エイリアンの団地への襲撃は主人公が最初のエイリアンを殺したがためという、要は自業自得なのだが、彼はその責任のため、団地の平和のため、正義のため、守るべき者たちのために戦った。それがいかようなことであろうと。その人物がカツアゲだろうと、麻薬所持だろうと、後から来た無能な警察官に逮捕されようと、我々は英雄が誰か知っている。その名は・・・

〇ケダモノ 
 カツアゲの被害にあった女性がエイリアンの死闘の末に主人公に対して、赦しを与えるような演出がある。劇中確かに助け助けられ、共通の敵のもと協力していた。しかし、府に墜ちない方も多々いると思われる。 

 はじめに描かれる、カツアゲ被害者の女性とそれを保護してくれた老女の会話を思い起こしてほしい。彼女らは、彼らを「ケダモノ」と表現していた。団地内で迷惑三昧。邪魔者・厄介者扱いされているのだ。 しかし、宇宙からそれを超えるケダモノが現れることになる。カツアゲや花火騒ぎどころではない。命を狙ってくる連中だ。警察が機能せず、頼れる者はモーゼズを中心とするギャングたちのみ。共通の敵を排除するため、彼らは協力し、1つになる。
 悪に対して、より悪なものが出現すると、はじめに悪としていたものの悪が軽減するという不思議。ギャングたちの境遇、差別的な見られ方の演出で、彼らのカツアゲやヤクの売買に手を出さざるをえないというのはわからなくもない。そこですでに彼らという悪は軽減されつつあるのだが、自分の命を守るために、どちらかのケダモノにつかなければならないとして、命を狙ってくる相手(エイリアン)と、大切なものを奪ってはいくも、命は助けてくれ被害を金品だけに留めてくれる連中(人間)だったらどちらにつくだろうか。そしてギャングたちのカツアゲを見てからの、エイリアンが人間を惨殺するシーンを見て・・・、どうだろう、カツアゲがかわいく見えてこないだろうか。いや、実際かわいくもなんともないですがね。
 真っ当な人間に頼りたいところだが、こんな状況ではケダモノにすがるしかないという皮肉。そもそも真っ当な人間が生き残れるのか。いや存在するのか。そしてエイリアンとの戦いを通して、最後絶賛ヒーローになったカツアゲ男を赦してしまう、そんな女性もいると。
 悪には悪を。悪と悪がぶつかったとき、どちらが悪だったのかと比べてみると、どちらかの悪が軽減して見える。そんな不思議が彼女にも起こっていたのです。

〇最後に
 モーゼズ!! モーゼズ!! モーゼズ!!

2014年12月25日木曜日

メトロ42(2012)

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~誰が悪いのか~

〇こんな話 
 地下鉄が水没する。地下鉄内には多数生存者が存在するが、このまま対策を講じねば都市も水没する。はてさて・・・。
主な視点は地下鉄内の避難民です。 

 大筋は地下鉄パニックになるのだが、サブストーリーとして子供のいる夫婦における、妻の浮気の黙認をする夫の成長と言うか、心境や態度の現わし方の変化といったことになるのだろうか。地下鉄の中で妻の浮気相手と相対することになる夫。そんな状況下での心の葛藤を描く。 

〇地下鉄 
 地下鉄という状況と、都市が水没するかもしれないという状況における対策が、とても良い閉塞感と緊張感に誘ってくれる。地下鉄はレール上に電流が流れているという周知の事実からそこに水が溜まっていたらどのような行動をとるべきなのかというのは明白。明白と言うより行動の選択肢が狭まるといった方が良いか。しかしそれをおいても外に出たいという望みが上回るという地下鉄と言う環境。閉所恐怖症には恐ろしい。  

 「252」という映画があった。あれは2回、5回、2回と音やら振動やらで生存者がいることを知らせる信号があることを教えてくれた。自然界における音と区別させるための意図的な信号と言う意味でもあったんだったか。この映画にも是非ともそのようなシステムを採用してほしくあった。ロシアにそういった方法が無いのか、一般人だからそこまでの知識が無かったのか。まあ日本でも「252」という映画を観るまでそんな知識が無かった私がいますからね・・・。 

 地下鉄、乗りたくないな・・・。

〇浮気 
 一概には言えないのだが、浮気はする方(男女二人)が悪いのでしょうか、される方(男女一人)が悪いのでしょうか。された方はした方を悪いと言う。する方はされた方のことを「させた」などと言い、一方的な被害者ではないとだだをこねる。そこに子供(親権)が関わってきちゃったらまた複雑になっていくわけで・・・。この議論に終着点は存在するのか。
・・・とここでそんなことを議論したいのではなく、この地下鉄にて起きてしまった事故に関しては、誰にどこに責任が生まれてくるのかと。この項のタイトルを浮気としたのは、この夫婦における浮気の責任の所在を曖昧にする、考えさせることが、この地下鉄の大惨事における多数の関係者の中での責任の所在と照らし合わせていると感じたからだ。要は誰が悪いのかだ。誰の所為でこんな被害が出たのか。
 事故後避難する段階か、
 地下鉄を利用する段階か、
 運営の段階か、
 設計の段階か、
 地下鉄を通すという企画の段階か、
・・・地下鉄という概念を創り出した時まで遡るか。
これをどこに誰に責任の所在、非があるのかということだけに言及し、ひねくれて突き詰めていくと、究極人類の誕生まで遡ることになる。世代を遡ることになるんですよ。子(弟子)の責任は親(師)の責任、のエンドレスです。しかしそんな訳にも行かずどこかで誰かしらが責任をとらねばならない。そりゃあ理不尽に感じますよね。私の、俺の、僕の、自分の所為じゃないし・・・と。そして怨恨が生まれ、それが争いとなり、何かしらの被害が出て、どこに誰に責任があるのかと・・・果てしないな。

〇最後に
・いつ何が起こるかわからないのでね、気をつけて生きいこうと思うわけで。被害者とは限らない。加害者になるかもしれない。そのためにもひねくれて過去を遡るのではなく、自らの経験や糧として過去を見直していこうと思う、今日この頃である。

2014年12月23日火曜日

ベイ・マックス(2014)



~正義の危うさ~ 


〇はじめに 
 最近流行りの正義と悪の葛藤や混沌というものを、うまくディズニー仕様に昇華している。 物語の正義と悪との戦いにおいて、ベイ・マックスが良い導き手及び緩衝役となっている。 

〇想起する作品 
「リアル・スティール」(2011) 
「エリアの騎士」 漫画  (2006~)

〇こんな話
 鑑賞者の心をケアするお話。
・・・になればいいと思います。なることを願っています。私はなりました(多分)。

〇正義の危うさ
 ベイ・マックスというケアロボットという前提。人を傷つけることが目的ではない。人を守る、癒すという目的のもと作られたロボット。単純で、バカで、素直で、まっすぐでという何とも正義の象徴らしい描かれ方をする。尚且つトロいと。そんな愛らしくも、悪に対して制限ばかりの大きな塊をどう料理していくのか。

 時折ヒロの言動に対して疑問を呈する場面がとても印象的で、 
「〇〇すれば、元気になりますか? 心が晴れますか?」だっけ? 
という改めて考えさせるような台詞を吐く。これは対象が元気になる、心が晴れるのであれば、如何様なことでもしますよという、下手すれば正義のための力が悪の方向に奔る危険性も孕んでいるわけで。そこを一旦落ち着ける、正義について考えさせる、という意味でベイ・マックスという設定をうまく盛り込んだなと。存在自体が緩いのに、その場その場での言動がひたすらにマイペースでして、それもまたいいアクセントになっている。マイクロボットの行く先を探すところなんて、周りまったく見えてませんからね、迷惑極まりない。あとカーチェイスのシーンで、親切にもシートベルトは締めましょうて(笑)
 そして正義の名の下の行動のはずが、対象への思いが憎しみ・復讐に変わる部分、つまり悪には悪をという構図を描いたのはさすがで、そこはマーベルやるなと思ったわけで。
 さらに最後悪に対してもディズニーならではのお決まりの、悪に奔った理由を関連付けて、正義と悪は紙一重であることも演出する。
 さらにさらに同じ道(大事な者を失う)をたどったはずのヒロと悪者とで、何が違ったのかというのも演出するからまた。まぁつまりは仲間の存在です。悲しみを分かち合い、癒してくれる存在。そして悪に奔るのを引きとめてくれる存在。それが悪に奔った者にはいなかった。その違いが両者の進路を決定的に分け隔てた。
・・・という数々のものを見事に演出し、マーベルとディズニーが合わさってこその作品に仕上がっていると思った次第である。


〇科学技術 
 科学技術に関する問題もさりげなく取り入れられている。特許(や著作権)といったところだ。誰の技術で、何の目的で使用されるのか。自己満足なのか、必要としている者のためなのか、お金のためなのか。最近では企業と個人が特許に関して揉めたり、エスティーエーピー事件もあった。守られるべきは何なのか。人(知識)なのか、技術(発明)なのか、利益なのか。

 ヒロがマイクロボットの万能性を示すプレゼンの後に、肝心な時に大事な人を守れない、守る術を持たないという演出もヒーローものならではで、結局発明なんか意味が無いじゃないかと(見事この発明が人の命を守っていたことが終盤わかるのだが・・・)。 
 科学の発展がいったい世の中の何に役立つのかというのは、専門家たちが一般の方々に省略しガチなメッセージであろう。画期的な発明・発見などと世間で騒がれるものが多々ある。で、それは何の役に立つの?と。これが実現可能になれば〇〇に役立つ。はぁ、そうですかと。じゃあいったいどうつながるの?。・・・とひたすらに我々は無知である。しかしそんなものたちを我々は、何も知らぬまま・気付かぬまま、使用している・使用されている場合が多々ある。恐ろしいことである。 

 まぁ大概が自己満足による研究だろう、というのは私の偏見。そして実らない研究、技術ばかりだ。資金が無ければ研究できないし、個人でやるには限界がある。そんな中、利益優先や権利の奪い合い、捏造に奔るのも致し方ないと言えば致し方ない。日常茶飯事なのだろう。悲しきかな。
・・・この映画で勇気をもらえれば良いと思うの(適当)。  

〇優しさ
 ~優しさで世界は救えるか?~
というのがテーマというか、大々的に宣伝されている文句でして。これをどのように理解しておけばいいのかと。
 そもそも優しさとは何なのか。甘やかしなのか、厳しさなのか・・・。教授も娘に対する優しさがあったからこそ、それを向ける対象がいなくなり、憎しみに駆られ悪に奔ってしまったわけで。変わらない娘への優しさは、そのまま娘を奪い去った者に対しては与えられないもので。となると結局優しさというのは限られた範囲に与えられるものということになり、何十億という様々な意見を持つ自分以外の存在に対して、全て同等に与えられるものでは決してないわけで。与えられる優しさの範囲や量、質というのが人それぞれ限られるために、我々人類に確執やら争いごとなどを生んでしまっていることになる・・・。
 まぁ、優しさにより世界は救われもするし、滅ぼしもしてしまう可能性があると。その辺の理解でいいのではないでしょうか。それが正義と悪の対比によりわかったでしょと。

〇余談 
 マイクロボットが悪用されているのに対してとる選択肢が、暴力という正義が悪に対して最終的に使用する正攻法ではなくて、マイクロボットに爆発物やら、バグを組み込む思考にはならんのかと。ヒロの開発した物をベースに作られており、トランスミッターだかもヒロの作品だろと。唯一残っていたマイクロボットも悪用されていた物に共鳴して取り込まれたではないですか。それをこちらが利用しない手はないと思うのだが・・・。まぁまぁそこはディズニーですから。それに相手が相手だったからな。

 予告がベイ・マックスの愛らしさを前面に押し出している分、実際に観た際のアクション部分も物足りなく感じないし、この予告は功を奏しているのではなかろうか。 
・・・ってか初めからベイ・マックスじゃないのかよと最初ツッコミを入れたくなったわ。はよ、ベイ・マックス観せろや~。 

〇最後に 
 チューイングガムの子、好きです。いざって時に頼りになる優しい存在。運転は荒いんですけどね。最後一人だけ座っていた(座るために引いていた)椅子を元に戻すんですよ。私の見立に狂いはなかった。ガムも吐き捨てたりしませんしね。 ではでは。

2014年12月21日日曜日

マレフィセント(2014)

マレフィセント[DVD]


~観点~ 

〇はじめに 
 「ごんぎつね」が好きならこの作品好きだと思います。 

 「眠れる森の美女」という話をそもそも知らなかった自分はウィキペディアで大筋を確かめることになった・・・。 

 あとこの作品とは関係ないのですが、アンジーって反日家なんですかね、・・・残念です。 

〇こんな話 
 目下の権力に魅せられて昔の女を手にかけた男が復讐され、復讐するお話。

〇真実の愛 
 この作品、人間の固定観念(ステレオタイプ)をうまく皮肉ってますね。「アナと雪の女王」もそうだったか。愛とは男女間でまず育まれるものだという性交渉ありきの思考。男女間の愛を表現するとすぐにそちらに結びつけようとする。頭がそんな仕様にでもなっているのか現代の人間は、とばかりに(これは私の偏見)。 

〇ディズニー 
 最初にマレフィセントが私の視点でのお話であると言っている。これを軽視してほしくはない。 

 眠れる森の美女を読んでいない、観ていない私が言うのもなんだが、眠れる森の美女として観た、読んだ場合はどうせマレフィセントを(絶対の)悪として人間側を応援していたんでしょと。それを「マレフィセント」という作品でマレフィセント側で描いてみたら、こんな事実がありましたよと真に受け、先ほどの者たちがマレフィセントを応援しだすと。そして今度は人間(昔の男)とは何たる醜いものかと感じる。何か府に墜ちなくはないだろうか。私だけか。

 これ、2作品同時公開とかにすればよかったんですよ。クリント・イーストウッドが硫黄島での戦いを描いたように。そうすればディズニーが抱える罪や問題を暴く人がもっと多かったことだろう。比較するほどの作品か、比較できるように作っていたかどうかはわからないが。正直ディズニー作品の姿勢を私はあまり好まない。作品として好きなものはたくさんある。矛盾と思われるかもしれないが、綺麗ごとが観たい時もあるのですよ。


 で、お前は何が言いたいんだよと思われた方へ少し。 

 我々はある事実に対して、証言として人の話を聞く時、発言権のある者に同情してしまうという傾向がある。その人が話していることが真実であるとすぐに結びつけてしまうのだ(その発言者の元々の信頼が関与する場合が多いのだが・・・)。そしてそこに行動の理由を勝手に見出す。理由の言及には何ら問題は無い。問題は行動が例え悪の方にあろうとも何か原因があるはずだと、理由を求めてしまうことだ。この性善説的思考が私は何とも許せない。それに気付かずその場限りで感動している鑑賞者はもっと許せない。偽善である。まぁそんなことを訴える私は誰よりも事なかれ主義だ。偽善者よりも厄介か。・・・反れた。

 語る者の視点だけであれば如何様にでも事実を変えられるではないですか。自分に非がないように証言するのは当たり前で、そこに疑問を持たずに真に受けてしまうというのは何ともマヌケなもので。加速化する情報社会が故もあるが、最近TVやネットによる事実の改変や捏造をテーマにしている作品が増えており、問題視する声も大きくなっている。この世界観にそういった考えを持ち込むべきでないのかもしれない。しかしそんなご時世だからこそ、短絡的思考故に踊らされる者たち(私を含め)に、ついついイライラしてしまうのである。なぜならその思考はどちらかが正義だ悪だと二元論でしか語る術をもたないからである。そしてその二元論的思考は、対極の存在を批難することで自分の立場を確立する。そうやって自分の存在する側の力を保つのである。何かが正しい、何かが間違っているという二つの考え方しか持てない者たち。そういった思考を創り出しているのは、自覚か無自覚かこういった作品なのである。


〇最後に
 この作品がおもしろかったという方々に、少しでいいので考えていただきたいと思い、ひねくれた書き方をした。ではでは・・・。

2014年12月20日土曜日

渇き。(2014)

渇き。[DVD]


~渇き~ 

〇はじめに 
 Jean Cocteau曰く 
「ある時代が混乱して見えるのは、見えるほうの精神が混乱しているからに過ぎない」 
・・・だそうで、
 つまりはあれですか。この作品がカオスに見える人ほど、心の中がぐちゃぐちゃだと。直視、直面できた人はまっすぐな迷いの無い人間だと。 

〇こんな話
 お父さんが娘を探すお話。

〇渇き 
 「渇き」という単語を聴いたときにいったい何を思い浮かべるだろうか。私の場合はのどの渇きだった。水を欲するという衝動。砂漠のようなカラッカラの情景が目に浮かぶ。その感覚と、この映画の言う(演出やらを含め、伝えようとしている)「渇き」という単語がどう結びつくかというのが問題で、この映画の評価を分ける原因になっている。 

 何かしらに飢えるというところからくるであろう渇き。この演出が全てであろう。わざとらしく常に汗まみれで汚れた服を着、酒やドラッグに溺れて娘を求める主人公。その娘を取り巻く者たちも何かしらに飢えており、過激な演出が映える。児童買春組織を組み込むのも、男が狼のように若い女を求めるという渇きを描くためだ。酒、ドラッグ、女という中毒性のあるものたちへの飢え。それは決して満たされることはない。主人公の最後の境遇もそれの暗示か。これらの表現があなたの持つ渇きと通ずるかが鍵。
・・・つながらないんだよなぁ、私的には。

 直接的に彼女は本編に登場せず、誰かしらの証言と、関係を持った者との状況しか映し出されない。故に最後まで彼女の像がボヤけている。彼女はいったい何者なのか、と言う明確な答えを出さないのか、ただ単に私の理解力が足りないのかはわからないが、彼女(の正体)を求めるという渇きが父親のみならず我々にも沸き起こることだろう。

〇余談
 私的見解であるが、バイオレンス要素として、海外のものと日本のものとを比べると、確実に日本のものに不快感を覚える。その辺の偏見もこの映画に対する評価に関わるか。

〇最後に
 この映画をもう一度観ようという「渇き」は起きなかった。
ではでは・・・。

ラストミッション(2014)

ラストミッション[DVD]



~掛け合い~ 

〇はじめに 
 この作品おもしろいなと観ていたところ、エンディングロールはじめに、マックGの文字。あ~、なるほどねと。この雰囲気は彼のそれだったわと納得した私は、もう一度はじめから観ることになる。この作品がおもしろかったのであれば、ドラマではあるのだが「CHUCK」がおもしろく感じられると思う。逆も然り。 

〇こんな話 
 仕事一筋だったCIAエージェントの男が末期癌により退職(だったよな?)。家族との関係を再生しようと奮闘する中、トラブル?仕事?が舞い込む。やってのければ病気の治療薬がもらえるとのこと。はてさて・・・。

〇コメディとシリアス 
 今まで、そして現在進行形で暴力で物事を解決してきている主人公に対して、校長が暴力では何も解決できませんという台詞がおもしろい。裏の世界で生き、表の世界に順応するのに困る父親と、表の世界しかしらない教員(校長)という構図が何とも言えない。 

 仕事の腕はピカイチな男が一般的な家族との生活、人間との関係性の構築に関してとても不器用であり、それに悪戦苦闘する様はおもしろい。時より仕事中に私情、私用を挟むこともしばしば。ところかまわずかかってくる娘からの電話もまた笑いを誘う。このシリアスとコメディのうまい具合の調和を保つのはさすがだ。役柄的にもすぐさま人を殺すのではなく、ある程度の情報で判断し、時には良いお父さんであるとして敵に同情し、目をかけてしまう甘さがあってこそだろう。 
 その掛け合いの中で印象的なのが、勝手に住居に住んでいた者たちとの別れのときだろう。少しうるっときましたよ。勝手に住まわれていたことが非日常(シリアス)ですし、世帯主がCIAなんてのも非日常で、それを互いに少しずつ受け入れ近づいてく感じがコミカルに描かれていただけに、最後の別れのシーンはなかなかうまかったなと思うわけで。 

〇余談 
 まぁでもこの仕事とプライベートにおいてギャップのある感じはジャン・レノが一番好きですね。ジャン・レノはクスッっとくるかわいいなぁ程度のおもしろさなんですけど、こっちは吹き出す系の笑いなんですよ。そこがちょっとねらってるなと。

〇最後に
 かる~く、観てください。そんな仕様になってます、多分。おもしろいです。

2014年12月17日水曜日

かぐや姫の物語(2013)

かぐや姫の物語[DVD]


~無機質~ 

〇音楽と構成 
 ラストの月からの迎えがやってくるシーン。 
それまでと打って変わって、ポップな曲を演奏しながら月の者たちがかぐや姫を迎えにやってくる。今までの話の流れからとても異質だったので笑ってしまったぐらいだ。この映画の中で一番に際立っており、物語としては矛盾を感じるような雰囲気に囚われる。それは表向きは心地よく、しかし何も残らない。一瞬これが幸せなのだと勘違いさせられる。そんな真実をかぐや姫と母の画で思い出させてくれる。その瞬間一気に無慈悲な音楽と化す。ものすごく冷めた、冷たい音楽。映画でここまでに無力さを感じさせられたことは今までに無かった。今までの常識が通用しない。決して勝てない。そんな強大な力。我々が理解し得ようはずもない者たちの存在。抵抗しても意味がない・・・そもそも抵抗する意味があるのか?・・・そんな気持ちにすらさせられる。 

・・・だから抵抗しないのか? そうではないんだ。この世界には自分の無力さを恥じ生きている人がたくさんいる。そんな人たちにこの映画は何を残し、何を伝えるのか。あきらめなのか継続なのか? 

 映画では月の者たちの迎えに対し、女中が子供たちとわらべ歌を歌いながらかぐや姫の心を取り戻そうと抵抗を試みる。穢れを知らない無邪気な子供たちと、真に穢れを知らない者たちとの対比という演出もすばらしい。結局かぐや姫は月に帰ってしまう。しかしこの行為がかぐや姫に母と父に別れをする時間・隙をつくり、父と母がかぐや姫に駆け寄る。決して無駄な抵抗ではなかった。一瞬にしても時間を作ることができた。そう受け取ってもいいのではないか。まぁ、かぐや姫は帰ります。この結果は決して変わりません。結果と過程どちらに重きを置くのか・・・。結果、なんですよね、結局は・・・。

 サスペンスものでよく用いられるネタバレや謎解きといった回想シーンを用いることなく、今までのかぐや姫の物語(成長過程)を想起させる、月の者たちが迎えに来るというラストの演出。見事なり。農村に拾われ村の子供との男と女の違いを印象付けたり、捨丸兄ちゃんにも別世界の人間だという違いを印象付ける。そこから月の導き?により求婚という手段を通して人間界最高権力の帝にまで辿りつく。その中で(自分の)幸せばかりを求めていたかぐや姫は、生きることは幸も不幸も含めてのことなのだと悟る。そんな生(幸、不幸に振り回される生き方)を汚れと見る絶対的な存在を前にして、人間界におけるかぐや姫の成長、詰まるところかぐや姫とそれに関わった者たちの生きた意味や意義を、月の者たちを前に抵抗の手段として何か方法は無かったのかと想起させる。観せ方としてはいきなりの絶望感ではなく、徐々に位を上げていき、誰にもどうしようもなかったのだと諭してくれる・・・といった感じか。「竹取物語」という原作ありきなのだが。尚更ラストの演出が活き、悲しさ、虚しさに包まれる。

〇芸術性 
 無慈悲な演出をできてしまうという才能に嫉妬する。ハッピーエンドを求めていた私にとっては、なんと無慈悲なという感情が湧きつつ、その無慈悲な演出ができることに感動と嫉妬を覚えてしまう。それすらも芸術と化すのか。なんという残酷さをお持ちだ・・・と。 原秀則の漫画「部屋においでよ」を思い起こした。うろ覚えなのだが内容としては、別れ間近のカップルがおり、男の方が写真展に出展する写真について悩んでいる。そこで彼女がモデルをかってでて撮影を行うのだが、彼は彼女が意図したものではなく、その関係の終わりが近付いているということを察している、一瞬の隙の切ない女性(彼女)の表情を写真に収め写真展に出展する。彼女は彼を思い写真展の写真のためにモデルにまでなったのに、彼女の意図したモデルの写真を使わずに、その表情をした写真を出展する。付き合ってる女の人に対して何たる仕打ちだと思うかもしれないが、そこに芸術性を見出し感動するものがいるというのが現実で、そこに情も何もない。求めるのは芸術性のみ。これがプロというものなのか。 

〇最後に 
 話はただの(これは失礼だな)竹取物語なのに、ここまでおもしろく観られるとは思わなかった(原作のおもしろさをちゃんと理解しておりません・・・)。正直ラストを観るまではジブリという補正の上に成り立つ芸術性なのだと思っていた。現代には浸透しづらい平安の世を舞台に、当時ならではのものすごいポエムや、ファンタジックな夢を見る者たち。ただのイタイ集団の集まりではないか。まあこんなもんかと。でもそこまでに感じる人間という存在を描いたのは、ラストのためだったのかと最後ガツンと思い知らされる。本当にこの映画には心を持って行かれた。久しぶりに観終わった後に高揚感が押し寄せ、あらゆるシーンを想起し、わらべ歌を口ずさんでいた。本当に感動した。ま~われ、ま~われ、ま~われ~♪♪

・罪と罰(補足) 
 かぐや姫は月にいながらに、地球での生活に憧れてしまった(罪)。 
 故に地球に飛ばされ、地球での生活を強いられることになる(罰)。 
 
 その中でかぐや姫は幸せというものを追い求めるようになる。自分の幸せである。もっと言えば負の感情が排除された自己満足の生活である。そんなかぐや姫も成長とともに人生における幸せとは、幸も不幸も合わせてのものだという見解に達する。幸せを望んでいたかぐや姫であるが、地球での不幸だと感じていた自分の生活こそが本当の幸せであった。しかしその見解に達した時には時すでに遅し。月からの迎えが迫っていた。月の者はかぐや姫が言う何年もかけてあらゆる人間たちと築き上げてきた幸せを汚れであると一蹴し、かぐや姫からそれを奪い去ることを真の幸せだと言う。(全くの)全否定ですよ。対極の位置に、別の世界に存在する者に何を言っても通用しない。理解しあえるはずなどないのだ。両者が平行線を辿るだけであればいい。しかしこれは絶対に逆らえない力に屈服するしかない。この絶望感足るや。是非とも味わっていただきたい。
 この絵柄で入りにくい方もいることだろう。ぐだぐだ中盤ダレてしまう方もいるだろう。他にも何かしら気になる点があるかもしれない。しかし最後必ず(とは断言できないが)全てがつながるはずだ。この世界観を堪能するには全ての要素が必要だったと。再度、是非。

ローン・サバイバー(2013)

ローン・サバイバー[DVD]


~二元論~ 

〇はじめに 
 戦場では敵か味方かの二種類で人間を判断する。混沌としている世界を二元論化という単純化をする人間という単細胞。それを戦場の掟(パシュトゥーンの掟)により明らかにする。 

 この作品と同じくマーク・ウォールバーグ主演の「ザ・シューター/極大射程」という作品を先に観ておくことをオススメする。正義と悪という構図というか表現の違いを是非とも感じていただきたい。表現に誤解を招くかもしれないが、この作品をよりおもしろく感じられると思う。あとできれば「英雄の条件」も。こちらは交戦規定に関しての作品。

〇演出 
 シールズの訓練の過酷さの演出から映画は始まる。非人道的とも言える訓練の数々。下手をすれば訓練で命を落としかねない、そんな危険な所業。多くの者が訓練を断念し止めていく中、それを乗り切ったということは、国に対する忠誠心と、仲間に対する尊敬がこの上無いことを意味する。一旦これを念頭に置かせるのが見事である。 

 戦場でのシーンは雰囲気・空気のメリハリがすばらしく油断を許さない。安心しているとすぐに緊張へと引き戻される。その感じがすばらしい。張りつめた気持ちでいなければここでは生き残れない。劇場で何度ビクついたことか。

 なぜ彼は助かったのか? という問い 
仲間の自己犠牲によるものだけで終わるのかと思っていた。それだけだったらただ単に戦争の肯定化及び美化で終わってしまっていた。この映画はそうではなかった。そして何より実話であるところが驚きだ。

〇救援部隊 
 軍隊では仲間と言う存在を重んじる。基本戦争映画ではこの友情を最大限に尊重する。最初に映し出される訓練の様子からも伺えるが、同じ過酷な訓練を乗り切った仲間であれば、であるからこそ互いの尊敬はこの上ないものとなっている。極限状態において、命を預けられる、まかせられる存在としての仲間。だからこそ規則を無視した無謀といえる救出作戦でも実行しようとする。しかし実際の戦場とは無慈悲なもので、そんな感情論など見事に排除する。この作品はその様子を鮮烈に映し出す。

 結果的には無謀であった救出作戦だが、鑑賞者の中にはその行為をかっこいいと思い、ワクワクした者もいるのではないだろうか。かく言う私もその一人。単純なる戦争映画であればこの救援は成功する。敵を一掃し、駆逐し、悪を倒したということで、アメリカ大正義で終わる。しかし、この映画はそうではない。そこが何とも言えない。 

〇戦争=かっこいい 
 皆さんは一度でも思ったことはないだろうか。戦争がかっこいいと。
 よく勘違いされる(その意見を否定しているわけではない)戦争がかっこいいという風潮。前項の救援部隊を基に考えてみたい。 なぜかっこいいと思ってしまうのだろうか。人間の命が簡単に奪われ、非人道的な行為がまかり通る戦場という世界。そこで行われる人と人との争いがなぜ我々にはかっこよく映るのか。おそらくは仲間同士の尊重からくる、仲間を助けるという無謀とも言える自己犠牲。これをかっこいいと思うのだろう。そしてこの演出が一番に活きるのは、命という人間における最大のものが関わってくる戦場(戦争)という場だろう。仲間に対してどれほどの犠牲を支払ったのかというものが、一見でわかる。これを勘違いして戦争が、殺し合いがかっこいいと思ってしまうのではなかろうか。そしてゲームと言う何度でもやり直しの利く世界の浸透がそれを助長しているように思う。

 別に戦争がかっこいいという意見を否定しているわけではない。何を言いたいのかというと、戦争がかっこいいという意見の大体は、
「戦争≒自己犠牲というドラマ≒かっこいい」
というのが
「戦争=かっこいい」
という風に書きかえられていることを理解せずに、短絡的に結びつけられているということだ。これは戦争に対して直に関わっていない第三者的価値観なのである。真ん中のドラマの部分は当事者としてはあまり見えてこない部分だ。まぁ自分が当事者ではないので、そこが考えの限界というのもあるのだが・・・。少し考えてみていただきたい。

〇最後に
 はじめにの項で書いた、戦場という世界。そこにいるのは結局は敵か味方かの二者だ。守るべき者たちと、倒すべき者たち。そんな構図を作り出すのは、家族や仲間といったつながりである。そしてシールズの訓練という演出を観せることで、戦場という世界観で繰り広げられる葛藤が見事に活きてくる。敵か味方かというのを、米兵か原住民かで判断を下してしまう価値観に対して、米兵にも原住民にも事情があって、種類があって、全てを互いに敵と見ているわけではないというのを、交戦規定だったり、パシュトゥーンの掟により明らかにする。というのがこの作品の作りですばらしいところ。是非堪能していただきたい。

2014年12月16日火曜日

ダムネーション(2014)



~大義とエゴ~ 

〇こんな話 
 不必要なダムをぶっ壊せってことを訴えている作品。

〇大義とエゴ 
 ダムは何をもたらしたのか。エネルギー、雇用といった人類の利益となるもの。そして自然との調和を乱し、生態系を破壊し、文化・伝統を捨てらさせもした。それらの事を考えてみようとこのドキュメンタリー。

 活動家のインタビューがとても印象的である。彼の言動は何か挑発的で、興奮している。彼は本当にダムの存在に反対して、自然や生態系その他もろもろのために活動を起こしているのかと疑問を覚える。彼の活動はただのエゴではないのかと。ダムを排除することが自然界において好影響を及ぼすことを配慮しての活動というよりも、ダムにメッセージを残したのは自分だすごいだろ、というような自分の主張や顕示、とそんな自分を承認されたいがためとしか思えない。敢えて偏らせているのではないだろうか。とともに活動家の活動をもう一度見つめ直すべきだともしているのではないだろうか。 

 最初のルーズベルトのダムの必要性を説く偏った演説に対して、最後は撮影者による活動でダムに対して断固反対であるという偏った意見で終わる。ダムの必要性に関しては特に世界恐慌を持ち出して、公共事業による雇用の増大を訴えている。しかしそれは昔のことだとして、現在はそのような必要はないと訴える。
 偏った意見を描いておいて、注視すべきはその間に描かれる意見だろう。ダムの関係者、活動家、下流域の人々・・・などなど。利益や不利益、影響、被害、ダムがもたらしたものは数知れない。それらを観てあなたはどちらの意見に傾くのか。そんなところにある学者が念を押す。ダムがいったい何をもたらしたのかということを是非ともに検証し、不必要なダムを排除するべきであると。 そんな中性的意見を含め、ダムに対しての意見の柱としては 
・反対 ダムを全て破壊しろ (監督の主張、活動家) 
・賛成 ダムは必要だ    (ルーズベルトにはじまり・・・) 
・中立 不必要なダムを失くすべきだ (学者さん) 
の三本ある。さぁ、あんたはどうよ!?ってのは別に訴えていなくて、最後の終わり方は先ほども書いたが、監督のダムに対する意見を誇示して終わる。で、それをある程度受け入れているダム関係者や村だか町の者たちという構図を観せる。そもそも(現在の?)ダム賛成派の方々には自然を破壊しようぜという意思はない。自然を破壊することが目的ではないからだ。雇用、仕事・・・のために行っているに過ぎないのではなかろうか。だから活動家たちにもある程度寛容で、力で排除しようとは(表向きには)していない。
・・・それをどう見るのかというのが我々には問題。活動家万歳とはならないだろうし、ダムを全面的に肯定もしないだろう。何かどこか落ち着くところはないだろうかと思いをめぐらせるのではなかろうか。自然との調和云々と言われるし、DAM/NATIONと色分けされているのも何か意味があるだろうと。
 時代の変遷によりダムに対する考え方が変化してきた。ダム建設を肯定的に捉える意見が多かった時代から、ダム建設の影響が何かしらに現れはじめ、声を上げる者たちの意見が取り上げられ、そして大きくなってきた時代へと。ダムの賛成と反対という意見がどちらも弾圧されることなく、この作品のように議論として取り上げられるようになったのが良い例か(ダムの歴史は全く知らんが)(お前はいったい何を観てきたんだと言われても・・・)。何もこれはダムだけの問題ではない。時代における意見や思考の変化は我々が身近に直面する事象にも言えることだ。そんな中あなたはどのような意見を持つのだろうか。賛成でも反対でも中立でも良い。しかしそれは時代における干渉は無いですか。本当にあなたの批判された意見ですか。流されてはいませんか。・・・ってな感じで締めておこう。

〇最後に
 ドキュメンタリーはどうも疲れる。正直に言うと途中寝てしまった。やってる会場のですね~、席がですね~、もう寝る前提の仕様なわけですよ。気持ちよかったな~・・・おっほん。ではでは。

2014年12月15日月曜日

メガストーム(2013)

メガストーム[DVD]


~ファンタジー~ 

〇はじめに 
 最近のディザスターパニックものはびびってるな。ファンタジーに逃げるなよと。とんでも理論を期待しているんだこっちは!!。 

〇こんな話
 男が剣を抜き差ししていたら、ラスベガスが吹っ飛びそうになるお話。
・・・ここ笑うところですよ。剣を抜き差ししていたら、何かが出てきて暴れまわるわけです。・・・もういいか。

〇現象
 ファンタジー要素を盛り込むことで、この映画では邦題になっているメガストームがなぜ起こるのかという説明を歴史的伝承でごまかしている。B級以下のSFというジャンルにおいて、確かに竜巻ものなんてのはそこらじゅうにあふれているし、もう飽きられている分野かもしれない。でもそこに何を持ち込んでくるのかを期待しているのですよ、こちらとしては。あり得ないだろと言ってくれと言わんばかりの。いや実際に起こり得るかもしれないという声を上げる人がいるかもしれないなどと。

〇最後に
 次の作品、探しま~す。

2014年12月13日土曜日

ボルケーノ(1997)

ボルケーノ[DVD]

~人選眼~ 

〇こんな話
 ロサンゼルスにはOEMという危機管理局が存在し、非常事態にはOEMの局長が指揮を任せられる。これはその局長が主人公で、その主人公がロサンゼルス市民とともに、今までにロサンゼルスで起きたことのない災厄(火山噴火)に立ち向かうお話。

〇演出 
 のどかな日常の中でも(火山噴火までの)事態は進行している。人知れず。そんなはじまり。 
 工事現場の作業員が震源地の場所を賭ける場面がある。そこのトップが(ニコチン)ガムを噛んでいるのだが、賭けが終わることでデスクの下にガムをくっつける。それは一つ目ではなくすでに何個もついている。ここから何回も地震が起きていることがわかる。まぁ、震源地を当てる賭けを行うというのが成立している時点で、最近地震が多いというのが伺えるか。

〇命の選別 
 主人公といっても万能ではない。初めて溶岩が噴出する場面。主人公により命の選別が行われる。溶岩の行く先にある消防車に、一人消防士が取り残されている。それを助けようとはするのだが、事態が重なったこともあり、同時に娘が助けを求めると、消防士を助けることなく娘を救出に向かう。その消防士は結局亡くなってしまう。そしてただ単に事態を説明するだけの者もいる。報道関係者だ。これをどう見るのか。カメラをまわしたり、事態を解説したりしている暇があったら一人でも多くの命を助ければどうか、と思う人もいるだろう。しかし報道する者が死んでしまったら誰がその事実(危険)を伝えるのか。被害を抑えるためにも彼らの行動は必要なのだ。最小限の犠牲が多くの命を救うという見解。救える命と救えない命。そして救うべき命という主観。そんなものが織り交ざりながらこのお話は展開する。

〇緊急時の行動 
 想定外の事態に陥った時に我々はどのような行動をとるべきなのだろうか。地震大国日本。ここ数年で大地震が何度も起きた。いつ・どこで・どれほどの地震が起こるか何もわからない。予知システムを開発できればいいが、今ある技術では絞りきれない。予知している人がいたとしても情報が皆に伝わらない、伝わり切らない。そんな状況の中、我々はどういった意識で暮らしていけばいいのか。一人一人が危機意識を持ちどんな状況でも対応できるように心がけたり、対処できるようになるに越したことは無い。しかし、そんなものは不可能と言っていい。老若男女、人生における様々な経験値、知識の違いによるその場の判断と行動を制御しきれない。
 ではどうすればいいのか。私の考えを勝手に述べさせてもらう。私が提案するのは完全なる他力本願だ。しかし、ある程度の人を見極める能力が求められる事をまず言っておく。詳しく説明していきたい。

 この映画では主人公を活かす、生かすためにご都合主義が多く存在する。このご都合主義をただの突っ込みどころとして片付けたくはない。果たしてご都合主義はただの偶然なのだろうか。必然だったのではないのか。何が言いたいのかというと、そんな災害時には生き残る宿命というか、運を持っている存在が確実にいる、ともとれるのではないだろうかと。この映画の主人公のようにリーダーシップに優れ、集団をまとめ上げ、咄嗟に機転の利く才能を持った者がいる。且つその行動が功を奏し見事に事態を解決してしまう。その両方を兼ね備えた人物を災害時に探すのだ。見舞われている事態に対して生き残る宿命を背負っている主人公的存在を。判断する根拠は何でもいい。顔、表情、背格好、体格、雰囲気(オーラ)、・・・などなど。社会において人と関わる中、自分で傾向を探っていく。こういった顔の人はどのような性格で云々かんぬんと。その経験を非常時に活かすのだ。この人は信頼できる人物に足ると。その過去の独自のデータを基に、ファーストコンタクト、ファーストインプレッションで人を見抜く力を身につけていかねばならない。
 人の本質というのは見抜くのが難しく、非常時になってみないと露呈しないのではないかと。「人は見た目じゃない、中身だ」といったような迷言が存在することも確かだ。苦手なタイプだと思っていたけど、付き合ってみたらあらびっくり。案外良い人やな~い、気が合うわ~、などあることだろう。じゃあそんな人たちについていったらいいじゃないと、見極められるまで。

 お前何様だよ、どんだけ上から目線だよと思われるかもしれないが、人を選別する上でのポイントを言っておくと、単純に好きか嫌いかで分けていただいて結構なのであるが、相当に嫌いなタイプ以外は苦手程度のタイプとし、好きよりのキャパを大きくしておくこと。世界には何十億という人が存在し、日本だけでも一億数千万人がいる。一個人が関わる人なんてほんの一部に過ぎない。そんな世界で会った人物たちなのだから嫌いと一蹴するのではなく、何かの縁と思って気長に付き合ってみてもいいのではないだろうか(でも生理的に無理な人っていますよね~、・・・あ、こいつ嫌いだわ、みたいにすぐセンサーに反応しちゃう人)。見極められるタイプが偏っちゃうんですよ、そうしないと。自分と相性の良いタイプこそが、だけが、その場面場面において事態を解決する能力としてそのまま繋がるわけではないではないですか。人にはそれぞれ向き不向きがあるわけです。それを自分との相性だけでなく、能力的な補完も考えなければならないわけです。
 ざっくり言うと、人材としてはオールラウンダーが求められるのだが、ある能力特化型を集めてそれぞれを補っていくことでも大丈夫ですよと。

 経験だけでは対処できない事態が存在する。そんなときに頼りになるのは才能、ひらめき、アイデア。つまり先天的なものが大きい。いや後天的な経験も必要ではある。経験という尺度による応用を利かせないと出てこないものもあるからな。うん、どっちも必要だな。何かテキトウになってしまった。
 そして忘れてはいけないのはリーダーの指示に見事に応える現場の者たち。自己犠牲精神をみせる者も。自己犠牲を美化しているものの、タイミングや帳尻を合わせるためには犠牲は必要、やむを得ない場合が出てくる。そこであなたは自分の命を差し出すことができますかと。・・・私はできません。ただ主人公的存在についていき、事なかれ主義を貫くことでしょう。いや、サバイバルにすらないらないか。映画みたいな話が始まる前に死んでるキャラだろうな。

 ま、何にせよ生き残った者勝ちです。生き残った者の、生きることに関して起こした行動が正しかったというだけ。それが人道的であろうと、非人道的であろうと。映画ではそんなやつぁ死にますけれども・・・。



〇差別 
 「皆同じだよ」という最後の子供の言葉。火山という災害に立ち向かっている最中にも差別や偏見による行動を優先してしまう者がいる。災害時に言い争っている暇は無い。変なしがらみや確執、偏見なんてもってのほか。ほんの少しの時間でもおしい。間に合うか間に合わないかがギリギリな事態。命より大事なことがあるのか。まずは助かってみないか。 
 メインの人物のところが、トップの人間(白人)が危険な最前線に立ち、安全な場所で事態の統括と仲介、緩衝役を(黒人)がするという構図になっている。引き立たせるのは黒人で、引き立つのは白人という構図ともとれるか。


〇最後に
 今やトミー・リー・ジョーンズは宇宙人のイメージになってしまいましたが、いろいろアクティブな役やってるんですよね。スティーブン・セガールとも戦ったし、ロバート・ダウニー・Jrも追い詰めたし。大好きな役者の一人ですね。あ、映画ではないですが、BOSSの高見盛のCMはすばらしかったですね。ついつい目から汗をかいてしまいました。いったいBOSSはどこへ向かっているのでしょうか。ではでは・・・。

2014年12月12日金曜日

LOOPER/ルーパー (2012)

LOOPER/ルーパー


~ループ~


〇はじめに 
 SF好きだと真新しさは感じられないかもしれないが、SFらしさは感じられる作品。 設定・内容的には「ターミネーター」と「バタフライ・エフェクト」を足したような感じの印象を受ける。タイムパラドクスを扱う映画では、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は観とくといい。 

〇こんな話
 LOOP / LOOPER / LOOPEST
・・・ってな感じでしょうか。いいえまったく違います。



〇契約 
 ループを閉じるとは? 
未来人を殺すことの契約を解消するには、送られてくる30年後の自分を、自分で殺さなければならない。殺すことで30年の余命と金が与えられる。それは同時に30年後過去の自分に殺されることを意味する。自分に殺されたならば、ループを閉じることができる。・・・ことがループする。 

 契約上この物語には二人の主人公が存在する。現在の主人公がまず未来の自分に合うところまでが描かれ一旦切る。現在の主人公はループを閉じることに失敗するのだが、そこからループを閉じることに成功した未来の自分が辿ってきた道を描く。それによりこの主人公が辿るはずであった未来を一気に観せ、運命からの逸脱へのルート散策を楽しむことができる。 

〇ループ
 劇中でタイム・トラベルが複雑だどうのこうのとブルース・ウィリスの台詞があり、それで疑問を回避しているのかもしれないが・・・・ 
 最後に主人公(現在)が、ある者がレインメーカーになるまでの未来が視えるという演出が為され、その時間軸を進むことでその場の主人公(未来)につながるということで一つのループが確定したことがあり、同じ時間軸に存在していることがわかる。 

 最終的に主人公(現在)と主人公(未来)の時間軸が繋がっていたという前提で為し得る結末を迎えるわけだが、途中主人公(未来)の現在(映画の舞台となる時代)での存在確定が記憶に依存するみたいな場面があり、仮にその通りならば二人の時間軸は繋がらず、パラレルワールド的なノリになるから、最後の場面は成立しなくなるはず。要は別の存在になっていると。
 違う言い方をすれば、両者はその場面において生と死という別々の選択をしていたことになる。生と死という分かれ目で、現在の彼は死を選んだが、未来の彼は過去にその場面で生を選択した世界を生きてきたとなれば、両者は別の存在となり彼らは繋がらず、現在における彼の死という選択は、未来の彼には何の影響も及ぼさず意味を為さなくなる。 
・・・ん?待てよ。生と死という選択の分岐点ではなく、死(が決定している)という分岐点により枝分かれしたパラレルワールドというのなら、互いが別の存在になっていようともありか。そうすれば現在において未来の彼が起こした出来事も無くならずに済む。劇中現在の彼の行動が、未来の彼に影響・干渉している場面が何度も存在するし。いやいやその場面で死を選択したとする分岐点ならば、未来の彼はその場に存在できるはずが・・・

・・・その辺のことはよくわからないし、もういいとして、未来から送り込まれてくる未来の自分を殺すことでループを閉じるとしているものの、そのループを閉じることがループしてしまうという設定上、最後に本当の意味でループを閉じたということにつなげたのはうまいと感じた。

〇最後に
 とりあえずタイムトラベルぐっちゃぐちゃだなと。整理してもしきれないし、どこからどこまでが正しいというか、割り切ればいいのかと。タイムトラベルは非常に難しい題材です。他の作品と比較して観ていくといいのではないでしょうか。わかりやすいのは「タイムライン」でしょうか。ではでは・・・。

トランスフォーマー/ロストエイジ(2014)

トランスフォーマー/ロストエイジ[DVD]


〇はじめに 
 そろそろビーストウォーズをやってください。WAR WAR 争いはSTOP IT~♪♪ 

〇こんな話 
 あるところに創造主がおったそうな。その創造主がトランスフォーマーたちの対立に御怒りになったそうな。はてさて。 

〇トランスフォーマー 
 ブランドがもう弱くないだろうか。前の三部作の時はまだ映像革命やらがあった。そして何より私のお気に入りが、幾多あるアクションやシリアス要素というウリの中にちょくちょく挟み込まれるコメディ要素だ。特に一作目で退職させられるセクター7だかのおっさんの存在。あいつが良い味を出していたんですよ。観る側の感情の幅を広げていたというと大げさか。そういったものが今回は存在しない。あったのだろうが弱いと言いかえるか。
 そもそもトランスフォーマーというものに私は「ビーストウォーズ」という作品から入った口で、ギャグ路線が高めでこその作品を評価していたので、このアクションに奔ってしまうトランスフォーマーはあまり評価できない。トランスフォーマーという要素を、知恵遅れというか幼いといった感じで笑いをとるのではなく、馬鹿さ加減やイっちゃってる感で演出してほしくある。人類との比較において、明らかに人類より発達した技術を持つにも関わらず、コミュニケーション能力に乏しく、思い込みや子供じみた大人げない行動をとってしまうトランスフォーマーもおもしろいっちゃおもしろい。でも何か違うんですよね。ここの違いをもっとうまく表現したいが私の語彙ではこれが限界である、残念だ。まぁ人類を絡めちゃうからなのかな。ふざけきれないのは。
 例えばキャラを立たせる口癖とかが欲しいんですよ。「~だ、ブーン」「~だな」「~じゃーん」みたいな(全部ビーストウォーズからです)。あとなんだかんだ敵味方での和気藹藹感。こんなことを思ってしまう私はまだまだ精神的に子供なのかな・・・。

〇最後に
 なんだかんだ書きましたが、次回作も観ます・・・。

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...