2014年5月31日土曜日

かつお便り

どうも、かつおよろしです。段々とブログの書き方というか構成が決まってきたので、ここで説明させていただきます。
以下項目について。

タイトル~ 

〇はじめに
何かしら突っ込みたいところや、事前情報としてあるとよりおもしろいのではという感じで書きます。無い時もあります。

〇想起する作品
この映画がおもしろかったらこの作品もおもしろいのでは?みたいな感じで書いています。主に似た内容(雰囲気、スタンス、流れ、オチなど)ですね。映画でない場合もあります。

〇あらすじ
気分によって長短や粗密さは変わります。文章構成力の無さが原因です。なるべくわかりやすく書いていこうとは心がけています・・・。

・ざっくりと
これは私が勝手に感じ取ったテーマや物語を皮肉りたいときに書きます。

〇その他の項目
勝手に議題を決めて書いて参ります。

ひとつ不連続シリーズとして「騙される心理」と題して、勝手に自分が騙されるに至った経緯を分析し解説していきます。大体サスペンスのジャンルに現れると思います。後は私の勝手な思い込み、固定観念が影響して映画に入り切れなかった作品に。確実にネタバレが含まれますので、騙されたい方は読まないことをオススメします。ご注意ください。

最後にと書いて締めようとしますが、締まらない場合が多いです。気をつけます。


2014年5月26日月曜日

ボディ・ハント(2012)

ボディ・ハント[DVD]

~木の顔~ 

〇こんな話
 キャリー・アンという少女が両親を殺害するという事件があった家の、隣に引っ越してきた母サラ、娘エリッサ。事件のあった家は空家とされていたが、実はライアンという青年が住んでいた。一見性格や体面良く見られる彼ではあるが、周りからは非難の目を向けられており、性格もあってか何か心を許してしまうエリッサ。親交を深めていくことで明らかになっていく事件の真相とは・・・。

〇騙される心理
 周知の事実としては、キャリー・アンは死んだとも森で生きているともされていた。まあ遺体も見つかっておらず、行方不明ということ。それを踏まえて物語は進んでいく。 

 ライアンは子供の頃にブランコから落ちて精神異常をきたしてしまった妹キャリー・アンを匿っていたとされていた。地下室のベッドに縛り付け、閉じ込めていたわけだが、彼の様子から献身的な介護をしているようにとれる。彼自体の記憶が曖昧だったというのもあるのだが、事故(キャリー・アンが精神障害をきたすに至ったブランコ転落事故)の原因は彼にあり、それの償いとされていた。 

 何度かキャリー・アンが地下室から逃げ出すシーンが存在する。ライアンの行動は精神異常が故に他者に害を加えるからと、それを防ごうとするがために、そしてキャリー・アンという存在を隠すために、必死に追いかけ彼女を連れ戻すというシーンにとれるのである。

 ライアンという表向きはとても好青年。そして精神異常をきたす原因となってしまったという償い。そしてそれを知らない者たちが彼に向ける視線と対応。それらからエリッサだけでなく、鑑賞者含め彼に同情を強いられるのと、精神異常というキーワードから、キャリー・アンとされる人物の劇中の行動の正当性が確かなものとされてしまう。この辺からライアンが妹キャリー・アンの世話を人知れず妬いているという見解に達する。騙された・・・かな?

・綻び
 鑑賞者としてはキャリー・アンを連れ戻す際に、ライアンが誤ってキャリー・アンを殺してしまう場面から、新たなキャリー・アンが運ばれてくるところで違和感を覚える。まあ、当事者たちはまだキャリー・アンの存在すら知らないわけではあるが。
 エリッサ視点では、ライアンの家のゴミ箱に捨てられていたタンポンと青いカラーコンタクトから違和感を感じ始める。そしてキャリー・アンとされる人物を目撃してからの、誘拐されてきた少女の財布及び身分証明書の発見で確信に変わる。


〇結末 
 キャリー・アンはブランコから落ちて子供のころに死んでおり、それ以降ライアンがキャリー・アンとして生きていた。そしてそれは本人が望んだものではなく親による虐待であった。両親はライアンではなくキャリー・アンを求め、そのストレスに耐えかねライアンはキャリー・アンとして両親を殺害する。彼には誰もいなくなってしまった。そこで辿りつく一つの答え。キャリー・アンが必要だ。 

〇木の顔 
 木に何が見えるかと聞くライアン。エリッサは顔が見えると。 
少しばかり検証してみようと思う。下の画像が問題の画像。さあ、何が見えるでしょうか?




 まあ、これでしょうと赤マルをつけてみました。どうでしょうか?



 ムンクの「叫び」に描かれているような人物(の顔)が見えませんか? 私にはもうそうとしか見えません。
その際のライアンの発言。「人は秘密に気付かない。見つけてもらうのを待ってるのに」・・・と。  

 このシーンと対比であるのだろうが、顔が見えた木には何が見えるかと聞くと、最後母親が答える。木が見えると。そうするとエリッサが涙を流す。ここがよくわからない。見ようとするからそれが顔に見えるのであって、見えないものには何も見えない。彼女の行動は彼の先程の意味深な発言を含め、彼を理解したいがためのものであったととれる。全体を見るのではなく、ある一部分を見ていた。それにより見えないものがあった。見るべきものを見ようとしていなかった。最後自分の身勝手な行動で惨事を引き起こしてしまう。その大きな過ちでやっと全体(見るべきもの)が見えたと。そんな感じなのだろうか。彼女の劇中の行動は木を見て森を見ず、ってところか。 

〇最後に 
 彼女の性格は弱い者の味方をする、救おうとする、というような性格。まあつまり、ある対象に関して共感・感情移入しやすいということになる。いわゆるお人好し? そんな性格の人は騙されやすい、みたいなことを何かの番組で言っていた・・・ような気がする。この映画はそれの典型か。騙す要素としてあったのが、この映画の場合は演出云々というよりは、彼女エリッサの性格の方が大きかったと、勝手に解釈している。自分は騙されない、そして彼女のようにマイノリティに味方する、そんな自分を(自覚・無自覚問わず)特別視しているような性格の人間はあぶないすよと。みなさん、気をつけましょう・・・。

マッチスティック・メン(2003)

マッチスティック・メン[DVD]


~騙される方が悪い??~

〇こんな話
 主人公は詐欺師であるが、強迫性障害且つ潔癖症を患っている。薬である程度は抑えられるものの、無ければ家中を隅々まで掃除しだす始末。何かしらを開閉するときは1,2,3回目で開ける。などなどなかなか凝った人物だ。 薬を処方してもらっていた医者が夜逃げし、新しいセラピストにかかることに。セラピストとの話の中で、娘がいることが明らかになる。そして会うことに。まあ、なんやかんやあって娘も詐欺に加担することになり・・・、はてさて。

〇騙される心理
 まず言っておくのが、この映画は何もコテコテのサスペンスではない。この手の映画に慣れている人は、話のオチの持っていきかたとして、序盤にある程度の予想はついてしまうだろう。そんなことも含めて騙される心理について、勝手に解説というか探っていきたい。

A面:主人公ロイ
・役柄 
 まず彼の性格というか役柄を理解しておきたい。彼は詐欺師であり、自分の教え子兼相棒:フランクがいる。そして強迫性障害と潔癖症を患っており薬が必要(だと思っている)。 薬を処方してはもらうものの、サプリメントでも効いてしまうなど、分析医の言う通り強迫性障害は割と軽度なものだったのだろう。精神障害もあるが偽薬でも効いてしまうという思い込みや、実質騙されやすくもある。 詐欺師という職業(と言っていいかは疑問だが・・・)。人を騙すという技。人を騙してばかりいるわけで、そんな人間を誰が信用してくれるのか。そして誰を信用できようか。アンジェラがパパという対象として信頼してくれるようになれば、そりゃアンジェラにぞっこんですは・・・。 

・境遇 
1,はじまり~新しい医者との遭遇
 妻に逃げられることで精神病発症。ある日薬を処方してくれていた医者も夜逃げしてしまう。新しい医者(セラピスト)をフランクに紹介してもらうことになる。ここからはじまっている。 
(ここでのポイントはセラピストを紹介したのは相棒のフランクであるということ。最初この段階では気付かなかったが、最後まで観てよくよく考えたら、相棒のフランクとしてみたら、大金のかかる仕事に関して精神病を患っている相棒がいたんじゃ迷惑極まりないよなと。病気を治すことに協力するより、手近にいる相棒を騙して大金せしめる方が詐欺師としては性に合う。) 

2,新しい医者との遭遇~娘との出会い
 新しいセラピストにかかることで、個人情報を小出しにしていかなければならなくなる。彼としては症状を抑えるがために薬が欲しいというのと、医者と患者間の会話の内容は外部に漏らされないという信頼からというのもあったのだろう。
(ここでのポイントはまず、セラピストとの会話で主人公が自発的に子供がいるかもしれないという情報を提供しているということ。主人公としては離婚した当時妊娠という事実があったために、その事実が無いわけではない。)
(そして二つ目のポイントとしては、子供の情報はセラピストから間接的に仕入れているということ。彼は元妻に直接連絡を取れない。子供がいるかもしれないという事実を確かめられないがために、セラピストに間接的に連絡を取ってくれるよう依頼する。彼自身子供という存在に何か期待を持っているような見解を示しており、いるとしたら14歳の息子だろうかという話になる。結局いたのは娘と。)
(そして三つ目のポイントは、自分が想像していた理想的ともいえる状況がほとんどそのまま体現されるということ。ほとんどというところがミソで、決して完全な形ではない。理想とされる状況が完全にそのまま再現されていたのならば誰もが疑ってかかるだろう。しかしこれは息子と娘という多少の違いを孕んでいる。そのギャップが人間関係を埋めようとする意欲につながる。そして信じるという行為に至り、疑うという行為を軽視するようになる。)

3,娘との出会い~父親として
ここでポイントを一旦整理する。 

一、医者は相棒のフランクが紹介した者 
一、子供の情報は主人公が自発的に発したということ 
一、娘の母親(元妻)に直接連絡が取れず、セラピストから間接的に情報を仕入れているということ 
一、彼の妄想がほぼ完全に再現されるということ 

上記のポイントにハメる・ハマるとともに、娘との距離を縮め、詐欺という所業に娘が携わりはじめる。この時点で詐欺は9割型完成されている。しかし最後まで騙しきらなければ、これまでの工程は水泡に帰す。騙すポイントを抑えたところで、人を騙すには結局役者(娘アンジェラ)の演技力に任せられる。うん、実にいい演技だった。詳しくは次のB面:アンジェラで。


B面:娘アンジェラ 
・役柄
 娘の14歳という設定も大きい。思春期でありいろいろ問題を抱えている年頃。そこまで子供でもないし、そこまで大人でもない。発言の全てが真実とは限らないし、嘘とも限らない。こちらからそこまで情報を掘り下げるわけにもいかず、ロイからは徐々にアプローチしていかなければならない。しかし彼女はズケズケと彼に侵攻してくる。複雑な関係である。 
・・・とはいったものの、劇中で詐欺師としての教えをロイがアンジェラに説く場面で「詐欺師は何を売るのか」という話で、ロイが「売るのは自分だ」と言う台詞がある。ここから、何も彼女は14歳である必要は無い、ということがわかる。そして14歳であったかが定かではない。つまり、14歳でロイという人物の娘:アンジェラであるという彼女を、ロイに対して売っていたということになる。

・彼女専用の番号
 母に内緒にしているということと、娘から渡された者なら父親ならうれしいほかないだろう。 

 そんなこんなで父親であればニヤニヤしてしまうような展開にうまく持っていかれて、疑う余地を見事に排除される。そしてニコラス・ケイジの少しスケベな感じの顔がまた映える。


〇余談 
 普段行くスーパーのレジの担当が元妻、という設定だったらもっとおもしろかったのになぁ~。最後ヘザーという元妻が出てくるのだが、そのレジの女性とすごく容姿が似ている。この設定にすればそんな近くにいながらも何の情報交換もしない、できないという独特な雰囲気と緊張感を作れたではないか・・・と言ってみる。似たような女性を好きになるということなのだろう・・・?。 


〇最後に 
 騙されはしたが結果的に彼は詐欺という犯罪から足を洗うことができた。 詐欺を働いていた時の彼の見解は、 
「俺は詐欺師だが、金は奪ってない。相手がくれたのだと。なぜなら拒んだ相手からはもらってないし、暴力もはたらいてない。」 
強制ではなく任意だったと言っている。何と都合の良い解釈だろうか。そりゃ不安な気持ちに付け込まれて騙されてるんだから、ホイホイお金を渡してしまうだろうよ・・・。 しかし最後のアンジェラのある問いに対して 
「お前は盗んでない。金は俺があげた。」 
と答える。ここから心境、見解の変化が伺える。今まで正当化していた自分の詐欺師としての解釈を、ただ被害者の視点として捉えることで、アンジェラを擁護したともとれるかもしれないが・・・。詐欺の被害に遭うことで、アンジェラの安否を確認するために、ずっと連絡が取れなかった元妻に直接に会いに行くまでにもなる。つまり詐欺による被害よりも、アンジェラという存在の喪失の方が大きかったのだ。そんな彼に欠かせない、大切な存在を失うことでどういった答えを導き出すのか。大切な者をこれからは持たず、詐欺師として活動を続けていくのか、それとも大切な者を失わないように詐欺という犯罪から足を洗い、真っ当な生活を送ろうとするのか。彼は後者を選んだ。だからこそかはわからないが、アンジェラとも再開することができ、赦し合う?こともできた。結果的にハッピーエンドというわけだ。騙されたという喪失感よりも、何か心温まるものを感じる終わり方であった。おもしろかった。

2014年5月20日火曜日

イーグル・アイ (2008)

イーグル・アイ[DVD]

~監視社会への警鐘映画~

〇こんな話

対テロ用に開発した監視システムが人間の判断基準の曖昧さにより、国民を守るためのものではなく、国民の脅威になるお話。

 〇想起する作品

・「エネミー・オブ・アメリカ」
突然巻き込まれるわけのわからない感じと、追跡・逃亡具合。 追跡が衛星による真上からだけでない。町中のシステムに侵入でき、監視カメラや公衆電話にとどまらず公共の乗り物、携帯電話にまで及ぶ。万能、全能感が半端なく、主人公たちは電話の主の声という情報だけを頼りにその人物に迫っていく。
・「ウォーゲーム」
機械の理解の仕方。0か1か。

〇判断基準

ある任務で対象人物である可能性が51%で、コンピュータが中止勧告を出したにも関わらず任務を実行し、対象の人物を間違えて殺してしまう。コンピュータの情報によると可能性はほぼ半々だった。最終的な判断を下したのは人間であり、何を基準にしたのか?

もし対象とする人物だった場合の見逃した際の被害を考えれば、この場で殺しといた方が良い、というような見解だった気がする。正確には述べられてはいないが。間違っていたときよりも、合っていたときの方がリスクが大きい。将来的に見たリスクの大きさの対比による判断である。比較してみる・・・以下。

・殺した場合
対象の人物の合否判明。
対象の人物であったら犠牲はその場で殺した被害だけと最小限。テロリストだったという言い訳も立つ。違ったらその場で殺した被害と何かしらの事後処理だけですむ・・・はず。
・殺さなかった場合
対象の人物の合否不明。
対象の人物であったら大量の犠牲が生まれる可能性。違ったら何もない(死傷者0)・・・のはず。

上記のリスクの大きさを見やすく比較(アメリカ視点)

生死   \       人物       合致             不一致
殺した場合                       ① 小           ② 中
殺さなかった場合            ③ 最悪       ④ 0

・・・とリスクを比較した場合の価値判断。

① 対象の人物で、殺した
② 対象の人物でなく、殺した
③ 対象の人物で、殺さなかった
④ 対象の人物でなく、殺さなかった
と結果は4通り考えられるが、その場での選択は殺す・殺さない、の2通り。選択の段階では、「殺す」を選択した場合は①か②、「殺さない」を選択した場合は③か④、のどちらかの結果になる、ということしかわからない。結果は被害が0の④に越したことはない。問題はコンピュータがはじき出した可能性。今回は51%ということでまた微妙な数字なわけだが、これを半々ととるか。半分よりも1%でも上回っているからと確定的にとるか、ということで選択の価値が変わってくる。選択の段階では結果が確定できない。そんな時にどういう基準で判断を下すのか。半々と捉えた場合には、リスクを①~④のそれぞれの結果によるものではなく、それぞれ①と②、③と④のリスクの合算で判断するだろう。俗に言う安全策やあんぱい。1%に重きを置いた場合はこのケースであればただの博打になるだろう。49%なら逆の判断が下せたかは疑問だが、今回の場合、結局はどちらにしろ「殺す」を選択していたということになる。
ではなぜ「殺さない」を選択できないのか。「殺さない」という選択の時の結果の現れは1か0、と両極端になる。51%がその対象人物である可能性がある反面、49%は対象人物ではないのだが、この場合は1%の重きよりも半々というのが大きい。半々でリスクが0(最善)か1(最悪)の賭けに出るよりは、最初から考えうる最少と最大の幅が小さいリスクを選択した方が、その場では最良となる。故に③の可能性が確実に消せない「殺さない」は選択できない。
(なぜ1か0かとしたのかは、まあコンピュータというプログラムだから二進法と関連付けたかったからと・・・お察しください。有か無かしかないと、だからこそコンピュータは、任務は中止すべきと判断した。)

〇コンピュータと人間

コンピュータに人間の心が理解できる時代が来るのだろうか。確かに感情といったものはただの現象に過ぎず、電気信号でしかないかもしれない。コンピュータに再現可能な現象として、この映画のようにここまで人間の心理につけこみ、行動を追いこんでいくことが将来可能になるのだろうか。人間の善悪という曖昧な基準を、コンピュータはどう理解するのだろう。理解という表現がまず間違っているのか。基準は人それぞれであるために、一様に基準を設けることはできない。今日法律という基準があるにはあるが、その解釈も一様ではない。プログラムする場合は善悪という二つの基準を設けて、ある事象に関してそれぞれ振り分けていくのだろうか。そもそも二つの基準しかないと考えるのが間違いか。 法に抜け穴があるように、仮に人工知能という技術が可能として、いかにそのプログラムを規制したところで、解釈の仕様でいかような状況にも持ち込める。そこから機械の反乱がはじまるのか。結局は人間が不完全であることが故か。仮に人間が完全であれば機械に頼るような真似もしないと思うが・・・。 

〇最後に 
橋爪功主演の「京都迷宮案内」という作品で、監視カメラなのか防犯カメラなのかと議論になる話があった。犯罪防止や犯罪抑止力として機能するはずのカメラ(映像記録)が、人間のプライバシーを侵害しているという風に・・・確か。そこら中にカメラが設置されている社会は、確かに安全性は高まるかもしれない。しかし、その分何かしらが抑圧された世界が誕生する。客観的真実を映し出す反面、主観的行動を制限される。 公共の場で個性を出すなというわけではないが、公私を常に区別できる者などマレではないか。普段仕事などでは真面目な人が、実生活では意外な性癖があったりと、知られたくない、知られていないからこそ発散できるストレスってものもある・・・と言ってみる。 
外に出ると意外と見えていなかったり、意外と見られていることはある。そんな互いの関心・無関心とはよそに行動を把握される、つまり常に誰かに見られている。そんな世界を作ろうとしているのか。真実・事実の追求には人様の証言だけによる証拠では不十分であることはわかる。客観的事実を写し出したものを検証した方が真実味は増すだろう。しかしそれは究極、人間を信じるということに疑いを生むことにならないか。人を見たら泥棒と思えという思考が社会に浸透する。皆が皆に疑心暗鬼になり全てに対して疑ってかかる。正しい情報が何なのかわからない。いったいどこに真実はあるのか。そこで現れる監視社会という利点。ほらそこに真実が映っているよと。 
別に疑うことを悪いと言ってるわけではない。監視システム=真実という構図が出来上がることを恐れているだけ。そして多くの情報が錯綜する中、個人で情報を選別し収集する力が必要だと言いたいだけ。監視社会により映し出される世界だけが真実とは限らない、ということを忘れてはならない。映し出された世界はその時、一瞬しか映し出さない。そしてそれは映像という表面的なものだ。それは真実なのだろうか、と疑ってかかる必要がある。しかし世界全体に広まれば一人の行動を追うことが可能となるからそんなことも言ってられなくなるかもしれない。行動を追跡しそこに理由を見いだすことが可能となるだろう。そうなれば人様の証言など何も意味を為さない。そんな世界になったとしたら我々は人間として生きていく・生きている意味があるのだろうか。人間的行動というのがそもそもどういう意味を為しているかはわからないが。 
最後に、と書いて長々書いてしまった。この辺で終わりにする。

アポロ18(2011)

アポロ18

~月に何かいる~ 

 〇想起する作品
 「ノイズ」 (1999)

〇こんな話
 20号まで計画されていたアポロ計画は、予算削減のために17号で打ち切られていた。しかしそれは表向きで、実はアポロ計画には続きがあった。これはその計画の全容を記録した映像を編集したものである。

・ざっくりと
 宇宙飛行士 「宇宙人がいるなんて聞いてない。」

〇対策マニュアル
 ある宇宙飛行士に聞いた話ですが、宇宙人対策マニュアルというのは無いそうです。常に船と地上とで交信をしているから、仮に宇宙人と遭遇したら相談するとか何とか・・・。本当はあったにしても公の場であるが故、真実を言えなかった可能性もありますが。疑りすぎですかね・・・。真偽は定かではありませんが、好戦的な奴らだったらどうするんですかね? 地上と連絡を取り合う暇もないではないか。いや、これは暗に宇宙人の存在を認めているのかもしれません(笑) 宇宙人の間で太陽系第三惑星の地球と言う星の生物には危害を加えない、みたいな宇宙条約が存在するのでしょうか。それか何かしらの種にもうすでに守られているとか。それが地球を守ってくれるという一方的な関係であるはずがない。何かしらの代償が伴っているはず。人類は何を得、何を支払っているのでしょうか・・・。
 まあこの映画は宇宙人ではないですね。月にいる何か、みたいな・・・。 あと正確には宇宙人ではなく、地球外生命体ですね。 

〇選択 
 政府は月に何かがいるという事実を知っていて、宇宙飛行士を月へ送り出した。おそらくその事実の確認のための任務だったと思われる。しかしその事実を宇宙飛行士たちに知らせていなかったがために、この悲劇は起きてしまった。知って入れさえすれば対策を講ずることができたかもしれない。ソ連の宇宙飛行士が犠牲になっており、月に何かがいるという事実を知って尚月に行きたいという人はいないだろう。いやいるかもしれない。怖いものみたさというか、どうせ死ぬならそんな場所がいいみたいな。そういうクレイジーな連中に頼めばよかったのではないか。いや、そういうタイプは協調性に欠けるから無理か・・・。 

 宇宙飛行士はどんな非常事態でも、どんな過酷な状況でも冷静に判断し行動、そして生存できるように訓練されている。宇宙に行く上で、相性といった観点から誰と組むのかも選択されたりする。そんな少数精鋭の選ばれし者たちの関係において、映画内のような非常事態、想定外の事態ではどんな基準で判断が為されるのか。この映画で問題となるのはその過酷な訓練を共にしてきた仲間を見殺しにできるか否かだ。劇中で「俺のことはいいから一人で脱出しろ」という場面が存在する。ある選択を迫られる状況下で自己犠牲精神を持てるか、そしてその自己犠牲精神を汲み取り相手を見放せるか。判断の基準としては任務の優先なのか、人命の優先なのか。人命では仲間なのか、個人なのか。両立できればいいが、確実に片方が立たない場合が出てくる。その選択を迫られる猶予が無い場合はどうにもできないが、猶予があり誰とも連絡を取り合うことができず、個人で苦渋の選択を迫られた場合の対処法はどうなっているのだろうか。そしてその選択をしてしまったがために生き残り、精神を病むことになった場合のアフターケアなどはどのようなかたちで存在しているのだろうか。ある程度の基準は設けいてるだろうし、対処できるように訓練しているのだろうが限界は確実にある。 
 このような選択は何も宇宙飛行士だけの話ではなく、全ての人に言えるのではないだろうか。日常において経験をしたことがない事態に巻き込まれることは多々ある。人によってそれの対処方法として照会できる経験値の違いがあるだけで。そんなマニュアルが無い事態に陥った時、人はどのような基準で判断し行動するのだろうか? 

〇最後に 
 こういう都市伝説的なお話は大好きです。しかしこの映画はあまりおもしろくありません。嫌いじゃないですが。陰謀論が好きな方は見てみてはいかがでしょうか。

2014年5月18日日曜日

キリングゲーム(2013)

キリング・ゲーム[DVD]

~赦し~

〇こんな話
 ボスニア紛争(戦争)によるしがらみ・私怨による復讐劇。

〇しあい
 なんやかんやあって二人のサバイバルになるのだが、ここでのミソはロバート・デニーロとジョン・トラボルタという配役もあってか、勝負というより勝敗に考えが行ってしまうということだ。(二人の)一騎打ちは痛々しくも拮抗した展開を見せる。一進一退の攻防。どちらにも形勢が逆転する。ヒーローもののような圧倒的な不利な展開からの形勢逆転劇とは違い、お互いに追い詰めるもどこかに穴があり、そこを糸口にチャンスが一転ピンチに急転直下する。そんなうまくバランスのとれた、決して一方的でない攻防は、最後うまいところに落ち着く。

 二人が杯を酌み交わす場面で、スポーツマンシップどうのこうのとジョン・トラボルタがほくそ笑むところがあり、最終的に落ち着くところを観て納得する。この争いは殺さないというルールの下行われた二人のゲームだったのだ。そう死合ではなく試合。 ここから読み取れるものとして、勝敗は決してどちらかの敗北・死・妥協によって着くものではない。互いに互いを赦し、ある答え・悟りに達したときに真の価値を見出すことができる、というのがある。 

〇ゆるし
 この映画の背景に見え隠れする「赦し」という行為や概念。ただの痛快復讐劇では終わらせない。 劇中、「戦争において恨むべく者を倒すために、その恨むべく者になってしまった」、という見解が述べられる。この見解から考えるに、彼らは戦時中に互いに恨むべく対象を経験し、つまるところ恨むべく者を理解するということに踏み出していた。それが憎むべく対象への赦しの第一歩となっていた。しかし、戦争中ではその考える時間が排除される。この映画の二人の結末は、時を経たからこそ、価値観の変遷があったからこそたどり着いた境地なのだ。 
 赦しという行為により、復讐の連鎖を断ち切るという終わり方ではあるのだが、彼ら二人の境遇を考えると必然的な最終到達点な気がしてならない。この二人は戦後、自分の周りのしがらみを排除し、孤独に生きてきた。つまりどちらが死んだところで、どちらかの死に対する復讐に奔るものはいない。といってもデニーロの方には息子家族がいるのだが。そんな境遇(一対一)だからこそ為し得る赦し、という行為になってしまっている気がする。二人の都合上殺し合うほどにまでなってさらけ出せる思い。それを互いに感じることができたからこそ赦せるという結末のはずだが・・・。いやこれは皮肉なのか。人間はしがらみがある以上、ついて回る罪を背負って生きていかねばならないと。簡単に赦していいはずがあろうかと。 神の存在を慈悲ではなく、残酷さに求めるというある種の邪道。この辺もキリスト教という概念を皮肉ってる感じはするのだが・・・。

〇最後に
 この映画はロバート・デニーロとジョン・トラボルタという二大スターの競演により為し得た作品だ。今までの彼らの作品や役柄の歴史を知っているからこそ楽しめる。最後の結末を迎えても何か安心・安堵する。 

2014年5月13日火曜日

ターミネーター:SCC

ターミネーター:SCC[DVD]

~ターミネーターというレッテル~

〇レッテル
 シュワちゃんのおかげでターミネーターのイメージが屈強な男ってものになっていたのと、「ターミネーター」シリーズはシュワちゃんありきで作られるそんなイメージがあった。しかし、サマー・グローがそんなイメージを見事に払拭してくれた。

〇構図

 「ターミネーター」シリーズは戦力的に確実に機械の方が上となるため、人間がターミネーターに頼る場面が多々ある。そのことを踏まえると単純な力の序列っていうのが、

 ターミネーター > 男性 > 女性・子供

というふうになる。しかし、このシリーズは味方のターミネーターが女性という設定のため、それを先ほどの力の序列に当てはめてみると、

 女性(実質ターミネーター)> 男性 > 女性(人間)・子供

となり、一番頼りになるべき存在が女性ということになる。それゆえに屈強な男or男ターミネーターを前に対峙する者が、サマー・グロー演じる女ターミネーターということになり、この構図が物語をよりおもしろくしている。別に差別や偏見ではないのだけれど、今までは女性・子供を守るのは男みたいなイメージがあった。実際そういう表現をする映画が多数を占めているし、歴史的世界的にみてもこのイメージは割と浸透している。そんな世界観を脱却しようとした作品でもある気がする。日本でいえば男女雇用機会均等法等により女性の社会的地位が認められ始め、ある程度確立している方々がおられる今、という時代だからこそウケる表現といえる・・・のではないだろうか。

〇サマー・グロー

 役的にサマー・グローの仏頂面が映えるし、そのあまり変化のない表情の中に見え隠れするターミネーターが知り得ないはずの感情。くぅ~堪らん。サマー・グロー・・・好きです。

2014年5月9日金曜日

ザ・コール 緊急通報指令室(2013)

ザ・コール[DVD]

~目には目を、歯には歯を、悪には?~

〇こんな話
 自分のミスにより通報者を死なせてしまったオペレーターである主人公。それがトラウマとなり、研修生の指導にあたることに勤めていた。ある時ケイシーという少女から通報が入る。最初は指示をするだけなのだが、なんやかんやあって主人公が対応することに。はてさて・・・。 

 警察と911オペレーター・ルームとの連携が、犯人を追い詰めていく包囲網みたいな描かれ方をし、犯人を含め登場人物たちの判断・行動が犯人へと繋がっていく感じを見事なスピード感で描きつつ、わかりやすさを殺さないからとてもワクワクする。実際はオペレーター・ルームは盲目(声のみ)でこの繋がりは直接的には見えてこず、映画ならではの観せ方ではあるのだが、現場・警察・オペレーター・ルーム全てに焦点が当てられているからでこその緊張感はすばらしい。

〇全体として(流れ)
 前半部は 「スピード感>緊張感」 で描かれ、後半は 「緊張感>スピード感」 で展開する。

 基本的に犯罪捜査(犯罪映画)というのは犯人と主人公とでスタート地点・時間が違う。犯人が先にスタートし、優位な立場に確実に立っている。その最初からある差をいかに埋めるのかといった追いかけっこが面白味で、これはその設定を見事に活かした作品である。

 前半部は警察、オペレータールーム、通報者との連携により、一気に犯人との差を詰めていく。しかし、犯人逮捕への最後の決め手に欠ける。そして後半部、前半部で得た情報の選別によりじわじわと犯人に迫りよる。この前半部と後半部の対比及び緩急があるからまた飽きさせない。実際であったらスピード解決してほしいところではあるが、これは映画なので。 

 つまり、犯人に常に先を行かれざるを得ない主人公が、どうやって犯人に迫っていくのか、といったところが見どころで、さらには常に後手でありながら、その差を埋めるための犯人の描かれ方がまたミソで・・・、それは次の項で。 

〇(典型的な)サイコパスの描かれ方
 ・今は亡き愛する姉の影を追いかけているという男。

 ・犯行はある程度のスパンを置いており、その欲求充足が満たされる度合いやら期間があるという 設定を活かし、主人公のトラウマとなる誘拐事件と今回の事件をうまくつなげる。

  ・一見すると計画的に見えた犯行でも予想外の事態に陥ると対処しきれず、常軌を逸した行動(計画には無かった行動、つまりミス)に出てしまいすぐさま計画が破綻する。それを繰り返すことで証拠等が露呈し身元が暴かれていく。 

〇ENDについて
 まず前提・掟としてあること 
 ・オペレーターはPR(通報者)に感情移入しない 
 ・オペレーターは事件の結果が見えない

 ある事象のただの経過(仲介者)でしかない。 ハリソン・フォード的であれば法で裁かれるべき犯人をハリソン・フォードが痛い目にあわせる。まあ、殺すんですが・・・。この映画は殺すのではなく、そこで苦しみ朽ち果てろ的なエンドをどう見るのか?

 主人公VS犯人と観ると判断が難しい。しかし、被害者VS犯人と観るとちょっと違った見え方ができると思う。この事件の犯人は主人公がミスを犯し、トラウマとなっていた誘拐事件の犯人と同一人物であり、この主人公もまた被害者なのである。本来であれば主人公の職柄上、ラストは犯罪を犯した者は法により裁かれるべきではある。しかし、そんなのはただ法律で決められているに過ぎない。被害者の気持ちなど知れずに。なぜ法を犯す者に対して、こちらだけが法に従わなければならないのか? 法を犯しているものに対して法を適用する必要がどこにあるのか? そいつを裁く権利があるのは同じ土俵に立つべくものだけではないだろうか。それを被害者が請け負ったっていいじゃないか。誰が損をするわけじゃない。

 ・・・とまあ、思ってしまう自分がいるわけで。犯人と被害者間だけですっきり解決できればそれでいいのだが、そうもいかないことがあるわけで。別に宗教的な考えではないのだけれど、このような憎しみの連鎖を断ち切るには、どこかで赦すという行動に誰かが出て終止符を打つしかない。しかし、その見地に立てるのはある種絶対的な信仰心を持ったものだけであろう。その人物の行動を終始観察し、それらについて正当な審判を下せるものの存在を信じるもの。まぁそれに近いことを裁判という場で行うわけではあるのだが、犯人に対して同等の対価が課せられているのだろうか? 仮に課せられたとしてもその事象は消えない。どこにこの憤りを昇華すればよいのだろうか? と考え出すと、この世はなんと理不尽な不合理な世界なんだと感じてしまう。同じように感じる人は多いのではないだろうか。だからこそ、悪には悪を、法を適用しない悪への制裁を行う内容が痛快に思えるし、好まれる傾向にあるのだろう。 アメリカは悪に対して絶対的力をもって制圧をする。我が国が正義だと言わんばかりに。映画の影響が強いのだが、悪には悪をという考えがやはり強い気がする。

〇人間の行動分析
 異常事態を目撃した者たちの行動の違いについての描かれ方に納得させられた。人によっては事の重大性や判断の適切性が異なる。異常事態に陥った時、目撃した時あなたはどのような行動を起こすのだろう。すぐに911に連絡するかもしれない、しかし必ずしも911に連絡するとは限らない。当事者間での解決を図る人もいるかもしれない。考えさせられた。なるほど。 連絡したものの親切心が裏目にでる可能性も。それが母親である女性は連絡。ある程度の地位に就いている男は当事者間とこれはまたなにか狙っているのか? 

〇最後に
 最初にも書いたのだが、犯人へのつながりの描き方が見事。犯人自身からでる犯人へのつながり。それを通報者、警察、オペレータールームへとつなぐ。犯人に迫っていくのもうまく緩急をつけていて飽きさせない。最後は法を通して欲しかったところだが、やはりそれではインパクトに欠けていただろう。うん、おもしろかった。
 

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...