2014年5月18日日曜日

キリングゲーム(2013)

キリング・ゲーム[DVD]

~赦し~

〇こんな話
 ボスニア紛争(戦争)によるしがらみ・私怨による復讐劇。

〇しあい
 なんやかんやあって二人のサバイバルになるのだが、ここでのミソはロバート・デニーロとジョン・トラボルタという配役もあってか、勝負というより勝敗に考えが行ってしまうということだ。(二人の)一騎打ちは痛々しくも拮抗した展開を見せる。一進一退の攻防。どちらにも形勢が逆転する。ヒーローもののような圧倒的な不利な展開からの形勢逆転劇とは違い、お互いに追い詰めるもどこかに穴があり、そこを糸口にチャンスが一転ピンチに急転直下する。そんなうまくバランスのとれた、決して一方的でない攻防は、最後うまいところに落ち着く。

 二人が杯を酌み交わす場面で、スポーツマンシップどうのこうのとジョン・トラボルタがほくそ笑むところがあり、最終的に落ち着くところを観て納得する。この争いは殺さないというルールの下行われた二人のゲームだったのだ。そう死合ではなく試合。 ここから読み取れるものとして、勝敗は決してどちらかの敗北・死・妥協によって着くものではない。互いに互いを赦し、ある答え・悟りに達したときに真の価値を見出すことができる、というのがある。 

〇ゆるし
 この映画の背景に見え隠れする「赦し」という行為や概念。ただの痛快復讐劇では終わらせない。 劇中、「戦争において恨むべく者を倒すために、その恨むべく者になってしまった」、という見解が述べられる。この見解から考えるに、彼らは戦時中に互いに恨むべく対象を経験し、つまるところ恨むべく者を理解するということに踏み出していた。それが憎むべく対象への赦しの第一歩となっていた。しかし、戦争中ではその考える時間が排除される。この映画の二人の結末は、時を経たからこそ、価値観の変遷があったからこそたどり着いた境地なのだ。 
 赦しという行為により、復讐の連鎖を断ち切るという終わり方ではあるのだが、彼ら二人の境遇を考えると必然的な最終到達点な気がしてならない。この二人は戦後、自分の周りのしがらみを排除し、孤独に生きてきた。つまりどちらが死んだところで、どちらかの死に対する復讐に奔るものはいない。といってもデニーロの方には息子家族がいるのだが。そんな境遇(一対一)だからこそ為し得る赦し、という行為になってしまっている気がする。二人の都合上殺し合うほどにまでなってさらけ出せる思い。それを互いに感じることができたからこそ赦せるという結末のはずだが・・・。いやこれは皮肉なのか。人間はしがらみがある以上、ついて回る罪を背負って生きていかねばならないと。簡単に赦していいはずがあろうかと。 神の存在を慈悲ではなく、残酷さに求めるというある種の邪道。この辺もキリスト教という概念を皮肉ってる感じはするのだが・・・。

〇最後に
 この映画はロバート・デニーロとジョン・トラボルタという二大スターの競演により為し得た作品だ。今までの彼らの作品や役柄の歴史を知っているからこそ楽しめる。最後の結末を迎えても何か安心・安堵する。 

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