2015年3月29日日曜日

ゲッタウェイ スーパースネイク(2013)

ゲッタウェイ スーパースネーク[DVD]


~駆け引き~

〇想起する作品 
「スピード」 (1994)
「ザ・ファン」 (1996)
「フォーン・ブース」 (2003) 

〇こんな話 
 車でゲッタウェイするお話。

〇駆け引き
 妻を人質にとることで優位性を保ち、運転者に無理難題を指示する犯人と、その指示をその場の状況に合わせてなんだかんだ実行してしまう主人公。犯人と主人公とどちらが有能、優秀なのだろうか。頭脳なのか、実行力なのか。この駆け引きがおそらくこの映画における緊張感を引きだしている。そしてもう一人。美人と言うより、かわいい系の幼い感じの女の子。頭、機転の利く、犯人の裏をかく存在。この辺のギャップがまた興味をそそるところなのだろう。彼女の計画を実行する存在が犯人との関係同様に主人公であるところもまたおもしろい・・・そこまでおもしろくはない。 

 ん~、もう少し二人の関係性をうまく描けなかったのかなぁ。馴れ合っていく様をもっとこう何と言うか・・・。女の子はもっと幼くて良かったんじゃないかなとも。せめてティーンエイジャー使うべきだったのではないだろうか。十分に童顔でかわいいとは思うのだけど、クセがないんですよね。車を所有・運転できる設定に必ずしもしなければならなかったのか。幼き日のダコタ・ファニングやクロエちゃん辺りの女優が出てこないものか。
・・・・あ、そうだ芦田愛菜さんがいる。

〇最後に
 セレーナ・ゴメス、覚えておきます。

2015年3月25日水曜日

ランニング・マン(2013)

ランニング・マン [DVD]

~印象~ 


〇はじめに 
 原題が「THE JOGGER」
スピードアップしちゃってるな、勝手に。まぁ、ジョギングマンってあまり言わないし、かっこ悪く感じるしな。 
 「Jog」は記憶を呼び起こすという意味もあるのか。なるほどなるほど。こっちの意味だろう。 

〇こんな話 
 ジョギングしている男。左手の薬指には結婚指輪が光る。そんな彼が突然何者かに襲われることになる。現在と過去の出来事が交互に描かれ、見舞われている事態の真相に迫っていく。 

〇騙される心理 
 公私共にギクシャクしていた。仕事、結婚生活、女性関係、友人関係・・・etc 

 彼と関わる者を描き出すことで、彼に襲われる原因があったこと、そして彼がなぜ襲われているのか、という真相を探らせることが狙いであろう。そしてその心理に囚われた者が最後騙されると。



 公私混同、そして現実と妄想の混同。自分の都合の良いように人間は出来事を改変する。この作品は、自分が被害者であるという心理に囚われた彼の断片的な記憶を観せられていたに過ぎない。道路を歩いている亀を脇道に避けてやる彼。そして夜道を走る彼と、突然彼の近くで止まる車と、どちらが恐ろしい(悪い)ものに見えるのか。彼の立ち位置がどのようなものなのかという印象操作が序盤に為されているわけだ。後々、ただ座っているだけなのに、いきなり公園で小児性愛者とレッテルを貼られるような場面も。

――何より実際に彼が襲われている様子が描かれているわけですからね。そりゃ被害者視点で見てしまいますよ。彼を疑うべき要素の、最初のシーンなんて見てなかったですもん。わざとスタッフロール的なの入れてますね、これは。と、強がってみる。――

 断片的な彼の行動を観せられて我々は彼をどのような人間であると判断するのか。彼は悪くない、被害者であるという見解に、この限られた情報で勝手に達することだろう。故に、なぜ彼は襲われているのかという思考に陥ってしまう。彼の過去回想に登場する人物の中に犯人を見出そうとしてしまう。肝心の容疑者が外れていることなど忘れて・・・

 それを劇中で彼もやっていたわけだ。自分には決して非が無いという前提で。妻が素気ない、冷たい。営みがない。避けられてる気がする。「なぜなんだ??」という疑問を探りはじめる。彼には素気ない妻が、友人と楽しげに話すツーショットが時折映し出される。それが彼にはどのように見えていたのか。通話やメッセージという証拠も押さえた。自分が決して得られない情報を、手に入る限られた情報から勝手に補っていく。断片的な情報をつなぎあわせ辿りつく答え。浮気している。しかも友人とだ。いったい誰が悪いんだ?・・・・

*こんな感じの真相
 要は 「仕事を解雇されたことを、妻が浮気している所為にした」
 自分の知らないところで、自分の解雇という事実に動揺し、自分に対する反応が変化していく人々の様子から、妻が浮気しているという妄想を創り出した。
 そして自分の能力不足が原因による会社側の解雇という判断を認められず、自分の責任を回避しようと、妻と友人の浮気の所為だと思い込むことにした。
 解雇と浮気が勝手に結びつき、現実と妄想の区別がつかなくなり、猟奇殺人鬼に・・・



 被害者と思われていた彼に対して、徐々に違和感を感じさせるようにもなっている。友人の冗談を真に受ける様子や、家族を思い誘惑に屈しない誠実な彼も伏線だ。一見一般的な夫としての責任感にも見えるが、異様なほどの執着心ともとれてしまうのだ。先ほどの小児性愛者というレッテル貼りも実はこっちなのかもしれない。彼を被害者側とも見られるのだが、公園にいる子供の誰の親でもない大人の男が、遊んでいる子供を見てニヤニヤしていたらどのような人間に見えるのか。彼側に偏った視点に疑問符を与える要素でもあったわけだ。

 情報なんてのは見方やタイミングでいくらでも変化する。しかし、良いものが悪く見えたり、悪いものが、より悪く見えてしまったりという傾向が強い。悪い方に見えやすいというのは、他人からの見られ方を気にするからか、プライドが高いからか。この辺のことがレストランでの友人との会話の中で話されている。ここが彼の見え方(見られ方)の分岐点だ。そしてこの作品で言いたいことの全てだ。


〇最後に
 自意識過剰な被害妄想野郎がぶちギレちゃった話であるわけだが、集団の中における自分という立ち位置を気にしている人間は数多くいるわけで。自分はどう見られているのかということを気にしてやまない人は、良く見られたいと思うこと必至で、悪いイメージを払拭しようと悪いイメージに囚われ、悪い方に悪い方に考えてしまうようになる。彼予備軍なわけだ。我々はいつ爆発するかわからない爆弾に囲まれて生活している。そして自分自身も爆弾かもしれない。彼にならないように、どこかしらで何かしらの心の整理や発散をせねばなるまい。気をつけられたし。

2015年3月24日火曜日

名探偵コナン ベイカー街の亡霊(2002)

名探偵コナン ベイカー街の亡霊[DVD]

~力とは~

〇はじめに 
 劇場版第6作目 

 これから世襲制についての話をしよう。 
 身内や親戚、周囲の者に著名人であり何かしら力のある者がいると強がる奴はいませんか。で? お前自身はどうなのよ? 的な。そんなイライラを少しは解消してくれる映画。

〇こんな話 
 ある日のこと、いやいつの日もか・・・ 
「俺は最強の武器を手に入れた。いつも勝てないあいつに勝つためだ。今まで勝てなかったのは武器が悪かったからだ。今度こそ勝てるぞ、何せ最強の武器がある」
と意気込む者がいた・・・。 
 たいていそういう奴は勝てません。自分自身の実力ではなく、オプションに目が行き過ぎ他者の力を自分のモノと勘違いしている連中は。そんな者たちを成敗するべく真の実力者が現れた。その者は言う
「最強の武器ってのは自分自身に宿るもんなんだよ、剣や盾なんてただの道具、オプションさ」
・・・と。その名は、名探偵コナン!! 

 キャッチコピーは「力が欲しいか~?」「あなたはこの誘惑に勝てるだろうか?」

〇(ザクとは)違うのだよ(ザクとは!!) 
 子どもたちの違いの演出もなかなかに見事。誰かしらから何の代価も無く手に入れたコクーンバッジを持っている財界人の御子息と、それを限定カードという代償を伴って、交渉(自らの知恵)により手に入れる少年探偵団。自らが考えて行動する一般市民と、(下の者のことなど)何の考えもせず世襲制を謳歌する者たち。さらには歩美ちゃんの一言も気になる。
「コクーンはこれからでも遊べるかもしれないが、ヤイバーカードは今を逃したら手に入らないかも」
現在の地位にいることでコクーンはいつでも遊べるという余裕から、ヤイバーカードを手に入れることを選択する御子息たち。コクーンは結局データが抹消されることになるので二度と遊ばれることはない。これは何を意味するのか・・・?。 
まぁ取引の上でお互いにWinWinの関係にはあるわけだが・・・。

〇教育 
 日本の教育が個性を潰しているというような表現が存在する。だからヒロキ君は海外でのびのびと自分の個性を活かして・・・。

 これをどう見るのか。ヒロキ君は個性を活かされることで、革命的な発明をしながらも結局は自殺を図ることになる。才能・能力的に子供でいることを許されなかったがためだ。そして大人の残酷な世界に耐えうるメンタルを持っていなかった故。簡単に言ってしまえば、彼はませていたのだ。そんな彼が創りだしたノアズアークは、ヒロキ君と同じ歳までに成長することで日本のリセットを図ろうとする。ここで確認する。彼を自殺に追いやった世界は個性が活かされる社会である。日本の教育界ではない。

 ノアズアークのリセットしようとしている世襲制を謳歌する子供たちは、実は個性が活きるように育てられているという皮肉。劇中でひたすらに自分勝手を貫いている。しかしそれは(ヒロキ君の言うところの)間違った個性、詰まる所のわがまま、無知、無能、・・・要はただのバカだ。 
 そもそもなぜ日本の教育では個性が抑圧される傾向にあるのか。それは個性の抑圧により、集団の秩序を守るためだ。極論を言えば、多くの犠牲が出るならば一人の犠牲をやむなしとする。御曹司たちに説教するのに公衆道徳という言葉が用いられるのが良い例だろう。 今あなたが我慢すれば・・・、と個人を抑圧し、それが伝達することで、皆我慢しているのだから・・・、と集団に広がりそれがまた個人の抑圧に戻ってくる。この連鎖なのである。この連鎖が秩序を保つ方法として日本では用いられている。それが個性を殺しているという現実に繋がっている。

 最後はヒロキ君(ノアズアーク)が自分もみんなと遊びたかったというエゴ(個性)を出したがために、世襲制は根本からは解決せずに、同じ過ちを繰り返していくだろうという皮肉なENDで終わる・・・多分。さらには、ノアズアークの真意は公表されることはなく、コナン君しか知る由は無い。鑑賞者の皆さんは別ですよ。

〇ひとつの真実 
~蛙の子は蛙未満~ 

 人間は忘れる生物である。過去の過ちをいずれは忘れる。どんな被害を伴ったのかを。歴史としては覚えている。しかし記憶としては忘れてしまうのだ。経験した者がいなくなっていくというのもある。故に同じ過ちを繰り返すことになる。大きくは戦争という歴史が物語っている。人類の歴史は戦争なしには語れないと言われるほどだ。
 この映画は世襲制を見事に皮肉っている。最後はハッピーエンド、生意気なガキたちが改心したかのように描かれるもののそこで話は終わる。ここからは想像であるが、おそらくこの後彼らの親たちはこの事件を問題に取り上げ、徹底的に叩くだろう。子どもたちの意向は無視して。そこに問題がある。彼らは親の権力で、そしてその権力を自分にあるものと勘違いをして横柄な態度をとる。それは彼ら自身にも問題があるが、そう勘違いをさせてしまうような接し方をする周りの者にも問題がある。絶対的な権力者のご機嫌を伺おうとその周りの者たちも絶対的な者と同じような扱いをする。そりゃ勘違いするだろう。さぞ気持ちの良い気分だろうよ。そしてその環境に慣らされての世代交代。お偉いさんと平民との関係性は悪化の一途をたどることだろう。どんどんバカや無能が育って世に出ていくわけです。まぁ皆さんも誰かしらを見てそう感じることが多くあるのではないだろうか。
 つまり、彼らは1つの記憶としてこの事件を覚えているに過ぎない。この時は何かしらの教訓となっているかもしれない。しかしまた同じような世界に長々と浸っていれば、その記憶はどうなるのだろうか。

 コナン、灰原というキャラがどういうキャラかを浸透させている中で、世襲制について皮肉らせることの狙いは見えている。大体の者が同じような事を考えているのではないだろうか。そこを敢えて彼らに代弁させることで、気持ちの整理をさせると。まぁただの強がりにしか感じられないでしょうけどね。しかし彼らの活躍が慰めになるわけで。


 もうひとつ奥の世界へ行ってみよう。 
コナンということもあり、主人公というスポットライトを浴びるべき存在と、それを引き立たせる脇役の二種類に分けられる。ロンドンを舞台に繰り広げられるゲームの中で行われる主役と脇役の茶番劇。描写されるだけまだいい。ゲームは5つあったのだ。あとの4つは何の描写も無い。そこがまたおもしろい。脇役にすらならない者たちの存在。個性云々と言っているが・・・
・・・描かれなかった彼らの努力に、意味はあったのか??

〇疑念
 工藤優作がゲーム内の言語について日本語にしてくださいと頼む場面がある。そこが気になる。ゲーム内の子供たちを配慮しての発言で何ら問題は無いのだが、工藤優作とはそのようなキャラだったのだろうか。もっと馬鹿なキャラにこの台詞を言わせるべきではなかったのだろうか。工藤優作は英語で理解できてしまい、常人とは少し違うよねというアピールをしなかったのはなぜなのか。実は工藤優作も英語が聞き取れない?? 

〇最後に 
 教育の項目でも触れたが、一人だけこのゲームを経験をしていない者がいることを忘れてはならない。ノアズアークがその人物の代わりにゲームをプレイしていた。世襲制の根強さ(いや、安定か)を表している、皮肉っているのだろう。根本的な問題を解決しない限り何も意味は無い。草刈りと一緒だ。地上に見えている草を刈ったところでまたすぐに生えてくる。根っこから引っこ抜かねば。すでに出来上がっている世界観(システム)をひっくり返すには、相当な事をしないとだめなんだ。そんなインパクトを残せないならば、既存のシステムに従順になること止む無しなのだろう。

2015年3月23日月曜日

ストロボ・エッジ(2015)



~人間像~ 


〇はじめに 
 映画館からの帰路、あの二人のようなカップルがいるのかと行きかう人に目をやっていた。そんな中ふと視線を上げると、点々と明かりがともっているマンションが目に入ってきた。そして思う、この中でどれだけの人たちが〇〇〇しているのだろうかと。 

〇こんな話 
 ある女が、彼女がいる男に告白をして、違う男に攻め寄られて、その男の元彼女に引き離されそうになって、付き合うお話。 

〇人間像 
 少女漫画という特有の雰囲気だからこそ気になったことがある。 
― 好きになった人間像とはどのように創り上げられたものなのか?? ― 
ということだ。 
 彼女が好きになったのは、彼の人生のほんの一部を切り取り繋ぎ合わせたものに過ぎない。主には登下校を含めた学校生活の中だけの彼だ。それを勝手に良い方に解釈をして、好きになったわけだ。それが告白以降彼との距離や関係は近づき、その付き合いの中で様々な真実が明らかになっていくはずであった。彼が彼足る所以。女性が憧れる彼の人間像の形成過程というか。要はギャップだ。彼のプラス要素を支える何かしらのマイナス要素。しかしこの作品においては、出てくる情報全てが彼の印象をプラスにしかしない。常にプラスなんですは。イメージが全く落ちない。突然舞い降りた完璧な男の子。別れを切り出すのも女の子の方だ。そんな非の打ちどころの無い彼にますます思いを募らせていくこと必至。まぁこれが狙いなんだろうけど、そこが解せない。で、唯一のマイナス要素が男の友情関連に昇華される。 いや、男から見てもかっこいいと思いますよ。でも何かもうギャグなんですよ、実際彼のような存在は・・・

 イラつくので、次の項目で男から見た彼というテーマでマイナスイメージに貶めよう。 

〇男から見た彼 
Q. レン君いっつも一人だけど友達いないの~?? 
A. いいえ、大親友のタクミ君を際立たせるための演出です。 

Q. シンクロニシティってな~に?? 
A. 男と女がつながりたいという衝動を隠すための言い訳です。 

Q. たまにポエマーになるよね?? 
A. わかる人にはわかるのです。

・・・・ダメだ、力及ばず。

〇世界
 大人の存在がほとんど描写されない。物語に直接関わってこない。唯一のその世界とのつながりはレン君の彼女なわけだが、それは途中切り捨てられることになる。つまりはそういうことなのだろう。大人の世界との隔絶。汚いというイメージを劇中の恋愛に結びつけさせない。ピュアなんですよ。しかし下衆な心を持つ者には逆にそれを助長することになるだろう。

〇余談 
 電車の中で音漏れするような音量で「愛唄」聴いてる人間ってどうなのよ?? 

 修学旅行での一場面。二人の背景には蓮の池。花言葉は、
・離れゆく愛
・雄弁
・清らかな心
・神聖
・・・・etc

 最後二人の間に「9」という数字が描かれた電柱のようなものがあるのだが、これは何か意味しているのかな・・・「苦」??

〇最後に
 劇中で起きている現象はいったいどこの世界で起きているものなのだろうかと、ひたすらに他人事であった。脳内パニックで、鑑賞後ひたすらに頭痛に悩まされたのは、また別のお話。

2015年3月22日日曜日

イントゥ・ザ・ウッズ(2014)



~WOODS~ 

〇はじめに 
 アナ・ケンドリックたまんね~。お前の所為だと攻め寄られて~。
小汚い恰好の時が一番綺麗だったな、うん。あともう少し下品なところを観たかったな~ 。 

〇こんな話 
 いかに世の中の汚い部分を見せずに、子供を大人にするのか。そもそもそんなことが可能なのか。いやいつまでも子供のままなのか。 

〇森 
~森とは何の象徴だったのだろうか?~ 

 魔女はパン屋の夫婦に四つのアイテムをコレクトすることで子供を授かれると言う。そのアイテムは森の中にある。これは子供の製造工程を省くためと、子供を育てるという親になるための、親に必要な大人の覚悟(愛?)のことか。いやアイテム収集が製造工程とし、森は子宮の象徴か・・・ 
・・・森では奇跡的な出会いが何度も繰り返されている。男と女が確かに何度も出会っていたりする。ん、待てよ。そこにジャックと赤ずきんの出会いも含めてしまうのか・・・(とは歪んだ心の持ち主の私が思ってしまうこと)。

 赤子ジャックと赤ずきんラプンツェルと王子はそれぞれエリクソンの発達課題における、乳児期学童期(青年期?)青年期(成人前期?)のことか。 


「赤子」→「赤ずきん&ジャック」→「ラプンツェル」

といったような成長を遂げていくだろう人間。より細かく見ていくとするならば、

???→「赤子」→「R&J(苦難)」→「R&J(HE)」→「R&J(BE)」→「RP(苦難)」→「RP(HE)」→???

 今までは苦難を乗り越えれば必ず恒久的な幸せにありつくことができた。しかし実際はそんなこたあないと。その者が幸せと判断できるのは、その者の視点のみ。つまり一方的な見解でしかない。周りの者たちのことなどまるで無かったかのような扱いにおいてだけだ。誰かが幸せを得ることによって、不幸を被る者もいる。そしてその不幸はいずれ自分に還ってくる。ハッピーエンドというのは幸せを手にした瞬間で語ることを終えていたに過ぎない。

―― まぁ幸か不幸かという判断がそもそも自己と他者を比較することによって成り立つもので。ディズニーだけではないのだが、その物語がハッピーエンドど判断しうるのは、その物語の主人公が他者を押し退けて幸せを手に入れたという作品内における比較もあるのだが、鑑賞者という自分自身との比較にもなっているわけで。まぁ要は極端な話、幸せというものは不幸無しには成り立たない。
「誰かが幸せ=誰かが不幸」
という図式が出来上がっているわけだ。しかしその事実を夢の国はひた隠しする。別にそこに罪は無い。それを誤って解釈してしまう脳内お花畑が世にゴロゴロしているだけだ。そしてそれを知っていて尚、夢の国を創り上げることに問題があるだけ。ま、夢が無けりゃやっていけないのはわかりますがね・・・。
誰もが自分の幸せを望むのは確かだ。しかしその幸せとは何だ。自分が誰かと比較したときに、誰々よりも幸せという意味不明な尺度を求めていないか。ただの自己満足の顕示になっていないか。周囲の目をひたすらに気にしていないか。そして他者の不幸を目の当たりにしたとき、自らの幸せを感じるようになっていないか。さらにそれは究極他者の不幸を望むことにつながりはしないか。
・・・心当たりは無いだろうか?? ――

 巨人問題がそれの集約だ。皆が皆それぞれに望むものがあった。何らかの代償と引き換えにそれを手に入れるために、自らの決断で動いた。手に入れたまでは良い。その後が問題だ。そのツケがいざ降りかかると、「僕じゃな~い」「私じゃな~い」とのたまう。宝を盗んだジャックが悪いのか。豆をあげたパン屋が悪いのか。残りの豆を捨てたシンデレラが悪いのか。子どもを欲した夫婦が悪いのか。呪いをもらったパン屋夫の父親が悪いのか。・・・・まぁつまりこの世に人間が生まれたことこそが問題なわけです。という責任転嫁と追及の嵐が巻き起こる。
 そこで、罪の自覚の場面で赤ずきんとジャックがいるわけである。赤子は生まれたて。ラプンツェルは現実逃避をする中のこの二人である。先ほどの成長過程を少し見ていただく。おそらく今までの作品では太字下線の部分が省かれていたのではなかろうかと。赤ずきんとジャックの二人の時期でそれを描くことが今までと違うところだろう。成功だけでなく、失敗も必要なのだと。いやその成功と失敗の繰り返しが大切なのだと。
 つまり男女の間には、愛があればいつのまにか子供は生まれる。そしてなんやかんやあって、やがて親の下を去っていくのだと。あなたたち子供は、これから何も考えず何も気付かず、のほほんと生きていればいつのまにかに立派な大人になっている。と今までは言っていたのだ。ごめん、なんやかんやを省いて物語作ってたわと。世界って単純じゃないよね。割と複雑だよねと。理解できない、割り切れないことばかりなんだ。何て不条理なの世界はと嘆きなさい。と今まで夢の世界にいた住人に現実をつきつける。生き残る方法はというと、
「同じ側の人間を味方につけ、それ以外は排除するのだ。例えそれが・・・・・備えよ、現実世界との戦闘に」
・・・R&Jにおいてだけだと思っていたものの、赤子の段階から実は暗雲が立ち込めているのである。パン屋の母親がワァ~オして死ぬのである。赤子の段階で一番に頼るべき存在の母親。それがいないのである。しかし新たなる妻及び母親になるであろうシンデレラ。そして兄妹となるであろうR&Jの存在。そこにまだ救いがあるのか。あとおばあちゃんもね・・・なぁ~んて。しかしパン屋夫婦、シンデレラ、魔女もそれぞれ関連してるのは確かだ。それは自分の目で確かめていただきたい。
以下簡易まとめ・・・

・赤子
 最後パン屋夫(父親)にそれはそれは希望に満ちたおとぎ話を聴かされることになる。 
 母親は死亡。

・ジャックと赤ずきん
 それぞれの目的を達成し、物語上の1つのハッピーエンドを迎える。
 その後バッドエンドを乗り越えようと巨人を倒す前に、パン屋夫とシンデレラにそれぞれあることを説かれることになる。世界は複雑だと。そして自らの罪を悔いる場面もある。

・ラプンツェルと王子
 子離れできない魔女(育ての親)からの独立(自律)をすることになる。森の外へ行くんだっけか。そしてハッピーエンドに辿りつくのだろうと。 
 実際は大人になるための期間を全て塔の上で過ごしていたという世間及び常識知らずの、無知蒙昧が社会へと旅立っていくと(王子の目を視えないままにすればもっと皮肉っぽかったのに・・・)。

*補足*
 赤子を男女の対比にしなかったのは自我の目覚めが無く、区別をつける必要が無かったからか。

 魔女の四つのアイテムに触れないという制約を犯しているあからさまな演出も、ハッピーエンドにおけるご都合主義や予定調和を意識付けるためだろう。その後に待ち受けるものは何なのかというところに掛かっている。




 森は人間が初めて出現する空間(子宮)であり、守ってもらう家族(同じ血統を持つ者)であり、意見を同じくする者(他人)たちである。
・・・前の二者を合わせて親とした方が良いか。親であり、友人であり、恋人である。いや帰る場所とするのか。
ふぅ、さっぱりだぜ。
 森とは、内輪ネタってことでしょ多分。同じ側という表現を用いていたか。一方的な見解や解釈を比較も無しに盲目的に信用してしまう人間の特性というか。他者批判(非難)という思考を助長するようになるものだ。
 森が壊れる(壊される)ことで、外部の者の被害に対する責任問題に発展。この内輪ネタを外部の者が見た場合に、責任取るのなんて正直誰でも良い。こちら側が正しいと証明されることを望んでいるわけで(さらに欲が湧いてくるのはまた別のお話として)。で、内輪では誰も責任を取りたくなどないと。内輪を壊そうとしている外部の者排除すれば良くね?、という思考になるわけで。しかしその思考は内輪の自己破壊にもつながることもあると。世界とは複雑だ。カオスだ。爆発だ!!

 森とはいったい何だったのか・・・・

〇最後に
 アイ・ウィッシュ・アイ・ワ~・ア・バード
こんなCMあったな~。ではでは・・・。

2015年3月16日月曜日

幕が上がる(2015)



~指標~ 

〇はじめに 
 黒木華が本当にすばらしい。同じ先生役でも「ソロモンの偽証」のあの苛立ちを覚えた担任。「花とアリス殺人事件」の少し天然系の担任。そしてこの「幕が上がる」の姉御肌。それぞれの教師像を演じ分けるのはいったい何なんだと。この作品においては、頼りがいのある存在で、腹から声を出すというか、ドスの利いた声というか、すごい響くんですよね。 
・・・ちょ、嘘だろ・・・24歳かよ(もう25か)・・・・・・・・・・蒼井優の方が年上・・・だと・・・ 

〇想起する作品
「くちびるに歌を」(2015)
「あさひなぐ」 こざき亜衣 (2011~)

〇こんな話
 とある演劇部の日常と非日常。

〇ストレート
 それぞれの関係性を描く上で、ストレートな感情表現が目立つ。そんなに友達や先生に対して真っ直ぐに思いを伝えられるものかと首をひねる部分が無かったかと言われれば嘘になる。主人公の心の声や迷い、イラダチがあるにはあった。一人で抱え込み、爆発することで人に当たってしまう。自分の面倒くさい性格として自覚しており、それで片付けていたのだが、その辺のぐちゃぐちゃした闇をもう少し描いても良かったように思う。しかしその感情の矛先が演劇というものに向いたとすれば、先生が向けさせたとすればこの問題は解消か。 
・・・まぁこの真っ直ぐな感じがこの作品の良いところなのであるが。

〇指標
 最初に審査員に対する不満ではないのだが、演劇に対する評価がよくわからないといったような台詞が入る。実力がわかりにくい、客観的な判断というよりは、主観で好きか嫌いかが一番に反映されるであろう演劇。観客に観(魅)せなければいけない、観てもらわなければ話にならない。その指標として、黒木華演じる新任の教師が活きてくる。役者として女王とまで呼ばれた者の、お前たちの実力はこれくらいだという指標。この人に教われば、付いていけば確実に成功するだろうという彼女の実力という裏付けや示唆。結果がなかなかに見えてこない、結果を出す部分が無いこの演劇部にとっては絶好のアクセントだ。

 アクセントなのだが、黒木華の存在が途中から、というか登場から際立ち始める。そしてこれを高校生の立場の者たちがどのように脱却し、自律を図るのかというところが気になり始めてしまう。指導者としてこれほど適任な者はいない。しかし彼女に頼り切ることで結果を残しても、何ら意味は無い。才能があろうとただの操り人形だ。彼女たちに何が残るのかと。 そこは元役者ということを活かしてきた。劇中は出張と言うことで席をはずし、自分との共通項を見出した者に、演出家(指導者的立場)をやらせるという、自分の代替者を用意した。付き従う者ではなく、対立する関係にあると。
 ここの共通項を見出すところがまたうまいんですは。主人公はまず欠点の方に目が行ってしまう、気になってしまう。その心の声の後に、先生がまず相手のどこかしらを褒めてから、主人公の気になる部分と同じ箇所を自分の意見として指摘する様を観せる。ここがまず二人の差ですよ。いきなり否定はしない。ある程度受け入れてから、相手のご機嫌をとってから自分の意見を述べる。そして差はあるものの、主人公にとってはうれしいわけで。自分と同じことを考えていたと。その分野では絶対的な存在であった人物と同じ意見を共有していると。それは自信にもつながっていくわけで。
--- 例えばですよ。何かの授業やら講義、講演などで教壇に立つ者が質問を発したとする。誰も答えを出さない中、自分はその答えがわかる。しかし本当に合っているのかと。間違いを恐れ、答えられなかったりするのである。そして答え合わせをしてみたら、やっぱり正解だったと。後悔する反面、勝手にシメシメとうれしかったりするのである。そしてそのうれしさを知ってもらいたかったりもする。もしかしたら、こちらの意図をくみ取ってくれることもあるかもしれない。発言はせずともわかった人がいたであろうと理解を示し、激励してくれるかもしれない。それを繰り返していくことで、次の同じような場面で、自分の能力に対する自信につながるのである。そんな演出がちょくちょく入る(ってたはず)。 ---
 彼女たちの演劇は決して先生の作品ではなく、彼女ら自身で創り上げたものだ。主人公も自分の力だけではないというようなニュアンスの言葉をひたすらに使っている。そしておそらく先生という存在、指標の消失が、彼女らの自立を促すだけでなく、不安感の演出だったりもするのだろう。舞台の上でならどこへでも行けるという事柄と対を為すものとして、絶対に辿りつけない場所があると。そして自分はどこにいるのかと悩んでいたりする。学業、進路、やりたいこと、様々な思いや悩みが交錯する時期を一生懸命生きている。この作品はそんな彼女たちの成長を純粋に楽しめればいいのではないだろうか。

 そして輪に入ってこれないお笑い担当の顧問の存在も実は良いスパイスになっている。男であるが故というのもあるのだろう。最後まで東京03の角田に見えて仕方なかったのだが、締めるところは締める。すばらしかった。でもやっぱり笑いとってくるんだよな(笑) 最後の滑舌イジリ。終始ユッコの父親何言ってるかわかんなかったもんな。滑舌というコンプレックスを持った転校生とも掛けていたのだろう。


〇余談 
 ももクロは青が好きです。

 黒木華さん、今回の役は美術の先生ということで、スモック姿が非常に板についていたので、次教師役をやる時は是非白衣を常に召している役でお願いしたいと思います。最近悪いイメージがついてしまったいわばリケジョですね。是非。

 燃やす台本のタイトルが「ウィンタータイムマシンブルース」
なるほど監督が同じなのか。

〇最後に
 ももクロである必要があったのかと言われれば疑問である。しかしこの真っ直ぐな感じはももクロだからこそ出せた雰囲気ではなかろうか。そしてももクロ故の話題性と、逆に目に触れない方々が多くいるだろう。実にもったいない作品だ。

2015年3月12日木曜日

エビデンス -全滅-(2013)

エビデンス-全滅-[DVD]


~確たる証拠~ 

〇想起する作品 
 「デッド・サイレンス」(2007) 
 オチまで緊張感を保つために、ちょくちょくビックリさせる演出を入れるところ。POVならではで怖いんですよ、もう(笑) 

〇こんな話 
 映像の中に全ての答えがある。証拠は手に入れた。犯人逮捕は目前だ。まぁ見とけって。
・・・ってな具合で捜査していく刑事を鑑賞するお話。

〇騙される心理 
 はじめに映像証拠がどれだけの信頼を持つものなのかという提示が為される。そして劇中でも刑事たちが映像に全てがあるとまで言っている。それを踏まえてこの作品を鑑賞することになる。

 刑事たちは最初に説明が入るように、映像証拠を重要視しすぎてしまった。映像の登場人物たちを疑えはすれど、映像証拠自体を疑うことをしなかった。映像を分析することで犯人が捕まえられると確信してしまっていた。いや、映像を手に入れたことですでに犯人を捕まえた気にすらなっていたかもしれない。

 この刑事たちの思考は、参考書を買っただけで勉強した気に、できる気になっている学生と同じだ。確かに参考書の中には必要不可欠な情報がふんだんに盛り込まれている。しかしそれは手にしただけでは決して自分のものにはなっていない。にも関わらず勝手に自信に満ち溢れてしまうのである。買った、手に入れたとともに味わうあの「やった感」「満足感」。おそらくその者たちは、過去に参考書を手に入れることでそれをやり込み、ある程度の知識を身に付け、ある程度の結果を出してしまった者たちであろう。その経験により、いつでもできる、やればできるという、どこからともなく来る自信に苛まれ、ひたすらに自身を盲目にしてしまう。
・・・いや、その参考書を使っている者が、オススメしている者が勉強ができ、何を勉強すべきかもわかっていないのにそんな者たちに憧れ、カタチから入ろうとした者かもしれない。カタチ、表面的なものだけで満足し、中身は伴わない。こちらの方が多いか。

 違うところは映像証拠(参考書)をしっかりと読み解いていこうとしたところだ。我々の道が絶対に正しいと思い込み、ひたすらに取り組んだ。こんな結果になってしまったのは、映像証拠だけに重点を置きすぎたからである 
・・・いや、実は彼らの捜査とされるところも、参考書を解くのではなく、参考書を買うに至るまでの選別に過ぎなかったのである。参考書を手に入れるまでに、周りの人間がどんな参考書を使っているのかを成績などの情報を踏まえて調査する。人それぞれオススメも違うことだろう。そしていざ買おうと足を運んだ本屋でもひたすらに悩むと。ページをめくり試し読みをし、それぞれの良さを比較し絞りこんでいく。そうこうする内に脳内で勝手にできるようになっている自分を想像してしまうのである。辿るべき道を探ることが、いつのまにか通ったことになっている。そして最終的に選別した物を手に入れることが自分を絶対に高めるだろうと錯覚するのである。

 刑事たちが映像証拠を手に入れたことが、学生の参考書を手に入れた際の感情と被り、しかし映像証拠を読み解いていくことは、実は参考書の選別に過ぎなかったと。
 要は参考書コレクターですね。買ったはいいけど、読みもしないまたは少し開いただけで、別のものが気になりだす。能力は上がらないのに、参考書だけが積み上げられていく。目的が能力の向上ではなく、参考書の収集になってしまっていると。その勘違いに気付いた時には、時すでに遅し。

〇最後に 
 こういった映画を観た後で、犯人がわかってたと言っても負け惜しみのように聴こえるかもしれないが、この作品においてはあるシーンで犯人を確定、確信できる。というのも、どんでん返しであろうことを考慮し、事件の状況証拠と、刑事たちが一番に面を喰らう、且つ鑑賞者が一番に満足が行くだろう犯人像はこの人物しかいないからである。最初に刑事たちの証言で犯人の触りは出てきており、それを聴いておいて、容疑者とされる人物たちが彼らの映像主体で行われる捜査でしか出てきておらず、それがいきなり映像外(映像に対しての現実)で映ってくる人物が出てきたら・・・。 
 しかしそれをもってしてもこの作品はおもしろいのである。刑事たちの有能感と無能感を見事に演出するラスト。あと一歩だったのにと、その僅かな差、タイミングが少しずれていれば形勢は逆転していた。しかしその距離がひたすらに遠いのだと。この拮抗した戦いの演出がなんとも心躍るのである。

2015年3月4日水曜日

ルパン三世(2014)

ルパン三世[DVD]


~オグソパソ~ 

〇はじめに 
 この作品の製作者と私とで、かっこいいと思う事象が違いすぎる。 

〇こんな話
 アンパン、食パン、カレーパン、小栗パン

〇文句 
 最初の泥棒の時のですよ、マイケルにルパンがメダルを投げて渡すシーンさ~、マイケルに何でよいしょみたいに取らせるわけ? しかも引きで観せるし。 マイケルの顔アップにしておいて、ついでに携帯も見せといて、そこにルパンが勢いよく投げたメダルが飛んでくる、そしてそれを受け取める、みたいに見せた方が良かない?? ついでにメダルで頬に傷なんかつけちゃってさ~

 もっと「やっべぇ~」みたいなドジなシーンを入れても良かったんでねぇ~のけぇ~。アクションシーンにおいて毎度のように見せられるワンクッションもツ―クッションも多い無駄な動作。それをかっこよく観せられれば良いが、それこそマヌケにしか見えないからドジっ子シーン入れても際立たないかな。いやむしろ常におまぬけアクションやってると観るべきだったのか。そう観せたかったのだろうか。 

〇余談 
 キャビンアテンダントに山田優を使ったセンスは評価する。

〇最後に
 小栗パンは別に嫌いではない。でももっともっとも~っと全然美味しいパンが世の中にはたくさんたくさんたくさんたぁ~くさんあるというだけ。
・・・また、つまらぬ映画を観てしまった。ってか(笑)

2015年3月3日火曜日

ソロモンの偽証 前篇・事件(2015)



~立ち位置~

〇はじめに 
 平祐奈出とるやないか~い!!

 完成披露試写会にて鑑賞。出演者の面々が登壇したわけだが、尾野真千子綺麗だったな~・・・って、遠すぎて何も見えんかったわ!! そしてあんなにスクリーンを見下ろしたのは初めてだった。どうやったら一階席に座れたのやら・・・。

 公務員(教員や警察官)の不祥事が目立つ今のご時世、無責任な対応や隠ぺい、事なかれ主義が横行する学校と言う教育現場に焦点を当て、真実を解き明かそうとする子どもたちの姿勢を力強く映し出すこの作品は心に突き刺さる。
 シーエイチアイビーエー大学の某教授なんて、教師を育てる身でありながら教え子にセクハラ、盗撮、個人情報漏洩で懲戒免職、まったくどうなってるんすか!!    

〇想起する作品
 「ゴーン・ガール」(2014)

〇こんな話
 これから学校内裁判をはじめよう、ってなるまでのお話。

〇立ち位置
 主人公藤野涼子を中心としたそれぞれの人物への対比が何ともすばらしい。 


まずは担任の森内先生だ。 

 涼子がいじめを傍観するだけの場面で、柏木卓也に「口先だけの偽善者」と罵られる場面。これが森内先生が記者に詰め寄られる場面とダブる。自分は無関係だと装う態度がだ。そして保健室で樹理に何かを囁かれる場面が、お隣さんの夫婦喧嘩に干渉してしまう先生にダブる。死体(事件)の発見者であることが、夫婦喧嘩を目撃することと同義か。そして意図せず関係を持ってしまうところもだろう。要は勝手に巻き込まれると。さらにおそらくわざとであろう、二人のビジュアルは似ている。事無かれ主義を貫いていたであろう涼子の未来像としての、1人の大人の演出であったのではないだろうか。


次に柏木卓也だ。 

 いじめを傍観していた涼子に止めの台詞を吐いていくわけだが、この時に彼女はある場所へと向かう。ここで自殺を試みたか、その後なんやかんやあって自殺を試みたかは忘れたが(おそらく後者)、とりあえず主人公を黒い制服と白い制服の二者で映し出すのである。そして黒い制服を着ている彼女は電車に轢かれて死亡する。この黒い制服を着ていた者の象徴がおそらく柏木卓也であったのだろう。もちのろん柏木卓也は学ランを着ており、黒色だった。担任の先生が柏木卓也死後も彼の呪いだなんだと錯乱している。この辺からも精神的な何かを描き出そうとすることは勝手に想像できる。そして誰もが思ったのではないだろうか。口先だけの偽善者は柏木卓也、てめぇもだろと。当にこれである。主人公と柏木卓也がつながるのだ。しかし常に綺麗事や善意を振りまいていた分、実際には行動に移さず、見て見ぬ振りをした涼子には、ぐさりと来るものがあっただろう。

 おそらくは彼女が行動に移す上で、決意を固める、迷いを断ち切るという演出なのだろう。いじめを前に、藤野涼子と柏木卓也という肉体的な対立が、彼の死後、自分の行いを恥じ悔やむ、そして何かをしなければと行動に移そうとする自分と、ただ揚げ足を取ったり言い訳などの口出ししかできない自分という精神的な対立に変わっている。そして黒い存在である両者の死が、彼女にある決意をさせることになる。心の部分(精神的)ではわかっていても、行動(肉体的)に移せないことがないだろうか。心と体の両方必要なのである。

 彼女の行おうとしていることに関して、確固たるものであると観せるために、決意し行動に移すまでの年月の変遷として時間に限りのある映画において、この流れはうまいと感じる。



そして神原和彦だ。

 大きくは検事と弁護人という裁判における対立が大きな意味を為してくる。柏木卓也という存在から受けるある言葉において、藤野涼子と同じ境遇にある存在ということが後々明かされ、それが真相を明らかにするべく、事件に対して全く別のアプローチをすることになる。

 さらには他校の生徒ということで、裁判における馴れ合いを避けるといった意味でも良いスパイスになっている。判事との確執も見ものだ。彼とここは特におもしろかった。



 ・先生は藤野涼子の未来
 ・柏木卓也は藤野涼子の過去
 ・神原和彦は藤野涼子の現在

というような対比というか対立をもたらしていたのではなかろうかと。未来、過去、現在と比べてみて、最大の敵は誰かと。犯人は・・・お前だ!!

・・・と綺麗に収まるのかと思いきや、もう一度よく考えてみる。そういえばと。黒い制服の藤野涼子が電車に轢かれる場面と、浅井松子が車に轢かれる場面が被るのである。これは真実から目を背けた者の死の象徴だったはずだ。故に彼女のある決意へと繋がる。となるとだ、三宅樹理がいじめられている場面において他の対立がもっとあったのではないかと。

 同じクラスの子がいじめられているのをクラス委員でありながら見て見ぬ振りをする涼子と、樹理の友達として助けに入る松子。ここにもあったぞと。これの前か後か、樹理と松子の会話に割って入る涼子の姿も描かれるのである。そこには柏木卓也の存在も見られる。少々口の悪い樹理に寛容に接し、彼女を信用している松子。そんな彼女も保護者会後の親の話を耳にすることで樹理に疑いの目を向ける。その後・・・。さらに容姿へのコンプレックスにおいてもこの二者は対立関係にある。食事への気遣いや受けるいじめへの姿勢もだ。

 そしていじめられる樹理と、いじめる大出。これが告発状の差出人云々のところでも活きてくる。前提としてあった真実に対して、過去にある事実が描かれ付随していくことで、まるで違った対立構造が見えてくる。登場人物の立場や立ち位置が様々に変化するのだ。これが誰が正義で悪なのかというところを混乱させ、真実を明らかにすべく行われる裁判というところと掛けているのだろう。そして樹理が声を発せなくなるところも、裁判における証言といったものと掛けており、いずれその場面で活きてくるのか。

 さらには大出と神原和彦にも両親に関する問題で対立が見られたりもする。

 大人と子供の対立をウリにしている感じを受けるが、決してそれだけでないところがこの作品の妙なところだろう。



 陪審制を取り扱ったことも含め、この辺の情報量の変化に伴う心象操作といった演出が、過去や現在における経験や記憶としてあるだろう学校を舞台としているために、「ゴーン・ガール」よりも非常に見やすくなっているのではないだろうか。さらに日本語ですしね。


〇余談
 尾野真千子さん壇上から引く時、一礼するもんな~。


〇最後に
 この事件は伝説として代々校長先生が語り継いでいるのだとか。これもミソですよね。藤野涼子自身が校長先生に概要を説明しているわけだけれども、この作品を通してわかるように、受け取り手によって印象ってのは大分変わってきますから・・・。事実(真実)がどこまで歪められているのかわかったもんじゃないと。さらに言うなれば、藤野涼子一人に語らせるというのもまたおかしなもので。裁判を題材とし、心象の変化を感じさせることをモットーとしている作品において、最大のトリックがここにあるのではないかと。思ってみたり・・・。

 いや~、おもしろかった。後編が楽しみである。

悪女 AKUJO(2017)

~アクションは爽快~ 〇はじめに  韓国ではこの方はイケメンの部類なの? 〇想起する作品  「ニキータ」  「アンダーワールド」(2003)  「KITE」(2014)  「ハードコア」(2016)  「レッド・スパロー」(2018)...