2015年3月22日日曜日

イントゥ・ザ・ウッズ(2014)



~WOODS~ 

〇はじめに 
 アナ・ケンドリックたまんね~。お前の所為だと攻め寄られて~。
小汚い恰好の時が一番綺麗だったな、うん。あともう少し下品なところを観たかったな~ 。 

〇こんな話 
 いかに世の中の汚い部分を見せずに、子供を大人にするのか。そもそもそんなことが可能なのか。いやいつまでも子供のままなのか。 

〇森 
~森とは何の象徴だったのだろうか?~ 

 魔女はパン屋の夫婦に四つのアイテムをコレクトすることで子供を授かれると言う。そのアイテムは森の中にある。これは子供の製造工程を省くためと、子供を育てるという親になるための、親に必要な大人の覚悟(愛?)のことか。いやアイテム収集が製造工程とし、森は子宮の象徴か・・・ 
・・・森では奇跡的な出会いが何度も繰り返されている。男と女が確かに何度も出会っていたりする。ん、待てよ。そこにジャックと赤ずきんの出会いも含めてしまうのか・・・(とは歪んだ心の持ち主の私が思ってしまうこと)。

 赤子ジャックと赤ずきんラプンツェルと王子はそれぞれエリクソンの発達課題における、乳児期学童期(青年期?)青年期(成人前期?)のことか。 


「赤子」→「赤ずきん&ジャック」→「ラプンツェル」

といったような成長を遂げていくだろう人間。より細かく見ていくとするならば、

???→「赤子」→「R&J(苦難)」→「R&J(HE)」→「R&J(BE)」→「RP(苦難)」→「RP(HE)」→???

 今までは苦難を乗り越えれば必ず恒久的な幸せにありつくことができた。しかし実際はそんなこたあないと。その者が幸せと判断できるのは、その者の視点のみ。つまり一方的な見解でしかない。周りの者たちのことなどまるで無かったかのような扱いにおいてだけだ。誰かが幸せを得ることによって、不幸を被る者もいる。そしてその不幸はいずれ自分に還ってくる。ハッピーエンドというのは幸せを手にした瞬間で語ることを終えていたに過ぎない。

―― まぁ幸か不幸かという判断がそもそも自己と他者を比較することによって成り立つもので。ディズニーだけではないのだが、その物語がハッピーエンドど判断しうるのは、その物語の主人公が他者を押し退けて幸せを手に入れたという作品内における比較もあるのだが、鑑賞者という自分自身との比較にもなっているわけで。まぁ要は極端な話、幸せというものは不幸無しには成り立たない。
「誰かが幸せ=誰かが不幸」
という図式が出来上がっているわけだ。しかしその事実を夢の国はひた隠しする。別にそこに罪は無い。それを誤って解釈してしまう脳内お花畑が世にゴロゴロしているだけだ。そしてそれを知っていて尚、夢の国を創り上げることに問題があるだけ。ま、夢が無けりゃやっていけないのはわかりますがね・・・。
誰もが自分の幸せを望むのは確かだ。しかしその幸せとは何だ。自分が誰かと比較したときに、誰々よりも幸せという意味不明な尺度を求めていないか。ただの自己満足の顕示になっていないか。周囲の目をひたすらに気にしていないか。そして他者の不幸を目の当たりにしたとき、自らの幸せを感じるようになっていないか。さらにそれは究極他者の不幸を望むことにつながりはしないか。
・・・心当たりは無いだろうか?? ――

 巨人問題がそれの集約だ。皆が皆それぞれに望むものがあった。何らかの代償と引き換えにそれを手に入れるために、自らの決断で動いた。手に入れたまでは良い。その後が問題だ。そのツケがいざ降りかかると、「僕じゃな~い」「私じゃな~い」とのたまう。宝を盗んだジャックが悪いのか。豆をあげたパン屋が悪いのか。残りの豆を捨てたシンデレラが悪いのか。子どもを欲した夫婦が悪いのか。呪いをもらったパン屋夫の父親が悪いのか。・・・・まぁつまりこの世に人間が生まれたことこそが問題なわけです。という責任転嫁と追及の嵐が巻き起こる。
 そこで、罪の自覚の場面で赤ずきんとジャックがいるわけである。赤子は生まれたて。ラプンツェルは現実逃避をする中のこの二人である。先ほどの成長過程を少し見ていただく。おそらく今までの作品では太字下線の部分が省かれていたのではなかろうかと。赤ずきんとジャックの二人の時期でそれを描くことが今までと違うところだろう。成功だけでなく、失敗も必要なのだと。いやその成功と失敗の繰り返しが大切なのだと。
 つまり男女の間には、愛があればいつのまにか子供は生まれる。そしてなんやかんやあって、やがて親の下を去っていくのだと。あなたたち子供は、これから何も考えず何も気付かず、のほほんと生きていればいつのまにかに立派な大人になっている。と今までは言っていたのだ。ごめん、なんやかんやを省いて物語作ってたわと。世界って単純じゃないよね。割と複雑だよねと。理解できない、割り切れないことばかりなんだ。何て不条理なの世界はと嘆きなさい。と今まで夢の世界にいた住人に現実をつきつける。生き残る方法はというと、
「同じ側の人間を味方につけ、それ以外は排除するのだ。例えそれが・・・・・備えよ、現実世界との戦闘に」
・・・R&Jにおいてだけだと思っていたものの、赤子の段階から実は暗雲が立ち込めているのである。パン屋の母親がワァ~オして死ぬのである。赤子の段階で一番に頼るべき存在の母親。それがいないのである。しかし新たなる妻及び母親になるであろうシンデレラ。そして兄妹となるであろうR&Jの存在。そこにまだ救いがあるのか。あとおばあちゃんもね・・・なぁ~んて。しかしパン屋夫婦、シンデレラ、魔女もそれぞれ関連してるのは確かだ。それは自分の目で確かめていただきたい。
以下簡易まとめ・・・

・赤子
 最後パン屋夫(父親)にそれはそれは希望に満ちたおとぎ話を聴かされることになる。 
 母親は死亡。

・ジャックと赤ずきん
 それぞれの目的を達成し、物語上の1つのハッピーエンドを迎える。
 その後バッドエンドを乗り越えようと巨人を倒す前に、パン屋夫とシンデレラにそれぞれあることを説かれることになる。世界は複雑だと。そして自らの罪を悔いる場面もある。

・ラプンツェルと王子
 子離れできない魔女(育ての親)からの独立(自律)をすることになる。森の外へ行くんだっけか。そしてハッピーエンドに辿りつくのだろうと。 
 実際は大人になるための期間を全て塔の上で過ごしていたという世間及び常識知らずの、無知蒙昧が社会へと旅立っていくと(王子の目を視えないままにすればもっと皮肉っぽかったのに・・・)。

*補足*
 赤子を男女の対比にしなかったのは自我の目覚めが無く、区別をつける必要が無かったからか。

 魔女の四つのアイテムに触れないという制約を犯しているあからさまな演出も、ハッピーエンドにおけるご都合主義や予定調和を意識付けるためだろう。その後に待ち受けるものは何なのかというところに掛かっている。




 森は人間が初めて出現する空間(子宮)であり、守ってもらう家族(同じ血統を持つ者)であり、意見を同じくする者(他人)たちである。
・・・前の二者を合わせて親とした方が良いか。親であり、友人であり、恋人である。いや帰る場所とするのか。
ふぅ、さっぱりだぜ。
 森とは、内輪ネタってことでしょ多分。同じ側という表現を用いていたか。一方的な見解や解釈を比較も無しに盲目的に信用してしまう人間の特性というか。他者批判(非難)という思考を助長するようになるものだ。
 森が壊れる(壊される)ことで、外部の者の被害に対する責任問題に発展。この内輪ネタを外部の者が見た場合に、責任取るのなんて正直誰でも良い。こちら側が正しいと証明されることを望んでいるわけで(さらに欲が湧いてくるのはまた別のお話として)。で、内輪では誰も責任を取りたくなどないと。内輪を壊そうとしている外部の者排除すれば良くね?、という思考になるわけで。しかしその思考は内輪の自己破壊にもつながることもあると。世界とは複雑だ。カオスだ。爆発だ!!

 森とはいったい何だったのか・・・・

〇最後に
 アイ・ウィッシュ・アイ・ワ~・ア・バード
こんなCMあったな~。ではでは・・・。

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