~芸術活動~
〇はじめに
そういえば「ギャラリー・フェイク」なんて作品があったな~。そのくらいの知識の人間です。
〇想起する作品
「魔女の宅急便」(1989)
〇こんな話
藤田嗣治の半生。
〇印象主義
絵画を鑑賞し、心を打たれることはしばしばある。しかし藤田のパリにおける解説を聞いていると、所詮印象主義など「ぽさ」だろと思ってしまう自分がいる。印象という単語に引っ張られる。アーティストを批難しているわけではなく、評価する側のあやふやさというか。
芸術というモノの評価。この正当性がどうも理解できない。
評価されるから売れるのか? 売れているからと評価されるのか?
どちらが先行するのか。流行だと流されてはいまいかと。
ユキに対して、絵より綺麗だと口説き文句なのかもしれないが本人に囁いている件があったような・・・
-わかる奴にはわかる-
-わからない奴にはわからない-
これで済ませても良い。しかしここを繋ぐ存在ってのが芸術分野にはまたいましてね。
これがパリにおける活動と、日本における軍での活動の比較だったのか・・・。ここにも注目すべきなのか・・・・ わからん。
最初の藤田の運ばれていく画を見て口論となる夫婦。記者?の質問に答える藤田と、それを理解しようと躍起になる者たち。彼を、彼の作品を理解しようとする者の存在。藤田が主体だったわけか。
しかし日本にて軍での芸術活動。〇〇を描いてくれと。芸術界も欧州から脱却せねばと。大東亜どうのこうの・・・・ 描き手ではないわけだ、主体が。
〇FOUJITA
パリのフリマ的な場所で、物のカタチに関して言及している場面があった。日本での供出でひたすらに物のカタチを歪められていた、壊されていた。その様を意味深に眺める藤田が何とも言えない。
酒場で各国の人間が入り混じっていた。そしてカクテル。各国の酒をシェイクシェイクしていた。それが戦争では・・・ってな話もあるのだろうか。
西洋画を堪能させてからの日本画を観せたのは、見る者が見れば後々の展開に活きていたのだろうか・・・
狐の話。いったい誰の話なのかと。話される者によって変化を遂げてきた話。主体が変わっていくと。この「FOUJITA」という作品は、どのように眺めるべきなのか。
〇最後に
芸術から、藤田という存在から、戦争を眺める作品へと姿が変わっていった作品だった。しかし何ともさっぱりな作品だった。
ではでは・・・
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