2015年12月25日金曜日

ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲(ラプソディ)(2014)


~ホモ・サピエンス~


〇はじめに
 はじめの牛の解体ショー(調査)からの、生きた牛が連れ込まれて行く画はなかなかにショッキング。人間は彼らの命を食べるために育て、食べるために摘んでいる。

 そして犬は・・・


〇想起する作品
 「猿の惑星」シリーズ
 「犬に名前をつける日」(2015)


〇こんな話
 動物たちの反乱。


 人間という存在をどこに位置づけるか。頂点捕食者なのか、調整者なのか。食物連鎖の中なのか外なのか。


 人間社会は人間が快適な暮らしを築くために、全て人間の都合の良いように作られている。さらには一般的とされる平均的な人間が対象とされている、としておこうか。今でこそお年寄りに優しい、子育て云々と声が上がって来はしているが。

 そんな世界に犬が、飼い犬が、ハーゲンが放り出される。

 飼い主のいない犬はどのように扱われるのか。世間の野良犬への目、態度、保護業者、闘犬・・・

 調教の際、まだ心があると。そんな犬たちを強制的に鍛え上げ、闘争本能を研ぎ澄まさせ、怒りを誘発させる。

 いったいその怒りはどこに向いているのか。解き放たれたら、どこにぶつけられるのか。




 主人公は子どもである。少女である。それ故に力を持たない。この無力さを感じさせてからの、彼女の大人への見栄。自暴自棄もあったのかもしれない。悪い友達と付き合い、パーティに行き、酒にたばこ、薬物にまで手を出そうとする。私はもう子どもじゃないと。大人の世界に足を踏み入れる。未知の世界に足を踏み入れる。

 そこから父との和解。これがハーゲンとも掛かっていたのだろう。犬と人間との和解の兆しを見せたところまで。

 父と娘の和解。子に対する見方を、考え方を改めたと。

 では犬と人間の関係は? 今までの関係で良いのか?



 全員助けてやりたい。彼らに何の罪があるのか。自分勝手を押し通し彼らを蔑ろにしてきたのは我々ではないか。

 しかしどのシリーズかは忘れたが「猿の惑星」でも語られていることがある。皮肉であるわけだが。人間は腰から下の文化が秀でていると。どんどん数を増やしていく。

 それが犬たちにも言えるのだ。制御しなかったら。彼らを制御する存在が必要なんだ。
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 人工的に繁殖させている分、食物連鎖という自浄作用が間に合わない。いやそれすらも渦の中か・・・ようわからん。
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 しかしそんな責任など、モラルなど・・・

 人間にその資格があるのかと。ただ命を弄んでいるだけではないかと。


 
〇歩み寄り
 芸術。人間のための、人間による娯楽的要素。この作品では音楽。

 練習の場において、ハーゲンは排除された。犬は邪魔だと。確かに音を扱う繊細なものであろう。少しの物音にも気を遣う。しかしそれよりも、犬だからという、犬には理解できないだろというニュアンスを含んでいたように思う。

 そんな音楽が最後、1つの希望を見せる。ここに、人は人間よがりしすぎているのではなかろうかと、問題が投げ掛けられている。我々の心に、一歩踏み込んでくる。



 トムとジェリーを犬たちが鑑賞しているシーンがある。トムがピアノを演奏しているのだ。人間以外の動物が芸術に親しんでいる。

 猫と鼠を擬人化した風刺作品。これが何ともジワジワと利いてくる。犬に対しての猫でもあったのだろう。



◯最後に
 正直物足りなくあった。しかしその感情が、私に偏見があることを気付かせてもくれる。

 人間はまず言葉が通じるか否かでその人を判断する。そして次に自分の意見を通せるかどうかで。エゴを優先するのである。

 ではそもそもその土俵に乗って来ない対象はどう扱われるのか。偏見が入るのである。同じ人種、いや人間ではないと。

 合理主義が罷り通る今のご時世に人の心は見えにくい。見るのが億劫なんだ。目を向けることさえ面倒臭い。そもそもそんなアンテナを持っていない連中の方が多いかもしれない。

 そんな人間たちに犬を気遣ってやれるはずもない。

 この作品が(私を含めた)そんな者たちの警鐘を鳴らしてくれればと思う。

 ではでは・・・


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