~イマジン~
〇はじめに
カーラ・デルビーニュの立ち回りが堪らん。ハスキーな声もツボだ。仕草がまたかわいい。髪のかきあげ、挨拶をこれでもかと魅せてくる。おそらくわざと愛おしくなるように描いていた。彼女を殺されたとされる天使に見立てていた・・・、のではなかろうか。
〇想起する作品
「ナイトクローラー」(2014)
合わせて鑑賞したので。感じるところが一緒だったんですよね。向こうの方が過激でしたけど。
〇こんな話
天使の顔を・・・。
・補足
この作品自体が思っていた印象と異なるというのを、劇中で説いてくれている。はじめ主人公が事件の外にいるんですよ。故に作品に対してのアプローチはしやすくなっているのではなかろうか。
〇主張
事件に対する記者の姿勢がひとつ問題とされていた。おもしろおかしく事件を推理しようとする記者たち。そこにどこか不満気な主人公。裁判の妨げになってはいまいかと。真実がゆがめられてはいまいかと。
当たり前であるが人にはそれぞれの人生が存在する。人には他人に見える人生、見えない人生がある。自分の知る自分、他人の知る自分がある。そしてある部分をピックアップするだけであら不思議。全く印象が違って見えたりする。そこに報道という分野が強く関わってくる。取り上げ方、用いる言葉の選別・・・などなど。
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子煩悩な親や教師が、親馬鹿や児童虐待、小児性愛者に見えることだって。殺人鬼が正義の英雄にだってなる。逆も然り。
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この作品で見えてくる人物たちの顔は、主人公との関わりのある部分だけである。その個人の主観を繋ぎ合せて人は人物像を創り上げる。しかし・・・・ってなところか。
主人公が娘を愛しているように、家族の再生を決意するに至ったように、メラニーにも直接見えてはこないが誰かしらに愛されており、容疑者だった女性にも、殺された少女にも、それぞれに何かしらがあったのだ。
男と女の絡みを、不倫や浮気、親権問題も取り上げられていた。実際に見える彼らと見えない彼らの差。現在の、過去の人間像。これらをどう判断していけばいいのか。この辺りを連想させるのはうまかったように思う。
事件の真相、報道の意味、世間の興味。これが必ずしも一致するわけでは無いってのが背景にあって・・・
世間の興味は安全なところから事件にアプローチし、彼女を助けられたのではないかと夢想することだと言う。。
記者たちは視聴者や読者を見定め、創造力(想像力)を駆使し、掻き立て事件にアプローチする。
事件の真相はというと・・・・
どれもこれも想像力が補うのである。事実をつなげて真相を探りだすのも、パズルのように組み替えて興味を引くようにするのも、そしてそこに自分を投影しマスターベート(正確にはション)するのも。
で、まぁ何が問題かって~と、事件に関する様々な主張に晒されていく中で、主人公が勝手に事件の取り扱い方に苦悩するってなところで・・・
この場合の主張ってのは何もそれが全て正しいとするものではなく、1つの可能性の示唆なわけで。真実味を帯びることはあっても、決して真実には為り得ないと言いましょうか。その主張の扱い方捉え方でいくらでも変わってくると。いくらでもフォローできるし、反論、論破もできるもの。
つまり、ひとつの主張には何かしらの代償が伴うということなのだが・・・。一度発した言葉は消せないってな文言がありましたね。言葉の重さに関して説いている。
しかしそんなことをいちいち気にしていたら、深く考えすぎたらキリが無いんですよ。例えば「馬鹿」ってな言葉は本来否定的な意味で使われるが、褒め言葉として使用する場合もあるでしょと。「やばい」とかもそうですよ。発信者が、受信者が、どうその情報を深刻に扱うかってなところで違ってくるわけで。ワリキリと言いましょうかね。その場で判断するしかない。
そもそもこのギャップは、その個人の背景、経歴、はたまた環境やその場の雰囲気。どこまでの情報を得ているのか。どの情報にどのように焦点を当てているのか。発信する情報の余波・影響をどこまでを想定しているか。ってなところが関係してくるわけで。「空気」ってな言葉にまとめることもできる。
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「KY」 空気を読める・読めない。その場の空気を作りだしているのは誰なのかと。多数派か権力者か。究極、マイノリティは付き従うか、口を閉ざすかしかないのかと。背けばKYと煙たがられる。
ちゃうでしょと。場の「空気」を前提とした判断でしょそれはと。「空気」というのもただの情報に過ぎない。KY両者にも何かしらがあったんだよ。見えてこないだけで、見ていないだけで、見ようとしていないだけで。
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適度にねと。思い詰め過ぎ、悩みすぎってのが損になることもあるわけで。結局は自分以外は他人なんですよ。
着地するところを見失ったので投げます・・・・
・補足(偏見)
人間ってのはどうも一喜一憂するのが好きでして。ふと失敗談を思い出し恥ずかしくなりませんか。他人が気にも留めないことでも気になってしまいませんか。体面を保つためにひた隠しにしていることがありませんかと。そんなマイナス面を埋めるためにね、他者の行動にね、自己を投影したり、非難したり、おもしろおかしく取り上げたりしてね、自らのプライドだか誇りだかを保っているわけです。まとめると「強がり」ってな言葉になるのかな。
〇最後に
カーラ・デルビーニュにはじまり、全体的に女性の見え方、映え方に気を使っていた作品だろう。ジェシカの裁判における印象の変化も見ものだ。
原題 「THE FACE OF AN ANGEL」 天使の顔
天使の顔など誰も見たことは無い。故に想像するしかないのである。劇中で事件を取り扱う者たちも、ほとんどの者が被害者女性の顔を見たことがないわけである。
我々鑑賞者には様々な顔が見え隠れした。どれが、何が正しいのか。本当の顔なのか。情報の選別とともに何を想像(創造)するのか。そして辿りつく先は・・・・、そんな感じかな。次は我々の現実にそれが降りてくるわけでして・・・
あと本当に天使だったのか?ってな問題提起もあったりするのかな。人は一面だけで天使にも悪魔にも・・・・
ではでは・・・
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