~罪~
〇はじめに
「余白」ってのは「罪」と「罰」と「償い」の関係性のお話なのかな。
役的にさすがに谷村美月では若すぎるだろうと感じていたが、原作37歳設定じゃないですか。やはりなと言わざるを得ないですよ。天才なのかなと思ってたらそうでもなかったし・・・。料理下手はおもろかったな。実際はどうなのか、それともこれからそのネタで売る予定があるのか。何かしら期待。
〇想起する作品
「告白」(2010)
「渇き。」(2014)
「太陽の座る場所」(2014)
・・・吉本実憂 と 古泉葵 似てるよね??
・事前に想起しておかない作品
「刑事コロンボ」
「古畑任三郎」
「メンタリスト」
・・・などなど
〇こんな話
娘を殺された。「っしゃおらあああああああああああ!!!」
〇心理
「心理サスペンス=心理戦」ではない。犯人を如何に心理的に追いつめていくかを期待しているとおやま~あらま~。絶対的な敵を前にしてチクチク針を突き刺して、効いてる効いてる~を楽しむカタチではない。父親が罠を仕掛けていくというより、木場咲の性格上起こす行動による自己破壊、自己破滅ってな方がしっくりくるだろう。むしろそちらに心理学云々を多用していたように感じたが如何に・・・
木場咲という存在に全くイライラしないんだ。ムカつかないんだ。おかしい。
いつもなら
「くっ」
「んのやろおおお」
「うおらあああああああああ」
「ごみくずがあああああああああああああああああああ」
てな思考になるんだけどな。ぷっつんするんだけどな。終始振り回されない私がいるんだ。なぜなら、咲という存在が勝手に振りまわってるからだ。あいつ優位に立てるのになぜか自らで自らを貶めていくんだよ。おかげで冷静に観られた自分がいるわけなんだが。いやむしろそれが狙いだったのかもしれない。
受け手の価値観。ダブルバインドってな用語が登場する。自由な意思決定が困難な状態。選択を迫られても断れないんだわな、つまり。この環境に木場咲という存在は持っていくのがうまい。一見共依存に見えて、実は支配と隷属の関係性が築かれていることに気付く。そして常に主導権を握りたがる彼女という存在が際立つ。故に彼女はわざわざお宅訪問までする。他者の名を借り抜け目ないと思いきや、こいつのおかげでパスワード解析サンキューという失態。こいつは理解していた。こちらから動かなければ何も起こらないことを。しかしそうは問屋が卸さない。情報を把握しておきたかったのだろう。これからの自らの振る舞いを計算するがために。それが誤算誤算大誤算へとつながっていく。
これがはじめに見えてしまうんだよな。見通せてしまうのだよ。自らで自らの道を断ち切る画が。しかしそれは社会的な抹殺であってってな話につながっていくからまた深いわけなんだがさ。どうなのだろう。彼女の賢さや利口さではなく、高慢さが際立つ。終始フォローに追われpgrとしか思えない。必死かよと。取り繕うので精一杯なんだ常に。彼女の演技力により敢えてそのように観せていたのか。ただ単に実力の問題でそう観えてしまったのか。ここがどうもわからないんだ。芸能事務所で叩きつけられる事実はどこに位置づけるべきなのか・・・、JKという年頃・・・、金魚・・・、・・・・
仮に父親が罠を仕掛け、散りばめていて、彼女に行動を起こさせたとしよう。ではそれはいったいどこからなのか。そしてそれはダブルバインドだったのか。女優という夢を知っていた。顔(商売道具)に傷をつけたのは衝動的ではなく実は意図してか。娘の携帯のデータの復活。スマホゾンビ傾向のあった咲に死んだ娘の携帯から電話を掛けたのは。その前に咲を起点として日記を開いたのは実は・・・。こんなところから遡って最後ドヤ顔で全てお前を貶めるためのトリックさ、としておけば心理サスペンスという宣伝に違わない作品になっていただろう。しかしそうはしなんだ。
---あのさ~、お前は何に悩んでいるんだよ?と---
要はこうだ。吉本実憂の演技により木場咲という存在が自己破壊自己破滅という道を勝手に歩んでいくように見えるわけであって、父親が仕掛ける罠とやらが見えない。彼女がそうすべきとしてした行動が操作されてのものだったという心理が見えない。父親、娘と互いに単に落ちるってなところだけの対比になってはしないかと。簡単に行ってしまえば、娘は木場咲に負けたんだよ。ではこのラストで父親は勝ったのかと。両者の違いがイマイチ見えてこないんだ。
罪というものに対するアプローチとして、復讐という1つの解消方法(罰を与えるとするか)を提示するわけではなく、そこに何かを介在させたいってな話なのか。罪と罰を直接的に結びつけてしまうことに対する何かしらのメッセージだったのか・・・
〇罪
はじめのクリスマスはキリストの誕生日というお話。そもそもこれは間違っているってなお話がありまして。仮に正しかったとしてキリストの誕生日だからこそクリスマスってなカタチになってるわけで、クリスマスにキリストが誕生したからすごいってな発想にはならんのよ。つまり、どちらが先に起こったのかってな話なわけなのだが。
この思考が彼女の言動にチラホラ現れる。私は何もやってないと。選択肢を与えはしたかもしれない。しかし全て彼女が選択したこと。断れば済む話。これこそが罪の自覚が芽生えない心的要因。選択した方が悪いのか。選択肢を与えが方が悪いのか。ではその選択肢の与え方、提示の仕方はどうだったのか。その状況に至るまではどうだったのか。いくらでも屁理屈こねられるのさ。
この思考は被害者の安藤加奈の見解にも現れていたりする。私の所為で母親が死んだと。私が母親を殺したと。妊娠をしたことにより子宮癌を発見。しかし胎児の影響を考え出産まで治療を先延ばしにした。故に治療が間に合わず母親は死亡したと。 これをどう捉えるか。この話を聞く限り、この娘の所為で母親が死んだのか、この娘を妊娠したから癌が見つかったのか。ってな選択肢が出てくることになる。では妊娠しなければ?と。
これが安藤加奈と木場咲の罪の意識の違い、及び対比になっているのか。
木場咲は最後証拠を提示されることで刑に服することとなる。しかしそれは罪に対する形式的な罰を受けるということだけであって、果たしてそこに償いはあるのだろうか?ってな疑問につながるラストとなる(多分)。
〇余談
エンディングが青鬼っぽかったんだよね、個人的に。曲の雰囲気かな。
〇最後に
もっとうまく観せられなかったのか。いや敢えて観せなかったのか。いやいや私の眼力が足らんかったのか。鑑賞中よりも、鑑賞後に思考することの方がおもしろい作品として位置づけるべきか・・・。
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