~バケモノの子~
〇はじめに
このテーマをファンタジックに描かなければならない仕様の日本映画界を想うと何か虚しさを感じる。いや、アニメ界だから良いのか・・・。
超大作だと?? これは世界観を広げようとしたんじゃない、脚を運ばせる客層を広げようとしたんだ。その結果がこれだ・・・・残念で仕方が無い。
〇こんな話
持ち球はストレート。
〇剣
胸の剣の件を、熊徹と九太の師弟関係を熱心に描いてから観せるのは良い。親を見て育つ、真似て育つ。そしていつしかとある部分で親を抜いている。そして反抗期。自立への覚悟や迷いへとつながる。2人の関係性の変化の描き方。この成長過程はおもしろかったと思う。
問題は人間界とバケモノ界を行き気するようになってからだ。恋愛要素はここでは置いておこう。本当の父親が現れ、人間の方に気持ちが傾きかけた時、なぜか熊徹を思い浮かべる九太。自身の中に熊徹を見出していたのだ。この辺でやめておけば良かった。この時点である程度見えてくるものではないのだろうか。
そして最後のバトルへ。この鯨との戦いが自分自身との戦いを意味していたわけで、さらに念を押すかのように最後ストレートなそのままの表現でわざわざ胸の剣を描く。比喩的な表現を具現化してしまう意味よね・・・う~む。
この映画は終始ストレート、直球を好む。熊徹と九太の取巻き連中がひたすらに解説を始める。何かを匂わせる、感じさせる表現を再度こういう意味だよねと確認をしたがる。いやそこが良さであるし、面白味であることはわかっている。しかしこれって主人公からは全く観えない世界であって。客観的に見えてしまっているからこそ感動してしまう要素が目立ってしまうと言うか。それに感謝をする九太が描かれてしまっているのがさらにその感情を助長する。それで感動したということは決して共感などではなく、同情か憧れみたいなものなわけで。人をより盲目に且つ受け身な姿勢に奔らせる。
・・・一概には言えないな、失礼。 まぁもっとうまく主人公たちの周りをうまく固めていく描き方ができなかったのかなと。修行までは割と良かったんだけどな~。
後で意味を持ってくる言葉ってのがあるじゃないですか。伏線と言い換えましょうか。子どものころもっと勉強しておけば良かった後悔みたいなやつでも良いですよ。要は気付きってやつです。「意味は自分で見つける」って熊徹の言葉もそうなんですが。ふとあの時の言葉はこんな意味があったのかと痛感する時が来る、場合がある。そんな現象をこの作品はこうだよとわざわざ解説してくれる。これがありがたいのか、ありがたくないのかは人それぞれではあるのだが。初見以降の気付きが、2回目3回目と時を経て観た時に何かしら出てくるのだろうかと考えた時に、いやきっと無いだろうなと思えてしまう。そんな映画に私はおもしろさを感じない(いや、最初はおもしろかったけれども)。
刀は1つの強さの象徴だったわけか。鞘に収まっていることがまた一時の平穏(均衡を保っている)の象徴で・・・。強さとは・・・・・。それ即ち・・・・。・・・・。
〇バケモノの子
最後の鯨との戦いは現実世界における何だったのか。
まぁ自分との戦いだったということなのだが。自分の中の闇との戦い、葛藤。
「俺は、私は、いったい何なんだあああああああああ。」
最後に鯨の影を見たと証言する人はいるが、監視カメラ(劇中は防犯カメラと言っている)には何も映っていなかったというところと掛かっているのか。最初に監視カメラに映り込む蓮がひたすらに描かれる。そして最後の決戦において一郎彦の姿のみ防犯カメラに映り込むのを再度映し出す。
皆を等しく映し出す監視カメラという1つの現代社会の象徴。しかし全ての範囲をカバーはできない。故に見える世界、見えない世界が分かれる。人間界とバケモノ界ってところがまず意味を持つのだろうが、そこはおそらく、見ようとしている世界と見ようとしない世界、見えていない世界ってな対立なのだろう。どこで誰が何を抱えているのかがわからない。突発的、衝動的な事件がよく報道されるようになった。問題として取り上げられるようになった。社会という集団から眺めると、決して映らない個人の闇。見える人と見えない人と分かれてしまう事実。仮に見えたからといって対処できるものでもなかったりするわけだが。ここがおそらくすずちゃんの言う
「独りで戦っているわけじゃない」
というところにつながる。胸の剣、お守りが関係してきたりする。どこか孤独を感じてしまう現実世界を生きる人間に勇気を与えようとしている。
しかし、胸の剣の項で書いたが、ここの表現がドストレートすぎてお粗末。
「バケモノの子」ってのは1つの自覚なんだろ。自分を築き上げる上での土台。それを示す上で、バケモノの世界へ行かなければならなかった。人間の世界における関係を一回白紙にしなければならなかった。その上で九太とそれを取り巻く関係を築き上げていく。で、まぁなんやかんやあって、すずちゃんとイチャイチャしてってのがあって、バケモノの子だねってなる。バケモノの子という1つの自覚があって、はじめて自分で決めるという覚悟につながると。
この構図が正直何とも気に入らない。なぜ現実社会へのアプローチをバケモノの世界を使って外から始めるのかと。客観的に眺めるとかそんな理由もあるのかもしれない。でも観えないんだよ、客観的になんて。先ほども書いたが、取巻き連中が解説をはじめるところなんて特にだ。ストレートに感情吐露するような奴がそこら中にいるはずなかろうが。そしてストレートに感情を受け止め過ぎだろうか。誰が自分を認めているなんてのは正直ほとんど見えない。しかしそれらを観せられているからこそ、見えていないはずの九太の取巻きへの言葉が重さを持ってしまう。う~む。
私らは現実世界におけるゲームキャラでしかないんだよ。プレイヤーじゃない。でも主人公なんだよ。あ、そっか主人公ならチュートリアルから始まるから、外からのアプローチで良いのかも・・・
〇余談
そもそも九太は図書館でなぜ白鯨を手にしたんだ??
義務教育を受けていない、鯨すら読めなかった男だぞ。数ある海外の文学作品の中でなぜそれを手にとって読もうと思ったんだ??
劇中取った序盤の方のメモに白クジラって書いてあるからなんかあったんだろうけど覚えておらん。運命だったんだな。
チコって何???
9歳だから九太。本当の名前と師からつけられた名前が何かしら意味を持ってくるのかと思いきや・・・。個人情報どうのだけでしたと。2人の親の方だけ関連してましたか。
一郎彦最初女の子だと思った。にいちゃんだかねえちゃんだか聞き取れんかったわ。そして口元を隠す様を観て何かあるとは思ったがそうですかと。大きな牙どうのとも言っていたしね。でもしっくり来ないよね。
ニート、フリーター、正社員、モラトリアム、境界人、独身者、既婚者、親、子、師、弟子、集団、個、盛り込みすぎたかな。
〇最後に
私の中で細田守作品は「時をかける少女」が神格化されている。高校生のころに観た「ときかけ」は何ら響くものは無かった。正直駄作だという評価だった。同じ世代を描く映画として捉え、自らの高校生活に不満が無いといったらウソになるが、自分なりに精一杯で充実していたということなのだろう。いや盲目だったのかもしれない。しかしどうだ。高校を卒業し、何年も経って再度鑑賞する機会を得たとき、涙が止まらない。時を経て理解する高校生活の穴。見えてくる後悔、分岐点。あの時にもっとこうしていればという絶対に取り返せない時間。この隙間をドンピシャで突いてくる。埋めてくれる。見事なまでのジャストミート。これが「ときかけ」以降体験できない。「サマー・ウォーズ」も嫌いではないが、やはり落ちる。だから「おおかみ」は観なかった。 「バケモノの子」が響いてこないのは、まだ私と言う存在が成長途中にあるということなのか。親になってみればまた違った見え方ができるのかもしれない。しかし今は全くわからない。次があったら・・・どうするかな・・・・。
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