2017年3月17日金曜日

バチカン・テープ(2015)

~終わりの始まり~


〇はじめに
 こりゃ近々何かあるな(キリ)




 これは、警告だ。



〇想起する作品
 「ラザロ・エフェクト」(2015)


〇こんな話
 悪魔は人の肉体のみならず魂をも奪う。





〇終わりの始まり
 神の名の下に、神の後ろ盾により悪魔に対抗するのが通例であるが、枢機卿曰はく、悪魔に立ち向かうに当たり時に神から離れ(背く?)なければならないときがあるそうな。



 枢機卿は自らを神に近しい存在だからと信用を訴えていたが、ここに人間の傲慢さを見るべきなのだろうか?

 人は神に近づけるかもしれないが決して神にはなれない。その反面、神から遠ざかれば悪魔に近づくことになり、そして悪魔は人に憑りつき人と一体となれる。その点を加味すれば、悪に堕ちるのは踏み外すのは簡単ってなところもあるのか? その中で試される信仰心。

 基本的にこの手の話は神が先に立つことはない。悪魔の存在を認めてから、試練を乗り越えてから、如何なる結末を迎えるにしろ神を見出すことにつなげるのである。


 悪魔はなぜ人間に憑りつくのか?


 これなのかな最大の問いは。神と悪魔とは相反するものと定義し、どちらかが存在すれば両方存在することの証明になるとする。神と悪魔が両方存在するという前提で、こんな事態が日常炒飯事で起きていることとして考えるに、人間は唯一信仰心というものに目覚め、両者の媒介となることができる生物である。どちらにも振れる揺れることができる。

 ざっくりと人間でオセロやってるんですよね。白と黒とを神と悪魔にして。どちらの勢力が優勢になるかを競い合ってると。そんな感じに思っとけばいいのではないでしょうかね。

 いや違うな。オセロをしているとすると神と悪魔が主体となるから、セロをしているのではなく、オセロというゲームを成立させようとしているとした方がいいか。

 神と悪魔という存在が立ち、そこに人間という存在が仲立ちをするのではなく、人間という仲立ちが存在するからこそ神と悪魔の存在を立たせることができる。






 まぁ全部人間が起点って話ですよ。



〇最後に
 ヨハネの黙示録詳しい人はわかるんですかね?


 ではでは・・・


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