~対価~
〇こんな話
ある時主人公が飛行機の墜落事故からなんやかんやあって救出した記憶喪失の男。彼は記録上存在するはずのない人間だった。彼はいったい何者なのか。はてさて・・・。
〇命
三人の女性を殺していた記憶喪失の男。三度の死刑を求刑された男。人の命は1つしかないのに三度の死刑をどうやって執行すればいいんだ。殺しては生き返らせてを繰り返せばいいんだという結論に達する医学界の権威。三人の女性は彼の娘だった。
~罪とは何を裁き、何を償うのか~
この映画で起こる三度の死刑について少し考えてみる。
娘を殺した犯人に対して、三人もの命を奪ったのだからその命と同等の対価を課すために、三度の死刑を行うべきだということなのだろう。人の命に釣り合うものは無い。あるとしたら同じ人の命か。それぞれの命の価値は、対象によって変わってくるだろうことは流そう。問題は、一回目の死刑以降、殺される人間が記憶喪失だったということだ。二度目の生を受けて記憶が蘇りうんたらかんたらまでがこの作品のメインなわけであるが、記憶喪失の男、詰まる所罪の意識の無い人間を死刑としたところで、それは罪を償ったと言えるのだろうか。法的な位置づけは置いといて、罪を償うために課されるのが刑のはずである、刑であるべきである。それとも刑とは世間的な責任を誰かしらから解消するためのただの形式的なものに過ぎないのか。それとも被害者側のただの復讐と成り下がるのか。
彼は二度目の生を受けてからは、死刑に足る罪を犯していない。一度目の生における殺人犯と言うレッテルで殺人を犯したと決めつけられ、殺されることになる。人を殺すという行為がそれほどまでに重い罪であることを言いたいのはわかる。犯人の、同じ一人の人間の命をもってしても償いきれるものではないかもしれない。しかし彼を殺したところで死んだ者たちは戻ってこない。故に被害者の愛する者を亡くしたという傷は癒えることは無いであろう。それにも関わらず怒りの矛先は記憶を失った男に向いてしまうのである、向けざるを得ないのである。本来であれば、どんな罪を犯したのかというのを、刑を通して自覚させる。そしてその先に償いが待っているはずである。何度も言うが彼に罪の意識は無い。罪を犯したという記憶さえ無い。それでいて彼に刑を課すことにいったい何の意味があるというのか。
被害者の彼への姿勢や発言が答えになっているのだろう。彼への処遇は刑というよりは、被害者の復讐や自己満足のように描かれている。そんな背景や状況を考慮し彼に刑を課す、罰を与えるということは、単に被害者側のエゴを満たすことに他ならない。そこに償いというものなど皆無である。
最後の「全て思い出した」という台詞が問題の投げかけになってくる。罪を償うにあたって、罪の自覚があるのか無いのかと。そして自覚の無い者が形式的な償いを行うことと、自覚の無い者に罰を与えることは、どちらか一方の満足でしかないのだと。
〇最後に
被害者視点で見れば、極悪な犯罪者なんてどうなったていい。むしろより残酷な形で痛い目に遭ってくれないか、あわよくば死ねばいいのにとまで思うことだろう。この作品は逆に加害者側からの展望となる。本来であれば、こんな男は死んで当然だと感じるべきところだろう。1周目の生であればそのように見方が変わっていたのかもしれない。しかし2周目は記憶喪失ということで被害者側に近い形となる。それにより明らかになる殺人犯の被害者側の執拗なまでの復讐心。それを目の当たりにすることでふと疑問に思う。加害者の罪と償い、被害者の傷や復讐心とはどのように釣り合いを保つのかと。そして償いとは一体何なのか、どうあるべきなのだろうか・・・と。
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