~心・技・体~
〇はじめに
試写会にて鑑賞。
この作品は作品自体の物語だけでなく、鑑賞者各々の過去にあった何かしらの思い出補正があってはじめて完成する。最後会場内にて拍手が沸き起こったことでそれを確信した。鑑賞者のほとんどが1つの映画として鑑賞していたのではなく、この作品の中に自分を見出し、自分の過去を想い起こし、準えていたのだ(人間ドラマというのはそういうもんだ、んだんだ)。思春期やら反抗期やらに詰まった青春を謳歌できる時代特有の記憶の名残りを。これは邦画の長所であり短所である。日本独自のお国柄、文化、人柄を交えることで、精神的な部分の表現を特化させ、我々が身近に感じる、感じてきた場の雰囲気を作ってしまう。それにより多くの共感や感動を呼び起こす。しかしそれに頼るがあまり、限界点や問題点も明らかになることとなる。おそらく劇中釈然としないそんな思いを持つ方々が少なからずいたことだと思う。そんな方々はこの作品を安っし~ドラマだ、茶番だ、などとしか評価できないことだろう。
〇想起する作品
「TARI TARI」(2012)
〇こんな話
歌ったり、泣いたり、笑ったり、するお話。
〇心・技・体
汽笛の伏線は読めんかった。最後の最後で不意を突かれた。やられた感があった。 絶対に関係を持っていないであろう両者をつなげるのは見事だった。なぜお兄ちゃんが上機嫌の時に汽笛の真似をするのか。桑原君が行方不明のお兄ちゃんを探しに教会へ来たのはなぜか。探しに行った教会にナズナがいたのはなぜなのか。そんなこんなが繋がって、最後の最後の大合唱は聴き入ってしまったくらいだ。しかしだ、ここをうまいと思う反面、前向きだか前へ進むだかを意味し、彼らを勇気づけていた汽笛というキーワードが際立ってしまう分、他のところで腑に落ちない点が出てくる。
15歳という年頃、特有の精神的な闇。これの解消や解決に向けて動き出そうと決意する部分がスタート地点である。そのきっかけ(精神的作用)として大きなものが汽笛であったことをまず理解いただく。
次に彼らの合唱部と言う活動内容や姿勢である。全国大会へ行くことを目標に掲げる部員たちに対し、臨時教員ことガッキーが「あなたたちのレベルでは無理だ」と烙印を押す。さらに、合唱部は文化部という偏見の根強さに対し、それを腹筋や、空気椅子?、さらには走り込みなどで運動部に負けず劣らずの体育会系であることも演出している。
これらにより何が意識されてしまうのか。スポ根ドラマが頭をよぎるのである。そこで私の中に勝手に沸き起こる「心・技・体」という言葉。この3つが揃ってこそのスポーツ競技。はてさてこの作品において「心・技・体」はどのようなバランスを保っていたのだろうか・・・
・・・「心>>>技・体」
なのである。
何が言いたいのかというと、この作品は心の部分が際立ち過ぎてしまっているということだ。確かに精神的成長や変化を描くことが人間ドラマだ。ドラマとはそういうものであることは重々承知している。しかしスポ根がよぎってしまう私にはしっくり来ないのである。技・体の部分の成長があまり観られないからである。合唱部ということもあり、実力というものが目に見えにくく、対比する勢力が描かれない、描きにくいというのは致し方ない。コンクールまでをパート別の練習に費やし、本番になって皆揃った合唱が行われることで、1つになっていく過程と観ればそれでいいのかもしれない。最後の最後で1つになる。そしてさらにその先の段階があったと。
しかし「心・技・体」というキーワードを勝手に設定し、このドラマを鑑賞すると、心が際立つことで一つ大きな問題が出てくるのである。各々どこで植え付けられたかは知らないが、精神論や根性論を強く持ち出してくる教育界の闇、その世界特有の差別や偏見が顔を出してきてしまうのだ。努力は必ず報われる、努力した者こそが勝利者だという洗脳じみた指導。そして結果云々に、結果が出なくともそれまでの過程こそに意味があったのだ、などという慰み合い。これを精神論・根性論で結びつけてしまう強引さ。その思考が良いか悪いかはわからないが、この論理を胡散臭いと思う方は多くいることだろう。そしてそれがチラつくと・・・。
そしてもう1つわかったことがある。はじめに書いた、この作品が思い出補正によって完成・完結していることだ。おそらくこれが、心の部分が際立ってしまう原因である。邦画故の雰囲気なのであろう。我々(というより私自身か)が勝手に共感し、何かをこの作品に求めてしまう。そんな心情が感動を呼びつつ、ひねくれた見え方をもしてしまう。
まぁ全国への切符は逃すし、ガッキーが烙印を押す様子も彼女の心を溶かす上で必要なキャラ設定であるわけで、(勝手に持ち出している)スポ根要素は十分に解消されはするのであるが・・・
遊び半分であった男子たちが率先して練習するようになったり、アドバイスを求めるようになったりと、心の変化とともに行動の変化は確かに見られた。これを、これこそをもっと見たかったのである。何かを決心することは誰にでもできる。その何かのために行動に移すことが難しいのである。そしてそれを継続することがさらに難しくあるのである。しかし劇中における時間の配分が、迷いから決心に移る期間より、決心から結果の期間の方が短く感じられてしまうのだ。体感の時間として、負の面は正の面より長く感じるものではある。しかし努力の部分が省かれ、精神的な面の際立ちを感じてしまうと、根性でどうにかなるという胡散臭い思考に対し、さらに無責任さが付け加わり、尚のこと胡散臭く受け止めてしまう自分がいるのである。面倒くさい性格だ・・・。
・・・精神に関する病が深刻化してきている現代においては、この感覚くらいがちょうどいいのかもしれない。勇気づけられもするでしょうし。
この作品をひたすらにひねくれた見方でまとめると、古き良くも悪くもある学校教育における偏見や差別を、大人になったであろう者たちに受け入れられやすく、良い部分だけを想い起こさせるお話、ということになる。 どんな境遇にあろうと、様々な出会いや自らの決心により、前向きに立ち向かい、立ち直ることができた者にのみ許された境地。そんな場所があるよと努力を強いる、教育界にありがちな精神操作。それは我々に何をもたらしたのか。この作品に単純に感動するだけでなく、今一度考えてみてほしい。そんな考えが起きないほどに、教育における洗脳は功を奏しているか。正直に言う。最後の会場全体での拍手にはおどろいた。嘘だろ・・・と。ここまで闇は深いのか・・・私の。
〇余談
演者の表情やビジュアルに相当気を使ったのではなかろうか。デコ見せ、ツインテール、ショートカット、ぱっつん前髪などなど。それ故に不純な動機でこの映画を楽しむ方法もある。
私は長谷川コトミ役の山口まゆさんに惚れた。笑顔がとても素敵です。目立たずひっそりと学校生活を送ってきて友達のいなかったであろう桑原君に対して笑顔で声を掛ける女の子です。さらには声綺麗だもんねと・・・惚れてまうやろ~。まずなんで俺(大丈夫、お前じゃないよ)の名前知ってんねんと。あんまり接点無かったのに、声のことまで。私が15歳だったら勘違いを起こしているところです。あぶない、あぶない。
・・・あなたは誰がタイプですか??
〇最後に
この作品は焦点を当てられた人物全てに共感・感動できるようには作られていない気がする。女教師、女子生徒、男子生徒と三者が主になるわけであるが、私は特に男子生徒に関する部分にのみひたすらに涙した。見る者の年齢や性別、性格や経験値といったものが関係しているのだろう。どれかに共感・感動できればこの作品は高評価になることはおそらく間違いない。最後それぞれに気を使いながら歌に乗せて思い出を想起させてくれるからだ。しかしそれで煙に巻かれてはならない、邦画ならではのドラマの限界点や問題点も私の中で勝手に明らかになった。これに懲りずまた邦画を鑑賞してみることとする。
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