~性と生と死~
〇こんな話
全国各地を歩き回り、その地で死んだ他人を勝手に想像し悼む者のお話。
・・・ととってしまえばそれまでで。まぁどう理解しようと、どう感じようと勝手なわけだが。
〇性
石田ゆり子さん、いや奈儀倖世さん。私は、あなたに恋をしました。疲れた女性の貌の中に時折見せる戸田恵梨香のようなあどけなさ、かわいらしさ。そして吉瀬美智子や米倉涼子を彷彿させるかっこよさ。そんな表情の変化は何だ。引き込まれる。歩き方や佇まい、仕草が、そして彼女の声、発音や発声が、私に纏わりつく。劇中、彼女を独占したかった、彼女の中に自分という存在を残したかった男たちの気持ちがひしひしと伝わってくるようだった。主人公の想いを、死者から生者へと少なからず変化させたこともだ。それほどの魅力をひたすらに放っていた。これを狙っての彼女の演技だとしたら脱帽だ。すばらしい。
石田ゆり子で調べたら、「もののけ姫」のサンの声をやっている人ではないか。そういえばジブリで一番によく観てしまう作品が「もののけ姫」だ。知らず知らずの内に私は虜だったわけか・・・。やられた。
・・・何て言うんですかね、自らの過去を語りだすところがまた良いんですわ。語り口調が何とも特徴的で。声がですね、引っかかるというか。音の後に声が来るというか、声を置いてるというか・・・、もう訳分からんな。伝わるといいな~、観てほしいな~、この感じを味わってほしいな~。
〇生
2人の愛し合うということを、セックスと結びつけたことはどうだったのだろう。家柄、権力、地位のために赤子を堕ろせという者たち。未成年でありながら援助交際に奔る若者の存在。愛しているはずの者を傷つけてしまう、愛という表現を暴力でしかできないDV。男と女の間には愛があるのに、いや愛が故になぜかうまくいかない関係を、死者を悼むものと、死者に付き纏わられるものとの対比で迫ったのか。
生者を余所に、死者ばかりに囚われている男と、殺した男に付き纏わられる女。彼らはなんやかんやあって愛し合い、物理的・肉体的な道は違えど、精神的には同じ道を辿っていくだろう終わり方をする。彼女も悼む人となったのだ。愛とは執着であるとある男が言った。彼女に変化させられた主人公は、彼女(生者)との別れを惜しむようにも感じられた。
愛とは男女間だけで育まれるものではない。家族、師弟、先輩後輩、友人・・・の間でも育まれる。死者を悼む人となり家族と離れる主人公と、父親と軋轢があり死者を商売道具として扱う記者との対比もある。
まぁ結局のところ、生とはエゴである。自己満足、自己解釈、自己完結なものである。これらをどうやって得るのか、満たすのか。他者の存在が不可欠となる。そんなところでしょうかねぇ~
*補足
原作だと使者を悼む際の
「誰を愛し、誰に愛され、どんなことで人に感謝されたのか」
という要素に至る、限定された経緯が詳しく書かれており、そして悼んだ者たちも数多く存在する。より彼の悼むという行為の異質感も感じる。なぜ死んだのかという理由や経緯が深く掘り下げられず、彼は三点を勝手に見出し悼むのである。その中でそれぞれに異なる「愛」とは何なのかという答えや考えをめぐらすことがおもしろさか(異なるのは愛ではなく、愛の表現の仕方か?)。映画だとどうしても性と生の結びつきの方を強く感じる。先ほど挙げた「愛」の表現が際立ちを感じるのである。
〇余談
「紙の月」を観た時、私は宮沢りえにピンと来なかった。宮沢りえに入り込めないと、あの堕ちていく女を観ても何ら面白みは無かったのだろうと解釈した。そして「悼む人」を観終わった今思う。石田ゆり子がもし、「紙の月」の主演をしていたらと・・・。
〇最後に
過去に深い傷を負い、それを生きることの強さに変える。いや、ただ弱さを隠しているに過ぎないのかもしれない。いやいや、弱さを受け入れてこその強さなのか。
私は、誰を愛し、誰に愛され、どんなことで人に感謝されたのだろうか。そんなことを考えながら生きていると、ほぼ確実に損得勘定につながってしまうという。そして他人に対して疑心暗鬼になったりと。どの辺で区切りをつけるのかってところなんですよね。悼む人がどう観えるのかというところにつながるか。新興宗教に見えたり、でも自分を悼んでくれる者を望んでいるようになったり。価値観というかその人自身、時とともに変化していくもので・・・
・・・まぁだから区切り、というか割り切りが大事で。まぁどう思おうが感じようが人それぞれだから良いのかと言ってしまえばそれまでで。
・・・もう訳わからん、終わろう。
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