~雨垂れ石を穿つ~
〇はじめに
ダメだこりゃ。じょごに心惹かれ正常に心理がはたらかない。あ~、そうとも泣いたさ、笑ったさ。俺だったら絶対に駆込ませないね。その前に俺のところに駆込んで来ないね。
〇こんな話
駆込み女と駆出し男の物語。
〇じょご
このキャラクターどっかで観たことあるんだけど思い出せない。
訛りがあり、寡黙というか舌足らずというか。男勝りで家事全般こなせ?頼りがいあるが、勉学に疎くどこかあどけない。そのあどけなさからくる、ものに興味を持った際のあの人の顔を覗き込む様ときたらも~たまらん。
それだけじゃないんですは。羨望、不安や心配、きょどったり、きょとんとしたり、貌が様々に変化する。睨みを利かす感じもねぇ~、あたしゃもう虜だよ。そこに勤勉さ、ひたむきさ。優しさや強さも兼ね備えている。駆出したくなるね。
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なんだろ、猫が近いのかな? 獲物を捉えるときの俊敏性が、甘えてくるときにはまるで感じられないあの様。そして何よりこちらを伺ってくるあの目、貌。なんであんなに愛くるしさを振りまけるんだよ。
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そのあどけなさも寺に籠り、変化するのだが何だ、また違う魅力を放ってくるではないか。武道、作法(所作)を覚え、言葉づかいも何と流暢なことか。付き従う者だった女が、男を導いている。冷たい口調やドスの利いた声もど真ん中よ。でも無邪気な笑顔を観せてきたりするわけで・・・・・辛い。夫が武田真治なのだが、おいこの野郎てめえ、と最初に観せておいてからの、最後かしこまった姿が彼だからこそ何とも潔くかっこよく感じ、信次郎が心配になる感じを見事に演出している。たまんねぇな~おい。
大泉洋もさすがだったね。でもある場面だけは許さない。いや羨む。
〇雨垂れ石を穿つ
はじめに、雨滴が垂れ落ちる2つの穴からだんだんと画が引いていき、より多くの穴を映し出すようになる。その後別の場面にて逆の順で映し出す場面が挿みこまれている。 この穴は男と女のことだったのか。結婚している男女が離婚を決意することで、見えてくるもの。自分の信念を貫いてきた人生を交えることが結婚でありそれが離婚するとなると・・・てな感じなのか。
実は2つの穴になる場面はじょごとお吟の場面であった。この2人のことだったんですね。そもそも穴という時点で女性を連想すべきなのだろうか。あと他にどんな意味が・・・
この画は男尊女卑な世界における女性の微力さと掛けているのだろう。しかし雨垂れが石を穿つかのように、ひたむきな彼女たちの思いだったり努力だったりには力があると。寺に駆込む覚悟と言った方が良いのか。
そしてその覚悟が大きな力であると証明する1つの手段として時の流れがあり、東慶寺での2年間の禁欲生活が当たる。その生活によって変わらぬものと変わるものを夫と妻との両方で演出していたりする。癒えていく傷、復讐心、夫への愛・・・夫婦はそれぞれどのような結末を迎えたのか。さらに人の心は時の流れではないのだよと大審問会。う~む、心を打たれる。
〇駆込み女と駆出し男
―じょごと信次郎の出会いについて―
なぜ信次郎はじょごとお吟を追いかけたのか??
常にメモを取れるように備えており、根底には戯作者としてのネタ集めがあるのだが、駆込む女たちを信次郎があそこまでに追ったのはなぜなのか。
ひとつに、自分の姿を見て逃げられたからではなかろうか。信次郎が最初追われる者として描かれているところと関係しているのでは。逃げる信次郎を見て大勢が追いかけていくわけで。逃げる者がいるならば追いかけたくなるのが心理。
もう少し言えば逃げた理由を聴くため。自らは追手ではないわけで逃げられる理由が無い。そして目的地は同じ東慶寺だったわけで。なぜ私を見て逃げるのかと。
さらに深読みするならば、追手ではないと誤解を解くため。追いかけたというよりは、誤解を解くために引き留めようとした程度だったのだろう。
・・・と勝手に考えてみたが、まぁ聞き取りの際にメモを頻りに取る彼が映し出されるので、ネタ集めが一番の理由であろう。「東慶寺=駆込み寺」であると知っているし、二人を駆込み人という認識もしていた。興味で近づいたら勘違いされたと。自分を見て逃げられたというよりは、先に信次郎が追いかけはじめたような気もするし。
・・・と言いつつさらにさらに深読みするならば、じょごを駆込ませてしまった夫と、駆込ませまいとした信次郎。その二人が最後じょごを惹きとめようとするわけで・・・
信次郎とじょごとで左右の顔の傷、そして医者と患者というつながりを作りたかったという下心もあったでしょう(多分)。それにどちらもこの場面では駆込み人なんですよね。それが駆出し男へと・・・
駆出し男へとなるために、舌足らずなじょごが饒舌な信次郎を言い負かすといった逆転劇があるわけで・・・
逆からも考えてみるか。
じょごの目線であるが、お吟との出会いにおいて、お吟の姿を見て、襲われた話を聴かされ、メリケンサックを渡されで、自分たちを追ってくる者がいたらどう思うのか。追手だと思うこと必至だろう。まぁ誤解であるわけだが、そこをフォローする演出としておそらく信次郎の源兵衛という名前に対する偏見や思い込みが用いられている。名前から勝手に男と推測していたことだ。限定された事項で創り上げられるイメージ。おせんと鯵売りのところもそうだ。
この作品はちょこちょこした事象があらゆるところでつながりを見せていくわけで、それゆえの誤解というかニアミスというか、ドラマ部分が活きてくる、いや失礼、活かしているのだろう。
・・・とまぁいろいろ書いてしまったが、最初のじょごとお吟二人の駆込みのシーンは、最後の田の中勘助が寺へゆうを奪い返しに行った際に、じょごが東慶寺に助けに駆け込んでいくシーンと掛かっている。最初は制止しようとし殴られ、最後は背中を見送るカタチとなっている。
信次郎は強いジャーナリズムを持ちあわせており、興味のあることはすぐにメモを取ったり、聞き込みをしようとしている。じょごの治療や、じょごと重蔵に関する取材に現地まで赴いたり、ゆうとの出会いの際はメモだけでなく話しかけもしていた。じょごが馬琴先生と会ったと話はじめた時はがっつきすぎ、源兵衛に制止されたりもしている。じょごの顔の傷の定期診断、経過観察(ここでの戸田恵梨香の貌が堪んねえんですばい)、お吟の診断の際の代診に関するため口。ざっくり言ってしまえば彼は自分の目で見たものしか、確かめたものしか信じない。それが最後につながるわけだ。はじめはじょごを取材対象として認識し、駆込み中に引き止めようとするまでの興味を持ち、最後はじょごと相思相愛を確認し信じたからこそ送り出すカタチとなっている。ここに至るまでの二人の関係性の変化が何ともおもしろく、最後は舌足らずな彼女が、医師としても戯作者としても十二分に実力を証明した饒舌な彼を言い負かすまでになっている。と勝手に結論付けている。
・ちょい補足説明的な
追いかけた理由があるにせよ無いにせよ、この場面に関して疑問を感じることで、どんな効果があったのだろうかとまたもや勝手に考えてみる。
私は最後の場面と掛かっていると繋げたわけだが、なぜ信次郎の行動に違いが現れたのかというところに着目し、二人の関係性の変化に目を向けることになる。そしてその変化は何故にもたらされたのかと考えると、人との出会いであり、関わりであり、時の流れなのである。そんなことに想いをめぐらしていくと、それぞれの人物の関連性が見えてきたりする。
信次郎は自分の見たものを信じると勝手に決め付けたわけだが、それを考慮すると目の病を患っている馬琴先生とつながったりする。彼を批判する精神を持ち合わせており且つ人にそれを言われると腹が立つという擁護の気持ちもあったりするわけで。そして何より二人はじょごから好かれることになるのである。
そして先ほども書いたが、駆込ませまいとした信次郎と駆込ませてしまった重蔵。さらに重蔵を見ても、離縁を受け入れ夫として改心した様が、受け入れず暴走した田の中勘助と対照的なのである。田の中勘助の事件はお種の過去と関連付けており、じょごにつながる。じょごはお吟さんを看病するわけで、夫を思う気持ちの対比だったり、馬琴先生(八犬伝)というつながりがあり・・・
信次郎の祖先が東慶寺に駆込んだ者だった云々というのも劇中の人物のつながりを意識させるためだろう。
2人の関係性を中心に据え、それぞれの人物の関連性や変化を眺めることになり、物語に込められている様々な思いに勝手に浸ることができる。理由や動機を求めることが、この作品にハマってしまうこととなる。そんな見方をしてもおもしろいのではなかろうか。
〇余談
はちみつ浣腸のシーンで、明らかに画に合わない笑みを浮かべている戸田恵梨香が目についた。某動画投稿サイトにおいて、戸田さんがツボに入ってしまったシーンがあったとコメントされていて、はちみつという単語が漏れていたのでそれだったのだろう。ガチ笑いっぽかったんですよね。
〇最後に
日本はこういった作品にもっと力を入れた方が良いと思う。上から下まで。日本と言う国がどんな国なのかということを、海外ではなく日本の人々に知らせていくべきだと思う。
べったべった、だんだん。
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