~見た目(ほぼ)10割~
〇はじめに
劇場版第3作目
〇想起する作品
「ザ・エッグ ~ロマノフの秘宝を狙え~」(2009)
〇こんな話
鶏が先か卵が先か、永遠の謎である。そんな問いに、バルシェは肉を買うことで、怪盗キッドは卵を盗み出すことで、一つの真実に迫ろうとする。いや、俺が先だ。俺だ俺だ俺だ!! その名は名探偵コナン。
キャッチコピーは「夏美さんが先か、青蘭さんが先か」
〇キッド
変電所を爆発させることで停電を起こし、非常電源に切り替わるであろう施設以外に明りがつくことで、そこがエッグの隠し場所とみて盗みに参上する。なんと頭の良い怪盗だと、そしてそれに気付くコナン君の機転の演出。
しかしですね、よく考えて下さい。電気の無駄遣いは確かに多いかもしれませんよ。しかし必要とされている電気があるのを忘れてはいませんか。病院であればちょうど手術中でいきなりの停電。不意な事から誤って患者さんを傷つけてしまったかもしれない。そして患者さん、医師や看護師が忙しく確認や点検に走り回るはめに。一刻一秒を争う大事な商談、交通マヒや交通事故、足元が見えないことからくる転倒事故、などなど様々な事故が描かれていないだけで起きている可能性があるわけです。そんなことを考えるとですね、キッドが撃たれることは、何かしらの裁きによるものだともとれなくはないです。
〇誕生日
夏美さんと青蘭さんの誕生日の会話の時に、コナン君は誕生日を5月4日と自覚している。あっれれ~、おっかしいぞ~。劇場版第一作目「時計仕掛けの摩天楼」を思い起こすと何か引っかかる点はないだろうか。毛利蘭日はく、工藤新一は毎年自分の誕生日を忘れるがために、私が一年に一回思い出させてあげるのだと。ホームズに関する日にちはいくらでも覚えているのに、自分のこととなるとまるで無頓着。それこそが工藤新一と毛利蘭の切っても切れない縁みたいなものの演出としてあったのではなかったのか。いや、あの時3分間味わったからこそ忘れられない日として刻み込まれたのか。それとも、「おやおやコナン君、美人さんには都合がいいですねぇ」という感じなのか。それとも蘭とイチャイチャするがための忘れていたというフリだったのか。ただ後付けしただけなのだろうか。
まあ今回は新一のことしか頭に無い蘭が、コナン君と新一とを結び付ける起点として、切っても切れない要素ではあるのだが・・・。
〇備えあれば憂いなし
最後の場面で、コナン君はスコーピオンの有する拳銃の弾数を数えていた。そうであれば万全を期して弾丸を一発残させること無く、全部撃ち切らせてしまった方が確実だったのではと。最後の一発をめぐる攻防戦の心理を少し。
・コナン君サイドで見た場合
右目を絶対に狙ってくるという確信と、眼鏡を強化ガラスにしていたことによる、一発は凌ぎきれるという自信。そして一発凌ぎきれば反撃へ転じられるというまたまた自信及び覚悟。故に挑発、そしてスコーピオンはまんまと手中に。
・青蘭さんサイドで見た場合
弾が一発残っているという自信よりも、撃ちきったら予備のマガジンに変えればいいと楽観視をしていたのは、この後の場面を見れば明白。なぜそうなるのかといえば、今まで殺害してきた者たち全てを一発で沈めているという事実に基づく、自らの腕に対する自信。いやおごりか。そのおごりから一発で仕留め損なったときの判断・対処が少し遅れると。殺せるという前提でその後の行動を考えていただろうために。
シューティングゲームをやる上で、敵と敵の感覚に少しの間があると弾数を確認するとともに、MAXになるように装填(リロード)してしまいたいと思うのが常ではなかろうか。何事も準備しておくのに越したことは無い。しかし実際は弾数は限られるし、敵と対峙する上で油断や隙を見せるのはご法度。それが知らず知らずの内に始まってしまっていた最終局面なら尚更。立て直す時間など無い。まずはその場を凌ぎきってから、次のことを考えるという思考に陥るのではなかろうか。そしてそれがどつぼにはまりゲームオーバー。青蘭さんが証明してくれた。
結局コナン君はキッドの助けが無くては青蘭さんには勝てなかった。そこがまた殺す気で来ている容赦の無い犯人と、いくら犯罪者であろうと殺さずを貫くコナン君の、決して埋められない差を演出しているのだろうか。
〇ひとつの真実
今回の映画で明らかになる真実はというと、こちら、
~ 人は中身ではなく見た目(外見・容姿)が重要である ~
というもの。
今回の映画は蘭が究極にコナンの正体に迫る話である。誕生日の偶然の一致から、ふとコナン君の行動が事件の解決の起点になることに気付き、何か秘めたるものがあるのではと勝手に観察を始める。そして行きついた答えがコナン=新一という答えだったわけであるが・・・。
ここまで来ると愛は全てを凌駕する、超える。障害や壁なんて愛の前では存在しないに等しいなどと綺麗なお話になるのだが、蘭が辿りついた答えは、ある人物(新一に変装したキッド)の登場により無かったものとなる。笑っちまうぜ。最後の蘭のコナン君=新一という答えは、コナン君の行動を逐一観察し、自分自身を守ろうとする姿勢から新一と被ると考察し、そんな真っ直ぐな気持ちを理解し辿りついた答えであったはずである。それを悟ったからこそ、その気持ちに応えようと、コナンも正体を明かそうとまでした。なのに、なのに・・・この始末。つまり蘭を思うコナンの気持ちよりも、ぽっと出の新一という容姿をした人物を優先したのである。皆さんはこれをどう思われるだろうか?
黒の組織関連があるために正体を明かすことができないというのはわかる。そしてそれに伴う大人の事情もわかる。キッドの貸し借り無しにするという動機も。しかしこれでは二人の愛では黒の組織には勝てない、と言っているようなものなのである。
‐‐‐愛で組織に立ち向かうなんてのは一言も言ってないか。でも後々お姉ちゃんを殺された、恋人を殺されたと引きずる者たちが出てくるではないですか‐‐‐
蘭にさっさと正体を明かして、二人で立ち向かえば良いではないかと。結局知らず知らずの内に巻き込んでる場合が多数見受けられるわけですし。それなら二人の愛を確認し合うことで、打倒黒の組織を掲げてひたすらにバトルを繰り広げた方がより二人の関係性の深まりは示せるわけで。で、お前は何が言いたいんだよと。
→私が納得できないところは、この結末における安堵、つまりコナン君(としての新一)と蘭との二人の関係性が最終的に変化しないことへの安心感や希望は、(事情を知る我々を含めた)コナン君サイドからの蘭への一方的な心配があってこそもたらされるものだ、というところである。事情を知ってしまっているがために、劇中蘭側の視点に立つことが我々にはできない。故に気にならないところなのかもしれない。しかし作品から離れてふと思うのである。
‐‐‐黒の組織、大人の事情を蘭は知らない。余計な心配をかけますまいというコナン君の男気は評価する。が、それは一切蘭には伝わっていない。そんな蘭は小学一年生の新一と、高校二年生の怪盗キッドの二択において怪盗キッドを選択するのである。‐‐‐
「愛」って一体全体何なんですか!?
「心」や「思い」ってものは募るだけで、伝わらないんですか!?
・・・、け、結局「見た目」かよ・・・と。
・・・いや、新一と蘭のそれはまだ真にそう呼ばれるものに達していないということなのだろうか。そう思えば少しは気が楽になるか。
この話はすごく綺麗にまとめているとは思うのだが、ラスプーチンが関わっていた時点で、実際ゲスいお話なんだろうなと・・・。そんなことを考えると、蘭は新一のナニを・・・あ、しまった、ど、どんなところを好きなのか気になって仕方がないのです。新一の体、姿、器なのだろうか、蘭を思う気持ちや心なのだろうか、両方だろうか。長年幼馴染という腐れ縁で連れ添った一見清い関係の二人でさえ、恋をしたきっかけは工藤新一及び毛利蘭という見た目だったのでしょうか。時間の経過により明らかになったそれぞれに一筋な気持ち。最終的に表向き清い関係に見せているという茶番劇。くっだらねぇな、くっだらねぇよ・・・。
スピンオフでこの構図を元太と歩美ちゃんでやってくれよ、頼むよ(切実)。そしたらこの関係をもっとまともな目で見られるよ。約束しますよ。
〇余談
・ミスリード
最初の犯人に対するコナンの発言。キッドが撃たれたときに「さっきの男」というのである。「お・と・こ」である。
・連想
鷲と卵。博士のクイズにそんな単語が出てくる。イースターエッグと紋章である双頭の鷲はつながっているんだよと。ロマノフ家が関わってくるという暗示だったのか。
・夏美さん
良い人というイメージしか湧かない。というかただの良い人。行動を例に挙げるとですね、コナン君の質問に対して、コナン君の目線の高さに合わせて毎回丁寧に返答をするんですよ。親切すぎやしませんか。バルシェとかうろ覚えで、バルシェがお肉を買ったかしらって・・・(ぶりっ子したってこっちは騙されないからな!!)。「怒」という感情をまるで出さないし。故に純粋、素直、いや天然、というか下手したら馬鹿な感じのキャラとして際立つ。このままで全然ありなのだが、微かでいいのでこの人の暗黒面を見たかった(フィアンセいそう・・・ま、まさか執事と!?)。心が綺麗過ぎるんですよ。まあ青蘭さんがいるからバランスはとれているのか・・・。見た目は子供、頭脳は大人にはじまるその他大勢のギャップ萌えを好むこの作品の中では、ものすごく異質に感じてしまうんですよね。勝手ですけど。まぁ詰まる所、好きなキャラです。
〇最後に
夏美さんシリーズでお別れ~。
また、名探偵コナンシリーズで・・・。
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