~この男ら、火山より熱い~
〇はじめに
「グラディエーター」を観とくと、剣闘士云々入りやすいのではないでしょうか。ローマの絶対性とか・・・。ありきで作られている気がしなくもない。
〇想起する作品
「ボルケーノ」 (1997)
「グラディエーター」 (2000)
〇こんな話
人間界(不平等) VS 自然界(平等)
・・・のお話。
本題に入る前に敢えて言わせてもらおう。こいつら暇だな、と。自然(火山)という脅威を前にして、個人の私怨や感情で一戦交えるとは、大した度胸だ。んなことよりはよ逃げーや。生き残ってからで良くないかその争いごと。いや、今片付けねばならないんだ!!男には戦わねばならない時がある。それが今だ!!
〇平等
「権力者―貴族―使用人―奴隷 」
・・・みたいな構図や関係性が出来上がっている世界(人間界)。力は何も暴力だけではない。お金や権力といったものに依存する場合がある。真に強いものは暴力という力のある者ではない。それらを操ることができるものだと。しかしこれは人間が勝手に作り出した関係性に過ぎない。自然にとっては何の意味も為さない構図。自然に対して死は平等に訪れる。いや与えられると言った方がいいのか。しかし死に方の演出は何とも差別的だ。
自然という脅威を前にしても権力にすがる者がいる。自分の死を受け入れずに醜くも生き残ろうと死を恐れる。何とも虚しくも愚かである。殺戮を繰り返し、望まぬかたちの死を与えてきた連中には自業自得と言えるのか。それが良い演出になっており、彼らの死は「ざまぁ~」と思うかたちになっている。そして主人公たちはというと、自らの死を受け入れ彼らの望むかたちでの死という、何か美しくも感じられるものとなっている。剣闘士としての死に関しては何か流儀や美徳を持っている者がおり、自分は自由だと拳を高々と上げて自らの死を受け入れて死ぬ。生と死とを対比して、死が生というものからの解放を意味する者と、死が単に生の終わりを告げるものとする者。死に方の対比による生への執着、ここでは権力や自らの望むものに対するひたすらな飢えを渇きを、愚かしくも醜いものだとして皮肉っているのか。今の立場を他者・弱者を蹴落とすことでしか保ってこれなかった者。あれ、それは剣闘士も同じか。望んでか仕方なくかの違いか。そしてただのエゴか生きるためかの違いもか。そんな違いが生への執着度合い、潔さにつながってくる。人間の欲望は膨らめば膨らむほどに、失った時のショックは大きい。そして失うことをひたすらに恐れ、それを取り繕うためにまた新たなものを求める。ただひたすらに自らの欲望を満たしてきた者ほど喪失感や恐怖は底知れないものとなるだろう。故に最後を迎えようとするときにそれが醜さとなって現れる。
・・・てな具合に、差別化された人間界に対して、自然によってもたらされる平等な死というのを、死に方の演出により見事差別化し、人間界における関係性というのを解消している。
一旦人情ドラマにて盛り上がった私の熱を冷ましたいと思う。
ローマという絶対的な権力(といっても一部分の人たちなのだが)を、奴隷(剣闘士)という視点から見て悪と定義し、そいつらに立ち向かうために共通項を持つ者と手を組み、火山による死を前に決着をつけると。なんとも盛り上がる展開だ。鑑賞中はこの胸躍る展開に流された。観終わってふと思う。火山によりもたらされる平等な死は何を意味するのか。剣闘士という境遇故ではあるが、主人公をはじめとし彼らは見せ物として人を殺していた。それは主人公が恨んでいた家族の仇と何ら変わらないことをしていたのだ。支配する者がいなければ、彼らは剣闘士にならず無駄な殺しはしなかったかもしれない。しかしそれを話し合ってもキリがない。なぜなら彼らは「今」という時間を大事にしているからだ。それを議論するのであれば、火山を、死を前にしてその場で一戦交えることは避けるはずだからだ。自然災害の中で殺っとけば、後々言い逃れできるという下心はあったかもしれない。でも結果が結果だけにね、と。
要は悪に対して復讐を遂げることを描ききることが、彼らの死に何か優劣がついてしまうのが少し気になる。ただそれだけ・・・
〇最後に
男同士の友情、男女の愛情はマグマなどものともしない・・・わきゃない。いや、問題は結果じゃない。どこまで熱くなれたかだ!!火傷するなよ・・・。
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