2015年1月2日金曜日

ラスト・ワールド(2013)

ラスト・ワールド[DVD]


~人はなぜ生きるのか~ 

〇はじめに
 「ハリー・ポッター」シリーズのジニー・ウィーズリー役の子が出てる。 

 思考実験がテーマなので私も思考実験で受けて立とう。 


〇想起する作品 
 「トリック劇場版」(2002) 
  くじのひかせかた。  


〇こんな話 
 核戦争後(原子爆弾の爆発後)の世界をひたすらに思考実験するお話。 

 我々はホモ・サピエンスという種を後世に残していかねばならない。そんな勝手な義務感を基に思考実験を開始する。人類存続のためにシェルターが存在する。しかしそのシェルターでは10人しか生きられない。21人(生徒20人+先生1人)の中から誰を生き残らせるか(死なせるか)という選択を迫られることになる。役柄(業種、性格?、思想、健康状態)は決められており、回を重ねるごとに付け加えられていく。何を基準にどういった判断を下すのか、見ものだ。



〇合理主義と非合理主義
 論理は人生を楽にする、生きる術であると述べられている。これはある程度の傾向を探るということからのもの。効率化と言えばいいのだろうか。 

 この思考実験において先生が目的とするところは種の存続としている。感情ではなく理性を優先しろと。 


・実験結果(計三回の思考実験)
一回目  
「生き残るのは誰だ? 俺だ俺だ俺だ~!!」

 10人を選出したはいいが、理性では無く感情で判断をしたがために、脱出コードを知る一人を締め出し、結果9人に。シェルターから脱出することができず・・・。 
  →あれ?電気技師選んだよな。結局使えない奴選んだってことになるのか、それ
    とも設定を忘れたのか、敢えて突っ込ませる気なのか。選択をミスったってこと
         が証明できれば良かったからこれはまぁ・・・。 

 この選択は一年間まず生き残る(種の存続)という目的の下であれば最良の選択と言えた。非常事態に対処できる能力(ここでは役職)を有する人物の選出。DNAの優秀さにおいて、子孫と言う将来的なことも考えてはいた。しかしその考えよりまず1年間生き残ってからという考えが先行したことは確かだ。その思考の現れが先生の排除だ。知った仲で築く関係性、異端児・イレギュラーを排除することが過酷な環境で生き残る上では最大のメリットになる。


二回目 (一番理性的) 
「か~んち、〇〇〇しよ」

 種の存続に関して最適な選出を行う。一回目に考慮された業種の他、性機能の諸問題についても考慮される。「子どもができねえから、もっと犯らせろ」みたいな状況にもなるわけで・・・。なんやかんやあった結果一人の暴走を生み、全滅。

 この選択は性機能についての問題も関与し、遺伝子の優秀さではなく、確実に子孫を残せるようにと一回目の選択から少し修正された。将来的な子孫繁栄にまで考えが及んだことだ。しかし問題があった。生き残るという最低限の目標を、先生を仲間に入れるということだけで回避したことだ。その結果全滅することになる。


三回目 (一番感情的)
「セックス、性交渉、交尾、合体・・・これが全てだ!!」

 主人公による完全なる主観と自己満足による選択。私が選択した者たちであればこういった世界観を描けるはずよという未来予想図。信頼してくれと。
  →はぁ、やれやれ・・・。

 核戦争後の世界を、人間という種を存続させるという目的の下生き抜くのか、人間として生き抜くのか(人間ならではと言った方が良いか)という選択。その選択をする際の指標としては、性行為をどのように位置づけるかというのが一番大きいところなのだろう。
 感情か理性かというのもこの行為の位置づけに現れる。種の保存・存続のために子孫を残すという義務で行うのか、ストレスの解消、お互いの関係性の確認、ただの快楽依存などなど性交渉に関して、目的を定めることが人であるが故といったところに直接関係してくるのだろう。そもそもセックスの娯楽化は人間の特権であり、セックスやその他の性行為を子作りとしてでなく、快楽を求めて行うのは人間だけ?である(どっかで聴いた)という理由が大きい。 しかし日本の性教育が脆弱なこともあるのか、コウノトリが運んでくるというごまかしや、世間的に見えてくる幅広いセックスの娯楽化などが何か性に対しての汚らわしさという思考を助長しているようにも感じる。故にセックスありきの思考は何か複雑に感じてしまう。 



〇選択 
 思考実験において重要視されるのが選択。これを選択すればこのような結果になるという。その場(限られた情報)で考え得る最善の選択が求められる。しかしそれはほんの少し情報が付加されるだけで選択が異なってきたりする。この選択肢を選択すれば、このような結果が導き出せるという結果論云々になってしまう。

 何かしらが80%で起こる(20%で起こらない)のと、20%で起こる(80%で起こらない)のとどちらを選択するかと。その選択の際はその程度の情報しかわからない。結果を予測する時点では、事が有るか無いかという二通りになるわけだが、結果として観れば事が有った、無かったというどちらか一通りにしかならない。故に選択の際に迷いが生じる。  


 思考実験における選択は結果ありきで判断される。成功か失敗、犠牲の大小などだ。この思考実験の選択肢は生か死かであった。しかし実際はこうだというメッセージを浮気性女のわがままによって示される。彼女が言うにはこうだ。「我々人類は如何に死ぬかではない、如何に生きるかだ」と。合理的(理性的)にものを考えて生きることは人間ならではである。種の存続にもそれが適しているのかもしれない。しかし非合理的(感情的)に生きることも、生きることこそが人間的と言えるのではなかろうかと。種の存続は義務的に行われるべきでは無く、その者たちの選択で行われるべきだ。常識に縛られる必要などない。どのような選択をしようとも個人の自由である。


・最後の先生の選択について 
一、サンドウィッチを食べる 
一、銃で自殺を図る 
一、(彼女の顔を思い浮かべる)・・・はてさて 

 先生は生徒に対して、核戦争と言う今の世界の常識や全てが一切通用しない、無くなった世界においてどういった選択をとるのかという思考実験をさせた。それに最後の先生の選択のあり方を当てはめるとこの演出は合点がいく。先生にとっては彼女が今までの世界の常識であり、全てであった。それを最後完全に失うこととなる。はて、どういった選択をとるだろうか。核戦争以外にも日常に転がる自分にとっての常識世界の逸脱。先生はまず選択の幅を見せた。サンドウィッチを食べるというのは生きるという上で最低限に満たされるべき条件である。故に(事実を受け入れて)生きるという選択。次に拳銃自殺。これは死だ。この生か死かという選択の幅を見せられた上で、あなたがこういった状況に陥ったらどういった選択をしますかと、最後自分の世界を思い巡り疑問を投げかけてくる。選択すべきは生か死か。だけではないのだよと。結果ありきで考えれば結局は死ぬことに変わりは無い。でも今ですか、今より後ですかと。

 先生の思考としては、合理的に理性的に選択を行えば私を選ぶはずだ、というもの。先生は言う「俺たちは最高のカップルだ」と。これは理に適ってはいる。究極に合理的な人間と究極に非合理的な人間の組み合わせ。お互いに考え方が両極端であり、足りないものを補い合う関係。しかし彼女はそうはしなかった。なぜなのか。まずそれが理に適うのは合理的に考えた結果で、先生の考え方でしかないからだ。そして敢えて一方的なフラれ方を見せたのは、女と言う特殊な生き物であるということを言いたかったのか。男の思い通りにはならないということを言いたかったのか。女性は子宮でものを考える、男は頭でものを考えるというところも関係してくるのだろうか。「A secret makes a woman woman」とも言いたいのだろうか。気になるのは最後も先生と彼女の間だけで完結させていることだ。情報の制限が為されているからこそ現在の関係性は成り立っている。彼女は先生では無く今彼を選択し、先生は・・・不明であるが、今彼の選択はもう決まっているかのように描かれる。果たして、彼女が実際は先生と〇〇な関係にあるということを全て知った彼は、彼女を受け入れてくれるのだろうか。
・・・そうか彼女にはそのような考えが適用されないのか。無駄な心配だった。     


〇疑念 
 この思考実験が許されるならば究極核爆発は無かった、放射能汚染が無くなったなどの結論に達することが可能となる。思考実験が始まらないのだ。というより別のテーマでの思考実験が始まることになる。わざわざ役柄をつけて条件を制御しているのに、最後の選択に主人公は皆を知っているなどとのたまい、性格を考慮し選択を始める。思考実験の設定や前提が明確に決められていない(設定事項以外は普段の設定通りという条件があったが)ことが問題なのだが、そもそもこの実験は長年連れ添った者たちでやるべきではないのだ。この映画は結局のところ如何に思考実験しようとしたところで、条件制御が建前としてあるだけで設定があまあまである。やるのであれば役柄のランダム抽出ではなく、人物を無作為に抽出して、役柄を事細かに設定する(互いに知り合いでなければ設定する必要も無いか・・・)。皆を知っているという前提を取り除かなければこの実験は成立しない。 合理主義か、非合理主義かという考えさせるべきテーマが故に顕著に描いたのだろうが、気に食わない部分がある。 

〇最後に 
 テーマとしては非常におもしろいと思う。しかし映画として途中でダレる・飽きる。故に最後が???となっても何ら印象に残らない方も多いと思われる。どうでもいいや、どうせ思考実験でしょと。 

 ただの浮気性女のわがまま映画と観ればそれまでだ。故にこの女が最後「信頼してくれ」だとか、「公平な選択をする」などと宣言することに、疎ましさやいやらしさを覚えてしまう。まず選択という行為自体に主観が伴う。それを自分に対する信頼で強制力を持たせるということになるわけで・・・。最後の選択の有り方で、合理主義と非合理主義の選択の仕方の違いで、人間はどう生きるべきなのかという問題や迷いについての疑問を投げかけるという目的は十分に達成している。しかし真に公平を規するのであれば・・・、まぁ無理か。 

 曲解すると主人公は自己犠牲精神と偽った言動(正論)で仲間の心理を操作し、自分が助かるように誘導したともとれてしまうのである。最初の彼氏との夜通しの性交渉も愛と言う形態化ではなく、彼氏を授業にわざと遅刻させ、元彼である先生をイラつかせる演出や要素だった。そして正論を並べ立て授業を去る演出も、先生自らで引きとめさせるという男心をくすぐるそれだ。そして思考実験においての彼女のこまごました気配りも最終的に自分が助かるための手段だった。彼女が一番に先読みできていたと言えば優秀だなと感心できるが、演出やら彼女の表情の見え方などでそうもいかない。この女イラつくなぁ~、ほんとっイラつくわ~。

・・・といった感情の緩和としてシェルターに入れなかった者たちの顛末も、ハッピー且つコミカルに描かれるわけであるが、それが思考実験というテーマに大きな穴をもたらしてもいる。結局何でもあり、ご都合主義という映画ならではのものになってしまっている。生にしろ死にしろ選択における自己正当化・自己満足が罷り通る思考実験。果たしてこれに意味があるのだろうか。生きることに意味を求めるなと言うのではない。思考実験の目的とは条件設定と制御により、このような未来が描けるという可能性を探ることだったはずである。それをこのような形で完結するのはいかがなものかと、疑問を投げかけてみる(まぁ思考実験に関して先生の主観の介入と言う前提があったわけではあるのだが・・・、それに何通りか結末を描いてるからな、良いのか)。

 本気の核戦争後のシミュレーションなどドキュメンタリーでやるわって話なんですよ。繰り返しになるが、これは決して核戦争後にどうやって人間は存続すべきなのかという思考実験がテーマなのでは無く、生きる上での選択においてひたすらに合理主義が罷り通るかと言えばそうではないよね、という問いの投げかけこそがテーマなわけです。そしてそれは男女関係において顕著に現れる。俺の方がかっこいいし、金持ちだし、社会的地位は確実に上だ・・・、なぜ俺を、私を選ばない。わからんぜちくしょう、ってなるお話なわけです(実際はどうだか知りませんが)。

 思考実験であるが故に描ける世界観と問題提起はすばらしいと思う。しかし綺麗ごとでは済まないのだよ、現実は。

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