~歴史は犠牲の上に~
〇はじめに
「サランドラ」のリメイク。
オリジナルのまんま焼き増しのように映るのだが・・・ 現代に置き換えたことで何か訴えるものがあったのか??
〇想起する作品
「クライモリ」シリーズ
〇こんな話
カリフォルニアに行くまでに通る道、通るべき道。
〇歴史は犠牲の上に成り立つ
ただカリフォルニアに向かっていた一見善良な市民が襲われる惨劇。父親の元刑事という職業もそれを狙っているのか。彼ら側が正義であると、正常であると。オリジナルではあまり気にならなかったところだ。
異常とされる食人一家が描かれるわけだが、彼らを異常と定義するのは一体何なのか、なぜなのか。
異常となってしまった原因とするところは度重なる核実験ということになっている。しかし政府はそういった負の歴史・遺産とされるものを認めようとせず、無きものとしようとしている。忘れ去ろうとしているそうな。
核実験というものを境に、正常と異常とされる人間たちが分岐したとして、それぞれの潮流を眺めることになる。それぞれに晒されてきた環境が異なる中、正常と異常とで両極端とされる環境(歴史)の中育ってきた者たちの対比が為されるわけだ。そんなことを踏まえ眺める惨劇、顛末。
これは鑑賞している私の感性に依存するわけだが、正常とされる側には美人~ブス、イケメン~不細工といった具合に容姿の尺度が存在する。しかし異常とされる側にはそれすらも当てはまらない。そもそもそういった判断を下す舞台にまで上がってこないということを容姿で観せている。
人は主に情報を視覚から手に入れるわけだが、他人との関係を図る上で重要となるのが顔(表情)というものだろう。我々は異常とされるものをまず顔で判断してしまったはずだ。異質なものだと、嫌悪したはずだ。
これは人間に本来備わっている異質とされるものを排除する(避ける)傾向であり、というよりも人間が歴史的に、いやアメリカが大陸発見からやってきたことであり、ここも関連付けたいと思ってやっているのではなかろうか。
しかし一方的に襲われるしかなかった正常とされる一家がとある場面から反撃に転じることになりそれが覆り始める。異常とされる一家の形態が見えてくることでだ。
彼らもまた家族なのである。子どもがおり、養うべき者がいる。家族を食べさせるために外へ仕事へ行きお金を稼いでくるということを正常とされる者たちが行っている様に、彼らもまたカタチは異なれど同義のことをしているのである。正常な者たちからは異常とされる事象でだ。1つに人間を襲い食する。
ここから何を見つめるのか。目を背けたくなる感情の誘発から、そもそも目を向けるところからなのだろう。
先に手を出したのは確かに食人一家かもしれない。身の危険を感じ、確かに命を狙われていただろう犠牲者は出ているわけだから。しかし騙されたとはいえ、先に縄張りを侵したのは正常な家族の方である。騙されたというのも無神経にも人の家に勝手に侵入し詮索したからである。さらに展望するのであれば、異常とされる者たちを生んだ原因は正常とされる人間たちの過ちなわけだ。いや認めてはいないから過ちとは言わないのか。
食人一家の1人が言う。こうなったのはあんたらの所為だと。その一家を改めて見つめてみると、人を襲っているのは確かではあるが、その襲っているのは一部の者であることもわかる。それは先ほども書いたが家族を養うためととれる。開き直りとも思ってしまうわけだが、そうせざるをえない者たちなのである。ではそんな稼ぎ頭たちが失われた一家はどうなるのか。続編を示唆する終わり方なわけだが・・・
異常とされる行動をとっている人間だけを眺めてその一家全てが異常なのだろうかと。正常とされる家族もとある状況においては異常へと転じざるをえず、異常とされる家族に晒されてきた中にも正常な人間が生じる。皮肉なのが終始正常だったのが少女だけなんだよね。
歴史は犠牲の上に成り立つと言うが、その犠牲から目を背け一方的な正義を押し付ることを罷り通してきた結果築かれたものがある。正確には正義が先行していたわけではなく、いろいろと理由付けして行為を正当化しただけ。この作品で言えば殺られたから殺り返す。奪われたから取り返すとともに相手のも奪う。
被害者感情が先行する中で観せられる、正常と異常の対立と交錯。自らの行為を正当化しようと理由付けが成立する矢先にふと思い直し「あれれ?」となる。どこかの国をひたすらに皮肉った作品になっているわけですね多分。どこの国や人も・・・かな。
〇最後に
目と心の保養・・・
ではでは・・・
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