~壁に耳あり障子に目あり~
〇はじめに
どこまでが隣人かよね・・・
例えば「汝の隣人を愛せよ」、この隣人とはどこまでのことを言うのか?
〇想起する作品
「ワナオトコ」(2009)
「パーフェクト・トラップ」(2012)
「ドント・ブリーズ」(2016)
〇こんな話
隣人の真意を測るべからず、自分の物差しで・・・
〇隣人
家族(親子・組織)というステータス、夫婦(男女)というステータス、ご近所というステータス・・・
憶測だけだった関係が些細なことから相手の秘密に触れてしまった(しかも知らない内に)ことで突如変化してしまう様は怖い。安全地帯から隣人に向けていた目、覗いていた目が実はこちらにも向いていたという話でご近所トラブルが勃発するわけだが、ここから見えてきたモノは相違点というよりも共通点の方ではなかったか。
彼らの仕事を成立させるには情報面等で何かしらのネットワークが必要不可欠であり、狭い街だから隠し事ができないと叔父貴に脅されたり、やたらタッチの多い身体検査をする女警官が隣人の稼業の協力者だったりってのはこのネットワークの示唆なのだろう。最初に子どもが巻き込まれている様もその業界の闇という面だけでなくこれと関連しているのか。
そんなネットワークのおかげで、ヤクの売買に加担しているが妻のためにその稼業から足を洗おうとするものの、家族及び組織がそれを許してくれない。裏切れば敵となりどこまでも追いかけてくる。隣人が実は・・・として観せるが、彼らにも主人公と同じような背景が見え隠れする。誰かのために、暮らしのために仕方なく手を汚している。そして抜け出せなくなっている。
舞台を田舎に置いているのもあるが、電話(携帯含む)以外のモノが映し出されないのも意図してではないか。人が人を介して人と繋がる、繋がっている様を際立てる。しかもその実態が見えないというところがミソであろう。日本の諺で言えば「壁に耳あり障子に目あり」。どこで誰が何を聞いているかわからない、秘密が漏れるかわからない。わからない見えてこないがその情報網は存在している。
こんなことらを踏まえると・・・
黒幕がどうのというお話が出るわけだけど、これってのは彼らの立ち位置というより、隣人の稼業の胴元というより、2人を追う人間、追い詰める人間に意識を向かせるためで、では終始彼ら2人を眺めていたのは誰か?ってな話な気がするのよね。
↑ これは隣家を覗いていた彼女に向けられた視線であるわけだが、
ラストのこの彼女の視線は誰に向けられたモノなのか。
要は隣人ってのがどこまで繋がるのかってお話で・・・ 親子という縦の繋がりと家族という横の繋がりと、果たしてそれを起点にどこまで繋がるのか・・・
この月というのは闇夜を照らし出す光なわけで・・・ 雲があれば隠れるわけだけど・・・
この画もどこに逃げようとも日は昇り沈むみたいな風にも想えてくる。この地球上手の届かないところなどどこにも無いと。
演者的にもシチュエーション的にも「ワナオトコ」や「パーフェクト・トラップ」からの系譜があるわけで。多分繋がりってところは意識していると思うのよね。つまり単に隣の人といっても物理的な距離におけるものではなく、人と人との繋がりってな距離なんだろうね。親しい人間が遠くにいるなんてのはザラなわけで。
まぁそんな勘繰ったわけなんだけれどもね、
人質のビデオを撮影する際、ハンマーをゆっくりと持ち上げるだけで殴ると想わせることに機能するとしているわけだが、これは要は「鎌をかける」という話でもある。警官の職質なんてのがその典型なわけだが、叔父貴の脅しも小さな街におけるネットワークなどではなく単に鎌をかけただけだったかもしれないのである。何か疚しいことがあれば反応が出るし、無ければ出ない。これは全ての情報を手にすることができないからこその手段なわけで。
じゃあこの作品においてどっから我々は鎌かけられてたの? ってなことに・・・。
つまりラストは彼女が観られているとして見せたものではなく、彼女が我々に対して観てるんでしょ?と鎌をかけているとしたらどうか・・・。
この彼女の視線に対し疚しさを覚えたかどうか・・・というところに繋がるというか、「隣人」ってなところが我々の立ち位置に降りてくる(繋がる)ってな話なのではなかろうか。
〇最後に
前二作とほぼ同じ題材で違う風を吹かせたのは評価できるところだと思う。ただようわからんかった・・・
ではでは・・・
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