2017年6月17日土曜日

ザ・フォッグ(2005)

ザ・フォッグ


~歴史は解釈するもの~


〇はじめに
 霧という「見えない」という現象を強調したところはよかったが、オリジナルにおける仕掛けを変なところで現代風に置き換えているため意味を為していない箇所が見受けられる。




〇こんな話
 「ザ・フォッグ」(1980)のリメイク。



〇歴史
 アントニオ・ベイという街を築き上げたとされる4人の勇者。街の生誕100周年を祝して作られた4人の銅像に関して、望遠鏡を持っていたのはマローンではなくウィリアムズだと揉めている。歴史は正確に伝えられなければいけないと。ここに歴史を重んじる姿勢と逆に軽んじる姿勢が垣間見られる。

 4人の銅像が作られたことの意味は、街を築き上げたのがその4人であるという認識があるということだ。しかし望遠鏡の件でその4人がどのような人間だったのかというところまでは想いが行っていないこともわかる。4人がどうであろうと変わりはないわけだ。大枠として捉えている歴史と、その大枠から小さく小さく見ていく歴史と。

 そこに歴史なんてどうでもいいという若者が疑問を呈する。今が大事だろと。しかし今とは過去(歴史)の上に成り立っているものだと反論される。では彼らの尊重しようとする過去とはどのようなものなのだろうか。



 私のご先祖もその4人の勇者の1人であるとラジオのDJが自慢気に語り、彼らの子孫が島を闊歩していることが伺える。彼らの知る歴史とは、重んじようとしている歴史とはその4人が築いたとされる、いやその4人だけを起点として伝えられた歴史に過ぎないのではないかと暗に示す。まぁでもオープニングで描いちゃってるからな、半減なんだよね。

 遠距離恋愛によって恋人が一見してわからない件等々・・・、絶対的な歴史など無く、正確に歴史を目撃すること無く築かれている今という時代を描く導入はすばらしかったと思う。





〇歴史解釈
 最初の錨を上げる際何かに引っ掛かったとしているが、船上ではそれを直接見ることは困難であり感覚や経験で対処するしかない。そしてその後の客とのやりとりにおける本音と建前。言葉をその文字通りに受け取るか否か。

 オリジナルには無かった金属探知機に始まる様々な道具(機器・計器)の存在。人間の感覚及びそれでは捉えられない範囲をカバーできる代物が存在するとして観せている。しかし金属探知機ばかりに頼るあまりそれに反応しないものは見えないともしている。

 この限定された情報収集伝達手段における死角の存在こそが歴史の盲点に繋がるとしているのが「ザ・フォッグ」という作品のおもしろいところであり、それを現代に置き換えようとした試みは評価できる。

 しかしそれ故気になったのがテレビ電話(ビデオ通話)を出してきたことだ。その時代故のとして観せる分には一向に構わないし、彼らが頼るべき機器を動かしている電気というものが遮断されたことで、それの対策が講じられていること、目視への移行を観せたいとする意志もわかる。しかしここは通話している者同士ですら情報収集伝達手段が限られていたことに意味があったはずだ。歴史を後世へと伝えていくことだけでなく、リアルタイムですらその情報には差異が生じる。オリジナルにおいては声だけで情報が伝えられる、判断するという風になっていた。

 今作の場合カメラの向きによっては死角が生まれるとする観せ方の工夫がもっとあってもよかったのではないか。そのカメラが捉えたモノしか観ることができないといった要素を織り交ぜた方が良かったのではないか。通話している両者を映し出すのではなく、どちらか片方だけを観せておいてそれを判断する様を観せた方がよかったのではないか。

 こことの対比で殺人の容疑者とされてしまったスプーナーという友人(同僚)の無実を証明するビデオテープの存在があったはずだ。それには惨劇の全ては映ってはいないが、スプーナーがやっていないという証拠(真実)は映っている。我々が観た船上での出来事と、事後現場にて判断される状況と、ビデオテープとが比較されることに意味があったはずだ。どれも前提が異なるだけで、真実と判断されるものなのだと。歴史的にはどれがどのように評価されていくのか、取捨選択されていくのか・・・ ここに意味を持たせる上で一面的な情報の捉え方をもっと散りばめなければならなかったはずなんだ。あ~ビデオ水没が1つこれに当たるのか・・・

 それを受けてやっと勇者4人が伝えた歴史の暗闇へと想いが行く。4人が島を築いたことは真実であるが、築く上で葬られた真実も存在すると。真実は嘘によってだけではなく、それとは異なる真実によっても覆い隠されてしまうのだと。これこそが歴史の矛盾及びカオスなのであると。この辺りもう少し丁寧にはっきりと描き出す必要があっただろう。






 ラストがようわからんのよね・・・

 基本的にその街の人間というのは4人の勇者の血筋である。人間の始まりはアダムとイヴみたいなもんだ。それなのに歴史を軽んじる姿勢がそこかしこに見える。正しい歴史が伝わらないような曖昧な記憶や、そもそも歴史に興味が無いとい、それを良いことに都合の悪い歴史を葬るといった具合に。途中俺の親は〇〇出身だなんてことが言われており、移住してきた人間も伺わせる。そんな中で現象の解明を図ろうと歴史を解き明かしていく人物が描かれる。その人物が起点であり、決定打だった。

 つまりは内部の人間のみで完結する関係に、外部の者が加わることにより・・・


 いや違うな。歴史は築かれるモノではなく解釈されるモノ、ということを言いたいのか。歴史を築いた人々として語り継がれていることが多くあるが、その意味付けは後々行われたモノでしかない。歴史を築こうとしている人は多々いるだろうが、それの評価はその時々ではく時差が存在する。

 何が起こったのかわからなかったと言うDJの文言で作品は幕を閉じる。現在進行形で現象に直面した人間たちですら(歴史を築いた者たちとしておこうか・・・)意味を見出すことができなかったわけだ。

 結局こういう事があったという事実は観ることができても、一体何故そういう事態に陥ったのかという因果は明確には理解することができない仕組みになっている。事後それの解釈が示されているに過ぎない。これは作品と鑑賞者の関係性にも言え、狙っていなくもない気がしなくもなくはない。

 こんなところからラスト生まれ変わりだった?連れ去られるエリザベスを目撃することで、今を生きるということへと目を向ける、歴史を一面的に捉えるだけでなく多面的に判断し鑑みるなんてところに意識が向くのかどうなのか・・・ 歴史の真実を見極めよと。じゃあ多面的なんてどうすればいいのって話でね。人間が関わる以上個々の解釈は必ず介在する。

・・・ここではもういいや考えるの面倒くさい。あ~こういう態度がいけないんだよね。でも面倒くさい。


 2005年近辺って現状歴史的大事件的な評価が為されているモノ何かありましたっけ?? いやそれとも劇中は100年前の出来事に関してだから1905年?


 いや単に犯罪者の子どもは犯罪者的な価値観ってなこともあるのかな・・・??



〇最後に
 オリジナルは一見関連性の無い事象に関して暗に繋がりを示すことで、事実と歴史認識の相違を露わにしたが、この作品は島民の歴史解釈にそもそも事実誤認があるとしてアプローチさせようとしている。過去と現在とで段々と繋がりを見出させていくのではなく、最初からそこに誤解があるとして彼らの行動を観せられることになる。その誤解からのエリザベスの件なんだけど、これがどう機能したのか・・・ テーマは同じなんだろうけど、ん~微妙なんだよな。


 ではでは・・・

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