~S~
〇はじめに
このチームでドラゴンボール実写化すればいいんだよね。唯一心配なのはかめはめ破等の質感をどうやって出すかよね。漫画だからアニメだからの質感を。
マイケル・シャノンのファンとしてはゾッド将軍を応援してしまう節がある。
〇想起する作品
「インデペンデンス・デイ」(1996)
「トゥモロー・ワールド」(2006)
「マイティ・ソー」(2011)
「天の茶助」(2014)
「V(ビジター)」
〇こんな話
スーパーマンに、俺はなる!!
〇S
地球より遥かに優れた技術力を有し、身体能力も人類のそれを遥かに凌駕する。そんな種が支配するクリプトン星の崩壊。埋蔵エネルギーを掘り尽くしたからとさらなるエネルギーを求め地殻の採掘を繰り返していたが故。カル=エル(クラーク・ケント)が数世紀ぶりの自然出産との話もあり、彼らを1つの人類の進化の先として示している。
進化と繁栄とを意識させての・・・
・群淘汰
これが自然選択なのか、誰かしらの(作為的な)意思介入による選択なのか。これがジョー=エルとゾッド将軍で対立する。
ジョー=エルは世界が崩壊するからと法律を破ることで息子を守り死亡する。ゾッド将軍は法律の下裁かれ幽閉、クリプトン星崩壊後も彼らの刑期(法律)は続く。
ジョー=エル ・・・法を破る → 息子を守る → 死亡
ゾッド将軍 ・・・法を破る → 優越種(クリプトン人)を守る → 幽閉(生存)
法律とは何なのか?
・テラフォーーミング(惑星改造)
2人の対立があったわけだが、そもそもクリプトン人はどうやって発展を進化を遂げてきたのか。クリプトン人はその星々の環境への順応及び適応ではなく、自らの種にあった環境に惑星(環境)を改造してきたことも考慮しておく・・・??。
・選択(自由意志)
生まれながらに役割を与えるというシステム。過不足がうまく調整され均衡が保たれる反面マンネリ化。現状維持という守りに入れば停滞の一途を辿るというのはよく言われる。
―――――
自分なら助けられる命がある。力がある。
しかしそれ故に助けられた者と助けられなかった者という差が出てくる。そしてそれは助ける者と助けない者というクラークの選択にも由来してしまう。
そして助けなくったっていい命もあるのではないかとも思わせる。
これは笑った。ざまぁみろだよ。
そしてこれが彼の料簡の狭さであることも伺わせる。怒りという力をどこか別の場所へ発散する若き日のクラークが描かれている。変わっていない部分があるのである。クラークだけでなく子どものまま育ってしまった相手側にも言えるわけなのだが。どの世にもどの時代にもどの世代にもそういう奴がいる。
おもしろいのがここがゾッド将軍と共通する部分であるということだ。しかも意図せずにだ。人を助けられるのならば助けたいとするわけであるが、彼がいくら超人であろうと身は1つ。限界が存在する。それは結局クラークが生きるべき命を選別していることに変わりない。さらにはそれが人類に受け入れられるのか否かも問題で。
以前は父の教えがあった。そして父亡き後には神父の教えを請いに行った。いくら超人であろうと完璧な人間などいないという現れでもある。そこで他者の存在が必要不可欠になってくる。これが「信じてみる」というところに繋がる。
「S」という印。クリプトン星では希望を表す印である。しかし地球ではS(エス)であると。この作品は度々世界というものを意識させる。はじめ世界が大きすぎるとクラークは戸惑うわけだが、母が手助けをする。世界が大きいのならば小さくしてみればいい。そこから広げていけばいいのだとしているのである。これが個人の料簡の広さと狭さである。どこまで世界を大きく見るのか。どこまで世界を小さく見るのか。
彼の行動が結果的に見ればゾッド将軍と同じ様に見えてしまうわけだが、起点が、原点が違うのである。ここがゾッド将軍と決定的に異なるところである。そしてこれがおそらくこれから歩むこととなる苦悩の道を象徴しているのだろう。
〇最後に
いや~好きですね~この作品。ヒーローものに振り切れていないと感じさせてしまうところが評価の為されていないところなのだろう・・・か? 一番の見せどころのクリプトン人同士の殴り合い。ここが見せ場でありながらそこに至るまでの、衝突するまでの下地にSFというより科学を持ち出してきているだけに何とも身を委ねきれない。そこをクラークの葛藤(ドラマ)で補完するも合わない人には合わないだろう。
マーベルと比べられるのはわかる。個人的にマーベルは楽しい。DCは面白い(・・・と思いたい)。こんな感じだ。
ではでは・・・
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