~意思疎通~
〇はじめに
最初の寺院までの道のりで虎を映し出してるのよね。これは単にその国を言い表したかったのか、他に意味合いがあるのか? 虎関連の諺か言い伝えか・・・
〇想起する作品
「ザ・セル」(2000)
「クロニクル」(2012)
「トランセンデンス」(2014)
「チャッピー」(2015)
「FRINGE」
〇こんな話
情報共有の英知を展望する。
〇意思疎通
言葉でのやり取り(会話)と、頭を繋いだやり取り(テレパシー)の狭間に、言葉を介さないやり取りの数々が見て取れる。
実験の事も家の事も妻には何も告げていないデビットにはじまる夫婦間のギクシャク。そこに至るまでの背景を見せられればただ妻が夫を睨み付けるだけでその意思は汲み取れる。
家族のために嫌な思いまでして働いてるのに帰ったら夫が酒飲んでてパーティしてるとか言われたらね・・・
父に甘えたい娘も口ではわかったとは言うものの100%了承したわけではない。
雰囲気や空気感というものである。映画館でのひとときもこれだ。
ライアンの祖母の介護。祖母は孫に何も言わずに夕食を切り分ける。もう食べたというライアンだが、祖母の目を見ると何かを感じ取り御相伴する。
時に親しい間柄、特に血縁者なんかは死ぬときには虫の知らせ(風の便り)があるという話があるが、そんな関係を観せられたにも関わらず彼らにはそれが一切無い。死に目に会えなかったわけだ。
言葉を介さなくても繋がる様、繋がらない様が映し出されている。
思考は現実世界よりも現実的。
言葉を介するやり取り、介さないやり取り、そしてテレパスを比較することでこれを観せている。
デビットの妻が職場でオーダーミスをしている。それ相応のお互い理解できるだろう形式的な言葉のやり取りにおいても意思の疎通が図れていない場合があることを示す。
反面、夫婦間でその場を取り繕うためだけのデビットの言葉が虚しく響くが、妻も理解というよりあきらめているようで、多くを語らずとも現状を把握する(察する)。
警察の介入や契約交渉の場面も比較対象なのだろう。そして言葉でのやり取りの限界に殴り合いも見せた。親友であろう2人のだ。
思考がそのまま伝わるという事象。テレパスにおけるやり取りはその事実の客観性が皆無であるとしている。言葉を介するやり取り介さないやり取りにおいては飽くまでも解釈がその発信者と受信者それぞれに委ねられる。それぞれの解釈に幅がある状態を共有しているとでも言おうか。それ故に妥協点を見つける、折り合いをつけるといったことで解消しているわけである。それがテレパスにおいては無くなるそうな。どんなことが可能となりどんな危険性が潜んでいるのか。
洗脳により自由を奪われたとするのか、真に自由が誕生したとするのか。デビットとライアンは口論になる。
これをメタ認知と思考と行動の切離というところで問題提起しているわけだが・・・
洗脳による思考の制限からの行動の制限。逆に1つに殺人という行動の幅を見せた、行動に制限が生まれなくなることからの思考からのの解放。
実際に起きようとしていることをまとめると・・・
という経路が
(洗脳) → 行動
になるということで。
互いの主張をまとめると
まずデビット側・・・
思考(自由意志) → 行動(自由)
というのが、
洗脳(思考制限) → 行動(制限)
になるという。
しかし自分の行動を客観視すること(思考)で行動に制限が生まれ究極何もできなくなるという事象がある。これを洗脳というプロセス(思考)を認知できないとしたらどうかといのが今作の問いで。
思考(制限) → 行動(制限)
とそもそも思考による制限があったとしてそれならば、
洗脳(思考制限解除) → 行動(自由)
とすればいいじゃないかという、まぁ互いに一面的な理解と利点があるということで。
ではそもそもの洗脳という意思決定には問題が無いのかと。統括されるべき意思決定は誰が行うのか。誰が操作するのかというところが問題となってきて。これが最後1つの答えを出して終わる。
〇最後に
この作品を観たところで私のようなカバには到底考えが及ばないし追いつかない。もっとわかりやすく作ってくれ・・・
ではでは・・・
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