~道~
〇はじめに
柔道がJUDOになったように、忍者もNINJAになりつつあるのである。
〇こんな話
ライバルだった2人がとある日道を分かつ。
〇道
師(宗家)が言う。マサヅカとケイシーに対して。
「お互いの優れたところを習得するまでは、2人も道を極められない」
と。ここが少し気になったので取り上げてみる。
心技体として3つの丸で表現してみるか・・・
これは
●●○ / ●○● → ●●●
という互いの優れたところを習得して極めた、とするのではなく、
○●○ / ●○○ → ●●○ → ●●●
というように、自らに足りないものを見極め、相手の秀でているところを認めて初めて不動心に繋がる道が開かれる、ということなのではなかろうかと。つまり段階を踏むことになる。
こういった道を極めるというところはどこに辿りつくのか。これがこの作品では曖昧であった。描き方としてはベタだ。同じ道を辿ってきた二人がとあるところで道を分かつ。そして正義と悪として衝突。これを踏まえ高みを目指していくと。
製作者がどこを意識したのかはわからない。忍者に関してはもう外国の方が良くも悪くも詳しいのではないだろうか。そんな中どこまでが伝えられているのか。どこを深めているのか。
私が考えるに殺しに来た者に対して、自らは殺されずに、相手も殺さずに、究極的に和解(改心)するに至ることではなかろうかと。これはまぁ孫子の兵法なわけだが。彼らが極めようとしている道は殺す力などでは決してなく、殺さないための力なのだと。これがおそらくマサヅカに対しての寸止めにも込められている、と踏んだのだが・・・
ここで両者の力の差を見せた。マサヅカでも宗家には到底及ばない。とある策を使うのである。この心眼に対しての暗視スコープはおもしろかった。アナログVSデジタルにて一つ対立を見せたわけだが。ここで正義と悪とで完全に対立させられていないことに違和感を覚えてしまうのである。物語としては2人の男の正義と悪との対立を促そうとしてるであろうけれどもだ。
この作品で取り扱うのはタイトルもそのまま忍者である。忍者はというと最初に説明が入るが、確実に対象を殺すための道具をひたすらに開発及び進化させてきた。鎖鎌、手裏剣、吹き矢(毒)、その他多数・・・ これがどうしても引っかかってしまうんだ。
最強とは誰よりも強いことである、という意識が世間一般では先行する。人を殺す力を究極に高めることであると。誰にも負けない=勝つことであると。忍者もこれと同じであると最初に踏まえさせているわけだ。
ここでの対立は決して正義と悪という対立ではなく、単に忍者における歩む道の違いなのだ。しかしその上で説く宗家の道とはこれまた違ったものなわけで・・・
ここの矛盾というか噛み合わなさが終始気になってしまった。
〇最後に
道というものを説くのは東洋じゃないと厳しいんだろうなと感じた。まぁでも騎士道ってのもあるからな~どうなんだろうか・・・
ではでは・・・
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