2016年9月25日日曜日

言の葉の庭(2013)

言の葉の庭



~ことば~


〇はじめに
 仮に私が好きになった女性を傷つけた者が複数いた場合、そいつらを痛い目に合わせるという強迫観念にかられたと仮定し行動を起こすとしたら確実に対象が独りの時を狙う。あとね、いくら下衆だからって女に手を出しちゃいかん。若さしかウリが無い女なんて大したことないんだからさ。それにたむろしちゃう男なんて尚更さ。あとね先に手を出させろ。そして武器を持っていけ。そうすりゃ既定路線。楽勝さ~。なぁ~んて・・・

 ・・・そういう話ちゃうねんな。


〇想起する作品

 「耳をすませば」(1995)





〇こんな話
 27歳と15歳がイチャコラする話。


〇言葉
 先に少し気になったことを挙げるのならば、雪野先生のアプローチね。接点があったとか無かったとかで短歌を口ずさんで去っていく感覚がちょっとズレてるなと感じる。そういった感受性を示すにもちとおかしな方向に進む。後々わかるのだが先生と生徒が学校にいるはずの時間に公園のベンチにいるのである。そんな人間に初対面にも関わらず古典の先生というメッセージで短歌を持ち出すだろうかと。予定調和としてしまえばそれまでだが、最近流行りの言葉で括ってしまうのならばメンヘラに思えてしまう。私にはちと理解できない。

 そして孝雄。雨が空を近づける? はぁ? 思ったことねえよんなこと。

 全体的にこの恋愛を成立させるために設定されたものばかりが目立つ。それこそ敷かれたレールの上を彼らは歩んでいる。理想を並べ立て過ぎている。しかしそれが決して無いものだとは私には言い切れない。

 そしてそういう事じゃねえんだよな・・・


 全体的にどうも綺麗に描きすぎているなと感じた。上辺だけをすくいとっていると。しかしおそらくは孝雄の先輩襲撃を描きたかったがためなのだろう。彼らの、孝雄と雪野の過ごした時間。言葉を交わした、言葉を介さないやり取り。これを見せられての孝雄のあの行動なのである。屋上での友人とのキャッチボールもそこを狙ってだろう。そのまま言葉のキャッチボールを意味している。

 キャッチボールができない、発せられた言葉がキャッチできないものだったら、果たしてどうするだろうか。取れなかった言葉を拾いに行くか。探しに行くか。違う言葉を投げかけるか。ではどこに投げるのか。相手がキャッチできるようにするか、痛めつけるためにぶち当てるか、取らせる気などさらさらなく大暴投するか。はたまたバッドを持ち出すか。

 生徒の言ってることなんてほっときゃ良いんだよ。まだまだガキなんだから・・・というと語弊があるが、これが言葉の力というものなのだろう。発信者と受信者、発信された言葉と受信された言葉には必ず誤差が生じる。こういったやり取りの描き方は「海よりもまだ深く」が秀逸だったのでそちらを参照していただく。


 大きくは認識や概念の違いによる。虹が必ずしも7色ではないというのは有名な話だろう。とある概念が無いとそれはそれとして認識されないのである。つまりいくら何を言おうが伝わらないことは伝わらないということである。

 例えば「赤色」と聞いてどんな赤を想像するだろうか。バラの色だろうか血の色だろうか。血の色と言っても静脈を流れる血なのか動脈を流れる血なのか。オレンジっぽいものも赤と言ったりする。感覚的にレッドは赤よりも濃い感じがしなくもない。

 よく話題になるのは青と緑の関係だろう。果たして進め(進んでもよい)の信号は青なのか緑なのか。共通概念は青信号である。青物とはいうがあきらかに緑の植物ではないか。青魚? は?・・・etc

 たった1つの単語や表現だけでいくらでも解釈には幅がもたらされる。それを幾重にも連ね我々はコミュニケーションを図っているわけである。


 何が言いたいのかというと、要は表現しようがないわけである。何かを正確に個人が感じていることを伝える上では言葉というやり取りでは限界があるのである。100%の相互理解は不可能と言っていい。

 しかしおもしろいのは100%の相互理解が不可能であるが故に理解にギャップ(幅)が生まれることで。10ほどのことを伝えたいとして発したメッセージが受け取り手にとっては1にも100にもなるのである。ここが言葉というコミュニケーション手段の弱みでも強みでもあるのである。だからこそこの作品はところどころ表現に気を遣いポエム的なものが発せられる。故にこういった映画というジャンルにも理解と無理解が生まれ賛否両論が巻き起こる。そんな無理解がある中で孝雄と雪野先生を眺めるこのおもしろさ足るや・・・ 




〇余談
 先輩たちのあの程度の煽りでも効いちゃうほど私も短気なのでちと意見させていただくと・・・
 
 雪野先生は感受性豊かで、先輩たちはちょっとオツムが弱い子。ま~どうあがいてもコミュニケーションは成立しないですね。手を出してしまったのは孝雄ではあるが、先輩という立場でありながら同じく暴力で対抗せざるをえない余裕の無さ。それが益してや集団でいての選択ですからね。もう何とも短絡的というか・・・ あ~下半身でもの考えるんだろうなと・・・ 力で捻じ伏せることのみが強さであると錯覚している野蛮人。勝手にヤっててください。






〇最後に
 花澤香菜だと雪野の印象が幼過ぎるし、「僕らはみんな河合荘」の律だとちょい上過ぎるんだよね。まぁ嫌いじゃないけど。



















 ではでは・・・



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