~ありのまま~
〇はじめに
ほんっとうに感動した。さすが、ディズニーだ。
最近世界は広いなとつくづく感じるわけだが、当にこの映画でそれを突き付けられる。
何席か隣にカップルが座っていたわけだが、予告編から合いの手を入れ始める。本編に入ってからはそこまでではなかったが、ちょくちょく感想を交わしていた。プラスな方向な言葉が飛び交うわけだが、エンドロールの半ばで席を立ち、携帯のライトをチラつかせ帰っていった。劇場の照明が点きその感動が押し寄せる。その者たちが座っていた座席に、喰い散らかしたゴミや、劇場で貸し出される備品が散在している。いったい彼らは、同じスクリーンで何を見ていたのか。すばらしい・・・これが、ディズニーか。
・・・ま、私もその惨状を目撃してどうこうする気は起きないわけだが。
〇こんな話
エラがシンデレラになるお話。
〇シンデレラ
引きずるわけであるが、あのカップルはおそらく義母とその娘たちに敬意を示していたのではないかと。意図してかせずか誰かしらに迷惑を、不快な思いをさせる。私もディズニーに対してはどちらかというとアンチよりなわけだが、彼らのようには徹することはできない。何という方たちだ、恐ろしい。
1つ偏見を述べさせていただく。こういう話を目の当たりにして、おそらくほとんどの方々がシンデレラになりたいと憧れを抱くわけだが、そんな中から彼らのような存在が生まれてしまうのは、自分がシンデレラになりたいと思うあまり、周りに同じように存在するシンデレラに憧れる人々のことに目が向かなくなってしまうことにある・・・のだろう。シンデレラに憧れるあまり、自分自身は義母や娘たちよりの存在に成り下がる。人からの見られ方ばかりを気にするあまり、自分自身を見ることができなくなる。そして他人のことも目に入らなくなる。終には・・・
・・・あれ、何かブーメランな感じがするからもうやめよう・・・
〇字幕
王子とシンデレラの両者が本当の姿で出会う時に、英語で何と言ったかは聞き取れなかったが、「ありのまま」という日本語に訳されていた。狙ったのだろうか。要望があったのだろうか。訳された方はシャレてるなと。短編であやつらが同時上映されているしなと。最近流行ってるテーマなんだろうな。
〇汚い話
清い心で観られない自分がいるんですよ。シンデレラの幸、不幸、幸(の繰り返し)という変遷を、それぞれの視点を交えることで徐々に演出していくのはさすがである。ディズニーの持ち味を十二分に発揮している。それは承知だ。そんなシンデレラという物語に関してどうこう言うのは、ナンセンスな気はするのだが・・・
・シンデレラの親父さんと再婚に漕ぎ着けるに当たり、義母となる方はいったいナニ
をしたのかと
・秘密の花園とブランコは、いったい何を暗示しているのかと
・王子がガラスの靴に合う足を持つ人物を探すわけだが、ガラスの靴に足を入れ
る・・・つまりこれは王子と多くの女性たちとの接合を意味するのではないかと
・王の死は、王子がシンデレラと夜を共にしたことで、父親となる準備ができたことの
示唆なのではなかろうかと
ってなことに想いをめぐらす自分がいるわけで。
さらには、
〇余談
シンデレラ役のリリー・ジェームズ、ミア・ワシコウスカに似てる。
魔法が解けて、ガラスの靴だけなぜ残るのかと。ここにパピヨンを絡めていけば良いのに。悲しみだかが思い出に変わるみたいなのがあったじゃないですか。パピヨンが羽を休めている靴だけは、思い出となり残っている的な・・・
・・・そう表現していたのか?
〇最後に
シンデレラという話は、王政や世襲制に対する皮肉が込められているのだろうか。
意図してかせずか、決して王子とシンデレラという二人の存在だけで、この物語が完成するわけではないということを、ちょくちょく挟み込んでいるわけで・・・
義母のいじめのおかげで、シンデレラは王子と初見プレイができたり、
そもそもシンデレラがかわいく、清純に見えるのは、下品な彼女らの存在があるからで、その比較を王子は花嫁を選ぶということで暗にやっているわけで、
多く実っていたかぼちゃではあるが、ゴッドマザーに選ばれしかぼちゃ以外は全て吹っ飛んでいったり。そんな選ばれしかぼちゃも用が済んだらポイと。ガラスの靴だけあればいいわと。
ダメだ、いろいろ反れる。いや逸れる。
・・・とてもすばらしい作品だと思います。
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